第七十六話 昨日とは違う
ヴァルターの部屋には、三つの椅子が用意されていた。
礼とリオが並んで座る。
机を挟んだ向こうに、ヴァルター。
昨日までと同じ部屋だった。
窓際の棚も、書類の積まれた机も変わらない。開いた窓からは夕方の風が入り、階下からは依頼を終えた冒険者たちの声が微かに聞こえていた。
ただ、机の中央に置かれた一通の文書だけが、礼の知らないものだった。
「それ、王都からですよね」
「はい」
ヴァルターが答える。
「昨日の聴取に関するものです」
「もう返事が来たんですか?」
「正確には、昨日の調査結果を受けてレーヴェン調査官が追加の調査を具申し、それが承認されました」
礼はすぐには意味を理解できなかった。
「追加?」
「はい」
ヴァルターは一度、文書へ目を落とした。
それから顔を上げる。
「礼さん。リオさん。まず最初に、昨日お二人へ説明したことについて、訂正しなければなりません」
「訂正?」
「昨日の聴取は任意でした。参加を拒否したことだけを理由に、拘束や処罰を行うこともない。そうお伝えしました」
「はい」
「その説明に、嘘はありません」
礼はヴァルターを見た。
「……ありません?」
「昨日の時点では」
その言葉で、礼の背中に僅かな緊張が走った。
隣のリオも、さっきまでとは違う顔でヴァルターを見ている。
「今日、王都から新たな命令が届きました」
ヴァルターは文書を二人の方へ向けた。
「現在確認されている童術使用者二十二名。そして、新たに習得訓練を受けている六名。計二十八名を対象に、追加調査が行われます」
「……はい」
「今回は、任意ではありません」
礼は黙った。
部屋の外を誰かが歩いていく。
その足音が、妙にはっきり聞こえた。
「どういうことですか」
リオが聞いた。
「調査期間中、二十八名全員の身柄を一時的に確保することが認められました」
「身柄を……」
礼が文書を見る。
「確保?」
「指定された場所へ集まっていただき、個別に調査を受けてもらいます。調査が終わるまでは、自由に帰ることはできません」
「それ」
礼の口から言葉が出た。
「拘束じゃないですか」
ヴァルターは否定しなかった。
「はい」
「……昨日、断ってもいいって言いましたよね」
「言いました」
「バルトも断った」
「はい」
「それでいいって」
「私が言いました」
ヴァルターの返事は一つも逃げなかった。
「じゃあ、なんで」
「状況が変わったからです」
礼は眉を寄せた。
「俺たち、昨日何かしました?」
「いいえ」
「誰か暴れた?」
「いいえ」
「エドガーさんの質問にも答えた」
「はい」
「剣を出すのは断ったけど、それもいいって言われました」
「そのことは問題になっていません」
「じゃあ何が変わったんですか」
ヴァルターは少しだけ黙った。
「童術について、王都側が把握していなかった事実が確認されました」
「何です?」
「礼さん以外の人間だけでも、教授が成立していること。現在の二十二名とは別に六名が新たに訓練を始めていること。そして、第一から第六までが童術の上限ではない可能性があることです」
礼はますます分からなくなった。
「それ、昨日俺たちが話したことですよね」
「はい」
「隠してたわけじゃない」
「分かっています」
「じゃあ」
礼は文書からヴァルターへ視線を戻した。
「話したから、拘束されるんですか?」
ヴァルターの口が止まった。
リオが礼を見る。
「礼」
「だってそうじゃん」
「分かってる。でも」
「俺たち、聞かれたから答えただけだよ」
「分かってるって」
リオはそう言ってから、ヴァルターへ向き直った。
「ヴァルターさん」
「はい」
「調査って、何をするんですか」
「昨日より詳しい個別聴取が中心です。習得状況、指導関係、これまでの使用歴などを確認すると聞いています」
「童術を使えって言われます?」
「本人の同意なく実演を強制することは禁止されています」
「荷物とか家とか調べられる?」
「必要性のない財産の押収や住居の捜索も認められていません」
「聖騎士は?」
「警備と、対象者の確保です」
リオの目が僅かに細くなった。
「確保って、俺たちが自分から行っても?」
「自発的に指定場所へ来て、調査に協力するのであれば、拘束具を使う必要はないと確認しています」
「調査が終わった人は?」
「問題がないと確認された者から解放されます」
「どのくらいかかります?」
「……分かりません」
「一日?」
「分かりません」
「三日?」
「それも」
リオは口を閉じた。
礼はその横顔を見る。
リオが怒っているのか、不安なのか、礼には分からなかった。
ただ、いつもより長く考えているのだけは分かった。
「誰が決めたんですか」
