第四十話 二年
廃鉱での依頼を終え、六人分の足音を連れてローデンへ戻った翌朝も、礼の日常は何一つ変わらなかった。
朝になれば目を覚まし、階下の食堂で簡単な朝食を取る。ギルドへ顔を出して依頼を確認し、何もなければ町外れへ出て童力の訓練をする。日が暮れれば宿へ戻り、机の上にノートを広げた。
今日、何ができたのか。何ができなかったのか。昨日できなかったことが今日できたのなら、何が違っていたのか。
礼はそれを書いた。
リオも書いた。
そして、いつの頃からか――二人だけではなくなった。
「礼さん」
ある朝、宿の食堂で固いパンをスープに浸していた礼の前に、一人の男が立った。
見覚えがある。何度かギルドで顔を合わせたことのある若い冒険者だった。男は周囲を気にするように一度店内を見回すと、意を決したように礼を見た。
「俺にも、童術を教えてほしい」
「いいですよ」
礼はパンを置いた。
「ただ、その前に一つ確認したいことがあります」
「何だ?」
「童貞ですか?」
向かいの席でスープを飲んでいたリオが盛大にむせた。
「礼!」
「何?」
「朝飯食ってるところで聞くことか!?」
「でも重要だろ」
「重要なのは分かるけどさ!」
礼としては至って真面目だった。
これまで集めた記録では、童力を感知した者は例外なく童貞だった。被験者の数はまだ少なく、絶対的な条件だと断定するには早い。それでも、新しく童術を学ぼうとする者に確認しておく価値は十分にある。
男は顔を赤くしながら、小さな声で答えた。
「……そうだけど」
「じゃあ、今日の午後からやってみましょう」
「それだけ!?」
「感知できるかは、やってみないと分かりません」
「いや、俺が言ってるのはそっちじゃなくて……」
困惑する男の横で、リオが額を押さえていた。
そんなやり取りも、一度では終わらなかった。
数日後には、また一人。
さらにその数日後には、二人。
グランドラ討伐で礼たちを見ていた者。ギルドで噂を聞いた者。あるいは、童力を使って戦うバルトやハインを見て興味を持った者。
訪ねてくる理由は様々だった。
もちろん、誰もがすぐに童力を扱えたわけではない。
目を閉じて一日で何かを感じる者もいれば、一週間経っても首を傾げる者もいる。僅かな違和感を見つけながら、それが童力なのか自分の思い込みなのか分からず、何日も同じ訓練を繰り返す者もいた。
感知できたからといって、すぐに動かせるわけでもない。
動かせても、右手へ集めようとして肩に溜まる。
脚へ流そうとして腹部で止まる。
集中しすぎて呼吸を忘れ、目を回して倒れた者までいた。
同じ童力。
同じ方法。
それなのに結果は違う。
礼は、その違いまで一つずつノートへ書き留めた。
最初は一人で始めた研究だった。
そこへリオの文字が加わり、今ではページの端にバルトやハインの名前まで書かれている。
空白だった紙が埋まるのと同じように、礼の周囲にいる人間も少しずつ増えていった。
◇
ローデンを吹き抜けていた春の柔らかな風が、いつしか熱を帯び始めた。
街道脇の草は膝近くまで伸び、森へ入れば濃く茂った葉が空を覆う。じっとしているだけでも額に汗が浮かぶ季節になる頃には、礼たちは以前より遠方の依頼も受けるようになっていた。
「礼、右に二!」
木々の向こうから飛んだリオの声に、礼の身体は考えるより先に反応した。
右足が地面を踏み込むのとほとんど同時に、身体を巡っていた童力が脚部へ集中する。土を蹴った感触が一瞬だけ足裏へ伝わり、次の瞬間には周囲の景色が後方へ流れていた。
以前なら、童力を使うたびに意識していた。
脚へ集める。
量を調整する。
流れを保つ。
その一つ一つを頭の中で確認しなければ、上手く扱えなかった。
今は違う。
走ろうと思えば脚へ。
斬ろうと思えば腕から剣へ。
