第七十七話 それぞれの朝
翌朝、ローデンの町はいつもと変わらず動き始めた。
東の空が白み始めるころには市場へ向かう荷車が石畳を走り、通りに面した店では木戸が開き始めていた。夜勤を終えた衛兵と、これから仕事へ向かう職人がすれ違う。
ギルドの裏手には、白い鎧を身につけた聖騎士たちがいた。
昨日と同じ二十四人。
剣も盾も持っている。
けれど、誰も動かなかった。
まだ、正午ではなかった。
◇
エルンの朝は早い。
それは童術を覚えるよりも前から変わらなかった。
「こっち、焼けたぞ」
「今出す」
父親に言われ、エルンは窯の扉を開いた。
熱気が顔を撫でる。
焼けたパンの匂いが小さな店いっぱいに広がった。
鉄板を引き出し、作業台へ運ぶ。
いつもなら、ここから店を開ける準備をする。
並べて、数えて、足りなければ次を焼く。
今日もそのはずだった。
「エルン」
「ん?」
「何時に行く」
父親はパンを籠へ移しながら聞いた。
「……昼までには」
「そうか」
「うん」
それだけだった。
エルンも作業を続ける。
父親の手が一度止まった。
「どのくらいかかるんだ」
「分かんない」
「今日帰ってくるのか」
「それも分かんない」
「何だそりゃ」
「俺に言われても」
「仕事は」
「だから、できるところまでやってから行くよ」
父親は何も言わなくなった。
焼き上がったパンを一つずつ棚へ並べていく。
エルンも隣に立った。
「父さん」
「何だ」
「……ごめん」
「何が」
「童術、習ったこと」
父親の手が止まった。
「何でお前が謝る」
「だって」
「習いたいって言ったのはお前だろ」
「うん」
「俺もいいって言った」
「うん」
「じゃあ俺にも半分責任があるな」
「そういう話じゃないだろ」
「なら謝るな」
父親はパンを置いた。
「悪いことしたわけじゃないんだろ」
「してないよ」
「なら帰ってこい」
エルンは父親を見る。
「……うん」
「帰ってきたら働け」
「そっち?」
「今日の分までな」
「ひどくない?」
「嫌なら今やっとけ」
エルンは少し笑った。
「分かったよ」
もう一枚、鉄板を取りに窯へ向かう。
その店の前を、白い鎧の男が二人通り過ぎた。
父親が窓の外を見る。
エルンも見た。
聖騎士たちは店へ入ってこなかった。
そのまま歩いていく。
父親は何も言わず、またパンを並べ始めた。
◇
「おい、マルク。それ終わったら今日は上がれ」
「あと一台来ますよ」
「他にやらせる」
「でも」
「昼までに行くんだろ」
倉庫の前で、マルクは荷袋を肩から下ろした。
「まだ時間あります」
「だからってギリギリまで働くな」
「働けるときに働いときたいんですよ」
「帰ってこねえみたいな言い方すんな」
「そういう意味じゃないですって」
マルクは苦笑しながら、荷袋を倉庫の奥へ運んだ。
いつもなら《童衣》を使えばもっと楽に運べる。
けれど今日は使っていない。
使ってはいけないからではない。
なんとなく、使う気になれなかった。
「マルク」
入口から声がした。
振り返る。
「ハインさん」
ハインが立っていた。
「まだ働いてんのか」
「午前だけ」
「今日くらい休めよ」
「給料減るじゃないですか」
「拘束されるかもしれない日に気にすることか?」
「拘束されるかもしれないから気にするんですよ」
マルクは手についた埃を払った。
「何日かかるか分かんないんでしょ?」
「……まあな」
「だったら今日の分くらい稼いどかないと」
ハインは何も言えなかった。
「ハインさんは?」
「俺はもう行く」
「早くないです?」
「六人が来てる」
「え?」
「訓練場」
「今日も?」
「今日も」
マルクが目を丸くする。
「なんで?」
「俺が聞きたい」
ハインは頭を掻いた。
「とりあえず見てくる。お前も遅れるなよ」
「分かってます」
「あと」
ハインが一度歩き出し、振り返った。
「もし俺のこと聞かれたら、普通に言っていいからな」
「何をです?」
「お前に教えたの、俺だから」
「そんなの隠すつもりないですよ」
「……そうか」
「俺が教えてくれって言ったんですから」
マルクは笑った。
「ハインさんが勝手に教えたみたいに言わないでくださいよ」
「分かったよ」
ハインも笑って、倉庫を離れた。
◇
「もう一回」
「はい」
目を閉じる。
