第五十一話 半年
エルンが初めて童力を動かしてから、半年が過ぎた。
「違います。動かそうとしすぎです」
訓練場の片隅から聞こえてきた声に、礼は振り返った。
地面に座っている青年が、目を閉じたまま眉間に皺を寄せている。その正面にはエルンが座り、腕を組んでいた。
「力を入れても駄目なんです。最初は動かすんじゃなくて、そこにあるのを感じるだけでいいです」
「感じるって言われてもな……」
「俺も最初は分かりませんでした。でも、焦ると余計分からなくなりますから」
「こんな感じか?」
「うーん……たぶん違います」
「たぶん?」
「俺、礼さんみたいに他の人の中まで細かく分からないんで」
青年が目を開けた。
「じゃあ分かる奴呼んでくれよ」
「すぐ人に頼らないでください。もう一回です」
「厳しくない?」
「普通です」
そのやり取りを聞いて、礼は思わず笑った。
「エルン」
「はい?」
呼ばれたエルンが振り返る。
「それ、半年前に俺が言ったやつ」
「何がですか?」
「動かそうとしないで、まず感じろって」
「そりゃそうですよ。礼さんに教わったんだから」
「あ……そっか」
「何だと思ってたんですか」
「いや……」
礼は頭を掻いた。
半年前。
目の前の少年は、童力をほんの少し右腕へ動かせただけで飛び上がって喜んでいた。
今では流れを全身へ循環させられる。
戦闘で使えるほど強く身体を強化することは、まだ難しい。童力の量も特別多いわけではなく、バルトのような爆発的な出力もなかった。
それでもエルンには、一つだけ妙に得意なことがあった。
基礎を崩さない。
無理をしない。
教えられた順序を飛ばさない。
そして、自分が失敗したところをよく覚えている。
そのため、入ったばかりの者へ感知や循環を説明させると、意外なほど分かりやすかった。
「礼!」
別の方向から声が飛んでくる。
見ると、バルトがこちらを指差していた。
「エルン借りるぞ!」
「何するの?」
「出力の訓練だ!」
「駄目」
「何でだよ!」
「絶対ろくなことしないだろ」
「失礼だな!」
「半年前に初めて童力動かしたエルンに『拳に全部集めろ』って言ったの誰だよ」
「俺だ!」
「だからだよ!」
周囲から笑い声が上がった。
エルンも笑っている。
半年前より少しだけ背が伸びたような気がする。
本当に伸びたのかもしれないし、礼がそう感じているだけかもしれない。
「礼」
今度はすぐ後ろから声がした。
「うわっ」
「何だよ」
振り向くと、リオが立っていた。
「急に後ろに立たないでよ」
「さっきからいたぞ」
「嘘」
「本当。お前ずっとエルン見てたから」
「見てたけど……」
「親みたいな顔してたぞ」
「してない」
「してた」
リオが笑う。
「成長したな」
その言葉に、礼もエルンを見る。
「……うん」
素直に頷いた。
「最初は、教えて大丈夫かなって思ってた」
「グレイグさんとも揉めたしな」
「揉めてない」
「揉めたよ」
「話し合っただけ」
「お前の中ではな」
リオが肩をすくめる。
礼は少しだけむっとしたが、否定するのをやめた。
あれから半年。
エルンだけではない。
変わったことは、たくさんあった。
◇
童術を扱う者は、二十一人になっていた。
半年前の十三人から、エルンを含めて八人増えたことになる。
冒険者だけではない。
店で働く者。
職人の見習い。
荷運びをしている者。
仕事を探しながら訓練場へ通っている者もいる。
全員が戦うために童術を学んでいるわけではなかった。
身体を少し強くしたい。
重いものを持てるようになりたい。
自分にも何かできるのではないかと思った。
理由はそれぞれ違う。
新しく教える前にはギルドへ相談した。
未成年なら家族の了承を取った。
最初は感知と循環から始め、身体への負担を確認しながら進める。
大きな異常があれば報告する。
半年前にグレイグが作った取り決めは、思っていたより問題なく機能していた。
礼自身、最初はもっと窮屈になると思っていた。
けれど、実際に止められた者はほとんどいない。
相談すれば、グレイグたちは家族や仕事の状況を確認し、危険がないかを話し合う。
時間は少しかかる。
それでも、多くは数日で訓練を始めることができた。
礼が納得できないときには、話をした。
グレイグも理由を説明した。
規則そのものも、少しずつ変わった。
最初は紙一枚だったものが、今では数枚になっている。