攻撃を受けると判断すれば、全身へ。
童力は、もはや特別な手順を踏んで扱うものではなくなりつつあった。
森の奥から飛び出した獣型の魔物へ踏み込み、礼は腰の剣を抜いた。腕から流れた童力が柄を通り、刃を薄く包み込む。
硬い外皮へ刃が触れた。
一瞬だけ抵抗がある。
礼はその感触に合わせて童力を増やした。
刃が通る。
魔物の巨体が草を押し潰しながら倒れた。
もう一匹。
振り向いた礼の視界を、一筋の矢が横切った。
風を裂いた矢は、二匹目の胸へ深々と突き刺さる。魔物は二歩ほどよろめき、そのまま前のめりに倒れた。
「俺の獲物だったのに」
「早い者勝ちだろ」
少し離れた場所で、弓を構えたリオが笑っている。
「そんな決まりないよ」
礼も笑いながら、剣についた血を払った。
「それにしても」
後ろからやってきたバルトが、礼と倒れた魔物を交互に見た。
「また速くなってないか?」
「そう?」
「そう? じゃねえよ。さっき、ほとんど見えなかったぞ」
「慣れただけじゃない?」
「それを強くなったって言うんだよ」
礼は自分の右手へ視線を落とした。
慣れた。
確かに、それが一番近い気がした。
最初は身体の中にあることさえ分からなかった力が、今では呼吸をするのと同じように巡っている。
それでも、まだ分からないことは多い。
「礼」
リオが倒れた魔物から矢を回収しながら声をかけた。
「せっかくだし、あれ試してみたら?」
「あれ?」
「外に出した童力を固めるやつ」
「ああ……」
礼は森の中を見回した。
少し離れた場所に、人の背丈ほどもある岩が転がっている。
「まだ安定しないよ」
「だから試すんだろ?」
「それはそうだけど」
礼は岩の前まで歩いた。
右手を向ける。
童力を身体の外へ出すこと自体は、すでに難しくない。
問題はその先だ。
放出した童力は、そのままでは空間へ散っていく。
散る前に留める。
そして、さらに童力を重ねる。
押し込む。
圧縮する。
掌の先には何も見えない。
それでも礼には、そこに集まっていく力がはっきりと感じられた。
密度が上がるにつれ、指先が微かに痺れ始める。
「……リオ」
「ん?」
「少し離れてた方がいいかも」
「それ先に言え!」
背後が急に騒がしくなった。
リオだけでなく、バルトやハインたちまで慌てて距離を取っていく。
礼は苦笑しそうになったが、すぐに意識を掌の先へ戻した。
以前は、この先で失敗した。
圧縮しすぎた童力が制御を外れ、勝手に破裂した。
ならば、壊れるまで押し込まなければいい。
限界を迎える、その直前。
自分の意思で。
方向を与えて――放つ。
「――っ!」
空気が弾けた。
耳を打つ轟音とともに、掌の前に集められていた童力が一直線に解放される。地面の枯れ葉が吹き飛び、周囲の木々が大きく枝を揺らした。
遅れて、砕けた石片がぱらぱらと地面へ落ちる。
「…………」
土埃の向こう。
先ほどまであった岩は、半分近くが消し飛んでいた。
礼は右手を下ろした。
「……思ったより強かった」
「思ったよりで済ませるなよ」
いつの間にか戻ってきていたバルトが、呆然と岩を見ている。
「何だよ、これ」
「圧縮した童力を、一気に放出しただけです」
「だから、その“だけ”で岩が半分なくなってるんだよ」
リオも岩の断面へ近づき、恐る恐る指で触れた。
「これ、魔物に撃ったらどうなる?」
「分からない」
「試す?」
「いきなり生き物で試すのは危ないだろ」
「岩を消し飛ばした本人が言うと説得力あるな……」
「だから危ないって言ってるんだよ」
礼は荷物からノートを取り出した。
外部童力の圧縮。
任意方向への解放に成功。
威力は想定以上。
制御には改善の余地あり。
連続使用については未検証。
書いている横から、リオが覗き込む。
「名前もいるな」