礼が聞いた。
「今回の調査を?」
「はい」
「発端は、レーヴェン調査官です」
ヴァルターは答えた。
「昨日の聴取を受けて、強制調査への移行を王都へ具申しました。それを中央ギルド、王国魔術院、治安を担当する部門が検討し、条件付きで認めています」
「エドガーさんが?」
「はい」
「昨日、普通に話してたのに」
「……はい」
礼は椅子へ深く座り直した。
「意味分かんないよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
ヴァルターは何も言わない。
少しして、リオが聞いた。
「ヴァルターさんは?」
「私?」
「どう思ってるんですか」
初めて、ヴァルターの目が揺れた。
「この命令が必要だと思ってるんですか」
長い沈黙だった。
窓から入った風が、机の端に置かれていた紙を僅かに動かす。
ヴァルターがその紙を押さえた。
「昨日の時点であれば」
ゆっくりと言う。
「私は、必要ないと答えたと思います」
「今日は?」
「……分かりません」
礼が顔を上げる。
「分からない?」
「童術を管理する必要はあると、私は以前から考えています」
「管理」
「あなた方を支配したいという意味ではありません。事故を防ぐこと。誰が使えるのかを把握すること。危険な使い方を広げないこと。そのための制度は必要です」
「それは今までやってきたじゃないですか」
「はい」
「報告もした。登録も話した。新しく教えるときも通知した」
「その通りです」
「なのに足りない?」
「……王都は、足りないと判断しました」
「ヴァルターさんは?」
もう一度、礼が聞いた。
今度は逃げられない問いだった。
ヴァルターは二人を見た。
「確認は、必要だと思います」
礼の表情が固まる。
「強制してでも?」
「そこまでは」
ヴァルターは言葉を切った。
「そこまでは、まだ納得できていません」
礼は黙っていた。
「だから今日、レーヴェン調査官に時間を求めました」
「時間?」
「明日の正午まで、聖騎士は誰にも接触しません」
「……何のために?」
「私から、皆さんへ説明するためです」
ヴァルターは机の上で両手を組んだ。
「突然、自宅や仕事場へ聖騎士を向かわせたくなかった」
礼の頭に、バルトが浮かんだ。
昨日の聴取へ来なかった男。
訓練場で石を握りながら、普通に笑っていた。
それから今日、基礎訓練をしていた六人。
「六人も?」
「はい」
「まだ使えないですよ」
「分かっています」
「今日、やっとちょっと感じたかもって人がいたんです」
「……はい」
「それだけですよ」
礼の声が小さくなる。
「まだ、何もできない」
「分かっています」
「なのに拘束するんですか」
「対象に含まれています」
礼は何も言えなくなった。
リオが静かに息を吐く。
「ヴァルターさん」
「はい」
「俺たちからも、みんなに話していいですか」
「もちろんです」
「明日の正午まで?」
「はい」
「それまでは、本当に何もしない?」
「レーヴェン調査官と約束しました」
「……分かりました」
リオが立ち上がった。
「リオ?」
「礼。みんなに話そう」
「でも」
「知らないまま明日になる方がまずい」
礼は座ったままだった。
「納得できない」
「俺もだよ」
リオの声は穏やかだった。
「でも、まず話そう」
その言葉に、礼は顔を上げる。
「昨日もそうしただろ」
「昨日話した結果がこれじゃん」
思わず出た。
リオは黙った。
礼自身も、言ってから口を閉じた。
「……ごめん」
「いや」
リオは少しだけ目を伏せた。
「そうだな」
それでも、すぐに礼を見る。
「でも、まだ終わってない」
「…………」
「明日の正午まである」
「何ができるの」
「それを考えるんだよ」
礼はリオを見ていた。
「一緒に」
小さく付け加えられた言葉に、礼はようやく立ち上がった。
「……うん」
扉へ向かう。
その途中で、礼は止まった。
「ヴァルターさん」
「はい」
「一つだけ聞いていいですか」
「もちろんです」
「断ってください」
ヴァルターの顔が止まった。
「この命令」
礼は振り返っていた。
「ローデンではやらないって。俺たちはちゃんと話すから、拘束する必要なんかないって。ヴァルターさんから王都に言ってください」
「礼」
「だってギルド長なんでしょ」
リオは止めなかった。
「グレイグさんは、何回も断ってくれた」
ヴァルターの指が僅かに動いた。
「俺たちのことを全部渡せって言われても、断ってくれた」
「……知っています」
「じゃあ」
礼は言った。
「断ってください」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