けれど礼は、それを悪いことだとは思わなくなっていた。
必要になったものを足しただけだ。
少なくとも、今は。
◇
「礼。この人、誰?」
昼前。
リオから一枚の紙を渡され、礼は首を傾げた。
「え?」
「今日来るって」
紙には一人の名前が書かれている。
年齢は二十二歳。
荷運びの仕事をしているらしい。
童力を感じたため、基礎訓練への参加を希望。
「……俺、会ったことない」
「俺も昨日初めて会った」
「誰が見つけたの?」
「ハイン」
「ああ」
礼は頷いた。
そこで一度止まった。
「……あれ?」
「何?」
「俺、その人が童力感じられるって知らなかった」
「だから今教えた」
「そうじゃなくて」
礼は紙を見る。
以前なら、新しく誰かが来れば必ず自分が最初に会っていた。
童力を感じられるかを確認して。
何をしたいのかを聞いて。
自分が教えていた。
今は違う。
ハインが見つけた。
リオが話を聞いた。
必要な情報をまとめて、礼へ渡した。
「……俺が知らないところで増えた」
「まだ増えてねえよ。教えてないんだから」
「そうだけど」
「嫌か?」
リオに尋ねられ、礼は少し考えた。
「……いや」
嫌ではない。
むしろ、こうなることを望んでいたはずだ。
自分一人で全部やる必要はない。
誰かが誰かへ教えられるようになる。
童術が、自分だけのものではなくなっていく。
「嬉しい」
「ならいいだろ」
「うん」
礼はもう一度、紙を見る。
二十二人目になるかもしれない人。
まだ顔も知らない。
その事実が、不思議だった。
嬉しい。
けれど。
ほんの少しだけ、怖くもあった。
グレイグが半年前に言った言葉を思い出す。
二十人なら。
五十人なら。
百人になったら。
お前は全員を見続けられるのか。
「……本当に二十人超えたな」
「まだ二十一だぞ」
「そういう意味じゃなくて」
リオは少し考えてから、礼の肩を軽く叩いた。
「だから俺たちがいるんだろ」
「……うん」
「一人で全部見ようとすんなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
リオは疑わしそうな顔をした。
礼はそれを見て笑った。
◇
問題が起きたのは、その日の夕方だった。
「礼!」
訓練場の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできた男を見て、礼は立ち上がる。
ギルドの職員だった。
息を切らしている。
「どうしたんですか?」
「童術師が――」
その言葉だけで、訓練場の空気が変わった。
「町中で揉め事を起こした」
「誰が?」
「テオだ」
礼はすぐに顔を思い出した。
十九歳。
ローデンの倉庫で働いている。
童術を学び始めて四か月ほど。
身体強化はまだ基礎段階で、戦闘向けの技術はほとんど教えていない。
「怪我は?」
「出てる」
「テオが?」
職員が一瞬、言葉を詰まらせた。
「……相手だ」
礼は立ち上がった。
「行きます」
「俺も行く」
リオも弓を置いた。
礼たちは、そのまま訓練場を飛び出した。
◇
現場は市場から少し離れた裏通りだった。
着いたときには、すでに人だかりができていた。
ギルド職員と衛兵が周囲を囲んでいる。
「通してください!」
礼が人の間を抜ける。
最初に見えたのは血だった。
石畳に、赤い跡が残っている。
その近くで、一人の男が壁にもたれて座っていた。
右腕が、不自然な方向へ曲がっている。
「……っ」
礼は息を呑んだ。
男はすでに治療を受けていた。
命に関わる状態ではない。
それでも怪我が重いことは、見ただけで分かった。
そして少し離れた場所に。
「……礼さん」
テオがいた。
頬が腫れている。
唇が切れ、服の胸元も破れていた。
「テオ」
礼が近づく。
「何があったの?」
「俺……」
テオは震えていた。
「俺、別に……」
「大丈夫。ゆっくりでいい」
「俺からじゃないんです」
「うん」
「あいつらが先に……」
視線の先。
怪我をした男の近くに、もう二人いる。
一人は鼻から血を流していた。
もう一人は衛兵と何かを話している。
「金出せって言われて」
「金?」
「今日、給金の日だったから……たぶん、それ見られてて」
テオが唾を飲み込む。
「断ったら、殴られて」
礼は腫れた頬を見る。
「三人に?」
「はい」
「武器は?」
「一人がナイフ持ってました」