「いらないよ」
「またそれ?」
「技じゃないから。放出の方法を変えただけだし」
「でも毎回『圧縮した童力を一気に放出するやつ』って言うの面倒だろ」
「じゃあ短くすればいいだろ」
「《童破》」
「前にも言ってたよね、それ」
「気に入ってるんだよ」
「俺は嫌だ」
「じゃあ――」
リオはしばらく考えた。
やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
「《童貞破》」
「…………」
礼はゆっくり顔を上げた。
「なんで一文字増やしたの?」
「その方が強そう」
「どこが?」
「俺は好きだぞ」
バルトが真顔で言った。
「俺も悪くないと思う」
ハインまで頷く。
「えぇ……」
礼は露骨に嫌そうな顔をした。
その日は、それで終わった。
少なくとも。
礼だけは、そのつもりだった。
◇
一月後。
「礼! 童貞破いけるか!」
「その名前で呼ぶなって!」
叫び返しながらも、礼の右手はすでに前へ向いていた。
森の木々を薙ぎ倒しながら迫る大型魔獣。その突進を前衛のバルトが受け止め、横からハインが牽制する。
リオの矢が魔獣の肩へ突き刺さった。
「今!」
「分かった!」
仲間たちが射線から退く。
礼は身体の外へ童力を押し出し、掌の先で一気に圧縮した。
最初の頃より速い。
数度の失敗と、それ以上の試行を繰り返すうちに、どこまでなら留められるのかが感覚で分かるようになっていた。
圧縮。
固定。
解放。
轟音とともに童力が炸裂した。
大型魔獣の巨体が正面から持ち上がり、そのまま数メートル後方まで吹き飛ぶ。背中から木へ激突し、太い幹が嫌な音を立てて折れた。
「効いてる!」
「まだ生きてる!」
礼はすぐに走り出した。
「バルト、前!」
「おう!」
「ハインは左から!」
「了解!」
地面を蹴り、剣へ童力を流す。
倒れた魔獣が起き上がるより早く、四人がそれぞれの位置へ散った。
それから十分ほどで、魔獣は動かなくなった。
「……よし」
息を整えながら礼が剣を鞘へ戻すと、隣へやってきたリオが満足そうに頷いた。
「な?」
「何?」
「童貞破」
「……まだ言うの?」
「もうみんな言ってるぞ」
「誰が?」
礼が振り返る。
バルトが目を逸らした。
ハインも逸らした。
少し離れたところにいた他の童術師たちまで、何となく空を見ている。
「…………」
「諦めろ」
「嫌なんだけど」
「じゃあ別の名前を考えろよ」
「名前なんかいらないって」
「だったら童貞破な」
「なんでそうなるんだよ」
結局。
礼が別の名前を考えることはなかった。
そのため、名前だけが残った。
◇
暑さが和らぎ、森の葉が少しずつ色を変え始める頃には、童力を扱う者はさらに増えていた。
それでも、礼が最初に想像していたようにはいかなかった。
同じことを教えれば、同じように成長する。
そんな単純なものではない。
バルトは保有する童力量が多く、身体強化との相性が良かった。童力を全身へ巡らせて前へ出れば、以前なら受け止めることさえ難しかった魔物の突進にも耐えられる。
一方、ハインは派手な出力こそないが、循環が安定していた。長時間の戦闘でも童力の乱れが少なく、仲間の援護に回れば崩れにくい。
そしてリオ。
「また上手くなった?」
町外れの訓練場。
木製の標的へ深々と刺さった矢を見ながら、礼が尋ねた。
「まあな」
リオは少し得意そうに鼻を鳴らした。
以前は、矢へ童力を纏わせても、弦から離れた瞬間から急速に失われていた。
今では違う。
必要以上に纏わせない。
命中まで残る量だけを、矢へ薄く留める。
少ない童力を無駄なく使う。
「礼みたいに馬鹿みたいな量を使えないからな」
「馬鹿みたいって何だよ」
「褒めてる」
「絶対違う」
リオは笑いながら、新しい矢を取った。
