第五十四話 二十二人目
鎧牙猪の討伐から数日が経った。
ローデンへ戻った翌日はさすがに休みにしたものの、それ以降はいつも通りだった。朝になれば訓練場に人が集まり、童力を巡らせ、互いの動きを確かめる。討伐に参加した者たちは実戦で気づいたことを話し合い、それを聞いた者が新たな注意点を書き留めていく。
《童式》を作ってから、そういうことが増えた。
以前なら、何かを発見した者が礼へ伝え、礼とリオが試し、それから皆へ教えることが多かった。しかし今では、礼が知らないうちに誰かが試し、別の誰かが意見を出し、それが訓練方法へ加えられていることさえある。
その日も礼が訓練場へ着いたときには、すでに十人ほどが集まっていた。
中央ではバルトが第二童式《童撃》の訓練をしている。もっとも、本人が訓練しているというより、周囲から監視されているようにも見えた。
「今の何割?」
「三割」
「嘘つけ」
「四割」
「バルトさん、板割れてますよ」
「板が弱いんだよ」
「昨日新しくしたばっかりですよ」
エルンに指摘され、バルトが不満そうに割れた板を見下ろす。
礼は思わず笑った。
鎧牙猪との戦いでは、出力を抑える訓練が実際に役立った。テオが最大まで童力を集めず、必要な分だけを使って突進の軌道を逸らしたことは、帰ってきてから何度も話題になっている。
強い技を使えるようになることだけが上達ではない。
使わなくていい力を使わずに済むことも、同じくらい大切なのだ。
礼自身もそう考えるようになっていた。
「礼さん、おはようございます!」
エルンがこちらに気づき、手を上げた。
「おはよう。今日も早いね」
「今日はパン運んでから来ました」
「練習しながらじゃないよね?」
「もうやってませんって!」
あれ以来、礼が何度も確認するものだから、エルンもすっかり慣れてしまったらしい。
笑いながら訓練場へ入ろうとして、礼は足を止めた。
見覚えのない男がいた。
二十代前半くらいだろうか。礼たちのような冒険者の装備ではなく、動きやすそうな厚手の服を着ている。日に焼けた腕は太く、身体つきもいい。腰に剣はなく、代わりに革製の手袋が帯へ挟まれていた。
その男の前に立っているのはハインだった。
「急ぐな。まず腹の辺りにある感覚を逃がさないようにしろ」
「こうか?」
「違う。今、腕に持っていこうとしただろ」
「分かるのか?」
「見てればな」
男は目を閉じ、言われた通りに呼吸を整えている。
その身体の中に、礼にも分かるほど微かな童力が流れていた。
「……あれ?」
思わず声が漏れた。
隣にいたリオが振り返る。
「何だよ」
「あの人、誰?」
「え?」
リオは礼の視線を追い、男を見た。
「ああ」
何でもないことのように答える。
「前に話した荷運びの人」
「荷運び……」
そこまで聞いて、礼も思い出した。
半年ほど前、ハインが見つけた男だ。
二十二歳。普段は荷運びの仕事をしていて、童力を感じ取れることが分かった。話だけは聞いていたものの、その後はエルンの件やテオの一件、それに童式の制定などが重なり、礼自身はまだまともに話したことさえなかった。
「……何してるの?」
「見れば分かるだろ。訓練」
「童術の?」
「他に何があるんだよ」
「始めたの!?」
思ったより大きな声が出た。
ハインと男が揃ってこちらを見る。
「何だ、礼。聞いてなかったのか?」
「聞いてないよ!」
「そうなのか?」
今度はハインがリオを見る。
「俺には言ったよな?」
「聞いた」
「グレイグさんにも?」
「話は通してある。昨日な」
「本人にも?」
「当たり前だろ」
「危険性の説明は?」
「した」
「仕事先は?」
「続ける。今のところ冒険者になるつもりもないそうだ」
「じゃあ――」
「礼」
横からリオに肩を掴まれた。
「落ち着け」
「いや、だって俺、何も聞いてないんだけど」
「だから?」
礼は口を閉じた。
言われてみれば、それだけだった。
自分が知らなかった。
それ以外に問題があるわけではない。
ハインは礼の様子を見て苦笑すると、男を手招きした。
「ちょうどいい。紹介しとくか」
呼ばれた男が立ち上がる。
