第四十一話 変わったもの
春を迎えたローデンは、冬の間に失っていた賑わいを取り戻していた。
日が沈んでも大通りには人が多く、開け放たれた酒場の扉からは、料理の匂いと笑い声が絶え間なく流れ出している。長い冬を越した反動なのか、どの店もここ数日は遅くまで客が残っていた。
その夜、礼もその中にいた。
「だから、明日は休みにしようって言ってるんだよ」
「別に俺は大丈夫だけど」
「礼が大丈夫でも、俺たちが大丈夫じゃないの」
向かいに座ったリオが、呆れたようにパンをちぎった。
テーブルには、煮込んだ肉と野菜、それに二人分のスープが並んでいる。リオの前にだけ酒の入った木杯が置かれていた。
礼はスープを一口飲んでから、首を傾げる。
「そんなに疲れてた?」
「昨日は朝から訓練。昼から依頼。帰ってきてから童貞破の圧縮時間を測って、そのあと夜中までノート書いてただろ」
「でも今日は普通だったよ」
「今日も朝から訓練してただろ」
「午前だけじゃん」
「その感覚がおかしいって言ってるんだよ」
リオがため息をつく。
礼は納得できなかったが、言われてみれば最近、似たようなことをバルトやハインにも言われていた。
研究したいことは、いくらでもある。
外部へ放出した童力を、どこまで遠くへ維持できるのか。
障壁は面ではなく曲面にもできるのか。
童癒で傷の治りが早くなる理由は何なのか。
童貞破の圧縮量と威力は、どこまで比例するのか。
教える人数が増えたことで、調べられることも増えた。
気づけば一日が終わっていることなど珍しくない。
「明日は全員休み」
リオが念を押す。
「分かったよ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんをつけるな」
礼が笑った。
そのときだった。
「……礼?」
聞き覚えのある声がした。
礼の手が止まる。
騒がしい酒場だった。
隣の席では冒険者たちが大声で笑い、奥では酔った男が歌っている。それでも、その声だけは不思議とはっきり聞こえた。
ゆっくり振り返る。
入口の近くに、一人の男が立っていた。
旅装の上から濃紺の外套を羽織っている。手には使い込まれた杖。少し伸びた髪の奥には、見覚えのある眼鏡。
顔立ちは以前より少し大人びている。
それでも。
忘れるはずがなかった。
「……セイルさん?」
「やっぱり」
セイルは驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「礼だ」
その声を聞いた瞬間。
礼の胸の奥で、何かがほどけた。
◇
「いやあ、本当に礼だったとは」
空いていた椅子を一脚借り、セイルがテーブルにつく。
「最初は似てるだけかと思ったよ。背も伸びたし、雰囲気もずいぶん変わったから」
「そんなに変わりました?」
「変わったよ」
セイルは眼鏡の位置を直しながら、礼の顔を改めて眺めた。
「最後に会ったときは、まだ十七だっただろう?」
「はい」
「今は?」
「二十歳になりました」
「……もうそんなになるのか」
セイルが懐かしそうに笑った。
「三年か」
三年。
口にされると、礼にも不思議な感じがした。
あの頃。
言葉は話せても文字すら満足に読めず、魔物の名前も、この世界の常識も知らなかった。
ガルドたちの後ろを歩き。
荷物を運び。
夜になれば焚き火を囲んだ。
「ガルドさんたちは?」
「元気だよ。今日は別行動だけどね」
「ミレナさんも?」
「相変わらず。最近、新しい弓を買ったって自慢してたよ」
「ボルグさんは?」
「相変わらず食べてる」
礼は吹き出した。
「変わってないですね」
「本人は『昔より食べる量は減った』と言っている」
「絶対嘘だ」
「僕もそう思う」
二人で笑った。
その様子を見ていたリオが、セイルへ軽く頭を下げる。
「リオです。礼と一緒に旅してます」
「セイルだ。礼とは……昔、少しだけ一緒に旅をしていた」
「少しだけ?」
礼が言う。
「俺にとっては結構長かったですよ」
「……そうだね」
セイルの笑みが、ほんの少しだけ変わった。
礼は気づいた。
けれど、それ以上は言わなかった。
あの日のことは、なくならない。
許したわけでもない。
それでも。
今こうして会えたことを、嬉しいと思っている。
その二つは、礼の中で矛盾しなかった。
「そういえば」
セイルが尋ねる。
「文字は?」
「読めますよ」
「本当に?」
「書く方も大丈夫です」
「それはすごいな」
「セイルさんにもらった本、かなり使いましたから」
「本?」
セイルが一瞬考える。
やがて目を見開いた。
「まさか、『初級魔術理論』?」
「はい」
「まだ持ってるの?」
「もちろん」
「…………」
セイルが黙った。
「どうしました?」
