第七十八話 帰れない
正午を少し過ぎたころ、バルトは聖騎士二人とともにギルドの訓練場へ入った。
普段なら木剣の打ち合う音や、冒険者たちの掛け声が響いている場所だった。だが今日は、壁際に長椅子が並べられ、その周囲を白い鎧の聖騎士たちが囲んでいる。
剣を抜いている者はいない。
それでも、見慣れた訓練場には見えなかった。
「バルト」
声に振り向く。
礼がいた。その隣にはリオ、少し離れたところにはハインやノア、ディン、テオ、マルク、レントの姿もある。
「よう」
「大丈夫だった?」
「何が」
「家に騎士が来たんでしょ」
「来たよ。二人もな」
バルトは肩をすくめた。
「人生で一番いらねえ迎えだった」
リオが小さく笑った。
「暴れなかったんだな」
「俺を何だと思ってんだ」
「石を見て元気になる人」
「お前あとで覚えとけよ」
いつものやり取りだった。
礼も少しだけ笑った。
バルトはそのまま二人のところへ向かおうとして、入口脇に置かれた机の前で止められた。
「すみません。持ち物を確認します」
「持ち物?」
「調査中、武器類は一時的にこちらでお預かりしています」
机の上には、すでに何本もの剣や短剣が並べられていた。弓もある。冒険者たちが普段持ち歩いているものだ。
「俺、武器持ってねえぞ」
「念のため確認を」
「好きにしろよ」
バルトは腰の袋を外した。
中からいくつかの小物を出す。
硬貨。
布。
携帯食。
そして、小さな灰色の石。
騎士の手が止まった。
「これは?」
「石」
「……石ですか」
「見れば分かるだろ」
「用途は?」
「用途?」
バルトが眉を寄せる。
「石に用途なんかねえよ」
少し離れたところでリオが口元を押さえた。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってんだろ」
騎士は困ったように石とバルトを見比べた。
「こちらも調査中はお預かりします」
「なんでだよ」
「童力に影響を与える物品だと伺っています」
バルトの顔が固まった。
「誰から聞いた」
「事前資料に記載があります」
「……ああ、そう」
バルトは石を見る。
それから騎士を見る。
「危険物じゃねえぞ」
「危険物とは申し上げていません」
「ただの石だぞ」
「はい」
「見るだけだぞ」
「……見る?」
「俺が」
「この石を?」
「そうだよ」
騎士はしばらく黙った。
「申し訳ありません。童力へ影響する可能性がある以上、調査中のみこちらで保管します」
「だからただの石だって」
「ですが今、童力に影響すると」
「するけど!」
「では、お預かりします」
「…………」
バルトは石を握ったまま数秒動かなかった。
やがて深いため息を吐く。
「なくすなよ」
「責任をもって保管します」
「絶対だからな」
石が小さな布袋へ入れられる。
リオがとうとう吹き出した。
「お前、本当に好きだな、その石」
「違えよ!」
訓練場に、わずかな笑いが起きた。
聖騎士の何人かまで困ったような顔をしていた。
◇
調査は、思っていたよりも普通に始まった。
一人ずつ名前を呼ばれ、訓練場に隣接する小部屋へ入る。
聞かれる内容も、昨日までと大きくは変わらない。
いつ童力を知ったのか。
誰から教わったのか。
どの童式を習得しているのか。
実際に使用した経験はあるか。
事故や負傷はあったか。
実演を求められることはなかった。
拒んだ質問への回答を強要されることもない。
聖騎士たちも、ただ出入口や廊下に立っているだけだった。
最初に戻ってきたノアが、長椅子へ腰を下ろした。
「どうだった?」
ディンが聞く。
「普通」
「普通って?」
「昨日と同じようなこと聞かれただけ」
「それだけ?」
「それだけ」
ディンは疑わしそうな顔をした。
「何だよ」
「いや……」
「俺が嘘ついてると思ってんの?」
「そうじゃないけど」
やがてディンも呼ばれた。
戻ってきたときの顔は、先ほどより少しだけ緩んでいた。
「どうだった?」
今度はノアが聞いた。
「……普通だった」
「だろ?」
「なんか腹立つな」
「なんでだよ」
そのやり取りを聞きながら、礼は壁にもたれていた。
「礼」
「ん?」
隣のリオが肘で軽くつつく。
「今のところ、ちゃんと話せてるだろ」
「……うん」
「昨日より素直だな」
「うるさい」
「安心した?」
礼は小部屋の扉を見る。
「少しだけ」
「ならいい」
リオはそれ以上何も言わなかった。
◇
「以前、《童撃》で人を負傷させたことがありますね」
「はい」
テオは椅子に座ったまま答えた。
向かいには王国魔術院の調査員が二人いる。
