第五十七話 春風の向こう側
春の匂いがするようになった。
訓練場を囲む木々にはいつの間にか若い葉がつき、朝の冷たい風にも、冬の頃のような刺すような痛みはない。厚手の上着を着て来る者もほとんどいなくなり、日が高くなる頃には、訓練を終えた者たちが額の汗を拭っていた。
礼は訓練場の端で右手を開いた。
息を吸い、ゆっくりと吐く。
身体の奥を巡っていた童力を右腕へ集め、そのまま掌の外へ押し出した。以前なら、そこで流れが散っていた。無理に留めようとすれば形が歪み、せっかく刃らしきものが生まれても、握る前に消えてしまうことさえあった。
今は、もう少し先まで進める。
掌の中に硬い感触が生まれた。
まず柄が形を持ち、その上に鍔が広がる。そこから伸びていく刃を意識しながら、礼は流れ込む童力を一定に保った。
やがて右手の中に、一本の剣が収まった。
「……よし」
礼は慎重に持ち上げた。
刃は真っ直ぐだった。鍔も左右で揃っている。柄を握った感触にも、以前のような妙な違和感はない。
軽く振ってみると、刃が風を切った。
「十五秒」
後ろからリオの声がした。
振り返ると、机に肘をついたリオが紙へ何かを書き込んでいる。
「昨日は?」
「十七秒」
「二秒かあ」
「二秒縮んだ、だろ」
「十五秒もかかってるとも言えるよ」
「じゃあ半年後には十三秒だな」
「遅すぎるよ」
礼が笑うと、リオも口元を緩めた。
「維持は?」
「まだいける。これくらいなら、動きながらでも使えそう」
「消費は?」
「前より少ないと思う。普通の剣なら、わざわざ作るより持っていった方が楽だけど」
「それ言ったら研究終わるぞ」
「終わらせないよ」
礼は剣を眺めた。
あの日、旧採掘場で初めて現れたものより、ずっと剣らしい。
形を思い浮かべるだけでは足りないことも分かってきた。重さや長さ、握ったときの感触まで、どれだけ具体的に知っているかで出来上がりが変わる。何度も使ったことのある剣なら形にしやすいが、見ただけの武器は途端に難しくなった。
弓を試したこともある。
見た目だけなら、それらしいものができた。
けれど弦を引いた瞬間、中央から折れた。
そのときリオは腹を抱えて笑っていた。
「次、槍な」
「盾じゃ駄目?」
「昨日も盾やっただろ」
「盾は上手いんだよ」
「だから槍なんだよ」
礼は小さく息を吐き、剣への童力を止めた。
刃の先から輪郭が薄れていく。
最後には柄まで消え、何も握っていない右手だけが残った。
初めて見た者なら驚いただろう。
今では、近くで訓練している者の誰も振り返らない。
「第一からだ! いきなり第二へ繋げるな!」
ハインの声が飛んだ。
少し離れた場所で、マルクが《童駆》の勢いを殺しきれずに土を蹴り上げている。
「今のはいけると思ったんだよ!」
「昨日も同じこと言ってただろ!」
「昨日よりはいけると思った!」
「何も進歩してねえじゃねえか!」
周囲から笑いが起こった。
マルク自身も笑っている。
少し前まで基礎循環だけで苦労していた男が、今では《童駆》を使って訓練場を駆けていた。まだ速度を上げすぎる癖はあるものの、仕事で鍛えた足腰のおかげか、《童衣》の習得も悪くないらしい。
その隣では、エルンが一人の男の背中へ手を添えていた。
「そこじゃなくて、もうちょっと下。そう。それで一回止めて」
「ここか?」
「うん。たぶん流しすぎてる」
教わっている男も、礼の知っている顔だった。
礼が口を出す必要はなさそうだった。
以前なら、訓練場のどこかで誰かが躓けば、自然と自分の足がそちらへ向かっていた。今は、礼が動くより先に誰かが教えている。
ハインがマルクを叱り、エルンが循環を教え、ノアとディンは訓練内容について何やら相談している。
礼が来る前から訓練が始まっている日さえあった。
それを見るたび、少し不思議な気分になる。
寂しくないと言えば嘘になるのかもしれない。
けれど、それ以上に嬉しかった。
「礼」
「ん?」
「槍」
「あ」
「見てただろ」
「ちょっとだけ」
「集中しろ、先生」
「その呼び方やめてよ」
礼は笑いながら右手を開いた。
その向こうで、見慣れた顔たちが動いている。
半年経った。
変わったことはたくさんある。
ただ、訓練場にいる顔の数だけは、あの日から増えていなかった。
◇
昼になる頃には、槍を作るだけで礼の右腕はすっかり重くなっていた。
昼食を済ませたあと、礼はリオのいる机へ向かった。
机の後ろの壁には、何枚もの紙が貼られている。
《童駆》から《童癒》まで。
最初にまとめた頃よりも、文字はずっと増えていた。