「使ったの?」
「抜いただけです。俺に向けて……」
テオの手が震えた。
「怖くなって」
その手を見て。
礼は気づいた。
「童力を使った?」
テオはゆっくり頷いた。
「腕に集めました」
「どれくらい?」
「分かりません」
「循環は?」
「してました。でも……殴られたとき、頭が真っ白になって」
テオが自分の拳を見る。
「思いっきり、集めて……」
礼もその拳を見る。
四か月。
まだ童術師としては初心者だ。
けれど、四か月前のテオとは違う。
身体を流れる童力を意識し、一部へ集めることもできる。
それを。
恐怖の中で、全力で拳へ集めた。
「一回だけです」
テオの声が震える。
「一回、殴っただけなんです」
礼はもう一度、怪我をした男を見る。
右腕。
おそらく、テオの拳を受けたのだろう。
腕だけでは勢いを止められず、そのまま壁へ叩きつけられたらしい。
「殺すつもりなんてなかった」
「うん」
「本当に」
「分かってる」
「俺……逃げたかっただけなんです」
礼は何も言えなかった。
テオは悪くない。
そう言いたかった。
三人に囲まれた。
殴られた。
ナイフまで向けられた。
自分を守るために童術を使った。
それの何が悪い。
そう思った。
けれど。
「お前が教えたのか」
声がした。
振り返る。
怪我をした男の横に、中年の女性が立っていた。
男の母親だろうか。
顔が青ざめている。
「……はい」
礼は答えた。
「こんなことができる力を?」
礼はすぐに答えられなかった。
「母ちゃん、違う!」
怪我をした男が苦しそうに声を上げる。
「こいつが……!」
「黙ってな!」
女性が叫んだ。
それから、礼を見る。
「腕がこんなになってるんだよ」
「…………」
「治るかどうかも分からないって」
治療をしている者が何か言おうとしたが、女性は聞かなかった。
「あんたがそんな力を教えなければ」
礼の胸が詰まる。
「こんな怪我、しなかったんじゃないのかい」
何も言えなかった。
「違います!」
テオが立ち上がろうとする。
「俺が勝手に使ったんです! 礼さんは――」
「座ってろ」
低い声がした。
いつの間にか、グレイグが来ていた。
「でも!」
「今は座っていろ。お前の話も聞く」
テオは唇を噛み、もう一度座った。
グレイグは負傷した男を見る。
テオを見る。
そして礼を見る。
「礼」
「……はい」
「来い」
礼は黙ってついていった。
◇
人だかりから少し離れた場所。
グレイグは衛兵から聞いた内容を礼とリオへ説明した。
「目撃者はいる」
「じゃあ、テオの話が本当か分かるんですか?」
「ああ。ただ、話が少しずつ違う」
グレイグが眉間を押さえる。
「テオが三人に囲まれていたのは複数人が見ている。先に殴られたという証言もある」
「じゃあ……」
「待て」
グレイグが止める。
「ナイフについては、見た者と見ていない者がいる。抜いていたという者もいれば、腰に下げたままだったという者もいる」
「でもテオは見たって」
「嘘だと言っているわけじゃない」
「じゃあ――」
「礼」
隣のリオが静かに呼んだ。
礼は口を閉じた。
「それと」
グレイグは続ける。
「テオが男を殴ったあと、残りの二人は逃げようとしたという証言がある」
「……それが?」
「テオは追っていない」
「なら」
「ああ。そこは問題ない」
礼は少し安心した。
けれど、グレイグの顔は晴れなかった。
「問題は、どこまでが自分を守るために必要だったかだ」
「三人に囲まれてたんですよ」
「分かっている」
「殴られて、ナイフまで――」
「それも調べる」
「だったらテオは――」
悪くない。
そう言おうとして。
礼は止まった。
グレイグがこちらを見ている。
責める目ではなかった。
「規則には?」
礼が尋ねた。
「何がだ」
「こういうとき、どうするって」
グレイグはしばらく黙った。
「……ない」
「ない?」
「ああ」
「町中で童術を使ったら駄目とか」
「決めていない」
「自分を守るためなら使っていいとか」
「それもない」
礼は言葉を失った。
半年間。
規則は増えた。
教え方。
報告。
危険な技術。
未成年。
非冒険者。
事故。
必要になったものを、一つずつ決めてきた。
けれど。
目の前で起きたことへの答えは、どこにもなかった。
「……じゃあ」
礼はグレイグを見る。
「どうすればいいんですか?」
グレイグはすぐには答えなかった。
