第五十八話 約束
六日後。
礼はいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、通りを歩く人の気配もほとんどない。目を閉じ直してみたものの、眠気は戻ってこなかった。
仕方なく身体を起こし、枕元に置いていた水を飲む。
今日、会う。
半年間、自分たちのことを調べていた者たちに。
名前も知らない。何を目的にしているのかも、まだ詳しくは聞かされていない。
そのことを考えていたら、結局いつもの時間よりずいぶん早く宿を出ることになった。
朝のローデンは静かだった。
昨夜の酒場から出された樽が道端に積まれ、店を開ける準備をしている商人が一人、眠そうな顔で荷物を運んでいる。
礼は訓練場へ向かった。
どうせリオはまだ来ていない。
そう思っていた。
「早いな」
「……なんでいるの?」
いた。
訓練場の隅に置かれた机で、リオが紙を読んでいる。
「お前こそ」
「寝れなかった」
「俺も」
「同じじゃん」
「そうだな」
礼はリオの向かいへ座った。
机の上には、今日の会談とは何の関係もない武器形成の記録が広げられていた。
「朝からそれ見てたの?」
「暇だったから」
「俺が来なかったら?」
「槍の形成でも試させようと思ってた」
「誰に?」
「来た奴」
「まだ俺しかできないだろ」
「だからお前を待ってたんだよ」
「結局待ってたんじゃん」
リオが笑う。
礼も少しだけ笑った。
それだけで、朝から胸の中にあった硬いものが少し緩んだ。
「緊張してる?」
リオが聞いた。
「ちょっと」
「俺も」
「何話せばいいんだろ」
「向こうが会いたいって言ったんだ。まず向こうに喋らせればいいだろ」
「変なこと言われたら?」
「そのとき考える」
「いつもそれだね」
「三年も一緒にやってんだから、今さらだろ」
礼は頷いた。
窓から入った朝の風が、壁に並んだ紙を揺らす。
六枚の《童式》。
その隣に残された、名前のない一枚。
礼はそれをしばらく眺めてから立ち上がった。
「行こうか」
「ああ」
◇
ギルド長室には、礼の知らない三人がいた。
男が二人と、女が一人。
いずれも冒険者には見えなかった。
武器を携えてはいるものの、装備は旅をする者のそれとは違う。濃紺の外套は三人とも同じ形で、胸元には礼の知らない紋章が留められていた。
グレイグは自分の机には座らず、部屋の中央に用意された長机の端にいた。
「来たか」
「はい」
「座れ」
礼とリオは並んで腰を下ろした。
向かい側に三人。
グレイグはその中間だった。
礼はそれを見てから、正面に座る男へ目を向けた。
四十代くらいだろうか。
整えられた髪には少し白いものが混じっている。細身で、声を荒らげるような人物には見えなかった。
「如月礼殿ですね」
「はい」
「そして、リオ殿」
「そうです」
男は穏やかに頭を下げた。
「お会いできたことを嬉しく思います。私は王都にて、魔術およびそれに類する特殊技術の調査に携わっております」
男は名乗った。
続いて隣の二人も名乗ったが、礼は一度で覚えられなかった。
男の口調は柔らかかった。
半年間、自分たちを数えていた者と会う。
もっと嫌な相手を想像していた礼は、少しだけ拍子抜けした。
「まず最初に、一つ誤解を解いておきたい」
男は両手を机の上に置いた。
「我々は、童術を禁ずるためにローデンへ来たわけではありません」
礼は隣のリオを見た。
リオも僅かに眉を上げている。
「……じゃあ、何のために?」
「むしろ逆です」
男は微笑んだ。
「非常に有用な技術であると考えております」
礼は黙って続きを待った。
「身体能力の強化、武器への応用、治癒。そして、大型魔物を討伐し得る攻撃能力。既存の魔術とは異なる体系を持ちながら、複数の者が習得できる。報告が正しければ、これは近年発見された技術の中でも極めて重要なものです」
否定されなかった。
気味が悪いとも、危険な力だとも言われなかった。
礼は少しだけ肩の力を抜いた。
「だからこそ」
男が続けた。
