第四十八話 教わりたい者
翌朝、礼が訓練場へ着くと、入口の前にはすでに人影があった。
まだ朝の冷気が残っている。通りを行き交う人もまばらで、店々もようやく一日の支度を始めたばかりだというのに、その少年は大事そうに細長い包みを抱え、閉ざされた扉の前に立っていた。
「……早い」
「あっ。おはようございます!」
礼に気づいたエルンが、ぱっと顔を輝かせる。
昨日と同じ上着に、肩から提げた布袋。頬と鼻の頭が少し赤い。どうやら、かなり前からここにいたらしい。
「もしかして、ずっと待ってた?」
「そんなに待ってないです!」
「どのくらい?」
「……ちょっとだけです」
「だから、どのくらい?」
エルンは気まずそうに視線を逸らした。
「日の出くらいから……」
「早すぎるよ」
思わず笑うと、エルンは照れくさそうに頭を掻いた。
「だって昨日、また来てもいいって言ってくれたから。それに――」
途中で言葉を切り、エルンは自分の胸元に手を当てた。
「昨日のやつ、家でもやってみたんです」
「童力?」
「はい。たぶん……ですけど」
礼の表情が変わった。
「今、できる?」
「やってみます!」
エルンはその場で目を閉じた。
まだ訓練場の鍵すら開けていない。朝の静かな通りを荷車が一台、車輪を軋ませながら通り過ぎていく。
礼は何も言わず、少年の内側へ意識を向けた。
十秒。二十秒。
やがて、エルンの身体の奥で、ほんのかすかに何かが揺れた。
昨日より弱い。意識しなければ見落としてしまいそうなほど頼りない流れだったが、それでも魔力とは明らかに違う。
「……できてる」
「本当ですか!?」
エルンが勢いよく目を開ける。
「あ、待って。もう一回。そのままやってみて」
「は、はい!」
再び目を閉じる少年を見ながら、礼の胸にも小さな高揚が広がった。
昨日は偶然かもしれないと思っていた。
だが、違う。
一度教わった感覚を持ち帰り、自分だけでもう一度そこへ辿り着いたのだ。
まだ童力を自在に動かすことなどできない。それでも、最初の一歩は間違いなく踏み出している。
「うん。やっぱり感じられてる」
「じゃあ、俺……!」
「使えるようになると思うよ」
エルンの顔が一気に明るくなった。
「やった……!」
小さく拳を握り、それから何かを思い出したように「あっ」と声を上げる。
「そうだ、これ!」
差し出されたのは、先ほどから大事そうに抱えていた包みだった。
「何?」
「親父からです」
「俺に?」
「はい」
礼が受け取って布を開くと、中から丸いパンがいくつも現れた。表面には綺麗な焼き目がつき、まだほんのりと温かい。小麦の香ばしい匂いが、冷えた朝の空気へふわりと広がった。
「……パン?」
「うち、パン屋なんです」
「そうだったんだ」
「昨日、親父に話したんです。童術を教えてもらえるかもしれないって。そしたら、これから息子が世話になるかもしれないから、ちゃんと挨拶してこいって」
エルンは少し恥ずかしそうに笑った。
礼は手の中のパンを見下ろした。
朝一番に焼いたのだろう。まだ残っている温もりが、妙に嬉しかった。
「お金は?」
「いらないです! 親父が持ってけって言ったんですから」
「でも――」
「受け取ってください。その方が俺も怒られないんで」
そこまで言われて、礼は笑った。
「じゃあ、ありがたくもらう。お父さんにもお礼言っておいて」
「はい!」
「それと、俺も今度挨拶に行くよ」
「礼さんが?」
「うん。ちゃんと教えることになったら、その方がいいと思うから」
エルンは嬉しそうに何度も頷いた。
礼は鍵を取り出し、訓練場の扉を開ける。
朝の光が、まだ誰もいない訓練場へ細長く差し込んだ。
「じゃあ、入ろうか」
「はい!」
礼に続いて、エルンが中へ入っていく。
昨日までは十三人だった場所へ、十四人目になるかもしれない少年が足を踏み入れた。
◇
「で、これが賄賂のパンか」
「違います」
訓練場に人が集まり始めると、エルンの持ってきたパンはあっという間に皆の手へ渡った。
バルトが二つ目へ手を伸ばそうとする。
礼は無言でその手を叩いた。
「痛え!」
「一人一個です」
「まだ余ってるだろ」
「まだ来てない人の分です」
「冷めたら不味くなるぞ」
「後で温めればいいだろ」
横からリオが呆れた声を挟むと、バルトは本気で不思議そうな顔をした。
「どうやって?」
