第六十三話 名前を書く
マルクが初めて《童衣》をまともに維持できたのは、訓練を始めてから二十日ほど経った日のことだった。
「そのまま。力を入れすぎないで」
ハインの声に、マルクが小さく頷く。
訓練場の中央で目を閉じたマルクの身体を、薄い童力が覆っていた。
まだ均一とは言い難い。肩の辺りは濃く、逆に左脚の周囲では今にも途切れそうなほど弱くなっている。それでも、全身を巡っている。
礼は少し離れた壁際で、その様子を眺めていた。
「右脚、弱くなってます」
「分かってる……!」
「だったら、そこだけ増やそうとしないでください。全体を回す感じで」
「それが分からないんだって……」
「俺も最初はそうでしたよ」
「本当か?」
「本当です」
「先生、最初からできそうな顔してるけど」
「どんな顔ですか、それ」
ハインが笑う。
マルクも苦しそうな顔のまま笑い、途端に集中が崩れた。
「あ」
全身を覆っていた童力が消える。
「……今のはハインのせいだろ」
「俺ですか?」
「笑わせた」
「笑ったのはマルクさんでしょう」
二人のやり取りを聞きながら、礼も小さく笑った。
その隣で、弓の手入れをしていたリオが顔を上げる。
「安定してきたな」
「うん」
「礼、ほとんど教えてないだろ」
「うん」
「嬉しそうだな」
礼は少し考えた。
「……うん」
素直に頷くと、リオが笑った。
「そこは否定しないんだな」
「だって嬉しいし」
マルクに《童衣》を教えたのはハインだ。
最初の童力の循環を確認したのも、身体のどこで流れが詰まりやすいのかを見つけたのも、ほとんどハインだった。
礼がしたことといえば、ときどき様子を見て、二人に尋ねられたことへ答えた程度だ。
少し前なら、それを不思議に感じていたかもしれない。
自分が作った童術を、自分ではない誰かが教えている。
けれど今は、それが少し嬉しかった。
「もう一回お願いします」
マルクが言った。
「少し休んでからにしましょう」
「まだいける」
「それで倒れたら、先生に怒られるの俺なんですよ」
「俺?」
突然話を振られ、礼が自分を指差す。
「怒るでしょう?」
「……たぶん」
「ほら」
「たぶんって言ったぞ」
マルクが不満そうに言った。
訓練場に笑い声が広がった。
その日の夕方、礼とリオはギルドへ呼ばれた。
ヴァルターからの呼び出しだったが、今度は礼も以前ほど身構えなかった。
ギルド長室へ入ると、相変わらず机には書類が積まれている。着任したばかりのころより増えているように見えるのは、気のせいではないだろう。
「また増えてる」
リオが呟いた。
ヴァルターが顔を上げる。
「何か?」
「いえ、何でもないです」
「そうですか」
眼鏡を押し上げたヴァルターは、二人に椅子を勧めた。
「今日は、先日始めた報告について相談があります」
その言葉に、礼とリオは顔を見合わせた。
ヴァルターは一枚の紙を机の上へ置いた。
見慣れ始めた、童術使用の報告書だった。
「何か問題がありましたか?」
「いえ。今のところ、運用上の大きな問題はありません。ただ、実際に数件の報告を確認して、一つ不足している情報があると判断しました」
ヴァルターは用紙の下部を指差した。
「童術を使用した者の氏名です」
礼は紙へ視線を落とした。
現在の用紙には、依頼の参加者を書く欄がある。
その下にあるのは、童術を使用したかどうか。そして、使用した状況を簡単に書く欄だけだ。
「参加者は書いてますよね」
「はい。しかし複数人で依頼を受けた場合、そのうち誰が童術を使用したのかまでは分かりません」
「それを分かるようにしたい?」
「そうです」
ヴァルターは頷いた。
「先日お話しした通り、この記録の主な目的は事故が発生した際の確認です。仮に五人で依頼を受け、そのうち一人が童術を使用して負傷者が出た場合、使用者が分からなければ調査に余計な時間がかかります」
筋は通っている。
礼にも、それは分かった。
「使った童式も書くんですか?」
「いいえ」
ヴァルターはすぐに首を横に振った。
「そこについては、前回のお話の通りです。使用した技術を一律に分類することは、現状ではかえって不正確になる。あなたの意見に私も納得しています」
「じゃあ、名前だけ?」
「はい」
ヴァルターは新しい用紙を二人の方へ向けた。
『童術使用――有・無』