「適切な管理が必要だと、我々は考えています」
礼の肩に、再び力が入った。
「管理?」
「はい」
隣に座っていた女が書類を数枚、机の中央へ置いた。
「現状、童術の習得者は二十二名。習得を希望している者が、確認できているだけで六名」
礼は書類を見た。
「六人のことも知ってるんですか」
「把握しております」
「どうやって?」
「必要な調査の範囲内です」
それ以上の説明はなかった。
礼の隣で、リオが僅かに身体を動かした。
「続けても?」
男が尋ねる。
「……はい」
「我々が提案するのは、童術を正式な技術体系として扱うための制度です」
男は一枚目の書類を礼の方へ向けた。
「習得者の登録。新規習得希望者への適性確認。指導内容の記録。そして、一定以上の童術を使用した際の報告」
「一定以上って?」
「たとえば、あなた方が《童貞破》と呼んでいるものです」
礼は思わず男の顔を見た。
名前まで知っている。
「……そこまで調べてるんですね」
「危険性を判断するためには必要です」
言い方は穏やかだった。
内容だけを聞けば、理解できない話ではない。
テオが人の腕を折ったこともある。
《童貞破》なら大型魔物を倒せる。
自分たちだって、危険だからこそ《童式》を作った。
「登録したら、どうなるんですか?」
礼が聞いた。
「基本的には今までと変わりません。一定の規則に従っていただくことになりますが、童術の使用そのものを制限する意図はありません」
「訓練も?」
「認可された施設であれば」
礼は一瞬、言葉を止めた。
「……認可?」
「はい」
「俺たちの訓練場は?」
「現時点では認可施設ではありません」
「じゃあ、認可してもらえばいいんですか」
「設備、人員、指導者の資格などを確認した上で判断します」
礼は男を見た。
「指導者の資格?」
「童術を他者へ教授する者には、当然必要となります」
礼は隣を見た。
リオも男を見ていた。
「俺たちは?」
リオが尋ねた。
「現状では、資格を有していません」
礼は聞き間違えたのかと思った。
「……俺も?」
「はい」
「俺が作ったんですけど」
「承知しております」
「リオと二人で《童式》も作りました」
「それも承知しております」
「じゃあ――」
「技術を生み出したことと、それを不特定多数へ安全に教授する資格を持つことは、別の問題です」
男の声は変わらない。
責めるような調子でもなかった。
だからこそ、礼には返す言葉がすぐに出てこなかった。
理屈だけなら分かる。
分かるのに、何かがおかしい。
「その資格って」
礼は机の上の書類を見た。
「誰が決めるんですか」
「我々です」
短い答えだった。
礼は顔を上げた。
「どうして?」
「礼」
グレイグの声がした。
礼はそちらを見る。
グレイグは相手ではなく、礼を見ていた。
「最後まで聞け」
「……はい」
礼は座り直した。
男は礼の反応を気にした様子もなく、次の書類を前へ出した。
「童術の研究についても同様です。今後の安全性を確保するため、これまでの研究記録を共有していただきたい」
「ノートを渡せってことですか?」
「原本である必要はありません。複写でも構いません」
「全部?」
「可能な限り」
礼の頭に、自分のノートが浮かんだ。
初めて童力を感じた日の記録。
リオに教え始めた頃の失敗。
治癒。
障壁。
圧縮。
黒い影。
そして今も続けている、武器形成の研究。
「それは……」
「認められない」
礼が答えるより先に、グレイグが言った。
部屋の空気が変わった。
正面の男が初めてグレイグを見る。
「ギルド長」
「その条件では認められん」
「すでに書簡でもご説明したはずですが」
「だから何度も断った」
礼はグレイグを見た。
男は小さく息を吐いた。
「我々は如月礼殿から技術を奪おうとしているわけではありません」
「なら、必要な範囲を示せ。研究記録のすべてなどという要求を誰が飲む」
「未知の技術なのです。どこが必要で、どこが不要かを判断するためにも――」
「判断するのはお前たちか?」
「それが我々の役目です」
