第四十七話 知らない名前
訓練場の隅に置いた木箱が、朝から三度目の修理を必要としていた。
「だから、そこに置くなって言っただろ」
リオが呆れた声を出す。
「俺は当ててねえよ」
バルトは折れた板を拾いながら答えた。
「じゃあ誰が壊したんだよ」
「木箱が勝手に壊れたんだろ」
「そんなわけあるか」
礼は二人のやり取りを聞きながら、木箱の中身を確かめた。幸い、入っていた訓練用の木剣は無事だった。箱そのものは、側面に大きな穴が開いている。
「……バルトさん」
「何だ」
「昨日も同じところ壊しましたよね」
「昨日のは別の箱だ」
「そういう問題じゃないです」
リオが吹き出した。
バルトは不満そうに鼻を鳴らしたが、板を捨てることはせず、壊れた箱を訓練場の端へ運んでいった。あとで直すつもりなのだろう。力の加減は相変わらず苦手だが、壊したものを放っておく人間ではなかった。
礼はノートを開き、昨日の続きに目を通した。
ノアの一点集中は、短い距離なら安定してきた。ディンの感知は、相手が意図的に童力を動かしたときほど正確になる。一方、何も知らされずに周囲の変化を捉える訓練では、まだ見落としが多い。
得意なことが分かったからといって、すぐに使いこなせるわけではない。
むしろ、ここからが長いのだと思う。
「礼さん、これでどうですか」
ノアが剣を構えた。
礼はノートを閉じ、彼の右腕へ目を向ける。童力が肩から肘へ、肘から手首へと流れ、剣を握る指先でわずかに滞った。
「さっきよりいい。でも、最後に少し止まってる」
「手首ですか?」
「たぶん。もう一回、ゆっくりやってみて」
ノアが頷き、剣を下ろした。
その向こうでは、ハインがディンの訓練に付き合っている。リオは弓を持った二人に、童力を矢へ移すときの感覚を説明していた。
皆が別々のことをしている。
少し前までは、礼が一人ずつ見なければ訓練が進まなかった。それが今では、リオもハインも、礼が気づかなかった癖を見つけて教えている。
礼はその光景を見るのが好きだった。
自分の知らないところで、誰かができることを増やしている。
それが、何だか嬉しかった。
「すみません!」
訓練場の入口から、少し高い声がした。
振り返ると、見覚えのない少年が立っていた。年は十五、六歳くらいだろうか。使い込まれた上着を着て、肩から布袋を提げている。走ってきたのか、頬が赤かった。
「ここに、如月礼さんっていますか?」
「俺ですけど」
礼が答えると、少年の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!」
勢いよく一歩踏み出した少年は、そこで周囲の視線に気づいたらしい。慌てて足を止め、深く頭を下げた。
「す、すみません。突然来て」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「俺、童術を教わりたくて!」
少年は顔を上げた。
緊張しているようだったが、目だけはまっすぐ礼を見ていた。
「ここに来れば、教えてもらえるって聞いたんです」
「誰から?」
「市場で働いてる人です。ここのこと、結構みんな話してますよ」
「そうなんだ」
礼は少し驚いた。
訓練場へ見学に来る人は以前からいたが、わざわざ礼を訪ねてくる人は、まだそれほど多くない。
「名前、聞いてもいい?」
「エルンです!」
「エルン。俺は礼。よろしく」
「はい!」
差し出した手を握ると、エルンはひどく嬉しそうに笑った。
その様子を見て、礼も自然と笑顔になる。
「童術に興味があるんだね」
「あります! 俺、魔術はほとんど使えないんですけど、童術なら魔力が少なくても使えるって聞いて」
「うん。魔力とは違う力だからね。ただ、誰でもすぐ使えるわけじゃないけど」
「分かってます。だから、まず試してみたくて」
礼は頷いた。
魔力が少ない。
その言葉を聞くと、どうしても昔の自分を思い出す。エルンがどんな暮らしをしているのかは知らない。それでも、今ここへ来るまでに何度も迷ったのだろうということは、握った手の汗から何となく伝わってきた。
「じゃあ、まず話を聞こうか。今は何をしてるの?」
「親父の店を手伝ってます。荷物を運んだり、配達したり」
「冒険者ではないんだ」
「はい。あ、でも、いつかはなりたいと思ってて」
エルンは少し照れたように笑った。
「童術を覚えたら、俺にもできることが増えるかなって」
「……そっか」
礼は、すぐに教えられるとは言わなかった。
童力を感じられるかどうか、まだ分からない。それに、本人が望んでいても、訓練には時間がかかる。店の仕事があるなら、通える日も限られるだろう。
けれど、試すことはできる。
「少し待ってて。今の訓練が一区切りついたら、一緒にやってみよう」
「本当ですか!」
「うん」
「ありがとうございます!」
エルンはもう一度、深々と頭を下げた。
その声が大きかったせいで、木箱を運んでいたバルトまで振り返った。
「何だ、新入りか?」