息を吸う。
吐く。
身体の内側へ意識を向ける。
ハインは何も言わず待っていた。
しばらくして、青年が目を開けた。
「……駄目です」
「何も?」
「昨日みたいなのは」
「焦るな」
「でも昨日はあったんですよ」
「だったら今日もあるとは限らない」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだった」
ハインは答えた。
青年――ニルは、自分の手のひらを見る。
昨日、初めて何かを感じた。
熱いような。
身体の内側に、自分の知らないものが流れたような。
ほんの一瞬だった。
それだけで、王都の調査対象になった。
「ニル」
「はい」
「今日はやめてもいいぞ」
「なんでです?」
「なんでって」
ハインは周囲を見る。
ニルを含めた六人がいる。
昨日と同じ顔だ。
「お前ら、これを習ってるから調査されるんだぞ」
「知ってます」
「まだ間に合うかもしれない」
「何にです?」
ハインが言葉に詰まった。
「……やめるのに」
「やめたら対象から外れるんですか?」
「それは」
「外れないんですよね?」
「多分な」
「じゃあ同じじゃないですか」
ニルはもう一度目を閉じようとする。
「それに」
「ん?」
「俺、覚えたいです」
ハインは青年を見る。
「こんなことになっても?」
「こんなことになったのと、覚えたいのは別です」
少し離れたところで、別の訓練者が頷いた。
「俺も」
「俺も、やめるつもりはないです」
六人全員が同じではなかった。
不安そうな者もいる。
本当に続けるのか迷っている者もいる。
それでも、誰も帰ってはいなかった。
「……分かった」
ハインは息を吐いた。
「じゃあやるぞ」
「はい」
「ただし無理はするな。今日できなかったら明日――」
そこまで言って、ハインが止まる。
明日。
普通に出てきた言葉だった。
ニルも気づいたようだった。
「帰ってきたら、ですよね」
「……ああ」
「じゃあ帰ってきてやります」
「簡単に言うな」
「調査するだけなんでしょ?」
「そう聞いてる」
「なら大丈夫ですよ」
ニルはまた目を閉じた。
ハインはその前に座る。
「呼吸から」
「はい」
「力を入れるな」
「はい」
「昨日の感覚を追いかけすぎるなよ」
「難しいです」
「俺もそうだった」
「礼さんも?」
「多分な」
「じゃあ大丈夫か」
「なんで礼だと安心するんだよ」
ニルが少し笑った。
ハインも笑った。
◇
「俺は行くよ」
ノアが言った。
「最初から?」
「うん」
ギルド近くの食堂。
向かいに座ったディンは、朝食のスープを匙で混ぜていた。
「ディンは?」
「行くけどさ」
「嫌そうだな」
「嫌だよ」
「俺も嫌だよ」
「お前そう見えないんだよ」
「じゃあ泣けばいい?」
「やめろ」
ディンはパンをちぎった。
「俺、登録したんだけどな」
「したな」
「名前も書いた。覚えてる童式も書いた。誰から習ったかも書いた」
「書いたな」
「報告もしてる」
「してるな」
「じゃあ何のための登録だったんだ?」
ノアは答えなかった。
「バルトは登録してない。俺はした」
「うん」
「でも二人とも同じ調査対象」
「そうだな」
「……だったら最初から何書いても同じだったんじゃないかって思うだろ」
ディンはちぎったパンを口へ入れた。
「まあ、行くけど」
「行くんじゃん」
「行かなかったら聖騎士が来るんだろ?」
「らしいな」
「家まで来られる方が嫌だ」
「それは分かる」
ノアは窓を見る。
通りの向こうに、白い鎧が見えた。
立っているだけだった。
「なあ」
「何?」
「俺たち、そんな危ないかな」
ディンも窓を見る。
「第五は危ないだろ」
「第五だけじゃん」
「第二で人の腕折った奴もいる」
「テオに聞かれたら怒られるぞ」
「事実だろ」
「今はちゃんと制御できる」
「だから登録したんだけどな、俺」
またそこへ戻った。
ノアは苦笑した。
「とりあえず食えよ」
「食ってる」
「冷めるぞ」
「もう冷めてる」
二人は黙って朝食を続けた。
◇
「俺は行く」
テオはそう言った。
礼は少し意外だった。
「いいの?」
「よくはない」
「じゃあ」
「でも俺は、一回やってるから」
テオが自分の拳を見る。
以前、怖くなって力を出しすぎた。
《童撃》。
相手の腕を折った。
