第六十二話 それぞれの考え
新しい報告書を初めて使ったのは、制度が始まってから二日後のことだった。
ローデンから西へ半日ほど進んだ街道沿いで、荷馬車を襲う角狼が増えているという依頼だった。目撃されているのは四、五頭。討伐そのものは、それほど難しいものではない。
礼とリオのほか、ハインとノアを含めた五人で町を出た。
空はよく晴れていた。夏の盛りは過ぎたとはいえ、昼を迎えるころには歩いているだけで額に汗が浮かぶ。街道の左右には背の低い草原が広がり、その向こうでは風に揺れる木々が薄く霞んでいた。
「本当にこの辺りか?」
リオが額に手をかざしながら、街道の先を見る。
「昨日襲われた商人は、この先の曲がり角って言ってた」
ハインが依頼書を確認する。
「荷馬車が横転して、積み荷を半分くらい持っていかれたらしいです」
「角狼って荷物持っていくの?」
「干し肉だったそうです」
「ああ……」
礼が納得したところで、少し前を歩いていたノアが足を止めた。
視線が街道脇の草むらへ向いている。
「います」
空気が変わった。
草が揺れた直後、灰褐色の獣が一頭、街道へ飛び出してきた。
続いて二頭。
さらに奥から低い唸り声が聞こえる。
「五頭!」
ハインが剣を抜いた。
角狼は名前の通り、額から短い一本角を生やした狼型の魔物だ。単体ならそれほど脅威ではないが、群れになると互いに獲物を追い込むように動く。
一頭が正面から飛びかかり、同時に別の一頭がハインの側面へ回った。
ハインは逃げなかった。
全身を薄く覆う童力が、一瞬だけ濃くなる。
「第三童式――《童衣》」
地面を踏み込み、正面から迫った角狼へ肩からぶつかった。
獣の身体が弾かれる。
その横を、一本の矢が抜けた。
矢じりから柄までを覆っていた童力が淡く光り、体勢を崩した角狼の首元へ深く突き刺さる。
リオの《童閃》だった。
「右!」
「分かってる!」
ハインが振り向くより先に、ノアが踏み込む。
拳へ集められた童力が、突進してきた角狼の頭部を正面から捉えた。
鈍い音とともに獣の身体が地面を転がる。
残った二頭が足を止めた。
礼は剣に手を掛けていたが、抜かなかった。
リオが次の矢をつがえている。ハインもすでに体勢を整え、ノアの《童撃》も崩れていない。
自分が出る必要はない。
そう判断した直後、一頭が背を向けた。
もう一頭も続く。
「追う?」
ノアが尋ねる。
「いや」
礼は首を横に振った。
「巣の場所を確認してからにしよう。子供がいるかもしれないし」
その日は周辺を調べ、街道から少し離れた林の中で巣を見つけた。依頼の対象になっていた群れを確認して討伐を終え、五人がローデンへ戻ったころには、空が茜色に染まり始めていた。
ギルドで討伐の確認を済ませる。
報酬が入った小袋を受け取ったあと、受付の職員がもう一枚の紙を差し出してきた。
「こちらもお願いします」
「あ」
礼はそれを見て、ようやく思い出した。
数日前、ヴァルターと一緒に作った報告書だった。
依頼名。
参加者。
そして、その下。
『童術使用――有・無』
礼はペンを取り、『有』に印をつけた。
使用状況の欄には、角狼との戦闘に使用、とだけ書く。
それで終わりだった。
「これでいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
受付の職員は普段の依頼書と一緒に紙を受け取った。
何かを尋ねられることもない。
誰がどれほどの童力を使ったのか、何人が童術を使ったのか。それ以上の説明を求められることもなかった。
本当に、それだけだった。
礼たちはギルドを出た。
「思ってたより何もないな」
ハインが言った。
「何かあると思ってたの?」
礼が尋ねる。
「いや、そういうわけじゃないですけど」
ハインは少し笑った。
「俺は、あれくらいなら別にいいと思いますよ」
「あの紙?」
「はい。使ったかどうか書くだけでしょう?」
礼は頷いた。
ハインはしばらく歩いてから、肩をすくめた。
「むしろ、ちゃんと記録に残るなら悪くないんじゃないですか」
「悪くない?」
「今までは童術を使うだけで、何だあれって顔をされることもあったじゃないですか。でもギルドが正式に書類を作るくらいなら、少なくとも存在しないものみたいには扱われないでしょう」
礼は少し意外だった。
自分は、記録されることばかり気にしていた。
ハインは違う。
記録されることを、認められることだと考えている。
「俺たち、別に悪いことしてるわけじゃないですからね」
ハインはそう言って笑った。
礼は返事をしながら、先ほど受付の向こうへ運ばれていった一枚の紙を思い出していた。
