第六十八話 登録しない
王都からの回答が届いた翌日も、訓練場にはいつもと同じ声が響いていた。
「もう少し右!」
「右ってどっちだよ!」
「そっち!」
「指差せよ!」
「右!」
「だから分かんねえって!」
木剣がぶつかる乾いた音のあと、ディンが大きく後ろへ下がった。
向かいに立つノアも構えを解く。
「お前、自分の右も分かんないのか?」
「戦ってると分かんなくなるんだよ!」
「どういう頭してんだよ」
「うるせえ!」
少し離れたところで見ていた礼が笑った。
「一回休憩にしよう」
「まだいけます」
「俺は休む」
「お前が言うなよ」
二人が言い合いながら水の置かれた場所へ向かっていく。
礼はその背中を見送ってから、訓練場を見回した。
今日は十四人。
全員が毎日来るわけではない。
依頼へ出ている者もいるし、仕事がある者もいる。
マルクも今日は倉庫の仕事だった。
バルトは壁際に座り、例の灰色の石を手の中で転がしている。
「バルト」
「ん?」
「今日それ使うの?」
「使う」
「ずっと持ってるよね」
「安定するからな」
「普通の石なのに」
「俺にとっては普通じゃない」
バルトは真顔だった。
礼はもう何も言わなかった。
三年近く付き合っていると、諦めるべきことも分かってくる。
その隣でリオが笑っていた。
「何」
「いや。先生も成長したなと思って」
「何の?」
「石を受け入れる心」
「受け入れてないよ」
「でももう止めないだろ」
「止めても使うじゃん」
「信頼だな」
「諦めだよ」
バルトが石を握ったまま顔を上げる。
「お前ら、俺の童石を馬鹿にしてるだろ」
「してない」
「してるな」
「してないって」
「目を見ろ」
「訓練しようか」
「逃げた」
リオが吹き出した。
礼も笑いながら中央へ戻る。
今日も普通だった。
王都では自分たちについて何かが調べられている。
グレイグの記録が、どういう経路か分からないまま王都へ渡っている。
登録制度についても、まだ結論は出ていない。
それでも、ここにいる間だけは以前と同じだった。
昼を過ぎたころ、訓練を終えた者から帰り始めた。
礼は残った道具を片づけていた。
「先生」
呼ばれて振り返る。
バルトだった。
「何?」
「ちょっといいか」
「うん」
いつもと声が違った。
礼は持っていた木剣を壁へ立てかける。
リオも気づいたらしく、少し離れた場所からこちらを見た。
「登録の話なんだけど」
「ああ」
「決めた」
礼はバルトを見る。
「俺は登録しない」
迷いのない言葉だった。
「……そっか」
「止めないのか?」
「なんで?」
「先生だから」
「関係ないよ」
礼は答えた。
「登録するかどうかは、自分で決めるって話したじゃん」
「まだ任意かどうかも分かってないぞ」
「今は登録制度自体ないし」
「それもそうか」
バルトは少しだけ笑った。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「一応、理由は話しとく」
「うん」
「王都が嫌いだからじゃない」
礼は黙って聞く。
「ギルドも嫌いじゃない。ヴァルターさんも、別に嫌いじゃない」
「うん」
「でも、俺は嫌なんだ」
バルトは腰の袋に手を触れた。
中には、いつもの石が入っている。
「何が?」
「俺の力を、俺より先に誰かに決められるのが」
礼は少し眉を寄せた。
「決める?」
「第一が使える。第二が使える。第三が使える。誰に教わった。いつから使ってる。誰に教えた」
バルトは指を折りながら数えた。
「それを全部書いて、王都に置いとくんだろ」
「今の案だと、全部じゃなくなるかもしれない」
「分かってる」
「ヴァルターさんも減らそうとしてる」
「それも分かってる」
バルトは頷いた。
「だからヴァルターさんが悪いって話じゃない」
「じゃあ……」
「一回書いたら、残るだろ」
礼の口が止まった。
「俺が十年後に童術をやめても。冒険者をやめても。どっか別の町へ行っても」
バルトは自分の胸を指した。
「俺が童術師だったって記録は残る」
「……たぶん」
「俺は、それが嫌だ」
礼はすぐには答えられなかった。
今まで考えたことがなかった。
登録する。
紙に名前を書く。
それは、その瞬間のことだと思っていた。
だが、紙は残る。
「何か悪いことするつもりはないぞ」
バルトが言う。
「分かってる」
「童術を使って人を襲うつもりもない」
「うん」
「でも、悪いことしないって証明するために、先に自分のこと全部渡すのは違うと思う」
礼はバルトを見た。
いつも石を握って真面目な顔をしている男。
変なところはある。
かなりある。
でも今話していることは、礼にも分かった。
「……分かった」
「それだけ?」
「それだけ」
「先生は登録するのか?」
「まだ決めてない」
