第六十一話 記録
ヴァルターがローデンのギルド長に就いてから、五日が過ぎた。
礼が警戒していたようなことは、何も起きなかった。
訓練を止められることもなければ、二十二人の誰かがギルドへ呼び出されることもない。依頼を断られた者もおらず、町で灰色の外套を見かけることもなくなっていた。
変わったことといえば、ギルド長室へ出入りする職員が増えたことくらいだった。
ヴァルターは、本当に書類を増やす人間らしい。
「また持ってきた」
昼過ぎの訓練場で、リオが呆れたように言った。
その手には、数枚の紙が握られている。
礼は木剣を下ろし、額に浮いた汗を腕で拭った。
「何?」
「ギルドから。俺たち二人にだって」
「……書類?」
「書類」
リオが嫌そうな顔をした。
「やっぱり増えたじゃん」
礼は思わず笑った。
五日前、ヴァルターの部屋を出たときに交わした会話を思い出したからだ。
「何て?」
「今日の夕方、時間が欲しいって。ヴァルターさんから」
「俺たちだけ?」
「みたいだな」
リオから紙を受け取る。
書かれていたのは面談の依頼だけだった。理由までは記されていない。
礼は紙を折り畳むと、近くの机へ置いた。
「行くしかないか」
「だな」
「何の話だろ」
「書類を増やす話じゃね?」
「やめてよ」
「当たったらどうする?」
「リオに全部書いてもらう」
「なんでだよ」
笑いながら、礼は再び木剣を構えた。
それ以上、その紙について考えることはなかった。
夕方になり、礼とリオはギルドを訪れた。
数日前と同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立つ。
まだ礼は、この部屋を見るたびに一瞬だけグレイグを思い出した。
扉の向こうから、あの低い声が聞こえてくるような気がする。
けれど、職員が扉を叩いたあとに返ってきたのは、もう聞き慣れ始めたヴァルターの声だった。
「どうぞ」
部屋へ入る。
五日前よりも書類が増えていた。
机の端には何冊もの帳簿が積まれ、棚の一部には見覚えのない書類箱まで置かれている。
リオがそれを見て、小さく礼の脇腹を肘で突いた。
礼も意味を理解した。
本当に増えている。
「お忙しいところ、すみません」
ヴァルターは二人に椅子を勧めた。
「いえ」
「今日は、お二人に相談があります」
その言葉を聞いて、礼は少しだけ姿勢を正した。
命令ではなく、相談。
ヴァルターは机の上から二枚の紙を取り、二人の前へ一枚ずつ置いた。
「今後、童術を使用した依頼について、簡単な記録を残していただきたいと考えています」
礼は紙へ目を落とした。
難しい内容ではなかった。
依頼を受けた者の名前。
依頼の内容。
童術を使用したかどうか。
使用した場合は、その状況を簡単に記すための欄。
「……これだけですか?」
「現時点では、それだけです」
礼はもう一度、紙を見る。
思っていたよりも少ない。
「どうして必要なんですか?」
リオが尋ねた。
「理由はいくつかあります」
ヴァルターは自分の前にも同じ用紙を置いた。
「一番大きいのは、事故が起きた場合の確認です。童術を使った依頼で負傷者が出たとき、何が起きたのか分からない状態を避けたい」
「今までの報告書じゃ駄目なんですか?」
「通常の依頼報告にも戦闘内容を書く欄はあります。しかし、童術については記載方法が統一されていません。そもそも書かれていない報告もあります」
ヴァルターは別の書類を開いた。
「たとえば、第二童式による負傷事故」
礼の表情が変わった。
「テオのことですか」
「はい」
ヴァルターは頷いた。
「あの件で誰かを処罰するつもりはありません。記録を読む限り、故意ではなかったことも理解しています。ただ、あの事故があったからこそ、あなた方は第二童式の訓練方法を変更したのではありませんか?」
「……変えました」
恐怖や焦りの中で、童力を一気に放出しないこと。
対人訓練では最大出力を使わないこと。
強さよりも、まず制御を身につけること。
あの事故がなければ、今の教え方にはなっていなかったかもしれない。