机の上の文書を見る。
王都の承認印。
その横には、自分が今日まで積み上げてきた報告書がある。
「それはできません」
礼の目が動いた。
「……どうして」
「私は、ギルド長です」
「グレイグさんも、ギルド長でしたよ」
静かだった。
ヴァルターは何も言い返さなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「……そうですね」
「だったら」
「それでもです」
礼はヴァルターを見ていた。
「私は、今回のやり方すべてに納得しているわけではありません」
ヴァルターの声は苦しかった。
「ですが、童術について追加の確認が必要だという判断まで、間違っているとは思っていない」
「だから従う?」
「はい」
「……そうですか」
礼はそれ以上言わなかった。
扉を開ける。
リオも続いた。
「礼さん」
ヴァルターが呼ぶ。
礼は振り返らなかった。
「明日の正午までは、約束します」
「…………」
「誰にも手は出させません」
礼は少しだけ立ち止まった。
「分かりました」
それだけ答えて、部屋を出た。
◇
その日の夜、訓練場に集まれたのは二十二人のうち十七人だった。
仕事で町の外に出ている者。
夜勤の者。
どうしてもすぐには来られない者。
残りには、朝までに伝えることになった。
新しく訓練を始めた六人は、全員が来ていた。
いつもの訓練とは違う。
誰も木剣を持っていない。
中央に礼とリオ。
少し離れてヴァルターが立っている。
壁際にはバルトがいた。
石の入った袋を手に持っているが、今日は中から出していない。
「じゃあ」
リオが礼を見る。
「話すぞ」
「……うん」
礼は集まった顔を見る。
知っている顔ばかりだった。
三年前には、リオ一人だった。
今は、こんなにいる。
その外側には、まだ童術師ですらない六人もいる。
「王都から」
礼は口を開いた。
「新しい命令が来ました」
ざわめきは起きなかった。
全員が続きを待っている。
「俺たち二十二人と、新しく訓練を始めた六人。全員が、追加の調査を受けることになった」
「昨日のやつ?」
誰かが聞く。
「違う」
礼は答えた。
「昨日は、断ってもよかった」
バルトが壁から背を離した。
「……今日は?」
「断れない」
空気が変わった。
「は?」
最初に声を出したのは、やはりバルトだった。
「ちょっと待て」
前へ出る。
「昨日、俺は行かないって言ったよな」
「うん」
「それでいいって言ったよな?」
バルトはヴァルターを見る。
「言いました」
「じゃあ何だよ、これ」
「昨日の聴取結果を受け、王都が追加調査を決定しました」
「だから、なんで俺まで」
「対象が全員だからです」
「俺、昨日行ってないぞ」
「関係ありません」
「意味分かんねえよ」
バルトの声が大きくなる。
「昨日は断っていい。今日から駄目。何だそれ」
誰も答えなかった。
「それに」
別の声がした。
新しく訓練を始めた六人の中からだった。
「俺たちも、なんですか?」
若い男が自分を指差している。
昼間、初めて何かを感じたかもしれないと言っていた男だった。
「はい」
ヴァルターが答える。
「でも」
男は困ったように笑った。
「俺、まだ何もできませんよ」
「分かっています」
「童術師じゃないですよね?」
「現時点では」
「じゃあ、なんで?」
「習得訓練を受けているためです」
笑みが消えた。
「……それだけ?」
「はい」
「今日、ちょっと熱いかもって思っただけですよ」
礼の胸が詰まった。
さっき、自分がヴァルターへ言ったのと同じだった。
「俺」
男は自分の手を見る。
「まだ何もできないのに」
隣にいた別の訓練者が口を開く。
「調査って、何されるんです?」
ヴァルターが説明した。
個別聴取。
調査中は指定された場所から帰れないこと。
実演の強制は禁止。
住居の無断捜索もない。
抵抗しなければ、武力を使うこともない。
確認が終わった者から解放される。
説明が終わっても、誰も安心した顔にはならなかった。
「どのくらい?」
ハインが聞いた。
「期間は?」
「決まっていません」
「一日か?」
「分かりません」
「一週間?」
「分かりません」
「じゃあ仕事は?」
マルクが言った。
「倉庫、明日もあるんですけど」
「ギルドから事情を説明します」
「給料は?」
ヴァルターが止まった。
「……補償について確認します」
「今決まってないんですか?」
「はい」
マルクは頭を掻いた。
「困るんだけどな……」
怒鳴ってはいなかった。
その言い方が、礼には余計につらかった。
別の男が手を上げる。
「家族には?」
「説明できます」
「俺が帰れないことも?」
「はい」
「何日か分からないのに?」