近くで見ると、礼より少し背が高かった。日に焼けた顔には緊張が浮かんでいる。
「マルクだ。二十二歳。南の倉庫街で荷運びをしてる」
「マルクです」
男――マルクは、礼へ頭を下げた。
「如月さんですよね」
「あ、はい。如月礼です」
「知ってます」
「……俺も、名前は今知りました」
正直に答えると、マルクが少しだけ笑った。
「ハインさんから聞いてます。童術を最初に作った人だって」
「作ったというか……最初に見つけたというか」
「同じじゃないですか?」
「どうだろう」
礼自身、最近はよく分からなくなっていた。
童力に最初に気づいたのは自分だ。
童術と名付けたのも自分。
けれど、その後に作られたものすべてが礼一人のものかと言われれば、もう違う。
リオがいる。
バルトがいる。
ハインやノア、ディンがいる。
エルンたちもいる。
童式に至っては、そもそもリオが言い出したものだった。
「昨日から始めたの?」
礼が尋ねると、マルクは頷いた。
「はい。まだ全然ですけど」
「どこまで?」
「童力を身体の中で動かすところです」
「第一は?」
「まだやってません」
その答えに、礼は少し意外そうにハインを見た。
「先にやらないの?」
「まだ循環が安定してないからな。動かすこと自体に慣れてからでいいだろ」
「ああ……」
礼はマルクの中を流れる童力へ意識を向けた。
確かにまだ不安定だった。
腹部に集めた童力を胸へ移そうとするだけで、一部が散ってしまう。脚まで持っていくには早い。
「うん。その方がいいと思う」
「だろ?」
ハインはそれだけ言うと、またマルクの訓練へ戻った。
礼はその場に立ったまま、しばらく二人を眺めていた。
ハインの教え方は、礼とは少し違う。
説明も違う。
使う例えも違う。
それでも、やっていることは同じだった。
最初に童力を感じ取る。
身体の中で動かす。
安定させる。
焦って出力を上げない。
第二童式《童撃》のような攻撃へ繋がる技術は、基礎ができるまで教えない。
礼とリオが紙へ書き出したものが、きちんとそこに残っていた。
「……本当に俺、何もしてないな」
ぽつりと呟いた。
隣でリオが笑う。
「さっきからそればっかりだな」
「だって、初めてなんだよ」
「何が?」
「俺がほとんど関わらないまま、童術を覚える人が増えるの」
リオは少し考えてから、訓練場へ視線を戻した。
「これから増えるんじゃねえの、そういう奴」
「……そうかな」
「二十一人全員をお前が教えたわけでもないだろ」
「それはそうだけど」
「なら二十二人目がそうでも、別におかしくない」
理屈では分かる。
それでも礼の胸には、妙な感覚が残った。
寂しい、と言えば少し違う。
嬉しくないわけでもない。
むしろ、嬉しかった。
自分がいなくても童術が残る。
自分以外の誰かが、別の誰かへ教えられる。
それは《童式》を作った理由の一つでもある。
なのに同時に、ほんの少しだけ怖かった。
礼の知らない場所へ、童術が歩き始めたような気がした。
◇
昼になる頃には、訓練場の人数も増えていた。
仕事の都合で朝から来られない者もいるため、全員が同じ時間に集まることは少ない。午前だけ参加する者もいれば、昼から来る者もいる。冒険者であれば依頼のない日を選び、それ以外の者は仕事の合間を使って顔を出す。
最初の頃とは、ずいぶん変わった。
礼とリオの二人だけで森へ入り、誰にも見られないよう童力を試していた頃には考えもしなかった光景だった。
昼食を終えた礼は、訓練場の端にある木陰へ座っていた。
隣にはリオがいる。
少し離れたところでは、マルクがハインに教わりながら、まだ童力を動かす練習を続けていた。
「なあ、リオ」
「ん?」
「これ、そのうち俺たちが知らないところでも教えられるようになるよな」
パンを食べていたリオの手が止まる。
「そりゃなるだろ」
「やっぱり?」
「何で嫌そうなんだよ」
「嫌っていうか……」
礼は膝を抱えた。
「間違った教え方をする人が出るかもしれない」
「出るかもな」
「いきなり童撃から教えるとか」
「いるかもな」
「危ない使い方をする人も」
「それもいるかもな」
「悪いことに使う人だって」
「いるかもしれない」