「事故そのものは、ない方がいい。しかし起きてしまったことを記録し、次に生かすことはできます」
ヴァルターは用紙を指先で軽く叩いた。
「私は、そのための記録が必要だと考えています」
礼は紙を見つめた。
言っていることは分かる。
むしろ、礼たち自身がずっとやってきたことに近かった。
失敗する。
記録する。
原因を考える。
次の実験で変える。
童術は、そうやって作ってきた。
「でも」
礼は顔を上げた。
「これって、童術を使った人だけですよね」
「はい」
「普通の魔法を使った人は?」
ヴァルターは一瞬黙った。
「現状では、対象にしていません」
「どうして?」
「魔法には、すでに既存の報告制度があります」
「童術にはないから、新しく作る?」
「そう考えていただいて構いません」
礼は納得しきれないまま、紙へ目を戻した。
嫌だというほどではない。
だが、自分たちだけ別の紙を書くということには、少し引っかかった。
その様子を見ていたヴァルターが口を開く。
「気になる点がありますか?」
「……誰が見るんですか、これ」
「基本的には私と、担当職員です」
「王都にも送るんですか?」
今度はヴァルターが、すぐには答えなかった。
「定期報告の中で、件数を報告する可能性はあります」
「中身は?」
「個別の内容については、現時点で送る予定はありません」
「現時点?」
礼が聞き返す。
「必要になれば、お二人と話します」
その言葉で、礼はヴァルターを見た。
「約束しましたから」
五日前。
この部屋で交わした約束だった。
礼は少しだけ肩の力を抜いた。
「……分かりました」
「礼、いいのか?」
「うん。ただ」
礼は紙を持ち上げた。
「使った童術の名前まで書く必要はないと思います」
ヴァルターが眉をわずかに動かした。
「理由を聞いても?」
「まだ俺たち自身、全部を決められてるわけじゃないからです。童式になってるものもあるけど、そこから少し変えた使い方をしてる人もいる。全部に名前があるわけじゃないし、無理に分けたら逆に分かりにくくなると思います」
「なるほど」
「事故があったなら、そのとき詳しく調べればいい。普段から全部書く必要はないと思う」
ヴァルターはしばらく用紙を見つめていた。
やがてペンを取り、項目の一つに線を引いた。
「では、ここは削りましょう」
礼は思わず目を瞬いた。
「いいんですか?」
「相談ですから」
ヴァルターは何でもないことのように答えた。
「実際に童術を扱っているのは、私ではなくあなた方です。必要のない項目なら、増やす意味はありません」
隣でリオが小さく息を吐いた。
「……本当に話し合えるんだな」
「そうしてほしいと言ったのは、お二人でしょう」
「そうですけど」
「でしたら、遠慮なく意見を言ってください。もっとも、すべて受け入れられるとは限りませんが」
「そこは分かってます」
礼は答えた。
その後も、三人でいくつかの項目を確認した。
報告は依頼を受けた者全員ではなく、代表者一名が書けばいいこと。日常の訓練は対象にしないこと。町の外で童術を使ったという理由だけで報告を求めないこと。
話し合えば、ヴァルターは理由を説明した。
礼が納得できないところを言えば、必要なら修正した。
結局、最初に置かれた紙よりも項目は少なくなった。
「では、これで一度運用してみましょう」
ヴァルターが修正された用紙を見ながら言った。
「問題があれば、また変えます」
「はい」
礼は頷いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。実際に使う側の意見がなければ、制度は作れませんから」
席を立つ。
帰り際、リオが机の上に積まれた書類へ目をやった。
「……これ以上、増やさないでくださいね」
ヴァルターが眼鏡越しにリオを見る。
「善処します」
「それ、増える奴の言い方じゃないですか」
礼が笑った。
ヴァルターも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