「まだ分かりません」
「礼、そういうときはまず童貞か聞くんじゃねえのか」
「バルトさん!」
礼は思わず声を上げた。
エルンがきょとんとする。
「……童貞?」
「気にしなくていいから!」
「いや、そこ大事だろ」
「大事ですけど、いきなり聞かなくても!」
リオが弓を下ろし、腹を抱えて笑い始めた。
「お前、最初に俺には聞いたじゃねえか!」
「それは……!」
「俺、あのとき何を教わるのかと思ったぞ」
「もういいだろ、その話!」
エルンは三人を見比べ、やがてつられたように笑った。
礼は顔が熱くなるのを感じながら、訓練用の木剣を取りに戻った。
◇
昼前には、エルンもすっかり訓練場の空気に馴染んでいた。
最初は遠慮がちに端へ座っていたが、ノアに声をかけられてからは、訓練の合間にあれこれ質問している。
「じゃあ、剣に童力を流せるんですか?」
「俺はまだ、ちょっとだけな」
「それでもすごいです!」
「礼さんやリオさんは、もっとすごいぞ」
「知ってます! リオさんは矢にも使えるんですよね」
少し離れた場所で話を聞いていたリオが振り返った。
「よく知ってるな」
「市場で聞きました。弓がすごく上手いって」
「そっちは童術関係なく褒めてほしいな」
リオが笑う。
エルンは真剣な顔で頷いた。
「はい! 弓もすごいって聞きました!」
「素直だなあ」
リオは苦笑しながら、弓を肩へ掛けた。
「それなら、あとで一本見せてやるよ」
「いいんですか!」
「的に当てるだけだけどな」
エルンは嬉しそうに何度も頷いた。
礼はその様子を見ながら、ノアの剣の握り方を直していた。少し力が入りすぎている。肩を緩めるよう伝えると、ノアは深呼吸して構え直した。
「そう。今の方がいい」
「……確かに、動かしやすいです」
「童力を集める前に身体が固まってると、流れも――」
「あっ」
エルンが何かを思い出したように声を上げた。
「ディンさんも、すごいんですよね!」
ディンが顔を向ける。
「俺?」
「はい! ほかの人の童力が動くの、分かるんでしょう?」
礼の手が止まった。
ディンも少し驚いた顔をした。
「……誰に聞いた?」
「え?」
「いや、別にいいけど。そんな話まで広まってるんだなって」
エルンは不思議そうに首を傾げた。
「昨日、聞きました」
「昨日?」
「はい。市場に来てた人が、ここの人たちの話をしてて」
礼はエルンを見る。
昨日。
ディンが他人の童力を感知するのに向いていると分かったのは、昨日の訓練だった。
それ以前にも、ディンは周囲の変化に気づくことがあった。だが、それを一つの得意分野として確かめたのは、つい最近のことだ。
「その人、訓練を見に来てたのかな」
礼が尋ねると、エルンは首を横に振った。
「分かりません。俺が店にいたときには、もう話してたので」
「どんな人だった?」
「ええと……」
エルンは考え込んだ。
「背が高くて、灰色の上着を着てました。旅の人かなって思ったんですけど、町のことにも詳しかったです」
「名前は?」
「聞いてないです」
「そっか」
礼はそれ以上、尋ねなかった。
エルンは何も悪いことをしていない。ただ、聞いた話を教えてくれただけだ。
けれど、リオは弓を持ったまま、しばらく黙っていた。
「エルン」
「はい」
「その人、ディンのこと以外にも何か言ってた?」
「えっと……」
エルンは指を折りながら思い出す。
「礼さんがみんなに童術を教えてるって。リオさんが最初に教わった人で、バルトさんは力が強くて……あと、ここに来れば見学できるって」
「なるほど」
「それで俺、来てみたんです」
「そっか。教えてくれてありがとな」
リオが笑うと、エルンもほっとしたように笑った。
それからリオは礼へ目を向けた。
何か言いたそうだったが、すぐには口を開かなかった。
◇
午後の訓練が終わる頃、エルンは初めて童力を感じた。
最初は、礼が説明するたびに首を傾げていた。
身体の奥へ意識を向ける。
魔力とは別の流れを探す。
何も感じないまま、何度も目を閉じる。
礼も、焦らせないようにした。自分が最初に童力を感じたときのことを思い出しながら、言葉を変え、休憩を挟み、エルン自身が感じたことを聞いた。
夕方近くになって、エルンが急に顔を上げた。
「……あれ?」
「どうした?」
「今、何か」
礼は身を乗り出しかけ、慌てて止まった。
「どんな感じ?」
「分かんないです。お腹の奥が、ちょっと温かいような……でも、魔力を動かしたときとは違って」
「うん」
「これ、そうですか?」
「まだ分からない。もう一回、同じことできる?」
エルンは目を閉じた。
礼は隣で待つ。
しばらくして、少年の身体の奥に、かすかな流れが生まれた。
弱く、頼りない。
それでも確かに、魔力とは違う。
「……うん」
礼は笑った。
「感じられてると思う」
「本当ですか?」
「うん。まだ少しだけど」
エルンは目を大きく開いた。
それから、自分の両手を見下ろした。
「俺にも……?」
「そうだね」