「でもさ。別に礼と同じことする必要ないだろ?」
その言葉に、礼は黙った。
弓を構えるリオを見る。
放たれた矢は風を切り、先ほどとは別の標的の中心を射抜いた。
「……そうだね」
その日の夜。
礼はノートに新しい一文を書いた。
『童力の運用方法は、個人ごとに異なる』
続ける。
『保有量の多寡のみを優劣としない』
『適性に応じた運用方法を検討する』
そこで、礼の手が止まった。
これまでのノートは、自分が童力を理解するためのものだった。
けれど最近。
書く内容が少しずつ変わっている。
どの説明なら理解しやすかったか。
どの順番で教えると失敗が少ないか。
何をすると危険なのか。
どこまでできれば実戦へ出していいのか。
自分のための研究記録だったものが。
いつの間にか、誰かへ教えるための記録へ変わり始めていた。
◇
秋が過ぎ、ローデンに雪が降った。
外での依頼が減った分、礼たちは町で訓練する時間が増えた。
朝から童力を巡らせ。
昼には武器への付与を試し。
夕方からは障壁や治癒について検証する。
気づけば、宿の窓の外は真っ暗になっていた。
「礼」
「何?」
「休もう」
「まだ大丈夫」
「お前はな」
顔を上げる。
リオだけではない。
バルトもハインも、他の者たちも壁際に座り込み、疲れ切った顔をしていた。
「……そんなに?」
「外見ろ」
窓を見る。
「…………」
「朝からやってるぞ」
「ごめん」
「飯行こうぜ」
「うん」
礼はノートを閉じた。
机の端には、何冊もの冊子が積まれている。
最初の一冊。
まだ童力という名前すらなかった頃から使っているもの。
リオと二人で書き込んだもの。
実戦の記録。
治癒。
障壁。
外部放出。
身体状態。
精神状態。
適性。
そして、教え方。
何もなかった場所に。
少しずつ。
形ができていた。
◇
雪が解けた。
春になると、礼たちは以前より遠くの町まで依頼を受けに行くようになった。
夏には、ローデン以外でも童術という言葉を知る冒険者が現れ始めた。
秋。
ギルドで「あの妙な力を使う連中」と声をかけられた。
そして再び冬が来る頃。
礼は初めて、自分が同行しない依頼へ童術師たちを送り出した。
ローデンの門から遠ざかる四人の背中を、礼はいつまでも見ていた。
「本当に大丈夫かな」
「大丈夫だろ」
隣に立つリオは、ずいぶん気楽だった。
「バルトもハインもいるんだぞ」
「でも、何か想定してないことが起きるかもしれないし」
「起きるだろうな」
「じゃあ――」
「そのとき自分たちで考えるんだよ」
礼はリオを見る。
「お前が全部決めるわけじゃない」
「…………」
「もうできるよ、あいつら」
街道の先。
四人の姿は、やがて小さくなって見えなくなった。
三日後。
彼らは帰ってきた。
依頼達成。
重傷者なし。
先頭を歩くバルトの腰袋には、相変わらず石が入っていた。
「成功したぞ!」
門をくぐるなり、バルトが大きく手を上げる。
礼は考えるより先に駆け寄っていた。
「怪我は?」
「これくらいだ」
差し出された腕には浅い傷がある。
礼はそこへ手を当て、薄く童力を巡らせた。
すでに出血は止まっている。
深くもない。
「他のみんなは?」
「平気だよ」
ハインが後ろから笑った。
「本当に?」
「本当だって」
一人ずつ見る。
疲れている。
装備も汚れている。
それでも。
全員、自分の足で立っていた。
「……よかった」
胸の奥に溜まっていたものが、ようやく抜けていく。
「心配しすぎだって」
バルトが笑う。
後ろからリオの声がした。
「礼」
「何?」
「いつまで全部、自分で見ようとしてるんだよ」
振り返る。
リオは呆れたように笑っていた。
「もうできるって言っただろ」
礼は何も言わず、もう一度バルトたちを見る。
以前は。