「なら俺の役目は、ここに所属する人間を守ることだ」
男の表情から、僅かに笑みが消えた。
「ギルド長。あなたは今後も、管理されていない異能集団を保護するおつもりですか」
「言葉を選べ」
グレイグの声が低くなった。
「こいつらは犯罪者じゃない」
礼は何も言えなかった。
半年間。
何度もグレイグと話した。
止められた。
待てと言われた。
教えるなと言われた。
自分たちのことを何も話してくれないことに腹を立てた。
その間。
この人は、ここで同じような話をしていたのか。
「ですが、実際に傷害も発生している」
「その件はギルドで処理した」
「次も同程度で済む保証は?」
「ない」
「ならば――」
「だから俺たちは規則を作った」
今度はリオだった。
男の視線がリオへ移る。
「《童式》もそうです。強くするためだけじゃない。誰が教えても危険な使い方にならないように、俺たちなりに考えて作った」
「その努力を否定してはいません」
「じゃあ、俺たちが作ったものも見た上で決めてください」
リオは真っ直ぐ男を見た。
「最初から全部そっちで決めるんじゃなくて」
しばらく誰も話さなかった。
窓の外から、通りを走る荷車の音が聞こえた。
やがて男は書類を揃えた。
「本日、結論をいただくつもりはありません」
礼は男を見る。
「我々も、あなた方と争いたいわけではない」
「……俺たちもです」
「であれば、互いに検討する時間を設けましょう」
男は立ち上がった。
隣の二人も続く。
「ただし」
男は最後にグレイグを見た。
「次回も、今日と同じ条件でお話しできるとは限りません」
「脅しか」
「事実を申し上げただけです」
グレイグは答えなかった。
三人は礼とリオにも一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
足音が廊下の向こうへ消えていくまで、誰も話さなかった。
◇
「……グレイグさん」
最初に口を開いたのは礼だった。
「何だ」
「ずっと、あれを断ってたんですか」
グレイグは机の上に残された書類を集めていた。
「必要のない要求はな」
「半年間?」
「そうだ」
「名簿も?」
「渡していない」
「研究記録も?」
「渡していない」
「俺に会わせろっていうのも?」
グレイグの手が止まった。
「断った」
礼は俯いた。
「……そうだったんだ」
「何だ」
「俺」
言いづらかった。
それでも、言わなければならない気がした。
「グレイグさんが、俺たちを止めようとしてるんだと思ってました」
「止めていたぞ」
礼は顔を上げた。
「どっちなんですか」
「両方だ」
「えぇ……」
思わず変な声が出た。
隣でリオが吹き出す。
グレイグも、ほんの僅かに口元を緩めた。
「お前たちを好き勝手にさせるつもりはない。危険なら止める。問題が起きれば責任も取らせる」
「はい」
「だが」
グレイグは礼を見る。
「それと、外の人間にお前たちを好き勝手にさせることは別だ」
礼は黙って聞いた。
「礼。俺はお前を疑っているわけじゃない」
以前にも似たことを言われた気がした。
「お前一人を信用することと、お前が作った力がこれからどう使われるかは別の話だからだ」
「……はい」
「だから必要なら止める。それは変わらん」
「はい」
「不満か」
「不満です」
「そうか」
「でも」
礼は少し考えた。
「前よりは、分かります」
グレイグが礼を見る。
「ちょっとだけですけど」
「十分だ」
その言葉が妙に嬉しかった。
礼は机の上の書類へ目を向けた。
「でも、なんで教えてくれなかったんですか」
「教えたら、お前はどうした」
「どうって……」
「相手のところへ行っただろう」
礼は口を閉じた。
「行かないのか」
「……行ったかもしれません」
「行ったな」
「多分」
「絶対行った」
リオまで横から言った。
「なんでリオまで」
「俺も止めながら一緒に行ったと思う」
「じゃあ同じじゃん」
「だから教えなかった」
グレイグが深く息を吐いた。
「お前は何か起きれば自分で何とかしようとする。半年経って少しはマシになったが、それでも変わっていない」