その下に、一つだけ欄が増えている。
『使用者―― 』
たった一行だった。
「どう思いますか?」
礼はすぐには答えなかった。
名前。
ただそれだけ。
誰が童術を使ったのか。
事故が起きたときに確認するためなら、確かに必要な情報にも思える。
けれど、数日前にバルトが言っていたことを思い出した。
――俺が何をしてるか、知られるのがだ。
「この名前も、王都に送るんですか?」
「いいえ」
ヴァルターは答えた。
「現時点では、ローデンギルド内の記録です。王都へ定期報告を行う場合も、前回お話しした通り件数のみを想定しています」
「もし王都から出せって言われたら?」
リオが尋ねる。
ヴァルターは少し黙った。
「その場合は、お二人に話します」
「出さない、じゃないんですね」
「はい」
ヴァルターはリオを見る。
「私には、今ここで将来のすべてを約束することはできません」
その答えは、礼にはむしろヴァルターらしく聞こえた。
できないことを、できるとは言わない。
都合のいい約束もしない。
「……分かりました」
礼は用紙をもう一度見た。
「俺は、必要だと思います」
リオが礼を見る。
「いいのか?」
「うん。事故があったときに誰が使ったか分からないのは、俺たちも困ると思う」
「俺も反対ってわけじゃないけど」
リオは頭を掻いた。
「なんか、少しずつ増えるなって」
ヴァルターの視線が用紙へ落ちた。
「そうですね」
否定しなかった。
「だからこそ、一つ増やすたびに話す必要があると考えています」
礼は顔を上げた。
「勝手に増やさない?」
「少なくとも、童術に関する項目については」
「約束できますか?」
「はい」
ヴァルターは頷いた。
「約束します」
礼は少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、俺はいいです」
「俺も」
リオが続いた。
ヴァルターは二人の返事を聞くと、新しい用紙を手元へ戻した。
「では、明日からこちらを使用します」
話は、それだけだった。
二日後。
マルクはハインと一緒に、町の南にある製材所へ向かっていた。
冒険者としての依頼ではない。
普段働いている倉庫から、製材所へ荷を運ぶ仕事だった。
荷車には加工前の革や金具が積まれ、それを受け取った帰りには木材を運ぶことになっている。
「なんでついてくるんだ?」
荷車を押しながらマルクが聞く。
「午後の訓練まで暇だったので」
「だからって仕事についてくるか?」
「重いんでしょう?」
「まあ、重いけど」
「《童衣》の練習にもなるかと思って」
マルクが嫌そうな顔をした。
「仕事中まで訓練させる気かよ」
「冗談です」
「お前、たまに先生より厳しいよな」
「礼は甘いですから」
「聞かれたら怒られるぞ」
「聞いてないから大丈夫です」
二人はそんな話をしながら、街道を歩いていた。
製材所で荷を降ろし、代わりに木材を積み込む。
帰り道へ入ったころには、荷車は来たときよりずっと重くなっていた。
「押しますよ」
「いい。仕事だから」
「そういうところ頑固ですね」
「給料もらってるからな」
マルクが力を込めた、そのときだった。
荷車の右側から、嫌な音がした。
木が裂ける音。
「マルク!」
車輪を支えていた軸の一部が割れた。
傾いた荷車から、積み上げていた木材が崩れる。
街道脇には、別の荷馬車が停まっていた。
その横にいた男が異変に気づいて振り向く。
避けるには遅かった。
マルクは考えるより先に走っていた。
身体の内側を巡らせる。
何度も失敗した。
肩に集まりすぎた。
脚から消えた。
全身を覆えと言われても、その感覚が分からなかった。
それでも、今は。
「第三童式――《童衣》!」
童力が全身を覆った。
マルクは男の前へ入り、崩れてきた木材を両腕で受けた。
「ぐっ……!」
重い。
訓練場で受ける打撃とは比べものにならない。
足が土へ沈む。
腕が軋む。
それでも、倒れなかった。
「ハイン!」
「はい!」
すぐにハインが駆け寄り、木材を押し戻す。
近くにいた作業員たちも集まり、数人がかりで荷を地面へ下ろした。
最後の一本が離れたところで、マルクはその場に座り込んだ。
「……重っ」
息を切らしながら呟く。
「怪我は?」
「腕痛い」
「見せてください」
「大丈夫だって」
「いいから」