机の端には記録係。
「腕を骨折させた」
「そうです」
「意図的に?」
「違います」
「では、なぜ」
テオは自分の右手を見る。
「あのときは、怖くて」
「恐怖によって制御を失った?」
「……多分」
「現在、同程度の出力を再現することはできますか」
「できます」
記録係の筆が動いた。
「制御は?」
「できます」
「何が変わりました?」
テオは少し考えた。
「教え方です」
調査員が顔を上げる。
「教え方?」
「前は、とにかく出すことしか考えてなかった。身体に集めて、殴る。それだけだったから」
「現在は?」
「どこまで集めるか。どのくらい流すか。相手が人ならどこまで落とすか。そういうのを練習してます」
「誰の指導ですか」
「礼とリオ。それと、みんなで」
筆がまた動く。
「その訓練以降、同様の事故は?」
「ないです」
「分かりました」
テオは調査員を見る。
「それも書くんですよね?」
「もちろんです」
記録係が答えた。
紙には、事故の記録だけではなく、その後の訓練と再発がないことも記されていた。
◇
「マルクさんへ最初に童力の循環を教えたのは、あなたですか」
「はい」
今度はハインだった。
「如月礼ではなく?」
「俺です」
「どの程度まで?」
「最初の感覚を掴むところから、《童衣》の基礎まで」
「一人で?」
「途中から礼にも見てもらいました。でも最初に教えたのは俺です」
「現在訓練中の六名については?」
「俺だけじゃないです。何人かで見てます」
「つまり、如月礼がいなくても指導は可能であると」
ハインは少し眉を寄せた。
「基礎なら」
「あなた自身が新たな指導者となれる?」
「……指導者って言われると大げさですけど」
「教えることはできる」
「できます」
記録係の筆が止まらない。
その紙の横には、別の資料が置かれていた。
ハインには見えない向きで。
そこにはすでに、
――マルク。
――指導者、ハイン。
そう記されていた。
◇
「ニルさん」
「はい」
「童力を感じたのは、昨日が初めてですか」
「はい」
「何度?」
「一回……だと思います」
「だと思う?」
「熱い感じがしただけだから、それが本当に童力だったのか俺には分からなくて」
「指導者は?」
「ハインさんです」
「如月礼から直接指導を受けたことは?」
「少し見てもらったことはあります。でも、ほとんどないです」
「童式は使用できますか」
「できません」
「《童駆》も?」
「無理です」
「《童衣》は?」
「無理です」
「童力を意識的に循環させることは?」
「まだ」
「では、現時点で童術は一つも使用できない」
「はい」
ニルはそこで少し黙った。
「……俺も、ここにいないと駄目なんですか?」
調査員の筆が止まる。
「はい」
「でも俺、何もできませんよ」
「承知しています」
「昨日、一回ちょっと熱い感じがしただけです」
「それも承知しています」
「じゃあ何を調べるんです?」
向かいに座っていたエドガーが、初めて口を開いた。
「あなたが何を使えるかだけではありません」
ニルが彼を見る。
「どのように童力を知り、誰から学び、どの段階まで習得しようとしているのか。それも今回の調査対象です」
「……覚えようとしたことが?」
「はい」
「それだけで?」
エドガーは少し間を置いた。
「現在は、そうなります」
ニルは視線を落とした。
「最後にもう一点」
「はい」
「あなたは童貞ですね」
「…………はい」
「これまでの調査では、童力を感知した者全員に共通しています。確認のためです」
「分かってますけど……」
ニルは顔をしかめた。
「それ、何回聞かれても慣れないですね」
記録係の手が一瞬だけ止まった。
エドガーも表情を変えない。
「質問は以上です」
「……はい」
ニルは立ち上がった。
◇
午後になっても、調査は続いた。
礼自身の聴取も終わった。
第一から第六。
それぞれが成立した時期。
リオとの研究。
教え方。
事故。
そして、まだ正式な童式にはなっていない武器の顕現。
聞かれたことには答えた。
答えたくないことは断った。
それで揉めることはなかった。
小部屋から出た礼は、廊下を歩いていた。
途中、一つの扉が開く。
灰色の外套を着た調査員が、何枚かの紙を抱えて出てきた。
一枚がずれた。
そこに書かれた文字が見えた。
マルク。
礼の足が止まる。
その下に、ハインの名前。
「……?」
調査員はすぐ紙を揃えた。
礼の横を通り過ぎる。
「礼?」
後ろからリオが来た。
「どうした?」
「今の紙」
「紙?」
「マルクとハインの名前が書いてあった」
「今日の記録じゃないの?」