「向こうが心配する理由が、全然分からないわけじゃない」
「でも、あれは」
「分かってる」
テオは礼の言葉を止めた。
「俺だって、あれから練習した」
「うん」
「今ならあんな出し方しない」
「うん」
「だから行く」
礼は黙って聞いていた。
「俺が危ないかどうか調べたいなら、調べればいい」
「…………」
「ただ」
テオが礼を見る。
「だからって、俺が犯罪者ってわけじゃないけどな」
「当たり前だよ」
「ならいい」
テオは立ち上がった。
「先行ってる」
「もう?」
「待ってる方が嫌なんだよ」
「……分かる」
「礼は?」
「リオと行く」
「そうか」
テオは手を上げて歩き出した。
礼はその背中を見送った。
◇
レントは剣の手入れをしていた。
刃を布で拭き、鞘へ戻す。
今日は持っていかない。
宿の部屋に残す。
「行くのか?」
同室の冒険者に聞かれた。
「行くよ」
「聖騎士いるんだろ」
「いるな」
「この前の件、聞かれるんじゃないか?」
「多分」
灰牙犬。
ギルド職員に止められ、それでも童術を使った。
職員が転び、肩を痛めた。
最後には《童撃》で魔物を倒した。
「嫌じゃないのか」
「嫌だよ」
「なら」
「でも、同じこと聞かれたら同じこと答える」
「何て?」
レントは鞘を壁へ立てかけた。
「誰かが噛まれそうで、俺が助けられるなら使う」
「また怒られるぞ」
「怒られたわけじゃない」
「似たようなもんだろ」
「違うよ」
レントは上着を羽織った。
「俺が間違ってたかどうか聞きたいなら、何回でも話す」
「自信あるんだな」
「ない」
「ないのかよ」
「今でも、あれが一番よかったのかは分からない」
扉へ向かう。
「でも」
手をかける。
「あのとき使わなかった方がよかったとは思ってない」
扉を開けた。
「行ってくる」
「帰ってこいよ」
「そのつもりだよ」
レントは部屋を出た。
◇
バルトは朝食を食べていた。
パン。
豆のスープ。
干し肉。
机の端には、灰色の石が置いてある。
食べる。
石を見る。
また食べる。
「…………」
石は何も言わない。
「お前は悪くないからな」
もちろん答えない。
バルトはスープを飲んだ。
昨日、礼に言われたことを思い出す。
聖騎士に囲まれて石を握っていると怪しい。
「……確かにな」
石を持ち上げる。
「でも置いてくのもな」
しばらく考えた末、袋へ入れた。
その袋を腰につける。
外へは行かない。
逃げもしない。
家にいる。
昨日そう決めた。
窓の外を見る。
人が歩いている。
荷車も通る。
少し遠くを白い鎧が歩いていった。
こちらへは来ない。
「まだか」
正午まで、まだ時間がある。
バルトは二つ目のパンへ手を伸ばした。
◇
「礼」
「ん?」
「行くぞ」
昼が近づいていた。
礼はリオと並んで歩いていた。
昨日と同じ道。
昨日は、話をするためにギルドへ向かった。
今日は、調査を受けるために向かっている。
「リオ」
「何?」
「本当に行くの?」
リオが礼を見る。
「昨日言っただろ」
「今ならまだ」
「礼は行かないの?」
「……行くけど」
「じゃあ一緒じゃん」
「そうだけど」
「なら行こうぜ」
歩き続ける。
町はいつも通りだった。
店が開いている。
子供が走っている。
昼飯の匂いがする。
ただ、いつもより白い鎧が多い。
「昨日さ」
礼が言った。
「話せたって言ったじゃん」
「言ったな」
「俺、ちょっと安心してた」
「俺も」
「リオも?」
「そりゃそうだろ」
「もっと平気なのかと思ってた」
「何でだよ」
「ずっと話そうって言ってるから」
リオは少し考えた。
「怖くないから話すんじゃないよ」
「…………」
「怖いから、話すんだろ」
礼は隣を見る。
リオは前を向いていた。
「分かんないまま相手を敵にするより、その方がいい」
「それでも駄目だったら?」
「そのとき考える」
「またそれ?」
「三年それでやってきただろ」
「……そうだね」
ギルドが見えてくる。
入口の近くには、何人か見知った顔がいた。
ノア。
ディン。
テオ。
レント。
少し遅れて、仕事着のままマルクが走ってくる。
「間に合った!」
「ギリギリじゃん」
「荷車が遅れたんですよ!」
「休めって言っただろ」
ハインが呆れた顔をする。
「ちゃんと終わらせてきました!」