「……はい」
少しずつ。
命令書には書かれていなかったものが、言葉になっていく。
仕事。
家。
家族。
食事。
明日の予定。
誰かにとっては小さく、本人にとっては小さくないもの。
「俺は行かない」
バルトが言った。
全員が見る。
「バルト」
リオが名前を呼ぶ。
「行かない」
もう一度。
「昨日、断っていいって言われたから断った。今日になってやっぱり駄目って言われても知らねえよ」
「明日の正午を過ぎた場合」
ヴァルターが言う。
「聖騎士団が確保に向かう可能性があります」
「来ればいい」
「バルト」
「戦うって意味じゃねえよ」
バルトは苛立ったように言った。
「俺は逃げねえ。家にいる」
「…………」
「来て、俺の顔見て、何も悪いことしてない奴を連れていく必要があるって言うなら」
袋を握る。
「そいつの口から聞く」
リオが息を吐いた。
「分かった」
「止めないのか?」
「止めたいよ」
「じゃあ止めろよ」
「でも、お前が決めることだ」
バルトは少し黙った。
「俺は行く」
リオが続けた。
礼が横を見る。
「リオ」
「調査受ける」
「……本気?」
「本気」
「昨日の今日だよ」
「だからだよ」
リオは集まった皆を見る。
「俺たちが何も悪いことしてないなら、話すしかないだろ」
「話した結果がこれなんだけど」
礼が言う。
「分かってる」
リオの声が少し強くなった。
「分かってるよ」
そして、少しだけ間を置く。
「でも、ここで俺たちが全員逃げたら?」
誰も答えない。
「王都から見たら、どう見える?」
「だからって」
「うん。納得できない」
リオは礼を見る。
「俺だって嫌だよ」
それは、今日初めて聞いたリオの本音だった。
「拘束なんかされたくない。何日かかるかも分からない。昨日はいいって言っただろって思ってる」
「…………」
「でも」
リオは一度、息を吸った。
「まだ、話せると思う」
礼は何も言えなかった。
「エドガーさんとも。ヴァルターさんとも。王都の人間とも」
「…………」
「全員が敵になったわけじゃない」
どこかで聞いた言葉だった。
何度も、リオが言ってきた言葉。
「俺は行く」
リオはもう一度言った。
「バルトは行かない。それでいい」
「よくねえだろ」
「今夜決める必要もないだろ」
リオは少しだけ笑った。
「明日の正午まである」
「……短えよ」
「短いな」
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってるだろ」
僅かだった。
ほんの一瞬だけ。
張り詰めていた空気が緩んだ。
誰かが小さく息を吐いた。
「今日は帰ろう」
リオが言う。
「家族がいる奴は話した方がいい。仕事がある奴も。行くか行かないかは、自分で決めよう」
礼を見る。
「いいだろ?」
礼はしばらく答えなかった。
自分が決めていいことではない。
それだけは分かった。
「……うん」
集まっていた者たちが、少しずつ動き始める。
二人、三人と固まり、話しながら訓練場を出ていく。
六人も帰っていった。
昼間、初めて童力を感じかけた男が、出口のところで一度だけ振り返った。
礼と目が合う。
何か言おうとしていた。
けれど結局、何も言わずに頭を下げて出ていった。
バルトも帰る。
「バルト」
礼が呼ぶ。
「何だ」
「……明日」
「家にいるって」
「うん」
「石もある」
「それは置いといた方がいいんじゃない?」
「なんでだよ」
「聖騎士に囲まれて石握ってるの、絶対怪しいよ」
「俺の童石だぞ」
「だからだよ」
バルトは少し考えた。
「……ポケットに入れとく」
「持ってくんだ」
「大事だからな」
それだけ言って、出ていった。
最後に残ったのは、礼とリオだった。
ヴァルターも少し離れたところにいる。
「飯」
リオが言った。
「……食べるの?」
「食べないの?」
「食欲ない」
「俺はある」
「すごいな」
「腹減るもんは腹減る」
リオが出口へ向かう。
「行こうぜ」
「どこ」
「いつものとこ」
「肉?」
「今日は礼のおごり」
「また?」
「明日拘束されるかもしれないから」
「それ理由にする?」
「使える理由は使う」
礼は呆れて、少しだけ笑った。
それからリオの後を追った。
訓練場を出る直前、振り返る。
いつも使っている場所だった。
明日もここで訓練するつもりだった。
六人のうち、誰か一人くらいは童力を感じられるようになるかもしれない。
そんな話を、昼間までしていた。
「礼?」
「今行く」
灯りを消す。
二人は夜の町へ出た。
明日の正午まで、まだ時間は残っていた。
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