ハインが腕を確認する。
骨に異常はなさそうだった。
木材の下敷きになりかけた男も、怪我はない。
それを確認してから、ハインが息を吐いた。
「できたじゃないですか」
「……何が」
「《童衣》」
マルクが自分の腕を見る。
すでに童力は消えていた。
「……できたな」
「はい」
「訓練と全然違うぞ」
「だから訓練するんです」
「先に言えよ」
「言ってました」
マルクはしばらく自分の手を眺めていた。
やがて、小さく笑った。
その日の夕方。
マルクとハインはギルドへ向かった。
本来なら依頼ではないため、童術使用報告の対象にはならない。
だが荷車の破損について倉庫側からギルドへ事故報告を出す必要があり、その中で童術を使用したことも伝えることになった。
受付の職員が、新しい用紙を差し出す。
「こちらにもお願いします」
マルクはペンを受け取った。
依頼名の代わりに、事故発生場所を書く。
童術使用。
『有』
そこまでは迷わなかった。
次の欄で、ペンが止まる。
『使用者―― 』
空白。
昨日まではなかった欄だった。
「どうしました?」
ハインが横から覗く。
「いや」
マルクはペン先を紙へ置いた。
一文字ずつ、自分の名前を書く。
『使用者――マルク』
書き終えてから、しばらく眺めた。
自分の名前。
童術を使った人間として残る名前。
「……変な感じだな」
「嫌ですか?」
「分からん」
マルクは少し考えた。
「でも、今日はいい」
「今日は?」
「役に立ったから」
用紙を受付へ渡す。
職員は内容を確認すると、いつも通りに受け取った。
「ありがとうございます」
それだけだった。
マルクとハインはギルドを出ていった。
報告書は他の書類と重ねられ、やがて職員の手で奥へ運ばれていった。
数日後、礼はその話をマルク本人から聞いた。
「初めてだったんですよ」
訓練の休憩中、マルクは嬉しそうに話した。
「実戦で?」
「実戦っていうか、仕事ですけど」
「怪我しなかった?」
「腕が筋肉痛になったくらいです」
「第三が切れてたら危なかったよ」
「それ、ハインにも言われました」
「じゃあちゃんと聞いて」
「先生まで同じこと言うのやめてくださいよ」
礼が笑う。
「でも、よかった」
「はい」
マルクは自分の腕を見る。
「俺、魔物を倒したいとか、冒険者になりたいとか、そういうのは別にないんです」
「うん」
「ただ、ああいうときに使えるなら、覚えてよかったです」
その言葉を聞いて、礼は少しだけ嬉しくなった。
「じゃあ、ハインに言ってあげて」
「なんでハインに?」
「教えたのハインだから」
「またそれですか」
「だって本当だし」
「先生なのに」
「先生じゃないって」
「もう無理ですよ、それ」
マルクが笑った。
少し離れたところで、そのやり取りを聞いていたリオも笑っている。
その日の訓練は、いつもと変わらず日が暮れるまで続いた。
同じころ。
ギルド長室では、ヴァルターが一人で書類を読んでいた。
机の端には、その日に提出された報告書が積まれている。
童術使用――有。
使用者――マルク。
事故の概要を確認し、ヴァルターはその紙を他の報告書と重ねた。
次の書類へ手を伸ばそうとしたとき、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきた職員が、一通の封書を差し出す。
「王都中央からです」
「分かりました」
職員が退室する。
ヴァルターは封を確認した。
王都中央ギルドの印章。
開封し、中の文書を読む。
しばらく、紙をめくる音だけが部屋に響いた。
やがて、その手が止まった。
文書の中央。
そこに記された一文を、もう一度読む。
『童術使用者に対する正式登録制度の整備について、準備を開始するものとする』
ヴァルターは眼鏡を外した。
目元を指で押さえ、そのまま椅子の背へ身体を預ける。
机の上には、つい先ほど確認した報告書がある。
使用者――マルク。
自分が礼とリオに相談し、二人が納得したうえで増やした一行だった。
ヴァルターはしばらくそれを見ていた。
やがて眼鏡をかけ直し、王都から届いた文書をもう一度手に取った。
その夜、ギルド長室の明かりは遅くまで消えなかった。
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