「……気をつけます」
「それを何度聞いたと思ってる」
「俺、そんなに言いました?」
「言ってる」
リオが即答した。
礼は何も言えなくなった。
しばらくして、三人とも笑った。
大きな笑いではなかった。
けれど礼には、グレイグとこんなふうに話したのがずいぶん久しぶりに感じられた。
「グレイグさん」
「何だ」
「これからは、俺にも話してください」
「全部は無理だ」
「またそれですか」
「立場がある」
「じゃあ、俺たちに関係することだけでも」
グレイグは少し考えた。
「必要なことは話す」
「本当に?」
「ああ」
「約束してください」
「善処する」
「それ約束じゃないですよ」
「面倒な奴だな」
「半年待ったんですから、それくらい」
グレイグは礼を見た。
やがて、諦めたように息を吐く。
「分かった」
「約束?」
「ああ」
グレイグは頷いた。
「約束する」
礼は笑った。
「じゃあ、俺も勝手なことしないようにします」
「それも約束しろ」
「……できるだけ」
「お前も善処じゃないか」
「そこは似た者同士ってことで」
「一緒にするな」
リオが笑った。
礼も笑う。
グレイグは呆れた顔をしていた。
◇
ギルドを出ると、日はまだ高かった。
礼は大きく息を吸った。
「なんか疲れた」
「俺も」
隣を歩くリオが肩を回す。
「でも、話せてよかったな」
「うん」
「グレイグさんとも」
「……うん」
礼は少し後ろを振り返った。
ギルドの建物が見える。
「俺、結構疑ってたかも」
「知ってる」
「分かってたって言おうと思ったのに」
「無理あるだろ」
「ちょっとくらい格好つけさせてよ」
「三年一緒にいる相手に?」
「三年一緒にいるからだよ」
「意味分かんねえ」
二人で笑った。
「訓練場戻る?」
「戻る。午前中何もできなかったし」
「武器形成は?」
「今日はやめとく」
「珍しいな」
「疲れた」
「成長したな」
「二十一だからね」
「四日前から急に大人になったのか」
「そういうこと」
くだらない話をしながら歩いた。
通りにはいつものローデンがあった。
露店。
冒険者。
買い物帰りの住人。
走り回る子供。
半年間、少しずつ窮屈になっていた胸の奥が、今日は少しだけ軽かった。
まだ何も解決していない。
新しく童術を教えることもできない。
今日の相手が要求を取り下げたわけでもない。
それでも、話せた。
グレイグとも。
外から来た者たちとも。
だったら、まだ考えられる。
礼はそう思った。
◇
夜。
ギルドの窓から漏れていた灯りが、一つずつ消えていった。
最後の職員が帰ったあとも、グレイグは一人でギルド長室に残っていた。
机の上には、昼間の会談で使われた書類が広げられている。
グレイグは一枚ずつ目を通しながら、別の紙へ記録を書き加えていた。
童術使用者の登録。
指導資格。
研究記録の提出。
如月礼本人への調査協力要請。
どれも、これまで書簡で届いていた内容と大きくは変わらない。
だが、今日の会談で一つだけ確認できた。
相手は諦めていない。
グレイグは筆を止めた。
昼間の礼の顔を思い出す。
『約束してください』
「……まったく」
小さく息を吐いた。
少し前までなら、あの少年に何かを知らせること自体が危険だと思っていた。
知れば動く。
動けば、自分で何とかしようとする。
それは今も変わっていない。
それでも、いつまでも何も知らない子供として扱うわけにはいかない。
二十二人。
すでに礼一人の問題ではなかった。
グレイグは新しい紙を取り出した。
これまで外部から届いた書簡の日付と、その内容を書き出していく。
名簿の提出要求。
拒否。
研究記録の提出要求。
拒否。
如月礼との面談要求。
拒否。
途中まで書いたところで、グレイグは手を止めた。
「……明日でいいか」
珍しく、そんな言葉が口から出た。
筆を置く。
椅子から立ち上がろうとした、そのときだった。
コン。
グレイグの動きが止まった。
扉を見る。
こんな時間に職員が残っているはずはない。