「作った本人なのに?」
「作った本人だから余計に分かんないんだよ」
バルトが少し笑った。
「そっか」
「でも」
礼は言った。
「登録しないって決めたこと、みんなには話していい?」
「いいよ」
「ヴァルターさんにも?」
一瞬だけ間があった。
「……いい」
「本当に?」
「隠しても仕方ないだろ」
「うん」
「俺が自分で言ってもいい」
「じゃあ、一緒に行く?」
「ギルド?」
「うん」
バルトは考えた。
「行く」
「分かった」
「今日?」
「今日行く?」
「早い方がいいだろ」
「じゃあ、片づけてから」
「分かった」
バルトが離れていく。
入れ替わるようにリオが来た。
「聞こえた」
「盗み聞き?」
「この距離で?」
「まあ聞こえるか」
「どうする?」
「どうするって?」
「バルト」
「本人が決めたなら、それでいいんじゃない?」
「王都が任意じゃないって言ったら?」
礼は手を止めた。
「……そのとき考える」
「また?」
「今分かんないこと考えても仕方ないじゃん」
「最近それ上手くなったな」
「何が?」
「分からないって言うの」
「いいこと?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
二人で笑った。
◇
夕方。
礼とバルトはギルドへ向かった。
リオも来ようとしたが、残っている者の訓練を見ると言って残った。
ギルドへ入ると、いつもの喧騒があった。
依頼から戻った冒険者が受付に並び、酒場ではすでに飲み始めている者もいる。
その中を通り、二階へ上がる。
ヴァルターは執務室にいた。
「珍しい組み合わせですね」
入ってきた二人を見て言った。
「話があって」
「登録の件です」
バルトが先に言った。
ヴァルターの視線が彼へ移る。
「どうぞ」
三人で座る。
バルトは、訓練場で礼に話したことをもう一度説明した。
登録制度が嫌いだからではない。
ギルドを敵だと思っているわけでもない。
ただ、自分が使える力や、誰に教わったのかという情報を王都へ登録したくない。
話している間、ヴァルターは一度も遮らなかった。
最後まで聞いてから質問した。
「理由は、記録が残り続けることですか?」
「それもあります」
「他には?」
「誰が見るのか分からない」
「閲覧権限については、制度上定められるはずです」
「まだ決まってないんですよね」
「はい」
「じゃあ、今は分からない」
「その通りです」
バルトは頷いた。
「だったら、今のところ登録する気はありません」
ヴァルターは少し考えた。
「分かりました」
バルトが眉を上げる。
「それだけですか?」
「現時点では制度そのものが存在していません。あなたに登録を求める根拠もありません」
「制度ができたら?」
「内容によります」
「強制だったら?」
「従っていただくようお願いすることになります」
「お願い?」
「まずは」
バルトの表情が少し硬くなる。
礼は二人を交互に見た。
「ヴァルターさん」
「はい」
「王都から、前に聞いた質問の答えって来てます?」
「登録が任意か、という件ですね」
「はい」
「まだです」
「じゃあバルトが登録しないって言ったことは?」
「王都へは報告しません」
バルトが顔を上げた。
「しないんですか?」
「何を報告するのでしょう」
「俺が登録しないって」
「存在していない制度への登録を拒否した人間が一名いる、と?」
「……まあ」
「それを報告する必要はありません」
ヴァルターは机の上の紙を整えた。
「制度への意見として、登録を望まない使用者がいることは伝えます。名前は不要です」
礼は少し安心した。
バルトも同じだったのか、肩の力がわずかに抜けた。
「ただし」
ヴァルターが続ける。
「制度が正式に始まった場合は、話が変わります」
「はい」
「そのとき登録が義務であれば、私はギルド長として制度に従います」
バルトは黙った。
「あなたが拒否した場合、どう扱うかも、王都へ確認しています」
「……分かりました」
「納得しましたか?」
「してないです」
ヴァルターは一瞬だけ目を瞬いた。
「でも、ヴァルターさんが何考えてるかは分かりました」
「そうですか」
「はい」
バルトは立ち上がる。
「俺も、何考えてるか言ったんで」
「聞きました」
「じゃあ今日はそれで」
「ええ」
礼も立ち上がった。
扉へ向かう。
「バルトさん」
ヴァルターが呼び止めた。
「はい?」
「一つだけ」
「何です?」
「登録しないという選択と、童術を使用することは、現時点では別の問題です」
バルトが振り返る。
「登録制度について結論が出るまで、通常の依頼で童術を使うことを制限するつもりはありません」
「……いいんですか?」
「制限する規則がありませんから」
「規則ができたら?」