全部肯定されてしまった。
礼はますます不安になる。
「それ、大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないだろ」
「え?」
思わず隣を見る。
リオは残っていたパンを口へ放り込み、ゆっくり噛んでから飲み込んだ。
「だから《童式》作ったんじゃねえの?」
「……どういうこと?」
「全部礼が教えるのか?」
「無理だよ」
「俺が全部教える?」
「それも無理だろ」
「だったら、俺たちが残さなきゃいけないのは、礼じゃなくても教えられるやり方なんじゃねえの」
リオは訓練場を見た。
ハインが教えている。
その少し向こうでは、エルンが別の者の姿勢を直している。
バルトは相変わらず出力を抑える訓練で苦戦していた。
「誰が教えても絶対に間違えない方法なんて作れねえよ。でも、最初にこれをやるとか、これは危ないとか、これができるまで次へ進むなとか。そういうのを残すことはできるだろ」
「……うん」
「だったら、それを増やしていけばいい」
礼は何も言わず、しばらく皆を眺めた。
少し前まで、童式は技に名前をつけただけのものだと思っていた。
第一童式《童駆》。
第二童式《童撃》。
第三童式《童衣》。
技を整理して、教えやすくするためのもの。
けれど、もしかすると名前よりも、その周りに書かれているものの方が大切なのかもしれない。
どう教えるか。
何が危ないのか。
どこまでできれば使っていいのか。
失敗したとき、どうするのか。
自分たちがいない場所でも、それだけは残るように。
「……帰ったら書き足そうかな」
「何を?」
「教える人向けの注意」
「またノート増やすのか?」
「必要だろ」
「まあな」
リオは笑った。
「でも今日は休めよ」
「なんで?」
「討伐から帰って何日だと思ってんだ」
「もう数日経ってる」
「そういうところだぞ」
礼には、何が「そういうところ」なのかよく分からなかった。
◇
同じ日の午後。
グレイグはギルド長室で、一通の書簡を読んでいた。
机の上には未処理の書類が積まれている。
冒険者から提出された依頼報告。
商人からの護衛要請。
近隣の村から届いた魔物の目撃情報。
その中に混じった一通だけが、ローデンのギルドで普段使われているものとは違う封蝋で閉じられていた。
グレイグはすでに三度、その文面を読み返している。
内容そのものは、これまで届いたものと大きく変わらない。
童術使用者の管理状況。
新規習得者への指導方針。
研究記録の提出。
如月礼との面談。
どれも以前から要求されているものだった。
だが、一文だけ。
グレイグの目は、そこから動かなかった。
『童術使用者が二十二名へ増加したことを確認している。現在の登録状況および新規習得者の身元について、改めて提出を要求する』
扉が叩かれた。
「入れ」
返事をすると、職員が一人入ってくる。
グレイグは書簡を机へ置いた。
「確認したいことがある」
「はい」
「ハインが相談していた荷運びの男。訓練を始めたな」
「マルクですか? はい。昨日からだと聞いています」
「外部へ報告したか?」
職員が首を傾げた。
「いえ」
「誰かに話したか」
「ギルド内では必要な者にだけ。本人の仕事先や家族へ確認する必要もありませんでしたので、それ以外には特に」
「童術師の名簿を閲覧した者は?」
「ギルド長と、許可された職員だけです」
「持ち出しは」
「できません」
「……そうか」
グレイグは椅子へ背を預けた。
マルクが童力を感じられると判明したのは以前のことだ。
だが、正式に訓練を始めたのは昨日。
ギルドへの相談が終わったのも、その直前だった。
それなのに書簡には、すでに二十二名と記されている。
「何か問題が?」
職員が尋ねる。
グレイグは少し考えた。
「いや」
書簡を裏返す。
「今のところはな」
職員が退室したあとも、グレイグはしばらく動かなかった。
やがて引き出しを開ける。
そこには、以前礼から提出された童術師の名簿が保管されていた。
十三人だった頃のもの。
それ以降に増えた者についても、規則に従って記録が追加されている。
だが、その情報を外へ渡したことは一度もない。
