第五十九話 残されたもの
引き出しの中には、何もなかった。
礼はしばらく、その空白を見つめていた。
二十二人分の名前が記された紙束。誰がいつ童力を感じ、いつから訓練を始めたのか。冒険者である者も、そうでない者も含めて、グレイグが保管していた名簿。
昨日まで、確かにここにあったはずのもの。
それだけが、消えている。
「……礼」
背後から呼ばれて、礼はゆっくりと振り返った。
リオが立っていた。その視線は礼ではなく、開かれた引き出しへ向いている。
「ない」
「……ああ」
「名簿が、ない」
もう一度口にしても、状況は変わらなかった。
壊された錠。開いた引き出し。空になった内部。
リオが部屋の中を見回す。
棚には書類が残っている。机の端には小さな金庫があり、職員が確認したところ、中の金も手をつけられていなかった。壁に掛けられた装飾品も、そのままだ。
荒らされた形跡はほとんどない。
なのに、名簿だけがない。
「……盗まれたってことか」
「たぶん」
「誰に」
礼は答えられなかった。
昨日、この部屋にいた三人の顔が浮かんだ。
王都から来たという者たち。
二十二人の登録。
研究記録の提出。
指導者資格。
そして、童術を管理するための新しい規則。
彼らは名簿を求めていた。
グレイグは拒んだ。
その日の夜に、グレイグは死んだ。
そして名簿は消えている。
考えたくなくても、線は簡単に繋がった。
「……昨日の連中か?」
リオも同じことを考えたらしい。
礼は少しだけ迷ってから、首を振った。
「分からない」
「でも――」
「分からないよ」
思ったより強い声が出た。
リオが口を閉じる。
「昨日来た人たちが名簿を欲しがってたのは本当だ。でも、だからってあの人たちがグレイグさんを殺したって決まったわけじゃない」
「……そうだな」
「証拠もない」
自分に言い聞かせるように、礼は言った。
分からないものを、分かったことにしてはいけない。
それは童術を研究するとき、何度も繰り返してきたことだった。原因が分からなければ分からないと書く。仮説と事実を混ぜない。
人の死についてなら、なおさらだった。
けれど。
礼は開いたままの引き出しから視線を外した。
床には、グレイグが横たわっていた。
今はもう布が掛けられている。
昨夜まで、この部屋の椅子に座っていた男だった。
何度もここへ呼ばれた。
教える人数が増えたとき。
ギルドへ報告するよう求められたとき。
エルンに教えることを止められたとき。
テオが人の腕を折ったとき。
何度も話した。
何度も意見が食い違った。
腹が立ったこともあった。
どうして分かってくれないのかと思った。
自分たちを信用していないのではないかと、疑った。
昨日、ようやく分かったばかりだった。
グレイグは自分たちを止めていた。
同時に、自分たちの前に立っていた。
外から来るものを、半年もの間、一人で止めていた。
『これからは、俺にも話してください』
『全部は無理だ』
『……必要なことは話す』
『約束してください』
少し困ったような顔をして。
最後には、グレイグは頷いた。
『分かった。約束する』
「……昨日だったのに」
声が漏れた。
「え?」
「昨日、約束したばっかりだった」
返事はなかった。
リオも床を見ていた。
礼は布の下にあるグレイグの顔を見ることができなかった。
昨日、普通に話した。
明日も話せると思っていた。
まだ聞きたいことがあった。
半年間、何を断っていたのか。
誰が童術を調べていたのか。
灰色の外套の男について何を知っていたのか。
どうして昨日、部屋を出る直前に自分を呼び止めたのか。
『礼』
そう呼んで。
『いや……何でもない』
あのとき、何を言おうとしたのか。
もう、聞けない。
「……礼」
リオの声は静かだった。
「うん」
「出よう」
礼はすぐには動かなかった。
机の上に、一枚の紙が残されている。