少し離れた場所では、テオが一人で座っている。
その向こうでは、腕を折った男が運ばれようとしていた。
「それを」
グレイグが言った。
「今から決めるんだ」
「…………」
「規則は、最初から全部の答えを知っているわけじゃない」
半年前にも似たことを聞いた。
規則は作ったら終わりではない。
必要なら変える。
あのときは、分かったような気がしていた。
今は。
その意味が、少しだけ違って聞こえた。
◇
その日の訓練は中止になった。
礼が戻ると、皆が待っていた。
誰も騒いでいない。
「テオは?」
ハインが尋ねた。
「ギルドにいる。まだ話を聞いてる」
「相手は?」
「命は大丈夫。でも、腕が折れてる」
空気が重くなる。
エルンもいた。
礼はその顔を見て、一瞬だけ半年前を思い出した。
まだ木剣しか握っていなかった頃。
童術を教えてほしいと、毎朝訓練場へ来ていた少年。
今ではエルンも、人を傷つけられる。
礼が教えたから。
「礼さん」
エルンが口を開いた。
「テオさん、悪いんですか?」
「……分からない」
正直に答えた。
「襲われたんですよね?」
「うん」
「だったら、自分を守っただけじゃないんですか?」
「俺もそう思う」
「じゃあ――」
「でも」
礼は自分の手を見た。
「相手の人の腕、折れてた」
「…………」
「テオが童術を知らなかったら、テオの方がもっと酷い怪我をしてたかもしれない」
誰も何も言わない。
「でも、テオが童術を知らなかったら、あの人の腕は折れてなかったかもしれない」
「それは向こうが襲ったからだろ」
バルトが言った。
「自業自得じゃねえか」
「そうかもしれない」
「かもじゃねえだろ」
「バルト」
リオが止める。
「何だよ」
「今はまだ全部分かってない」
「でもよ」
「分かってから話そう」
バルトは不満そうだったが、口を閉じた。
エルンが自分の右手を見ている。
半年前。
初めて童力がそこへ流れたとき。
あんなに嬉しそうに笑っていた手だった。
「礼さん」
「ん?」
「俺たちも……ああなるんですか?」
礼は答えられなかった。
「俺、パン屋です」
「うん」
「冒険者じゃないです」
「うん」
「でも、今なら普通の人より強く殴れます」
「……うん」
「じゃあ俺が誰かと喧嘩したら、普通の喧嘩じゃなくなるんですか?」
礼はエルンを見た。
何と答えればいいのか分からない。
童術を教えた。
自分にもできることがあると知ってほしかった。
魔力が少ないからと諦めていた人間に、別の道があると伝えたかった。
それだけだった。
けれど。
力を持つということは。
できることが増えるだけではないのかもしれない。
「……分からない」
礼は言った。
エルンは黙って頷いた。
そのとき。
「どっちかを悪者にできたら、楽なんだけどな」
リオが呟いた。
礼が顔を上げる。
リオは壁にもたれ、腕を組んでいた。
「テオが悪かった。それで終わり」
誰も口を挟まない。
「相手が悪かった。それで終わり」
リオが礼を見る。
「たぶん今回は、それじゃ駄目なんだと思う」
「……うん」
「だから考えよう」
その言葉に。
礼は少しだけ目を見開いた。
昔から何度も聞いてきた言葉だった。
「分からないなら、一緒に考えようぜ」
リオが笑う。
礼も、ほんの少しだけ笑った。
「……うん」
答えはまだない。
それでも。
今はまだ、一緒に考えてくれる人がいる。
◇
夜。
礼は一人で机に向かっていた。
開いたノートには、半年の間に増えた記録が並んでいる。
童力の循環。
個人差。
訓練方法。
怪我。
新しく分かったこと。
その次のページを開いた。
しばらく何も書けなかった。
やがて。
ゆっくりとペンを動かす。
『童術使用者による対人負傷事案』
『使用者――テオ』
『状況――複数人との争い』
『使用理由――本人証言では自衛』
『結果――相手一名、右腕骨折』
そこで手が止まる。
少し迷って。
さらに一行。
『規則違反――現時点では該当なし』
礼はその文字を見つめた。
規則は破られていない。
教え方も間違っていなかった。
テオは危険な技を勝手に覚えたわけでもない。
それでも。
人が傷ついた。
最後に、もう一行だけ書いた。
『では、何が間違っていた?』
答えは書けなかった。
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