グレイグは名簿を確認すると、再び引き出しを閉め、鍵をかけた。
机の上には二つの書類が残る。
一つは、二十二人目についての報告。
もう一つは、二十二人になったことをすでに知っている者からの書簡。
グレイグは後者を手に取り、しばらく眺めてから新しい紙を引き寄せた。
『要求された名簿および個人情報について、提出の必要性を認めない』
そこまで書いて、一度筆を止める。
少し考えてから、その下へ続けた。
『新規習得者については、当ギルドの定める手続きに従い、安全性を確認した上で訓練を開始している』
さらに一行。
『現時点において、外部組織による介入を必要とする事案は発生していない』
書き終える。
グレイグは紙を乾かし、封筒へ入れた。
そして最後まで、二十二人目の名前を書くことはなかった。
◇
夕方。
訓練を終えた者たちが帰り始め、広かった訓練場も静かになっていた。
礼は片づけを終えたあと、いつもの机にノートを広げていた。
今日の記録を書き残す。
新たに童力を扱い始めた者。
年齢。
職業。
訓練開始日。
そして最後に、人数を書き直した。
『童術使用者――二十二名』
礼はその数字をしばらく眺めた。
「二十二か……」
「何?」
帰り支度をしていたリオが近づいてくる。
「いや、多いなと思って」
「今さら?」
「最初は二人だったんだぞ」
「そうだったな」
礼はその下へ、今日の続きを書く。
『マルク――基礎循環訓練開始』
そこで一度、筆が止まった。
少し考えてから、さらに一行を書き加える。
『指導者――ハイン』
書いた文字を見つめる。
これまでも、礼以外の者が誰かに教えることはあった。
だが、自分がほとんど関わらないまま一人の訓練が始まったことは、やはり礼にとって特別だった。
「……俺じゃないんだな」
「何が?」
「先生」
リオは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「今さら気づいたのかよ」
「いや、分かってたけど」
「そのうち俺たちのこと知らない奴が、普通に童術使ってるかもしれないぞ」
「そこまで増えるかな」
「百人くらい」
「百人!?」
「五百人」
「多すぎるだろ」
「千人」
「いやいや」
「一万人」
「絶対ないって」
礼は笑った。
一万人の童術師など、想像するだけでもおかしかった。
二十二人ですら、礼にとっては十分すぎるほど多い。
この二十二人の顔と名前を覚え、それぞれが何を得意とし、何を苦手としているのかを知るだけでも大変なのだ。それが百人、千人になればどうなるのかなど、考えることすらできなかった。
「一万人になったらどうするんだよ」
「知らねえよ。そこまでいったら礼が全員教えるのは無理だろ」
「今でも無理だよ」
「だから今日みたいになるんだろ」
リオは、ノートに書かれたハインの名前を指した。
「ハインが教えて、そのうちマルクが誰かに教えるかもしれない。そいつがまた別の誰かに教える。そうなったら、礼が知らない奴が使ってても別におかしくない」
礼はその光景を想像してみた。
知らない町。
知らない誰か。
自分とは会ったこともない人間が、当たり前のように《童駆》や《童衣》を使っている。
まだ、うまく想像できない。
「……変な感じ」
「嫌か?」
礼は少し考えて、首を横へ振った。
「ううん」
自分がいなくても残る。
今日、目の前で見たばかりだった。
少し寂しくて、少し怖い。
それでも。
「嬉しいと思う」
「ならいいじゃん」
「でも一万人はない」
「分かんねえぞ?」
「ないって」
二人で笑った。
礼はノートを閉じ、立ち上がった。
窓の外では、夕日がローデンの屋根を赤く染めている。
その日、童術師は二十二人になった。
礼が直接教えなかった、初めての一人だった。
礼にとってそれは、自分たちの作ったものが少しずつ自分たちの手を離れていく、ささやかな変化に過ぎなかった。
そして礼はまだ知らない。
その二十二人目の存在を、自分よりも早く数えていた者がいることを。
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