第四十二話 数えられる者たち
翌朝。
礼は、いつもより少し遅く目を覚ました。
窓から差し込む光はすでに高く、薄いカーテンの向こうで春の日差しが白く滲んでいる。外からは荷車の車輪が石畳を転がる音と、通りを行き交う人々の声が聞こえていた。
しばらく天井を眺める。
「…………」
何かがおかしい。
礼は枕元へ手を伸ばした。
いつも置いてあるノートを取り、開く。
昨夜までに書いた記録へ目を通し、次に調べる項目を頭の中で並べ始めたところで、扉が開いた。
「何してんだよ」
リオだった。
「起きたところ」
「それは見れば分かる」
「昨日の記録を――」
「今日は休み」
言われて。
礼は思い出した。
「あ」
「あ、じゃない」
リオが部屋へ入り、礼の手からノートを取り上げた。
「返して」
「駄目」
「読むだけだから」
「昨日そういう話しただろ」
「研究するとは言ってないよ」
「読むところから始まるんだよ、お前は」
ぱたん、とノートが閉じられる。
礼は少し不満だった。
しかし昨日、確かに休むと約束した。
「……分かったよ」
「よし」
「じゃあ何するの?」
「知らん」
「決めてないの?」
「休みってのは、何もしないためにあるんだよ」
「何もしないって、何するの?」
「…………」
リオが眉間を押さえた。
「お前、たまに本気で心配になるよ」
「なんで?」
「もういい。飯行くぞ」
そう言ってリオが出ていく。
礼はベッドから下りた。
机の上には、何冊ものノートが積まれている。
童力。
身体強化。
循環。
武器への付与。
外部放出。
障壁。
童癒。
童貞破。
それ以外にも、被験者ごとの適性や訓練方法を記したものが増えた。
昔は、一冊で足りていた。
自分にしか分からないことを書き、自分だけが読めればよかった。
今は違う。
礼はノートから目を離した。
「……休みか」
少しだけ落ち着かない。
それでも今日は、閉じておくことにした。
◇
「礼!」
宿を出たところで、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返る。
道の向こうから、バルトが歩いてくる。
その後ろにはハインと、最近童力を扱えるようになった二人の男がいた。
「おはよう」
「おう。ちょうどよかった」
バルトが片手を上げる。
「これから訓練場行くんだけどよ」
「今日は休み」
「……は?」
「全員」
「聞いてねえぞ」
「今決めた」
「今!?」
後ろでリオが笑った。
「こいつ昨日まで休む気なかったからな」
「だったら俺らはやってもいいだろ」
「駄目」
「なんでだよ」
「俺が休んでるのにバルトたちが訓練してたら、気になるから」
「お前の都合じゃねえか!」
礼は少し考えた。
「じゃあ、軽い循環訓練だけ――」
「礼」
リオが睨む。
「……なしで」
「よろしい」
ハインが小さく笑った。
「たまにはいいんじゃないか。最近ずっと依頼か訓練だったし」
「そうだけどよ」
バルトは不満そうだ。
その腰には、いつもの小袋が下がっている。
礼はそこへ目を向けた。
「石は持ってるんだ」
「これは訓練じゃねえ」
「じゃあ何?」
「……お守りだ」
「石が?」
「見るな」
バルトが小袋を手で隠す。
礼は少し笑った。
川では駄目だった。
草でも、木でも駄目だった。
それなのに、何の変哲もない灰色の石を見つめたときだけ、バルトは自分の身体状態を意識的に変化させ、童力量を引き上げることができた。
今では本人もその状態を、石を見ずにある程度維持できる。
それでも石は持ち歩いている。
「名前つけた?」
「つけねえよ」
「童石」
「やめろ」
「いいと思うけど」
「思うな!」
そんなやり取りをしながら歩き始める。
目的地は決めていなかった。
途中で屋台を見つければ何か買い、知り合いの冒険者を見かければ立ち話をする。
何もしていない。
本当に、何もしていない。
礼には少し不思議だった。
それなのに。
嫌ではなかった。
気づけば。
自分の周りには人がいる。
昔は、一人で歩くことの方が普通だった。
誰かと歩くときは、その後ろについていった。
今は。
「礼、そっちじゃないぞ」
「え?」
「どこ行こうとしてんだよ」
「……考え事してた」
「休みの日くらい頭も休ませろ」
リオに肩を引かれる。
礼は笑った。
そのまま皆の後を追った。
◇
昼を少し過ぎた頃。
礼たちは広場の端にある露店で昼食を取っていた。
焼いた肉を薄いパンで挟んだ簡単なものだったが、香辛料がよく効いている。
バルトが三つ目を買うか真剣に悩んでいるところへ。
「如月礼さん」
声をかけられた。