「いや」
少し俯き、笑う。
「そうか。まだ持ってるのか」
「捨てる理由ないですから」
「……ありがとう」
小さな声だった。
礼は返事をしなかった。
代わりに、残っていたパンを一口食べた。
それで十分な気がした。
◇
しばらくは、昔話が続いた。
初めて礼が野営をした日のこと。
料理を手伝おうとして、何をすればいいのか分からず立ち尽くしていたこと。
ボルグが一人で三人分の肉を食べ、ミレナに怒られたこと。
ガルドのいびきがうるさかったこと。
「そんなに酷かったですっけ?」
「酷かったよ。礼、最初の頃は眠れなくて耳塞いでただろ」
「……あったかも」
「何だそれ。俺も聞いてみたい」
リオが笑う。
「今度会ったら隣で寝れば?」
「嫌だよ」
酒場の喧騒に、三人の笑い声が混じった。
礼は楽しかった。
不思議な感覚だった。
昔の自分と。
今の自分が。
同じテーブルに座っているような。
そんな気がした。
やがて料理が減り。
リオの杯が二杯目になる頃。
セイルがふと尋ねた。
「ところで、礼」
「はい?」
「君が最近使っている力のことなんだけど」
礼は顔を上げた。
「童術ですか?」
「……やっぱり、そう呼ぶんだね」
「知ってるんですか?」
「知っている、というほどではないよ」
セイルは苦笑した。
「噂を聞いた程度だ」
「噂?」
「ローデンを中心に、魔力を使わない妙な術を扱う冒険者がいる。身体能力を大幅に高めたり、武器を強化したり、魔術とは違う障壁を作ったりするらしい――そんな話だよ」
「結構知られてるな」
リオが呟く。
「最近は治療までできるという話も聞いた」
「それも俺たちです」
礼が答える。
「それから、大型の魔物を一撃で吹き飛ばしたという話も」
「あー……」
リオが礼を見る。
礼もリオを見る。
「……それも俺です」
「やっぱり」
セイルが額へ手を当てた。
「何ですか?」
「いや。君ならやりそうだとは思っていたけど」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ」
笑ってはいる。
だが。
先ほどまでとは少し違った。
礼はそれを感じ取った。
「……セイルさん?」
セイルはすぐには答えなかった。
木杯に残っていた酒を一口だけ飲む。
置く。
「礼」
声が低くなった。
「少し、気をつけた方がいい」
礼の表情から笑みが消える。
「何にですか?」
「君の力を気にしている人たちがいる」
「……童術を?」
「ああ」
リオも杯を置いた。
セイルは周囲を一度見回した。
誰かがこちらを見ているわけではない。
酒場は変わらず騒がしい。
それでも、少し声を落とした。
「僕も魔術師だからね。各地の魔術師と話す機会がある。ギルドを通して情報が入ることもある」
「はい」
「最近、何度か聞かれたんだ」
「何を?」
「如月礼という人間を知っているか、と」
礼は黙った。
「どこで力を学んだのか。誰から教わったのか。何人くらいが使えるのか。本当に魔力を使っていないのか」
「…………」
「それから」
セイルが礼を見る。
「君が、何をしようとしているのか」
「何を……?」
礼は眉を寄せた。
「俺、別に何かしようとしてるわけじゃないですよ」
「分かっている」
「童術を調べて、使いたい人に教えてるだけです」
「それも分かっている」
「だったら、どうして?」
礼には本当に分からなかった。
魔物を倒した。
人を助けた。
童力を感じた者に、扱い方を教えた。
危険な使い方をしないように記録し、怪我をしない方法を考えた。
それだけだ。
「俺たち、悪いことしてませんよ」
「知っているよ」
セイルは迷わず答えた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「でもね、礼。人は、悪いことをした者だけを怖がるわけじゃない」
「…………」
「分からないものを怖がることもある」
酒場のどこかで、大きな笑い声が上がった。
誰かが木杯をぶつける音。
店員を呼ぶ声。
礼たちのテーブルだけが、そこから少し離れた場所にあるようだった。
「魔術には、長い時間をかけて積み上げられてきた理論がある。魔力をどう感じ、どう動かし、どう術式へ変換するのか。もちろん、僕たちだって全てを理解しているわけじゃない。それでも、ある程度は説明できる」
セイルは自分の杖へ視線を落とした。
「でも、君の童術は違う」
「…………」
「魔力を使わない」
「はい」
「なのに、魔術と似た結果を起こす」
「……はい」
「それどころか、魔術では難しいことまでやり始めている」
礼は答えなかった。
「礼」
セイルの視線が戻る。
「童癒というのは、本当に傷へ作用するのかい?」