「火だよ」
「パンに直接か?」
「お前は何でそうなるんだよ」
朝から騒がしい。
少し離れた場所では、エルンがそんなやり取りを楽しそうに眺めていた。昨日初めてここへ来たときに比べれば、表情から緊張もかなり抜けている。
ノアが隣へ座り、パンを半分に割った。
「家、パン屋なんだって?」
「はい。市場の南側にあります」
「じゃあ今度買いに行くよ。これ美味いし」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「お前が焼いたわけじゃないだろ」
ディンに突っ込まれ、エルンが「そうですけど!」と笑う。
その光景を眺めながら、礼はノートを開いた。
昨日、エルンは初めて童力を感じた。
今朝は、誰の助けもない状態から、自力で同じ感覚へ辿り着いた。
ならば次は、ただ感じるだけではなく、身体の中でほんの少し動かしてみる段階へ進んでもいいかもしれない。
「エルン」
「はい!」
「食べ終わったら始めよう。最初は昨日と同じところからね」
「はい!」
「それが安定したら、今日は少しだけ童力を――」
「如月さん」
不意に入口から呼ばれ、礼は言葉を止めた。
振り返る。
昨日、名簿の件を伝えに来たギルド職員が立っていた。
「あ。おはようございます」
「おはようございます」
職員は礼へ一礼したあと、その視線をエルンへ向けた。
「……そちらの方は?」
「エルンです。昨日来て、童力を感じられたので。今日から少しずつ訓練しようと思ってます」
「そうですか」
短い返事だった。
怒っている様子はない。けれど、エルンを見る目には、何かを確かめるような色があった。
「如月さん。少し、お話しできますか」
「……また?」
「すみません」
礼はリオを見る。
するとリオは、何も言われる前に立ち上がった。
「分かった。エルンは俺が見てる」
「ありがとう」
礼は職員とともに、訓練場の隅へ移動した。
◇
「まず確認したいのですが、あの少年は冒険者ではありませんね?」
「はい。家のパン屋さんを手伝ってます」
「年齢は?」
「十五歳です」
「ご家族は、童術を習うことをご存じですか?」
「お父さんは知ってます」
「承諾も得ていますか?」
「……たぶん」
職員の眉がわずかに動いた。
「たぶん?」
「パンをくれました」
「…………」
「これから息子がお世話になるかもしれないからって」
礼が持ってきた包みを示すと、職員はしばらく黙ってから「なるほど」と頷いた。
「俺も今日、ちゃんと挨拶に行こうと思ってます」
「それなら、まずはご家族とお話ししていただけますか」
「先に?」
「はい。できれば、訓練を始める前に」
礼は訓練場の中央へ目を向けた。
エルンはリオから何かを説明され、真剣な顔で頷いている。
「……どうしてですか?」
「未成年だからです。それに、冒険者でもありません」
職員の説明は穏やかだった。
「昨日もお伝えしましたが、ギルドとして童術そのものを禁止するつもりはありません。ただ、童術が身体へどのような影響を及ぼすのか、まだ完全には分かっていないのでしょう?」
「はい」
「訓練中に怪我をする可能性も?」
「あります」
「であれば、ご家族がそれを理解したうえで了承しているのか、先に確認しておくべきだと思います」
礼は少し考えた。
言われてみれば、その通りだった。
エルンは習いたいと言っている。礼も教えたい。
けれど、十五歳の少年には家族がいる。何かあったときに「本人が望んだから」だけでは済まないこともあるのだろう。
「……分かりました。今日、話してきます」
「ありがとうございます」
「じゃあ」
礼は念のため確認した。
「お父さんがいいって言ったら、明日から教えていいんですよね?」
職員はすぐには答えなかった。
ほんの一瞬だった。
けれど礼は、その間に気づいた。
「……まずは、ご家族と話していただければ」
「はい」
少しだけ引っかかった。
それでも、礼は頷いた。
◇
エルンの家は、本当にパン屋だった。
市場の南側。大通りから一本入った通りにある、小さな店だった。
夕方、礼とリオが訪れると、店の中には一日の仕事を終えたあとの小麦と焼きたてのパンの匂いが残っていた。
「いらっしゃ――」
奥から出てきた男が、礼を見て言葉を止めた。
「あんたが……」
「初めまして。如月礼です」