「はい?」
振り向く。
ギルド職員の男が立っていた。
礼も何度か見たことがある。受付ではなく、依頼の管理や冒険者間の揉め事を扱っている男だった。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「何かありました?」
「ギルド長がお話ししたいそうです」
「ギルド長が?」
礼は手に持っていたパンを見る。
まだ半分残っている。
「今ですか?」
「急ぎではありません。食事を終えてからで結構です」
「分かりました」
職員は一礼して去っていった。
礼は残ったパンを食べる。
「……何だろう」
ハインが言った。
「依頼じゃないのか?」
「だったら普通に受付から話が来ると思う」
リオの言葉に、礼も頷いた。
「ギルド長か」
昨日。
セイルに言われたことが頭をよぎった。
――君たちはもう、自分たちだけで研究しているわけじゃない。
「礼?」
「ん?」
「どうした」
「……何でもない」
礼は最後の一口を食べた。
◇
ローデン冒険者ギルド。
何度来たか分からない場所だった。
依頼を受け。
報酬を受け取り。
怪我をした冒険者を見たこともあれば、討伐成功を祝って酒を飲む者たちを見たこともある。
礼にとっては、もう見慣れた場所だ。
だから。
二階へ上がるのは、少しだけ変な感じがした。
「どうぞ」
職員が扉を開ける。
中には大きな机が一つ。
壁際には棚が並び、依頼書や記録と思われる紙束が収められている。
机の向こうには、五十代ほどの男が座っていた。
ローデン冒険者ギルドのギルド長、グレイグ。
礼も顔と名前は知っている。
しかし、直接話したことはほとんどなかった。
「如月礼です」
「ああ。わざわざすまない」
「いえ」
「座ってくれ」
勧められた椅子へ座る。
リオも一緒だった。
本来なら礼だけでよかったのだが、礼が「リオも研究者なので」と言ったところ、特に断られなかった。
「まず」
グレイグは机の上で手を組んだ。
「誤解のないように言っておこう。何か問題を起こしたという話ではない」
「はい」
「むしろ逆だ。君たちには随分助けられている」
グランドラの討伐。
鉱山。
街道。
その他にも、この二年間で受けた依頼は多い。
「君たちの働きについては、こちらも高く評価している」
「ありがとうございます」
「その上で、確認しておきたいことがある」
「童術ですか?」
グレイグが僅かに眉を上げた。
「……話が早いな」
「昨日、知り合いに少し言われたので」
「そうか」
机の上に、一枚の紙が置かれた。
「現在、童術を扱える人間は何人いる?」
礼は少し考える。
「ちゃんと使える人なら……十三人です」
「十三」
「感知だけなら、もう少しいます」
グレイグが紙へ何かを書き込む。
羽根ペンが紙を擦る音がした。
「全員、君が教えた?」
「最初は俺です。でも最近は、リオやハインたちが教えることもあります」
ペンが止まった。
「他の者も教えられるのか?」
「はい」
「なるほど」
また。
紙を擦る音。
「十三人全員が冒険者か?」
「いや」
今度はリオが答えた。
「冒険者じゃない奴もいる」
「何人だ?」
「えっと……」
二人で顔を見合わせる。
礼が頭の中で数えた。
「四人です」
「四人」
書き込まれる。
「彼らは?」
「一人は商家の手伝いをしてます。一人は鍛冶屋の見習い。あとの二人は……」
「片方は宿で働いてる」
リオが補足する。
「ああ、そうだった」
「もう一人は今仕事探してるはずだ」
「そうそう」
グレイグは頷きながら記録していく。
礼はそれを眺めていた。
特に変な質問ではない。
人数を聞かれただけだ。
それなのに。
なぜか。
昨日までとは少し違うものを感じた。
「童術を教える相手に、何か条件は?」
「あります」
「どんな?」
「まず童力を感じられることです」
「誰でも感じられるわけではない?」
「はい」
「他には?」
礼は一瞬だけ黙った。
リオを見る。
リオも礼を見た。
グレイグがそれに気づく。
「言いにくいことか?」
「……いや」
礼は答えた。
「童貞であることです」
「…………」
静かになった。
「……何?」
「童貞です」
「…………」
グレイグがリオを見る。
リオは頷いた。
「俺たちが調べた範囲だと、今のところ全員そうです」
「…………」
グレイグは羽根ペンを置いた。
「すまない。念のため確認するが」
「はい」
「今のは冗談ではないんだな?」
「はい」
礼は真顔だった。
グレイグはしばらく二人を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