「……分かんない」
ただ。
新しく書かれた紙には見えなかった。
端が折れ、何度もめくられた跡がある。
「前から持ってたやつじゃないかな」
「前から?」
「俺たちのこと調べてたんだし」
「……そうだね」
それだけなら、おかしなことではない。
礼はそう思おうとした。
◇
同じころ。
ヴァルターは別室で、調査結果を確認していた。
「マルクさんの証言も一致しています」
調査員が紙を差し出す。
「指導者はハイン。基礎循環から第三童式まで――」
ヴァルターは紙を受け取ろうとして、机の端に置かれた別の束に目を留めた。
古い紙だった。
見覚えのある書式。
何度も見た字。
ヴァルターの手が止まった。
「……レーヴェン調査官」
「何でしょう」
エドガーが顔を上げる。
「その資料を見せていただけますか」
「どれです?」
「そこにあるものです」
エドガーが視線を落とす。
ヴァルターは待たなかった。
一番上の紙を見る。
名前。
習得状況。
確認日。
指導者。
そして、紙の端に書かれた短い追記。
その筆跡を、ヴァルターは知っていた。
「……これは」
喉が乾く。
「グレイグさんの記録ですね」
部屋の空気が止まった。
エドガーは否定しなかった。
「はい」
「どうしてあなたが持っているんです」
「調査室が保管している資料です」
「それは分かっています」
ヴァルターはエドガーを見る。
「どうやって、調査室へ渡ったんですか」
エドガーはすぐには答えなかった。
「グレイグさんが亡くなったとき、この記録はなくなっていた」
「…………」
「私は同じ内容を持つ資料を以前にも見ています。ですが、これは写しではない」
紙を見る。
「彼が書いた原本です」
「ヴァルターさん」
「どこで手に入れたんですか」
エドガーが口を開こうとした、そのときだった。
扉が叩かれた。
「失礼します」
調査員が入ってくる。
「レーヴェン調査官。確認をお願いしたい事項があります」
「急ぎですか」
「はい」
エドガーは立ち上がった。
「すぐ行きます」
「待ってください」
ヴァルターも立つ。
「今の話が終わっていません」
「分かっています」
エドガーは資料を閉じた。
「後ほど、必ずお話しします」
「…………」
「今は調査を優先させてください」
資料を持ち、部屋を出ていく。
ヴァルターは追わなかった。
閉じられた扉を見つめた。
◇
日が傾き始めた。
窓から差し込む光が、訓練場の床を長く伸びている。
調査を終えた者も増えていた。
エルンもその一人だった。
「あの」
近くにいた職員へ声をかける。
「俺、もう終わりですよね?」
「はい。聴取については終了しています」
「じゃあ帰っていいですか」
職員が少し困った顔をした。
「少々お待ちください」
「何かあるんですか?」
「確認してきます」
職員が離れていく。
エルンは首を傾げた。
「パン屋?」
礼が声をかける。
「はい。今日帰ったら働けって言われてるんで」
「まだ働くの?」
「父さん、本気ですよ」
「大変だね……」
「礼さん手伝います?」
「だからなんで俺が」
エルンが笑う。
そのとき、先ほどの職員が戻ってきた。
「申し訳ありません」
「はい?」
「本日の退去については、一時保留となりました」
エルンの笑顔が消えた。
「……え?」
礼も職員を見る。
「どういうことですか」
「追加の確認事項が発生しています。全対象者の確認が終了するまで、こちらで待機してください」
「でも俺、終わったんですよね?」
「個別の聴取は終了しています」
「じゃあ何を待つんですか」
「相互確認が必要とのことです」
周囲の会話が少しずつ止まった。
「待ってください」
リオが近づく。
「終わった人から帰れるって話じゃなかったんですか?」
「当初はその予定でした」
「当初は?」
ディンが立ち上がる。
「また変わったのか?」
「詳細については――」
「俺、登録してるんだけど」
「ディン」
「登録して、報告して、今日も調査受けて。それでも帰れないの?」
ノアが肩へ手を置く。
「落ち着けって」
「落ち着いてるよ」
声は大きくなっていた。
マルクも顔を上げる。
「明日の仕事はどうなるんです?」
「必要であれば、ギルドから事情を――」
「事情って。給料出るんですか?」
「それについては私では……」
「いつ帰れる?」
今度はテオだった。
職員は答えられない。
そこへヴァルターが来た。
「何があったんです」
「ギルド長」
「確認終了者の退去が保留されたと」
「はい。先ほど指示が」
「誰の指示です?」
答えるより先に、別の声がした。
「私です」