「そのときは、その規則について話しましょう」
バルトは少しだけ笑った。
「分かりました」
二人は部屋を出た。
◇
階段を下りながら、礼が聞いた。
「どうだった?」
「何が?」
「ヴァルターさん」
「思ってたより普通だった」
「失礼じゃない?」
「もっと登録しろって言われると思ってた」
「俺も」
「先生もかよ」
一階へ下りる。
バルトは出口へ向かいかけて、途中で足を止めた。
「飯食ってく?」
「え?」
「礼」
「俺?」
「他に誰がいるんだよ」
「いや、珍しいなと思って」
「今日、リオいないだろ」
「いると奢らされるみたいに言うなよ」
「あいつ肉頼むじゃん」
「バルトも肉食べるじゃん」
「俺は値段見る」
「リオも見るよ」
「見た上で頼むだろ」
「確かに」
二人でギルドの酒場へ向かった。
その夜。
礼は宿へ戻ってからノートを開いた。
登録制度について、皆から聞いた意見を書いているページ。
バルトの名前を探す。
『バルト――反対』
以前は、それだけだった。
礼はその横へ書き足した。
『登録しない』
少し考える。
さらにその下。
『理由――記録が残ること。誰が見るか分からないこと』
そこまで書いて、ペンを止めた。
これは王都へ出すための記録ではない。
誰かを管理するためでもない。
礼自身が忘れないために書いている。
それでも、一瞬だけ手が止まった。
バルトは、記録されることが嫌だと言った。
自分は今、その理由まで紙に書いている。
「…………」
礼はしばらく文字を見つめた。
そして、その二行を横線で消した。
『バルト――登録しない』
それだけを残す。
ノートを閉じた。
◇
王都から回答が届いたのは、さらに三日後だった。
ヴァルターは朝一番に封を切った。
登録制度についての追加回答。
彼が送った質問に、一つずつ返答がある。
『現住所――登録項目から除外する方向で検討』
『習得済童式――登録必須項目とするか継続審議』
『主たる指導者――登録項目として維持』
『新規教授――事前届け出を基本とする』
ヴァルターは読み進める。
そして、最後。
自分が送った質問。
『登録は任意か』
回答。
『童術が既存の魔法体系とは異なる性質を有し、かつ安全性について未解明な点が多いことから、正式制度開始後は登録を原則義務とする方向で検討する』
ヴァルターの目が細くなる。
その下。
『未登録者に対し、いかなる制限を課す想定か』
回答は少し長かった。
『未登録であることのみを理由とした拘束・処罰は、現段階では想定していない』
ヴァルターはそこで一度止まった。
次の行を読む。
『一方、事故防止および第三者の安全確保の観点から、未登録者によるギルド依頼遂行中の童術使用については、一定の制限を設けることを検討する』
「…………」
もう一度読む。
拘束しない。
処罰もしない。
ただし。
未登録なら、依頼中の童術使用を制限する。
ヴァルターは椅子へ深く座った。
制度としての理屈は分かる。
登録された者は、何を使えるか把握できる。
事故が起きても追跡できる。
安全教育を受けていることも確認できる。
未登録者には、それがない。
だから、依頼中の使用を制限する。
理屈は通っている。
少なくとも、紙の上では。
ヴァルターは目を閉じた。
昨日、この部屋に座っていた男を思い出す。
『俺は登録しない』
まだ名前は王都へ送っていない。
送る必要もない。
制度は始まっていない。
何も違反していない。
それでも。
もし、この案がそのまま制度になれば。
バルトは選ばなければならなくなる。
登録するか。
あるいは――。
ヴァルターはもう一度、文書を読んだ。
そして紙を机へ置く。
呼び鈴には、まだ手を伸ばさなかった。
◇
同じころ。
礼たちは町の外にいた。
「左!」
「今度は分かる!」
ディンが叫び、《童駆》で地面を蹴る。
「そっちは右だ!」
「えっ」
「だから言っただろ!」
ノアの声が草原に響く。
礼とリオが同時に笑った。
バルトは少し離れたところで、石を握りながら呆れた顔をしている。
「先生」
「何?」
「こいつ、登録より先に左右覚えさせた方がいいんじゃないか?」
「それは俺の仕事じゃないよ」
「先生だろ」
「童術の先生だから!」
「じゃあ《童駆》で左に行く訓練」
「そんな童式ないよ!」
笑い声が広がった。
バルトも笑っていた。
昨日と何も変わらない。
登録していない。
登録しないと決めた。
それでも今日は、誰にも止められず童術を使っている。
王都から届いた一枚の紙を、まだ誰も知らなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!
皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