その三日後。
訓練場の隅で、バルトが石を握っていた。
いつもの灰色の石である。
両手で大事そうに包み込み、真剣な顔で童力を巡らせている姿を初めて見た者なら、何か特別な魔道具だと思うかもしれない。
礼たちはもう、何も言わなかった。
「安定してるな」
リオが感心したように言う。
「今日は調子がいい」
バルトは石を見つめたまま答えた。
「やっぱりこいつは裏切らない」
「石だからな」
「石だからこそだ」
何を言っているのか、礼には相変わらずよく分からなかった。
しばらくして休憩に入り、バルトが石を腰の袋へ戻したところで、近くにいたディンが例の報告書について話し始めた。
「昨日、俺も書いたぞ」
「依頼?」
「ああ。第一を一回使っただけなのに」
「それくらい書けよ」
バルトが水を飲みながら言う。
「書いたよ。ただ面倒だったって話だ」
「俺は嫌だけどな」
何気なく続いたバルトの言葉に、礼は顔を向けた。
「書くのが?」
「違う」
バルトは水筒の蓋を閉めた。
「俺が何をしてるか、知られるのがだ」
ディンが眉を上げる。
「別に悪いことしてないだろ」
「今はな」
「今は?」
「俺たちが悪いことをしてるかどうかを、最後に決めるのは俺たちじゃないだろ」
バルトは腰の袋を軽く叩いた。
「今日、童術を使いましたって書く。明日も書く。その次も書く。今は何もないかもしれない。でも、半年後に『童術は禁止です』って言われたらどうなる?」
「そんな話、出てないだろ」
「だから今は、って言ってる」
声を荒らげているわけではなかった。
ディンも怒ってはいない。
ただ、二人の考え方が違っていた。
礼は黙って聞いていた。
「先生はどう思う?」
突然バルトに聞かれ、礼は少し困った。
「俺?」
「うん」
答えようとして、言葉が出なかった。
ヴァルターとは話した。
制度を始める前に説明も受けた。
礼が不要だと言った項目は、本当に削られた。
今のところ、約束は何一つ破られていない。
「……まだ、分からない」
結局、それしか言えなかった。
「なら、それでいいんじゃないか」
バルトはあっさり答えると立ち上がった。
「俺も分からないから嫌なだけだ」
そう言って、再び訓練へ戻っていった。
さらに数日が過ぎた。
今度の依頼は、町の南にある農村近くへ現れた小型の魔物の討伐だった。
礼は同行しなかった。
リオとノア、それにディンを含む四人が向かい、夕方には全員無傷で戻ってきた。
礼が訓練場で記録を整理していると、リオが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった?」
「大したことなかった。六匹いたけど、普通に終わった」
リオは弓を壁へ立てかけ、肩を回した。
「ただ、ちょっと気になることがあった」
「何?」
「ディンが童術使わなかった」
礼の手が止まった。
「必要なかったの?」
「まあ、なくても倒せる相手だったけど」
リオは少し考えてから続けた。
「前なら使ってたと思う」
礼は数日前の会話を思い出した。
バルトと話していたとき、ディンは記録をそれほど気にしていないように見えた。
「聞いた?」
「帰りに」
「なんて?」
「使わなくても倒せたから、って」
「それだけ?」
「最初はな」
リオが椅子を引いて座った。
「そのあと聞いたら、紙に残すほどのことでもないからって言ってた」
「……そっか」
礼は手元の記録へ視線を落とした。
禁止されたわけではない。
使うなとも言われていない。
使ったからといって罰があるわけでもない。
ただ、使えば紙に残る。
それだけで、使わないことを選ぶ人間がいる。
「変だな」
礼が呟いた。
「何が?」
「何も禁止されてないのに」
リオは答えなかった。
礼自身もうまく説明できなかった。
ヴァルターの制度が間違っているとは思わない。
事故があったときのために記録を残す。その理由にも納得した。
けれど制度ができたことで、以前にはなかった迷いが生まれている。
紙一枚。
たったそれだけなのに、人によって受け取り方が違う。
翌日、礼はまた別の答えを見ることになった。
町の中で荷車から木箱が崩れ、通りを歩いていた子供の方へ倒れた。
近くにいたエルンが真っ先に動いた。
「第一童式――《童駆》!」
一瞬で距離を詰め、子供を抱えて木箱の下から抜け出す。
幸い、怪我人はいなかった。
その日の夕方、エルンはギルドへ行き、自分から童術を使用したことを職員へ伝えた。
「依頼じゃないから報告しなくてもいいって言われました」
訓練場へ戻ってきたエルンが、少し照れたように笑う。
「でも一応、言っておこうかなって」