「まだ完全には分かってません。でも、出血を止めたり、痛みを軽くしたりはできます」
「どうして?」
「……分かりません」
「障壁は?」
「童力を外に留めて、面みたいにしてます」
「なぜ、それで物理的な攻撃を止められる?」
「それも……まだ」
「大型魔獣を吹き飛ばしたものは?」
「圧縮した童力を一気に――」
そこで。
礼は口を閉じた。
セイルが何を言いたいのか。
ようやく少し分かった。
「説明できないんだ」
責める声ではなかった。
「…………はい」
「君自身にも」
「まだ、分からないことはたくさんあります」
「そうだろうね」
セイルは頷いた。
「そして今、その説明できない力を使える人間が増えている」
リオが腕を組んだ。
「十人ちょっとだぞ」
「十人“も”だよ」
「…………」
「礼一人なら、珍しい能力を持った人間で終わったかもしれない。でも、教えられる。増やせる。しかも、まだ十人」
セイルは言葉を選ぶように続けた。
「これが百人になったら?」
礼は答えられなかった。
「千人になったら?」
「そんなに増えるか分かりません」
「僕も分からない」
セイルは頷いた。
「だからこそ、気にする人が出てくる」
礼は自分の手を見た。
何も変わらない。
昔。
森の中で初めて感じた力。
魔力が使えなかったから。
死にたくなかったから。
自分で生きるために探した。
それだけだった。
いつの間に。
誰かに怖がられるようなものになったのだろう。
「……童術って」
礼が呟いた。
「そんなに変なものなんですか?」
セイルは少し考えた。
「僕から見れば?」
「はい」
「とんでもなく変だよ」
「…………」
「魔術師として言えば、滅茶苦茶だ」
リオが吹き出しそうになった。
「そこまで?」
「そこまでだよ」
セイルも少し笑う。
「初級魔術理論を渡した少年が、三年後に『魔力を使わない新しい術を作りました』なんて言ってるんだ。僕の立場にもなってほしい」
「俺も作るつもりで作ったわけじゃ……」
「しかも大型魔獣を吹き飛ばす」
「それは最近です」
「最近ならいいという話ではないよ」
礼も少し笑った。
張り詰めていたものが、僅かに緩む。
けれど。
セイルの忠告が消えたわけではない。
「誰が俺たちを調べてるんですか?」
「分からない」
「魔術師?」
「それもいると思う。研究者かもしれないし、ギルド関係者かもしれない。もっと別の立場の人間かもしれない」
「…………」
「だから、今の段階で必要以上に怖がることはない」
セイルははっきりと言った。
「ただ、覚えておいてほしい」
礼を見る。
「君たちはもう、自分たちだけで研究しているわけじゃない」
その言葉が。
礼の中へ残った。
◇
店を出る頃には、夜もかなり深くなっていた。
大通りを歩く人の数も減り、昼間の暖かさが嘘のように冷たい風が吹いている。
リオは先に宿へ戻った。
「久しぶりなんだから、二人で話せよ」
そう言って。
礼とセイルは並んで歩いた。
昔も。
こうして歩いたことがあった。
けれど、あの頃は。
礼が少し後ろだった。
今は、隣を歩いている。
「礼」
「はい」
「さっきの話」
「……童術のこと?」
「ああ」
セイルは前を見たまま歩く。
「怖がらせたなら、ごめん」
「大丈夫です」
「本当に?」
「ちょっとは怖いですけど」
「そうだよね」
「でも」
礼は夜空を見上げた。
「やめるつもりはないです」
セイルが礼を見る。
「童術を?」
「はい」
迷いはなかった。
「まだ分からないことがいっぱいあるし。できることも増えてるし。それに……」
礼は少し考える。
「童術を使えるようになって、喜んでる人もいるから」
リオ。
バルト。
ハイン。
他の者たち。
魔力が弱かった者もいる。
戦えなかった者もいる。
守りたいものがあって、力を求めた者もいる。
「俺が勝手にやめるのも、違うと思います」
「……そうか」
セイルはそれ以上何も言わなかった。
しばらく二人の足音だけが続く。
やがて。
宿の明かりが見えてきた。
「じゃあ、僕はここで」
「はい」
「ガルドたちにも伝えておくよ」
「何を?」
「礼は元気だったって」
「お願いします」
「ミレナも喜ぶと思う。ボルグは……たぶん飯に誘う」
「行きますよ」
「覚悟しておいた方がいい」
セイルが笑った。
礼も笑う。
「……セイルさん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
「何が?」
「教えてくれて」
「…………」
セイルは少し黙った。
「礼」
「はい」
「一つだけ」
セイルは礼へ向き直った。
「僕は、君に童術をやめろと言いに来たわけじゃない」
「…………」
「僕は知っているからね」
静かな声だった。