「俺にも、できるんだ」
声が震えていた。
礼は何も言わず、少年がもう一度目を閉じるのを待った。
すぐに流れは消えた。
けれどエルンは、今度は落ち込まなかった。
「もう一回やってみます!」
「今日はここまでにしよう」
「えっ」
「初めてだから。無理すると、明日何ができたか分からなくなるかもしれないし」
「……明日?」
エルンが顔を上げる。
「また来てもいいんですか?」
「もちろん。仕事の都合がよければだけど」
「来ます!」
即答だった。
礼は笑った。
「じゃあ、お父さんにも話しておいて。訓練に通うなら、時間も必要になるから」
「はい!」
エルンは何度も礼へ頭を下げ、訓練場を出ていった。
門のところで一度振り返り、大きく手を振る。
礼も手を振り返した。
少年の姿が通りの向こうへ消えてから、リオが隣へ来た。
「嬉しそうだったな」
「うん」
「礼も」
「……そう?」
「顔に出てた」
礼は少し照れくさくなって、ノートを開いた。
今日の記録へ、エルンの名前を書き加える。
年齢。
仕事。
初めて感じたときの様子。
まだ正式に訓練を始めたわけではない。けれど、次に来たとき、今日のことを忘れずにいたかった。
「礼」
「何?」
「ちょっといいか」
リオの声が、いつもより静かだった。
礼は顔を上げる。
「さっきの話なんだけど」
「エルンの?」
「うん。ディンのこと」
「ああ……」
礼はノートを閉じた。
「昨日の訓練、誰か見てたのかな」
「見てた可能性はある」
リオは訓練場の奥へ目を向けた。
ディンの感知を確かめた場所は、建物の陰に近い。入口からは見通しが悪く、通りを歩いているだけでは何をしているのか分からない。
「でも、見てただけで分かるか?」
「……何をやってたか?」
「そう。ディンが目を閉じて、ハインが童力を動かしてる。それだけ見ても、何の訓練かまでは分からないだろ」
礼は考えた。
確かに、見ただけでは分からないかもしれない。
誰かが会話を聞いていたのか。
訓練に参加していた人から話が伝わったのか。
あるいは、エルンが聞いた話の中に、たまたまディンのことが混ざっていただけなのか。
「……でも、別に隠してたわけじゃないよ」
「それはそう」
「ディンだって、嫌なら人に言わないでって言うと思うし」
「うん」
リオは頷いた。
否定しない。
だから礼は、少しだけ安心した。
「エルンも悪い子じゃなかったし」
「俺もそう思う」
「じゃあ……」
「礼」
リオが、こちらを見た。
「あの子が嘘をついてるとは思わねえよ」
「……うん」
「でも、あの子に教えた奴は、俺たちの何を知ってるんだろうな」
礼は答えられなかった。
風が吹き、訓練場の土が薄く舞った。
少し離れたところでは、バルトが壊した木箱を直している。ノアが板を押さえ、ディンが釘を渡していた。
いつもどおりの夕方だった。
それでも礼は、訓練場の入口をもう一度見た。
そこには、誰もいなかった。
◇
同じ日の夜。
冒険者ギルドの二階では、まだ明かりが消えていなかった。
グレイグは机に向かい、届いた書簡を読んでいた。
封蝋はすでに割られている。
差出人は、数日前に童術使用者の詳細情報を要求してきた相手と同じだった。
今回の文面は、前回よりも短い。
礼を含む童術使用者の氏名、所属、訓練場所および教授内容について、回答期限が過ぎていること。速やかな提出を求めること。そして、今後の対応について協議の場を設けたいということ。
グレイグは最後まで読み、書簡を机へ置いた。
「……急ぐものだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
机の引き出しには、礼が提出した十三人分の名簿が入っている。鍵は、グレイグ自身が持っていた。
彼は引き出しを開けなかった。
代わりに新しい紙を取り出し、返答を書き始める。
数行を書いて、ペンを止めた。
もう一度、相手の書簡を見る。
それから、先ほどの文を消し、書き直した。
今度は短かった。
『要求された情報について、提出の予定なし』
グレイグは署名を入れ、紙を折った。
窓の外には、夜のローデンが広がっている。大通りの店はほとんど閉まり、時折、遅い時間に帰る冒険者の声が聞こえてきた。
グレイグはしばらく窓を見ていた。
やがて書簡を封筒へ収め、呼び鈴を鳴らす。
入ってきた職員へ封筒を渡すと、いつもどおりの声で言った。
「明朝、届けてくれ」
「承知しました」
職員が退室する。
扉が閉まってから、グレイグは机の上に残った相手の書簡へ目を落とした。
そこには、童術使用者の情報を求める理由が、もっともらしい言葉で並べられていた。
安全のため。
秩序のため。
今後の混乱を避けるため。
グレイグは書簡を裏返した。
そして、机の引き出しに鍵がかかっていることを確かめると、ようやく部屋の明かりを消した。
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