「なんで嬉しそうなんだよ」
エルンもいた。
服に少しだけ小麦粉がついている。
「エルン」
「礼さん」
「パン屋は?」
「父さんに追い出されました」
「追い出された?」
「早く行けって」
エルンは笑った。
「帰ったら今日の分まで働けって言われましたけど」
「大変だな」
「礼さんも手伝います?」
「なんで俺まで」
「先生だから」
「関係ないだろ」
リオが笑った。
その笑いにつられて、何人かが笑う。
すぐ近くに聖騎士がいる。
それでも、その瞬間だけはいつもと変わらなかった。
◇
正午の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
ローデンの町へ鐘の音が広がっていく。
エドガーはギルドの一室で、その音を聞いていた。
「人数は?」
灰色の外套を着た部下が紙を見る。
「現時点で、自主的に到着している者は確認中です。未到着者についても所在はほぼ確認できています」
「六名の訓練者は?」
「全員、指定場所へ向かっています」
「分かりました」
エドガーは窓の外を見る。
鐘が鳴り終わる。
「聖騎士団へ」
「はい」
「未到着者の確認を始めてください」
「確保しますか?」
「まず同行を求めてください」
「拒否した場合は?」
「命令の内容を説明した上で、改めて同行を求める」
「それでも拒否した場合は」
エドガーは部下を見る。
「抵抗のない者へ、必要以上の力を使わないでください」
「承知しました」
部下が部屋を出ていく。
間もなく、ギルドの裏手に集まっていた白い鎧が動き始めた。
二人。
三人。
それぞれ別の道へ分かれていく。
◇
鐘が鳴り終わった。
バルトは椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
「……正午か」
食器はもう片づけてある。
机の上に石はない。
袋の中。
腰につけている。
しばらく何も起こらなかった。
外を荷車が通った。
子供の声がした。
誰かが隣の家の扉を閉めた。
そのあとだった。
白い鎧が二つ、通りの向こうに見えた。
こちらへ歩いてくる。
バルトは立ち上がらなかった。
二人は家の前で止まった。
少しして、扉が叩かれる。
「バルトさん」
男の声。
「いらっしゃいますか」
バルトは椅子から立った。
扉へ向かう。
開けた。
二人の聖騎士が立っていた。
剣は抜いていない。
「バルトさんですね」
「……そうだけど」
「王都より発令された追加調査に基づき、同行をお願いします」
バルトは二人を見る。
「昨日、断ったはずだ」
「昨日まで行われていた聴取については、任意でした」
「今日は?」
騎士は一度も剣へ手を伸ばさなかった。
「本日からは、任意ではありません」
バルトは黙った。
通りを歩く人が、こちらを見ている。
「礼たちは?」
「既に指定場所へ来ている方もいます」
「全員?」
騎士は答えなかった。
「……そうかよ」
バルトは一度だけ家の中を見る。
それから外へ出た。
「分かった」
騎士の一人が僅かに息を吐く。
「ご協力ありがとうございます」
「ただし」
バルトが言った。
「自分で歩く」
「構いません」
「触るなよ」
「抵抗されない限り、その必要はありません」
「しねえよ」
扉を閉める。
鍵をかけた。
腰の袋を確認する。
「……それは?」
騎士の視線が向いた。
「石」
「石?」
「ただの石だ」
「確認しても?」
バルトの顔が険しくなる。
「何でだよ」
「念のためです」
「これは関係ねえ」
「危険物でないことを確認するだけです」
「危険じゃねえよ」
「でしたら――」
「俺のだ」
騎士が黙る。
バルトは袋を押さえた。
「取るな」
しばらくして、騎士が頷いた。
「分かりました。現時点ではそのままで構いません」
「最初からそう言え」
「ただし、調査場所で改めて確認を求められる可能性があります」
「そのとき考える」
「承知しました」
騎士が道を開けた。
バルトは二人の間を通る。
三人で歩き始める。
白い鎧に挟まれながら、バルトはいつもの町を歩いた。
逃げなかった。
暴れもしなかった。
ただ、自分の足で歩いていった。
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