「君が、何も持っていなかった頃を」
礼の目が僅かに見開かれる。
「魔力がほとんど使えなくて。それでも諦めきれなくて。僕の本を何度も読んでいた」
「……はい」
「それで結局、魔術とは全然違うものを見つけてしまった」
セイルが苦笑する。
「本当に、君らしいと思うよ」
「俺らしい?」
「他人から与えられた答えで駄目なら、自分で答えを作る」
「…………」
礼は何も言えなかった。
そんな立派なことをしたつもりはない。
ただ。
生きたかった。
それだけだった。
「童術は」
セイルが続ける。
「君が自分で見つけた答えなんだろう?」
礼は少しだけ考えた。
そして。
「……はい」
頷いた。
「なら、大切にするといい」
「…………」
「ただし」
セイルの表情が少しだけ真剣になる。
「君が大切にしているものを、世界中の人間が同じように大切にしてくれるとは思わない方がいい」
冷たい風が吹いた。
礼の髪が揺れる。
「それだけは、覚えておいて」
「……はい」
セイルは頷いた。
数歩歩き。
ふと立ち止まった。
「ああ、それと」
「?」
振り返る。
「強くなったね、礼」
「……そうですか?」
「強くなったよ」
礼は少し照れくさくなった。
「童貞破、見たんですか?」
「何?」
「え?」
「…………」
「…………」
数秒。
沈黙。
「礼」
「はい」
「今、何て?」
「童貞破」
「…………」
セイルが眼鏡を外した。
目頭を押さえる。
「……君たちは本当に、それを技名として使っているのかい?」
「俺がつけたんじゃないです」
「そこは重要じゃない」
「リオが勝手に」
「そういう問題でもない」
「でも定着しちゃって」
「…………」
セイルは長い息を吐いた。
「さっきまで、童術を恐れる人間がいるという話をしていたけど」
「はい」
「少しだけ、彼らの気持ちが分かった」
「なんで!?」
セイルが笑った。
礼もつられて笑う。
「じゃあね、礼」
「はい」
数歩。
セイルが離れていく。
「礼」
もう一度。
名前を呼ばれた。
礼は顔を上げる。
少し離れた場所で。
セイルは、昔と変わらない穏やかな顔をしていた。
「頑張れ」
短い言葉だった。
「……はい!」
礼は答えた。
セイルが歩いていく。
その背中が夜の街へ溶けていくまで。
礼はしばらく、その場に立っていた。
◇
宿へ戻ると。
リオはまだ起きていた。
「どうだった?」
「いろいろ話した」
「怒られた?」
「なんで?」
「童貞破」
「ちょっとだけ」
「やっぱり」
リオが笑う。
礼は椅子へ座った。
机の上には。
今日もノートが積まれている。
その一番下には、セイルからもらった『初級魔術理論』があった。
礼はそれを取り出した。
古くなった表紙。
何度も開いた跡。
文字を覚え始めた頃には、読むだけで時間がかかった。
今では。
内容のほとんどを理解できる。
それでも。
童力について書かれたページは、一つもない。
当然だった。
礼は本を閉じた。
「リオ」
「ん?」
「俺たちって、そんなに変かな」
「今さら?」
「セイルさんにも言われた」
「変だろ」
「即答?」
「童貞じゃないと使えない謎の力を研究して、石見て出力上げて、最後には童貞破って叫んで魔物吹き飛ばしてる集団だぞ」
「…………」
「逆にどこが普通なんだよ」
「言われてみると……」
「だろ?」
二人で笑った。
それから。
礼は窓の外を見た。
夜のローデン。
いつもと変わらない町。
人が暮らしている。
明日になれば。
また訓練する。
研究する。
誰かに教える。
今までと同じだ。
ただ。
セイルの言葉だけが。
胸の奥に残っていた。
――君たちはもう、自分たちだけで研究しているわけじゃない。
礼は机の上のノートへ目を落とした。
最初は。
自分が生きるために見つけた力だった。
次に。
リオへ教えた。
バルト。
ハイン。
そして。
十人を超えた。
いつからだろう。
自分たちを見る人間が。
こんなにも増えていたのは。
「……リオ」
「何?」
「明日」
「休みだからな」
「まだ何も言ってない」
「研究はなし」
「…………」
「なし」
「……分かったよ」
礼は苦笑してノートを閉じた。
今夜は。
もう書かないことにした。
窓の外では。
春の風が。
静かにローデンの町を吹き抜けていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
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皆様からの評価や感想は、今後の執筆活動の大きな励みになります。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