グレイグが昨夜まで書いていた記録だった。
几帳面な字が並んでいる。
『名簿の提出要求。拒否』
『研究記録の提出要求。拒否』
『如月礼との面談要求。拒否』
その下は、まだ白かった。
続きを書くつもりだったのかもしれない。
礼は紙に触れなかった。
「……行こう」
「ああ」
二人で部屋を出た。
その日の訓練は中止になった。
誰かが決めたわけではない。
ただ、誰も始めようとしなかった。
いつもの時間になると何人かが訓練場へ来て、いつもの場所に座った。バルトも、ハインも、ノアも、ディンもいた。エルンはパン屋の仕事を終えてから来た。マルクも少し遅れて姿を見せた。
けれど、木剣を握る者はいなかった。
「……本当なのか」
最初に聞いたのはバルトだった。
いつもなら大きすぎるほどの声が、今日は妙に小さかった。
礼は頷いた。
「うん」
「ギルド長が……死んだって」
「うん」
「昨日までいただろ」
「……いたよ」
それ以上、バルトは何も言わなかった。
腰を下ろし、地面を見た。
エルンが礼の近くへ来る。
「先生」
「うん」
「……俺たちの名前が書いてある紙も、なくなったって」
礼はエルンを見た。
もう話が伝わっているらしい。
「そうみたい」
「誰かが持ってるってこと?」
「分からない」
「でも、なくなったんだよね」
「うん」
エルンは何かを言おうとして、やめた。
まだ十代の少年の顔に、不安が浮かんでいる。
礼は周囲を見た。
二十二人。
ここに全員がいるわけではない。仕事や依頼で来られない者もいる。
それでも、一人一人の顔が分かる。
名前も分かる。
どこで働いているのかも。
誰が何を得意としているのかも。
誰が家族と暮らしているのかも。
自分たちにとっては仲間だった。
けれど今、その名前を誰かが持っている。
誰なのか分からない誰かが。
礼は訓練場の外へ目を向けた。
通りを人が歩いている。
荷物を運ぶ男。
買い物帰りらしい女。
冒険者らしい三人組。
こちらを見ている者はいない。
――本当に?
そんな考えが浮かんだ自分に気づいて、礼は目を伏せた。
「礼」
隣にいたリオが呼んだ。
「……何?」
「今日はやめよう」
「うん」
「明日も、無理にやる必要はない」
「分かってる」
返事をすると、リオは少しだけ礼の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
グレイグの葬儀は、二日後に行われた。
思っていたよりも、多くの人が来た。
ギルドの職員だけではなかった。
冒険者。
商人。
宿屋の主人。
武器屋の職人。
礼が名前を知らない者も大勢いた。
受付の前にいつも立っていた職員が、目を真っ赤にしていた。
「昔、私が入ったばかりのころ、一度大きな間違いをしたんです」
誰に話しているというわけでもなく、彼女は言った。
「依頼の危険度を間違えて……新人の人たちを危ない場所へ行かせそうになって。ギルド長に、ものすごく怒られました」
泣きながら、少しだけ笑った。
「辞めさせられると思いました。でも、次の日には普通に仕事を渡されて。『同じ間違いをしなければいい』って」
別の冒険者は、若いころ無茶な依頼を受けようとして殴られたと言った。
ある商人は、依頼料を巡って三日間グレイグと喧嘩したらしい。
「頑固な野郎だった」
そう言いながら、その商人はずっと俯いていた。
礼の知らないグレイグの話が、いくつも出てきた。
自分たちが童術を始めるよりも前から、この町にいた。
当然のことだった。
それなのに礼は、グレイグといえば、自分たちを止める男だと思っていた時期がある。
「……知らなかったな」
礼が呟くと、隣に立っていたリオが小さく頷いた。
「俺たちが知ってたのなんて、一部分だったんだろ」
「うん」
棺が運ばれていく。
その後ろを、人々が歩いていった。
礼たちも続いた。
ハインがいる。
ノアがいる。
ディンがいる。