《童撃》の項目には出力を抑える訓練について細かな注意が加えられ、《童衣》には身体の一部だけへ童力が偏った場合の対処まで書かれている。《童癒》だけは今も他の童式より記述が少なく、実際に他人へ教える段階には進んでいない。
半年の間に何度も書き直した。
紙そのものを取り替えたこともある。
その六枚の横には、もう一枚だけ紙があった。
礼は足を止めた。
「……まだ空いてるね」
「ん?」
昼食のパンを齧っていたリオが振り向いた。
「七枚目」
「ああ」
リオも壁を見る。
白い紙には、今も名前がない。
「半年経ったな」
「書くこと自体は増えたんだけどね」
武器形成についての記録なら、机の上に何枚も積まれている。
作りやすい形。
維持時間。
消費する童力。
失敗したときの状態。
礼が思いつくたびに試し、リオが記録した。
それでも、六枚の隣だけは空いている。
「結局、礼しかできなかったな」
「ノアがこの前ちょっと惜しかったんじゃないの?」
「童力を外に留めただけだ。形にはなってない」
「そっか」
礼は自分の右手を開いた。
何が違うのか。
それは半年経っても分からない。
童力の量を合わせても駄目だった。流し方を教えても、誰かの手の中に剣が現れることはなかった。
「そのうち分かるよ」
「半年分からなかったのに?」
「だからだよ。もう一日増えたくらいじゃ変わらないでしょ」
「諦めてないか?」
「諦めてないよ」
礼はリオの向かいへ座った。
「急がなくてもいいかなって思ってるだけ」
「珍しいな」
「俺だって成長するんだよ」
「そういや」
リオがパンを置いた。
「お前、二十一になったんだっけ」
礼は瞬きをした。
「……うん」
「いつ?」
「四日前」
「四日前!?」
思ったより大きな声が出たらしく、近くにいた何人かがこちらを見た。
リオは気にせず礼を睨む。
「なんで言わねえんだよ!」
「忘れてた」
「自分の誕生日を?」
「こっち来てから、あんまり気にしてなかったし」
「二十一か……」
リオは改めて礼の顔を眺めた。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「何も変わんねえなと思って」
「四日で何が変わるんだよ」
「もっと大人の顔になるとか」
「リオだって二十一でしょ」
「俺は先月なった」
「一か月しか違わないじゃん」
「一か月も年上だ」
「じゃあ今日から敬語使おうか?」
「使え」
「分かりました、リオさん」
「気持ち悪いからやめろ」
「自分で言ったんだろ」
笑っていると、少し離れたところから大きな声が飛んできた。
「礼! 二十一歳になったのか!」
バルトだった。
聞いていたらしい。
「おめでとう! 今日は肉だな!」
「なんで肉なの!?」
「祝いだからだ!」
「バルトが食べたいだけだろ!」
「それもある!」
「認めた!」
また笑いが起きる。
リオが机へ突っ伏しながら肩を震わせている。
礼も笑った。
壁の白い紙が、開いた窓から入る風に小さく揺れた。
◇
午後の訓練を終える少し前、ギルドから使いが来た。
グレイグが二人を呼んでいるという。
礼は汗を拭きながらリオを見た。
「……今度は何だろ」
「さあな」
「また同じかな」
「多分な」
半年前なら、ギルド長に呼ばれただけでも理由を考えた。
今では、二人とも足を止めなくなっていた。
ギルド長室へ入ると、グレイグは書類に目を通していた。
「来たか」
「はい」
「座れ」
礼はいつもの椅子へ腰を下ろした。
向かいに座るグレイグの顔を見て、ふと白いものが増えたように思った。
髪だったのか、疲れた顔のせいだったのかは分からない。
以前、机の上に積まれていた見慣れない封筒はなくなっている。
届かなくなったわけではない。
礼たちが来る前に片づけるようになっただけだ。
「新しく教える人の話ですか?」
礼から尋ねた。
グレイグの目が紙から上がる。
「ああ」
「まだ駄目?」
「……ああ」
「分かりました」
礼はそれ以上聞かなかった。
グレイグの手が止まった。
「今日は随分と素直だな」
「半年ですから」
礼は自分の膝を見た。
「同じこと聞いて、同じこと言われるのにも慣れました」
口にしてから、少し嫌な言い方だったと思った。
けれど訂正はしなかった。
「悪いとは思っている」
「グレイグさんが決めてるんですか?」
返事はなかった。
礼は顔を上げた。
グレイグは自分を見ている。
まただ。
「……分かりました」
「礼」
リオが横から小さく呼んだ。
「大丈夫」
礼は息を吐いた。
怒っても仕方がない。
それも、この半年で覚えたことだった。
「今、待ってる人が何人いるか知ってます?」
「六人だ」
思わずグレイグを見る。
「知ってるんだ」
「相談書にはすべて目を通している」
「会ったんですか?」