礼が頭を下げる。
男は四十歳前後だろうか。太い腕に、小麦粉の白く残った前掛け。礼を前にすると、少し緊張したように背筋を伸ばした。
「昨日と今日、パンありがとうございました」
「いやいや! こっちこそ、息子が勝手に押しかけたみたいで」
「大丈夫です」
「昔から、思いついたらすぐ動く奴でなあ」
「親父!」
店の奥からエルンが顔を出した。
「余計なこと言うなよ!」
「本当のことだろ」
「礼さんの前で言わなくてもいいだろ!」
礼は思わず笑った。
隣のリオも口元を緩めている。
「まあ、立ち話も何だ。入ってくれ」
父親に促され、二人は店の奥へ通された。
話は、礼が思っていたよりずっと早く終わった。
「俺は構わんよ」
エルンの父親は、あっさりそう言った。
「……いいんですか?」
「ああ」
「童術ですよ?」
「知ってる」
「まだ分からないことも多いし、訓練で怪我をするかもしれません」
「それも聞いた。こいつからな」
父親が顎で示すと、隣のエルンが頷く。
「昨日、全部話した」
「全部って?」
「魔力とは違う力で、まだ分かってないことも多くて、訓練が必要で――」
「あと、童貞じゃないと使えないんだろ」
「親父!」
エルンが真っ赤になった。
礼も言葉を失う。
「何だ。お前が言ったんだろ」
「言ったけど、礼さんの前で言わなくていいだろ!」
隣を見ると、リオが口元を手で押さえていた。
「リオ」
「笑ってない」
「笑ってる」
「いや、いい家族だなと思って」
「絶対違うだろ!」
父親が豪快に笑った。
礼も耐えきれず、つられて笑った。
ひとしきり笑ったあと、父親は少しだけ表情を改めた。
「こいつは昔から、魔力が弱くてな」
その一言で、エルンが静かになる。
「魔術師になりたいって言ってた時期もあった。冒険者にもなりたいって言ってた。でも、才能がないって何度も言われてきた」
礼は黙ってエルンを見た。
俯いた横顔に、昨日までとは違うものが見えた気がした。
「だから昨日、こいつが帰ってきたとき、久しぶりに見たんだよ」
「何をですか?」
「自分にも何かできるって顔をしてるところを」
礼は何も言えなかった。
かつて魔術の火花すらまともに出せず、役に立たないと言われ続けた自分の姿が、一瞬だけ重なった。
「危ないことをさせたいわけじゃない。無茶もしてほしくない」
「はい」
「だから、それだけは見てやってくれ」
「……はい」
「それを約束してくれるなら」
父親は礼をまっすぐ見た。
「教えてやってくれ」
礼は深く頭を下げた。
「分かりました」
「お願いします!」
なぜか隣でエルンまで頭を下げる。
礼が顔を上げた。
「何でエルンまで?」
「なんとなく!」
「何だそれ」
リオが笑う。
礼も笑った。
明日から、エルンが来る。
まだ童術師と呼べるほどではない。
それでも、新しい一人が増える。
礼はそのことが、素直に嬉しかった。
◇
翌朝。
「今日からお願いします!」
訓練場の中央で、エルンが勢いよく頭を下げた。
ノアが拍手し、ハインも笑う。
「頑張れよ、パン屋!」
バルトが声を飛ばした。
「エルンです!」
「今日はパンないのか?」
「ありません!」
「帰れ」
「何でですか!」
朝から笑い声が上がった。
礼も笑いながら、エルンの向かいへ腰を下ろす。
「じゃあ、始めようか」
「はい!」
「昨日やったことは覚えてる?」
「もちろんです」
「まずは童力を感じるところから。それが安定したら、少しずつ動かしてみよう」
エルンが目を閉じた。
礼も意識を集中させる。
少年の身体の奥にある、小さな流れを探そうとした、そのときだった。
「如月さん」
聞き覚えのある声に、礼は目を開けた。
入口には、昨日と同じギルド職員が立っている。
「……おはようございます」
「おはようございます」
礼は立ち上がった。
「家族には確認しました。お父さんも、教えていいって」
「はい。報告は受けています」
「じゃあ――」
「それについてなのですが」
職員は言いにくそうに一度言葉を切った。
「もう少しだけ、待っていただけますか」
礼は眉を寄せた。
「何を?」
「エルンさんへの童術の教授についてです」
「……どうしてですか?」
「現在、確認を行っています」
「何の?」
「非冒険者への童術教授についてです」
礼は昨日の会話を思い返した。
家族の了承を確認してほしい。