「誰だ」
返事はなかった。
数秒待つ。
何も聞こえない。
聞き間違いかと思ったとき、もう一度。
コン、コン。
今度は、はっきり聞こえた。
グレイグはゆっくり立ち上がった。
腰へ手を伸ばす。
机を回り込み、扉へ近づく。
「誰だ」
返事はない。
扉の前で足を止める。
グレイグは取っ手へ手を伸ばした。
◇
翌朝。
「だから、昨日やらなかったんだから今日はやるぞ」
「分かってるよ」
礼は訓練場でリオと向かい合っていた。
右手には、童力で作った短剣がある。
昨日の会談のせいで武器形成の研究を休んだため、朝からリオに捕まっていた。
「十五秒」
「昨日と同じじゃん」
「昨日は剣。今日は短剣」
「短剣ならもっと早くないと駄目か」
「そういうこと」
「厳しいなあ」
「二十一歳だからな」
「関係ある?」
「大人なんだろ」
「昨日の話まだ引っ張るの?」
リオが笑った。
礼も笑いながら短剣を消す。
「もう一回」
「休憩は?」
「今の一回しかやってないだろ」
「昨日疲れたから」
「それ昨日だろ」
礼が右手を上げたときだった。
「礼さん!」
声がした。
二人が振り返る。
ギルドの職員が走ってきていた。
礼も知っている男だった。
何度も訓練場へ連絡を持ってきたことがある。
だが、今日は様子が違った。
走っているからではない。
顔が青ざめていた。
「どうしたんですか?」
礼が尋ねる。
男はすぐには答えられなかった。
膝に手をつき、息を整えようとしている。
「ギルド……」
「ギルド?」
「来てください」
礼とリオが顔を見合わせた。
「何かあったんですか?」
「ギルド長が……」
男の声が震えた。
礼の胸の奥で、何かがざわついた。
「グレイグさん?」
「とにかく……来てください」
礼はもう聞かなかった。
走った。
◇
ギルドの前に人が集まっていた。
礼はその間を抜ける。
「すみません、通してください」
「礼!」
後ろからリオも来ている。
建物へ入ると、いつもと空気が違った。
職員たちが声を潜めて話している。
礼を見た者が、何か言おうとして口を閉じる。
誰も止めなかった。
階段を上がる。
何度も歩いた廊下。
昨日も歩いた。
その先にあるギルド長室の扉が、開いていた。
「グレイグさん?」
礼は中へ入った。
机が見えた。
椅子が倒れている。
その横に、人がいた。
最初、何を見ているのか分からなかった。
グレイグだった。
床に倒れている。
「……グレイグさん?」
返事がない。
礼は近づいた。
一歩。
もう一歩。
「グレイグさん」
背後から来たリオが、入口で足を止めた。
「礼」
低い声だった。
礼は聞かなかった。
グレイグのそばへしゃがむ。
肩へ手を伸ばしかけた。
「触るな」
部屋にいた職員の一人が言った。
「今、衛兵を呼んでる。何も動かさないでくれ」
「……何で寝てるんですか」
誰も答えなかった。
「グレイグさん」
礼はもう一度呼んだ。
昨日は普通に話していた。
呆れた顔をしていた。
一緒に笑った。
『約束する』
そう言った。
「……昨日」
声がうまく出なかった。
「昨日、約束したじゃないですか」
グレイグは動かなかった。
礼は床を見た。
血はほとんど見えない。
部屋も荒れていなかった。
机の上には書類が残っている。
金庫にも手をつけられた形跡はないという。
礼はゆっくり立ち上がった。
机の上に、昨夜書いていたらしい紙がある。
途中で文字が途切れていた。
名簿の提出要求――拒否。
研究記録の提出要求――拒否。
如月礼との面談要求――。
そこから先は、書かれていなかった。
「……これ」
礼は紙を見た。
そのとき、机の横にある引き出しが目に入った。
以前、グレイグが何度も鍵をかけていた場所。
二十二人の名簿をしまっていた場所だった。
鍵が壊れていた。
「リオ」
礼が呼ぶ。
返事はない。
礼は引き出しへ手をかけた。
ゆっくり開く。
中には、何もなかった。
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