バルトがいる。
エルンがいる。
マルクがいる。
ほかの童術師たちもいる。
ふと、礼は人数を数えそうになった。
そこでやめた。
胸の奥が気持ち悪くなった。
昨日までなら、二十二という数字は嬉しかった。
最初は自分一人だった。
次にリオが来た。
少しずつ増えた。
自分以外にも童力を感じる者がいると分かるたび、嬉しかった。
今は、その数字が怖い。
二十二人。
誰かが知っている。
名前まで知っている。
葬列の向こうにいる人々へ、礼は何度も視線を向けた。
誰も怪しくは見えなかった。
だからこそ、分からなかった。
「礼」
リオが小さく呼んだ。
「前、見ろ」
「……うん」
礼は視線を戻した。
グレイグの棺が、少しずつ遠ざかっていった。
葬儀が終わるころには、空が赤く染まり始めていた。
礼とリオは、まっすぐ宿へ戻らなかった。
気づけば二人とも、訓練場へ向かっていた。
誰もいない。
夕暮れの風だけが、開いた窓から入り込んでいた。
机の上には、いつもの紙がある。
第一童式《童駆》。
第二童式《童撃》。
第三童式《童衣》。
第四童式《童閃》。
第五童式《童貞破》。
第六童式《童癒》。
書き足された注意事項。
訓練方法。
失敗した例。
六枚だけでは足りなくなり、紙は何枚も重ねられている。
その隣に、一枚だけ何も書かれていない紙があった。
リオが置いたものだ。
七番目の場所。
「……やるか?」
リオが聞いた。
礼は白い紙を見た。
数日前なら、すぐに頷いていたと思う。
剣を出す。
消えるまでの時間を測る。
形を変える。
重さを比べる。
失敗する。
また試す。
分からなければ、一緒に考える。
「……今日はいい」
「そっか」
「うん」
リオも、それ以上は言わなかった。
二人でしばらく机の前に立っていた。
窓から吹き込んだ風が、白紙の端を持ち上げる。
ぱた、と小さな音を立てて戻った。
「帰ろう」
礼が言った。
「ああ」
リオが先に歩き出す。
礼もその後を追おうとしたとき、入口から声がした。
「如月さん。リオさん」
ギルドの職員だった。
葬儀にもいた男で、まだ黒い上着を着たままだった。
「すみません。少し、お時間よろしいでしょうか」
礼とリオは顔を見合わせた。
「はい」
男は部屋へ入り、扉を閉めた。
「先ほど、王都から連絡が届きました」
その言葉だけで、礼の足が止まった。
「王都から?」
「はい」
職員は頷いた。
「グレイグさんが亡くなられたことで、支部長の席が空きました。しばらくは代理を立てるものと思っていたのですが……」
言いにくそうに、そこで一度言葉を切った。
「後任の支部長が、こちらへ派遣されるそうです」
「もう決まったんですか?」
リオが聞いた。
「……はい」
「グレイグさんが亡くなって、まだ二日ですよ」
「私も驚いています」
職員はそう答えたあと、わずかに声を落とした。
「到着は三日後の予定です」
「三日……」
礼は呟いた。
グレイグが死んでから、五日。
それだけで、新しいギルド長が来る。
「誰が来るんですか」
礼が尋ねる。
職員は手にしていた書面へ目を落とした。
「王都中央ギルドから派遣される方です」
そして、その名を読み上げた。
「――ヴァルター・クロイツ」
知らない名前だった。
リオを見る。
リオも首を横に振った。
「その人が、新しいギルド長……」
「はい」
職員は書面を畳んだ。
「詳しいことは、私たちにもまだ知らされていません。ただ――」
少しだけ迷ってから、続ける。
「着任後、最初に如月さんとリオさんに会いたいとのことです」
礼は何も答えなかった。
机の上で、また紙が揺れた。
六つの童式が書かれた記録。
その隣に置かれた、何も書かれていない七枚目。
夕暮れの風が止むと、白紙は静かに机の上へ戻った。
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