「気にならない?」
礼が聞くと、エルンは不思議そうな顔をした。
「何がですか?」
「使ったって知られること」
「別に」
返事は早かった。
「だって、助けられたんですよ?」
礼は何も言えなかった。
「むしろ、そういうのは残してほしいです」
「どうして?」
「童術って危ないって思ってる人もいるんですよね」
「うん」
「だったら、人を助けたことも分かってもらった方がいいじゃないですか」
そう言うと、エルンは木剣を取りに行った。
礼はその背中を見送った。
ハインは、認めてもらえるなら悪くないと言った。
バルトは、知られることそのものが嫌だと言った。
ディンは、記録に残ることを意識して童術を使わなかった。
エルンは、自分から記録してほしいと言った。
誰も間違っているようには思えなかった。
それから数日、礼は意識して皆の話を聞くようになった。
王都に名前を知られていることが怖いという者がいた。
ヴァルターが話を聞いてくれるうちは協力すればいいと言う者もいた。
何かあればローデンを離れた方がいい、と考えている者もいた。
自分は冒険者として仕事ができればそれでいい、と笑う者もいた。
童術を覚えたことで、ようやく人並みに戦えるようになった。今さら手放したくないという者もいた。
同じ童術を使っている。
同じ場所で訓練している。
礼が教え、リオが教え、今ではハインたちも教えている。
それでも、同じことを考えているわけではなかった。
二十二人。
これまで礼は、その数字が増えていくことを喜んでいた。
一人だったものが二人になり、六人になり、十三人になり、二十二人になった。
けれど当たり前のことだった。
二十二という一つの塊があるわけではない。
そこには、二十二人の人間がいる。
その日の夜。
訓練を終えた者たちが帰ったあとも、礼とリオは残っていた。
窓の外はすっかり暗くなっている。机の上に置いたランプの火が揺れるたび、壁に伸びた二人の影も小さく揺れた。
礼は使い終わった椅子を壁際へ戻していた。
「リオ」
「ん?」
「みんな、違うんだな」
リオは椅子を持ち上げながら、礼を見る。
「何が?」
「考えてること」
「そりゃそうだろ」
「……そうなんだけど」
礼は椅子を置いた。
「なんか、今までちゃんと考えたことなかった」
リオは何も言わず、続きを待った。
「童術を覚えたいって言われたら教えてた。できるようになったら嬉しかった。人数が増えたら、もっと嬉しかった」
「ああ」
「でも、そのあとのことまで考えてなかった」
礼は自分の手を見た。
「俺が教えたから、みんな王都に名前を知られた」
「礼」
「もし俺が教えてなかったら――」
「それは言うなよ」
静かな声だった。
礼が顔を上げる。
リオは椅子を置き、まっすぐこちらを見ていた。
「俺は自分で、お前に教えてくれって言った」
「……うん」
「ハインも、バルトも、ノアも、ディンもそうだ。マルクだってそうだろ」
「でも」
「俺たちは、お前に勝手に童術師にされたわけじゃない」
礼は黙った。
「教えたのはお前だよ。でも覚えるって決めたのは俺たちだ」
「…………」
「だから、その後に起きることまで全部お前の責任にするな」
ランプの火が小さく揺れた。
礼はしばらく何も言えなかった。
「……じゃあ、どうすればいい?」
「何が?」
「みんなの意見が違ったら」
「別に違ってていいだろ」
「でも、何か決めなきゃいけないときは?」
リオは少し考えた。
「二十二人いるんだから、二十二人で考えればいい」
「まとまらなかったら?」
「そのときはそのときだ」
「答えになってないじゃん」
「じゃあ、まとまらなかったときに考える」
「適当だなあ」
礼が笑う。
リオも笑った。
「お前が全員の人生まで決める必要ないんだよ」
笑いが消えたあと、リオはそう言った。
「分からないことなんて、これからも出てくるだろ」
「うん」
「だったら――」
リオは最後の椅子を壁際へ押し込んだ。
「一緒に考えようぜ」
礼は少しだけ黙った。
その言葉を聞くのは、初めてではなかった。
「……うん」
机のランプを消す。
二人で訓練場を出ると、夜の空気は昼よりずっと涼しかった。
「腹減った」
リオが言った。
「俺も」
「何食う?」
「安いやつ」
「いつもじゃん」
「じゃあリオが奢ってよ」
「なんでだよ」
「誕生日、一か月早いんだから」
「もう関係ないだろ、それ」
くだらない話をしながら、二人は夜の通りを歩いていった。
店の明かりがまだ残る方へ向かって、並んで。
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