「何人かとはな」
礼は黙った。
六人。
童力を感じられるのに、まだ教えることができない人たち。
最初の頃は、数日だけ待ってほしいと伝えていた。
やがて一週間になった。
それから、いつ始められるか分からないと伝えるようになった。
「……まだ、待ってもらうんですね」
「ああ」
「分かりました」
また同じ返事をした。
部屋に沈黙が落ちた。
以前なら、ここから言い合いになっていた。
礼が理由を尋ね、グレイグが答えず、リオが間に入る。
いつの間にか、それもなくなった。
「礼」
グレイグが呼んだ。
「はい」
「納得しているのか」
「してませんよ」
礼は答えた。
「でも、グレイグさんは教えてくれないから」
グレイグの口が僅かに動いた。
何かを言おうとしたように見えた。
結局、言葉にはならなかった。
「だから待ってます」
「……そうか」
それで話が終わりそうになった。
リオが二人を見比べる。
「それで、今日はそれを言うためだけに呼んだんですか?」
「いや」
グレイグが視線を落とした。
机の引き出しを開け、一通の封筒を取り出す。
以前よく見た、礼には見覚えのない封蝋だった。
礼の背筋が僅かに伸びる。
「六日後だ」
グレイグが言った。
「何がですか?」
「来る」
「誰が?」
グレイグの指が封筒の上に置かれた。
「この半年、お前たちのことを問い合わせてきた者たちだ」
礼はリオを見た。
リオもこちらを見ている。
「……ここに?」
「ああ。ローデンへ来る」
礼はもう一度、封筒へ視線を落とした。
半年間、名前も顔も分からなかった。
何度尋ねても、グレイグはほとんど何も話さなかった。
「俺たちに会いに来るんですか?」
「向こうは、そのつもりだ」
「グレイグさんは?」
「会わせるかどうかは、まだ決めていない」
礼は思わず眉を寄せた。
「なんで?」
「礼」
グレイグの声には、以前のような強さはなかった。
ただ疲れていた。
「今度は待ってくださいって言われても、待てませんよ」
「……」
「半年待ちました」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「俺たちのことを調べてる人なんですよね」
「ああ」
「俺たちに会いたいって言ってる」
「ああ」
「だったら、俺も話したいです」
グレイグは礼を見たまま動かなかった。
礼も目を逸らさない。
「俺もです」
リオが言った。
「礼だけじゃなく、俺も会います」
グレイグは椅子へ深く背を預けた。
長い息を吐く。
「……分かった」
礼の肩から、僅かに力が抜けた。
「六日後だ。それまでは、今まで通りにしていろ」
「はい」
礼とリオは立ち上がった。
扉へ向かう。
「礼」
背中に声がかかった。
礼は振り返った。
グレイグがこちらを見ていた。
「何ですか?」
「……」
口を開きかける。
礼は待った。
「いや」
グレイグは視線を机へ落とした。
「何でもない」
「そうですか」
礼は扉を開けた。
廊下へ出る直前、もう一度だけ振り返った。
グレイグはすでに書類へ目を落としていた。
◇
「最後、何だったんだろうな」
外へ出てからリオが言った。
「分かんない」
「聞けばよかったのに」
「何でもないって言ってたじゃん」
「お前、そういうところだけ素直だよな」
「そういうところだけって何だよ」
夕暮れのローデンを、二人で歩いた。
訓練場へ戻れば、まだ何人か残っているはずだった。
「礼」
「何?」
「飯」
「……あ」
「忘れてただろ」
「ちょっと」
「二十一歳祝い」
「バルトも来るって」
「だろうな」
「絶対いっぱい頼むよ」
「今日くらいいいだろ」
「俺の金じゃないよね?」
「主役に払わせるわけないだろ」
「ほんと?」
「バルトに払わせよう」
「それならいっぱい食べよう」
「お前も酷くなったな」
二人で笑った。
通りの先に、訓練場が見えてくる。
入口の近くでは、エルンとバルトが何か言い合っていた。ハインがその横で呆れた顔をしている。
マルクはまだ走っていた。
「まだやってるよ」
「止めないと明日動けなくなるぞ、あいつ」
「ハインが止めるでしょ」
「最近お前、そういうの人に任せるようになったよな」
礼は歩きながらリオを見た。
「駄目?」
「いや」
リオは少しだけ笑った。
「いいことだろ」
「そっか」
「ああ」
訓練場からバルトの声が飛んできた。
「礼! 肉行くぞ、肉!」
「まだ夕方だよ!」
「腹はもう夜だ!」
「意味分かんないよ!」
リオが隣で吹き出した。
礼も笑いながら、皆の方へ歩いていく。
春の風が訓練場を抜けた。
壁に並んだ六枚の紙と、その隣の白い一枚が、同じ風を受けて小さく揺れていた。