翌朝。
最初に新しい用紙を使うことになったのは、マルクだった。
町の北にある倉庫まで荷を運ぶ護衛依頼を受けるため、いつものように受付へ向かう。冒険者としての仕事ではなく、荷運びの経験を買われて声をかけられたものだった。
受付の女性が依頼書を確認し、マルクの名前を探す。
「あ、マルクさんですね」
「はい」
「少々お待ちください」
受付の女性は手元に置かれた新しい書類を一枚めくった。
そのまま、何気ない口調で言った。
「第三童式の基礎訓練中でしたよね。今回、使用する可能性はありますか?」
マルクは返事をしなかった。
受付の女性が顔を上げる。
「マルクさん?」
「……なんで知ってるんですか?」
「え?」
「俺が第三を練習してること」
受付の女性の表情に困惑が浮かんだ。
「こちらに記載が……」
手元の紙へ目を落とす。
「誰が書いたんです?」
「えっと……」
マルクは受付台へ少し身を乗り出した。
「俺、ここでそんな話したことないですよ」
周囲にいた冒険者たちが、何事かとこちらを見る。
受付の女性は慌てて声を落とした。
「少しお待ちください。確認しますので」
奥へ職員が走っていく。
やがて戻ってきたのは、別の職員だった。
手には一冊の薄い帳簿を持っている。
「申し訳ありません。こちらは新しい管理資料に記載されていた情報でして」
「新しい?」
「はい。ギルド長の着任に伴って、王都から送られてきたものです」
マルクの表情が消えた。
「……王都?」
その日の昼。
話を聞いた礼とリオは、再びギルドを訪れた。
ヴァルターは、問題の資料を机の上に置いた。
「これです」
礼は紙を受け取った。
そこには、いくつもの名前が並んでいた。
最初に自分の名前を見つける。
如月礼。
その下にはリオ。
バルト。
ハイン。
ノア。
ディン。
見覚えのある名前が続いていく。
「……これ」
リオが横から覗き込んだ。
礼は何も言わず、紙を下へ送った。
最後まで見る。
二十二人。
全員いた。
そして、一番下。
マルクの名前の横には短い記述がある。
『第三童式――基礎訓練中』
「ヴァルターさん」
礼は顔を上げた。
「王都は、俺たちが二十二人いるって知ってたんですか」
「はい」
ヴァルターは否定しなかった。
「少なくとも、私がローデンへ来る前には」
「グレイグさんから聞いたんですか?」
「いいえ」
即答だった。
「グレイグ氏は、最後まで正式な名簿の提出を拒否しています」
部屋の中が静かになった。
「じゃあ」
リオの声が低くなる。
「なんで王都が持ってるんですか」
「私にも分かりません」
ヴァルターは机の上の資料へ視線を落とした。
「この資料が、どのような調査によって作成されたものなのか。そこまでは私にも知らされていません」
「でも、持ってた」
「はい」
「二十二人全員を」
「はい」
礼はもう一度、紙を見る。
マルク。
第三童式。
基礎訓練中。
名簿が盗まれたから、知られた。
そう考えていた。
だが、それでは合わない。
「……これ、いつ作られたものですか」
礼が尋ねた。
ヴァルターは紙の上部へ目を向けた。
そこに記された日付を確認する。
そして、答えた。
「グレイグ氏が亡くなる――四日前です」
礼の指が止まった。
グレイグが死んだ夜。
壊された引き出し。
なくなっていた名簿。
だが、その四日前にはもう、王都は二十二人を知っていた。
「じゃあ……」
リオも同じことに気づいたらしい。
礼は何も言わなかった。
分からない。
まだ、分からない。
ただ一つだけ。
ずっと頭の中で結びついていた二つの出来事が、そこで初めて離れた。
王都が二十二人を知ったこと。
そして――グレイグの部屋から、名簿が持ち去られたこと。
同じ理由だと思っていた。
けれど、そうではないのかもしれない。
礼は紙の最後に書かれたマルクの名前を見つめた。
では。
あの名簿は、何のために持ち去られたのだろう。
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