羽根ペンを取り直す。
礼は、紙へ何と書かれたのか少し気になった。
「では、童力を感じられる者で、かつ童貞である者に教えている?」
「正確には、童貞でも感じられない人はいます」
「なるほど」
「でも今まで童力を使えた人は、全員童貞でした」
「そうか」
また書かれる。
「今後も増やすつもりか?」
「増やす?」
「童術を扱う人間を」
礼は首を傾げた。
「使いたい人が来れば」
「人数に上限は?」
「考えたことないです」
「では、仮に百人来たとして。その全員に適性があれば教える?」
「…………」
礼は考えた。
百人。
さすがに一人では教えきれない。
しかしリオたちもいる。
「時間はかかると思いますけど」
「教える、と?」
「本人が使いたいなら」
グレイグはすぐには書かなかった。
「なぜ?」
「え?」
「なぜ教える?」
質問の意味が分からず、礼は瞬きをした。
「使いたいって言ってるからです」
「金を取っているわけではない?」
「取ってません」
「何か見返りを?」
「別に」
「君の指示に従うよう求めたりは?」
「してません」
「では、なぜ?」
もう一度。
同じことを聞かれる。
礼は困った。
「……使えるのに」
少し考えてから答える。
「使いたい人に教えない理由って、あります?」
グレイグは黙った。
礼には本当に分からなかった。
自分が魔術を使えなかった頃。
教えてもらえることが嬉しかった。
セイルから本をもらったときも。
魔力を感じる方法を教わったときも。
結局、自分に魔術の才能はほとんどなかった。
それでも。
誰かが知っていることを教えてくれるというのは、それだけでありがたかった。
だから。
自分が知っていることを。
必要としている人に教えている。
ただ、それだけだった。
「……そうか」
グレイグは再びペンを動かした。
しばらくして。
「今日聞きたかったのは、ひとまずこれだけだ」
「これだけ?」
「ああ」
「何か問題あります?」
「今のところは何も」
礼はその言葉に、僅かな違和感を覚えた。
「今のところ?」
「深い意味はない」
グレイグは紙をまとめる。
「童術を扱う者が増えている以上、ギルドとしても実態を把握しておく必要がある。それだけだ」
「……分かりました」
「今後、人数が大きく増えた場合は知らせてほしい」
「はい」
「それと」
グレイグの目が、礼へ向く。
「冒険者ではない者へ教える場合、できれば慎重に頼む」
「どうして?」
「童術がどこまでのことをできるのか、我々にもまだ分かっていないからだ」
礼は少しだけ考えた。
「危険だから?」
「可能性の話だ」
グレイグの声は穏やかだった。
「剣を持つ者が増えれば、剣による事件が増える。魔術を使える者が増えれば、魔術を悪用する者も出る」
「…………」
「童術だけが例外とは限らないだろう?」
礼は反論しなかった。
確かに。
それは、その通りだった。
「分かりました。気をつけます」
「ああ。それでいい」
話は終わった。
最後まで。
グレイグが礼を責めることはなかった。
◇
「普通だったな」
ギルドを出て。
最初にそう言ったのはリオだった。
「うん」
「もっと面倒な話かと思った」
「俺も」
春の風が通りを抜ける。
礼は歩きながら、先ほどの話を思い返していた。
おかしなことは何も言われていない。
何人いるのか。
誰が使っているのか。
どういう人間に教えているのか。
それだけ。
「セイルさんが言ってたの、こういうことなのかな」
「かもな」
「でも、ギルド長は別に童術をやめろって言ってなかった」
「そりゃそうだろ。俺たち普通に依頼こなしてるし」
「だよね」
礼は頷いた。
少しだけ安心した。
昨日。
セイルの話を聞いてから。
自分でも気づかないうちに、身構えていたのかもしれない。
「考えすぎだったかな」
「まだ分からんけどな」
「……そういうこと言う?」
「警戒するのと怖がるのは別だろ」
リオが言う。
「俺たちだって、新しい童術を試すときは警戒するじゃん」
「それと同じ?」
「たぶん」
「そっか」
それなら。
礼にも理解できた。
分からないものを調べる。
危険がないか確かめる。
それは礼自身がずっとやってきたことだ。
「じゃあ、ちゃんと説明できるようにしないとな」
「また研究する気になってる」
「だって必要でしょ」
「今日は休み」
「今のはギルドから聞かれたことだから」
「休み」
「でも――」
「休み」
「…………」
礼は諦めた。
「分かったよ」
「よし」
リオが笑った。
二人は歩く。
いつもの道を。
何度も通ったローデンの大通りを。