だから確認した。
父親は了承した。
エルン自身も望んでいる。
「お父さんは、いいって言いました」
「承知しています」
「エルンも習いたいって言ってます」
「それも承知しています」
「じゃあ……」
礼は職員の顔を見た。
「何を確認するんですか?」
「今後の取り扱いについてです」
「誰が?」
「……ギルドで」
「グレイグさんが?」
職員は一瞬、答えを躊躇した。
「ギルドとしてです」
その答えに、礼はそれ以上言葉を続けられなかった。
怒っているわけではない。
ただ、分からなかった。
「どのくらい待てばいいですか?」
「まだ、お答えできません」
「今日だけ?」
「分かりません」
「じゃあ、明日は?」
「申し訳ありません」
礼はエルンを振り返った。
訓練場の中央に座ったまま、少年はこちらを見ていた。
昨日、初めて童力を感じたときのような笑顔はなかった。
「……分かりました」
礼が答えると、職員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご協力、ありがとうございます」
その背中が訓練場から消えるまで、礼は何も言わなかった。
「礼」
リオが近づいてくる。
「……うん」
「どうする?」
礼は少し考えてから、エルンのもとへ戻った。
「ごめん。今日は童術の続き、できないみたい」
「……俺、何か駄目でした?」
「違うよ」
礼はすぐに否定した。
「エルンは何も悪くない」
「じゃあ……」
「俺にも、まだ分からない」
エルンは俯いた。
その顔を見て、礼は少し考える。
やがて訓練用の木剣を一本取り、少年へ差し出した。
「でも、今日はこれをやろう」
「……剣?」
「冒険者になりたいんだろ?」
エルンが顔を上げる。
「はい」
「なら、童術がなくても覚えられることはあるよ」
少年は木剣を見つめ、やがて両手で受け取った。
「……お願いします」
「うん」
その日も、訓練は始まった。
バルトが大きな音を立てれば、ハインが注意する。ノアは何度も剣を振り、ディンは周囲の童力へ意識を向け、リオの放った矢が乾いた音を立てて的へ突き刺さる。
いつもと変わらない訓練場だった。
ただ一人。
エルンだけが、童力を使わなかった。
◇
昼休み。
礼は日陰に腰を下ろし、膝の上でノートを開いていた。
エルン。十五歳。パン屋手伝い。
童力感知――確認。
家族――了承。
そこまで書いて、ペンが止まる。
「まだ考えてる?」
隣へ腰を下ろしたリオが、礼のノートを覗き込んだ。
「うん」
「珍しいな。研究のことなら飯食いながらでも書いてるくせに」
「これは研究じゃないから」
「そうだな」
礼はノートへ視線を落としたまま尋ねた。
「リオ」
「ん?」
「ギルドが確認するって言ってたよね」
「ああ」
「何を確認するんだろう」
「さあな」
「エルンのお父さんはいいって言ってる」
「うん」
「エルンもやりたいって言ってる」
「うん」
「俺も教えたい」
リオは何も言わなかった。
風が吹き抜け、開いたノートの頁をめくろうとする。礼は片手でそれを押さえた。
昨日、名簿を提出した。
求められたから、十三人全員へ確認して名前を書いた。
今日は家族の了承を求められた。
それも必要なことだと思ったから、直接会いに行った。
父親は了承した。
それでも、まだ待ってほしいと言われた。
禁止されたわけではない。
教えるなと言われたわけでもない。
ただ、少し待ってほしい。
それだけだ。
なのに、胸の奥には小さな引っかかりが残っていた。
「……じゃあ」
礼は、誰に聞かせるでもないような声で呟いた。
「俺たちは、誰の許可を待ってるんだろう」
リオはすぐには答えなかった。
礼も答えを求めなかった。
少し離れた場所では、エルンがノアから剣の握り方を教わっている。何度失敗しても、少年は楽しそうに木剣を振っていた。
礼はしばらくその姿を眺めてから、ノートへ一行を書き加えた。
『エルン――童術訓練、保留』
たったそれだけの文字だった。
けれど礼は、なぜかすぐに次の頁へ進むことができなかった。
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これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