エドガーだった。
ざわめきが小さくなる。
「本日の聴取によって、追加で確認すべき事項が生じました」
ヴァルターが彼を見る。
「承認された命令では、確認を終えた者から順次解放することになっていたはずです」
「承知しています」
「なら」
「全体の証言を照合する必要があります」
「それは拘束を延長する理由になりますか」
「必要だと判断しました」
「あなたの判断で?」
「はい」
ヴァルターの表情が変わった。
「私は認められません」
エドガーは静かに答える。
「あなたの意見は記録します」
「そういう話ではありません」
「分かっています」
「では――」
「ヴァルターさん」
エドガーの声は変わらない。
「今、確認を終えないまま解放すれば、今日行った調査そのものが不完全になります」
「だからといって――」
「待ってください」
リオだった。
ヴァルターとエドガーの間へ入る。
「俺たちは勝手に帰りません」
礼がリオを見る。
「リオ」
「その代わり」
リオはエドガーを見る。
「ちゃんと説明してください。何が増えたのか。何を確認したいのか。それが終わったらいつ帰れるのか」
「説明します」
「今日中に?」
エドガーは一瞬だけ黙った。
「可能な限り」
「……分かりました」
「リオ」
礼が低い声で呼ぶ。
「大丈夫」
「何が」
「まだ話してる」
「…………」
「まだ話せる」
リオはそう言った。
◇
夜になった。
結局、誰も帰らなかった。
食事が運び込まれた。
パンとスープ。
簡単なものだったが、空腹のままよりはいい。
訓練場のあちこちで小さな集まりができている。
不満を口にする者。
黙って食べる者。
家族への伝言を頼む者。
明日の仕事を気にする者。
礼は壁際に座っていた。
隣にはリオ。
「礼」
「何」
「食えよ」
「食べてる」
「全然減ってない」
「食欲ない」
「でも食え」
リオがパンを指差す。
「明日までかかるかもしれないんだぞ」
「……明日も?」
「分かんないけど」
「それが嫌なんだよ」
礼はパンをちぎった。
「分かんないことばっかり」
「うん」
「昨日は任意だった。今日は強制。昼までは調査だけって言ってた。今度は帰れない」
「うん」
「次は?」
リオは答えなかった。
「リオ」
「まだ話せると思ってるよ」
「本当に?」
「思ってる」
「なんで」
少し考えてから、リオはスープを飲んだ。
「思わなきゃ、話せないだろ」
「……何それ」
「知らん」
「適当じゃん」
「三年も一緒にいると礼に似るんだよ」
「俺そんな適当じゃないよ」
「割と適当だぞ」
「どこが」
そのときだった。
少し離れた場所で椅子の脚が床を擦った。
二人が見る。
ニルが立っていた。
顔色が悪い。
「ニル?」
ハインが呼ぶ。
「どうした」
「……俺、帰ります」
周囲の何人かが顔を上げた。
「帰るって」
「もういいです」
ニルは出口を見る。
「俺、何も使えないんですよ」
「分かってる」
「童術師でもない。誰かに教えたこともない。昨日一回、ちょっと感じただけです」
「ニル」
「何を調べるかも聞きました。答えました。童貞かどうかまで答えました」
バルトが僅かに顔を上げた。
「それなのに、いつ帰れるかも分からないって」
ニルは歩き出した。
ハインが立つ。
「待てって」
「明日また来ます」
「そういう話じゃ」
「逃げませんよ」
ニルは振り返る。
「家に帰って、寝て、明日また来ます。それじゃ駄目なんですか?」
ハインは答えられなかった。
リオが立ち上がる。
「ニル」
「リオさん」
「一回座ろう」
「嫌です」
「分かる。でも今は――」
「俺、帰りたいだけです」
ニルは再び出口へ向かった。
そこには二人の聖騎士が立っている。
「すみません」
ニルが言った。
「通してください」
「申し訳ありません」
騎士の一人が答える。
「現在、退去は認められていません」
「明日また来ます」
「お戻りください」
「嫌です」
「ニル!」
ハインの声が飛ぶ。
ニルは止まらなかった。
「通してください」
「できません」
「俺、何もしてないですよ」
「分かっています」
「じゃあ通してください」
「できません」
ニルの呼吸が荒くなる。
「……なんで」
騎士は答えない。
ニルが横へ一歩動く。
騎士も同じ方向へ動いた。
反対へ。
もう一人が塞ぐ。
「どいてください」
「お戻りください」
「嫌だって言ってるだろ!」
ニルが二人の間を抜けようとした。
その腕を、
聖騎士が掴んだ。
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