◇
その日の夕方。
礼たちは久しぶりに、何の目的もなく食事をした。
バルト。
ハイン。
リオ。
それから、何人かの童術師。
気づけば十人近くが同じ店に集まっていた。
「だからこれは童石じゃねえって!」
バルトの声が響く。
「じゃあ何なんですか?」
新人の一人が聞く。
「ただの石だ!」
「ただの石を毎日持ち歩いてるんですか?」
「悪いか!」
「いや、別に……」
「笑うな!」
店の一角で笑い声が上がる。
礼も笑っていた。
「礼が変な名前つけるからだぞ!」
「俺?」
「お前以外誰がいるんだ!」
「童貞破は俺じゃないよ」
「それは俺」
リオが手を上げる。
「お前も反省しろ!」
「なんでだよ。定着しただろ」
「定着すりゃいいってもんじゃねえ!」
また笑い声。
料理が運ばれてくる。
皿が足りなくなり、店員が追加を持ってくる。
誰かが酒を頼む。
誰かが明日の訓練について話し始める。
「明日は休みじゃないですよね?」
「うん」
礼が答える。
「じゃあ朝から?」
「最初に循環。それから二人一組で外部放出の練習。まだ感知が安定してない人は別にする」
「先生、俺――」
「先生じゃない」
「もう諦めろよ」
リオが横から言った。
「嫌だよ」
「何でそんな嫌なんだ」
「先生って感じじゃないから」
「じゃあ師匠?」
「もっと嫌」
「童師」
「何それ」
「今考えた」
「却下」
「いいと思うけどなあ」
「却下」
周囲から笑い声が上がる。
礼はパンをちぎった。
温かかった。
料理も。
店の中も。
人の声も。
隣に座っているリオも。
全部。
少し前まで。
こんなに大勢で食事をすることなんてなかった。
初めは、自分一人だった。
次にリオが来た。
バルト。
ハイン。
それから一人。
また一人。
気づけば。
テーブルを一つでは囲めなくなっていた。
「……礼?」
リオが呼ぶ。
「ん?」
「何笑ってんの?」
「笑ってた?」
「うん」
礼は自分の頬に触れた。
気づかなかった。
「別に」
「何だよ」
「……なんか」
礼は皆を見る。
バルトがまだ石のことで新人と言い争っている。
ハインは笑いながら酒を飲んでいる。
明日の訓練について真剣に相談している者もいる。
それを眺めて。
礼は小さく息を吐いた。
「楽しいなと思って」
一瞬。
リオが黙った。
「……そっか」
「何?」
「いや」
リオは笑った。
「俺も」
「うん」
それだけだった。
それ以上は、何も必要なかった。
◇
同じ頃。
ローデン冒険者ギルド。
日が落ちても。
二階の一室には、まだ明かりが灯っていた。
グレイグは机に向かっていた。
昼間。
礼から聞いた内容を整理する。
十三名。
うち、冒険者九名。
非冒険者四名。
指導者――如月礼。
補助指導可能者、複数。
使用エネルギー――魔力ではない。
名称――童力。
技術体系――童術。
適性条件――不明。
本人たちの主張では、童貞であることが一条件。
グレイグの手が止まる。
「…………」
そこだけ。
何度読んでも意味が分からない。
しかし。
本人たちは至って真面目だった。
グレイグは小さく息を吐き、続きを書いた。
身体能力の強化。
武器強化。
防御。
治療。
遠距離への放出。
大型魔物を討伐可能な高威力攻撃。
確認されているものだけでも。
すでに、これだけある。
しかも。
発見者以外にも使用できる。
教えることができる。
十三人。
グレイグはその数字を見る。
一年前なら。
こんな紙を書く必要すらなかった。
如月礼という、少し変わった力を使う若い冒険者がいる。
それだけだった。
今は違う。
グレイグは紙の一番上へ目を戻した。
そこには。
最初に書いた文字がある。
――童術師。
しばらく見つめたあと。
グレイグはその紙を他の依頼書とは別の棚へ入れた。
鍵を閉める。
それだけだった。
誰かを捕らえたわけでもない。
童術を禁じたわけでもない。
礼へ命令したわけでもない。
この日。
ローデンでは何も起きなかった。
礼たちは笑いながら夕食を食べ。
明日の訓練について話し。
いつも通り眠りについた。
ただ一つ。
昨日まで存在しなかった記録が。
ギルドの棚に加わった。
《童術師――十三名》
礼たちが自分たちをそう呼び始めてから。
初めて。
世界の側もまた。
彼らを一つの集団として数え始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、ぜひ評価や感想をいただけると嬉しいです!
皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