童力を感じることすらできなかった。
教えなければ、何も分からなかった。
その彼らが今は。
自分たちで依頼を受け。
自分たちで考え。
自分たちで戦って。
帰ってきた。
「……そっか」
嬉しかった。
その感情の奥に。
ほんの少しだけ。
寂しさに似た何かが混ざっていた。
◇
そして、また春が来た。
ローデンから二日ほど離れた街道沿いの村で、緊急の討伐依頼が出た。
大型魔獣《双角獣》。
肩までの高さだけでも成人男性を超える巨体を持ち、頭部から伸びた二本の角は、小さな木なら突進だけでへし折る。
分厚い皮膚は生半可な刃を通さない。
すでに一組の冒険者が討伐を試み。
失敗していた。
礼たちが村の近くへ到着したとき、その冒険者たちはまだ逃げ切れていなかった。
「来るぞ!」
森の奥で、木が折れた。
鳥の群れが空へ逃げる。
直後。
茂みを突き破り、巨大な影が街道へ飛び出した。
「避けろ!」
負傷した冒険者が叫ぶ。
だが、礼たちは逃げなかった。
礼は双角獣を一度見た。
距離。
速度。
負傷者の位置。
周囲の地形。
それだけ確認すると、隣にいる仲間へ声を飛ばす。
「リオ、右」
「了解」
「バルト、前をお願い」
「おう」
「ハインは負傷者を下げて」
「分かった」
それだけだった。
誰も理由を聞かなかった。
リオは弓へ手を伸ばしながら右へ走り、バルトは剣を抜いて正面へ出る。ハインは負傷した冒険者たちのもとへ向かった。
礼も剣を抜いた。
「お、おい!」
負傷した冒険者が叫ぶ。
「無茶だ! そいつは普通の魔物じゃない!」
双角獣が地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で迫ってくる。
その正面に。
バルトが立った。
深く腰を落とし、童力を全身へ巡らせる。
「おおおおっ!」
角と剣が激突した。
耳を塞ぎたくなるほどの衝撃音が街道へ響く。
バルトの靴底が土を削り、身体が後方へ押される。それでも倒れない。
止めた。
「なっ……」
冒険者の口から、掠れた声が漏れる。
次の瞬間。
風を裂いて一本の矢が飛んだ。
双角獣の右目へ突き刺さる。
魔獣が絶叫した。
「礼!」
リオの声を聞くより早く、礼は走り出していた。
踏み込んだ右脚へ童力が集中し、土が足元で弾ける。
一歩。
それだけで十分だった。
双角獣が顔を振り向けたときには、礼はすでにその側面へ回り込んでいる。
剣へ童力を流す。
振り抜く。
分厚い皮膚が裂けた。
鮮血が飛ぶ。
怒り狂った双角獣が、残った視界で礼を捉えた。
首を振る。
巨大な角が横薙ぎに迫る。
避ける時間はない。
礼は剣を立てた。
同時に、身体の一部へ偏っていた童力を全身へ巡らせる。
衝撃。
腕が痺れた。
足元の土が削れる。
だが。
礼の身体は倒れない。
角の軌道に剣を合わせ、その力を横へ逃がす。
すれ違う瞬間。
刃へ童力を集中。
振り抜いた。
一本の角が宙を舞った。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
礼は聞いていなかった。
「バルト!」
「おう!」
左側からバルトが踏み込む。
剣が双角獣の脚を斬る。
体勢が崩れた。
そこへリオの二射目が飛ぶ。
肩。
三射目。
首元。
「ハイン!」
「負傷者、離した!」
「じゃあ戻って!」
「了解!」
ハインが駆けてくる。
双角獣が吠えた。
傷だらけの身体で。
それでも最後の力を振り絞るように地面を蹴る。
正面。
礼へ向かって。
「みんな、下がって」
礼が言った。
それだけで。
三人が同時に動いた。
バルトは左へ。
リオは右へ。
ハインは後方へ。
誰一人。
何をするのかとは聞かなかった。
礼は右手を前へ向ける。
身体を巡っていた童力を外へ。
掌の先へ集める。
圧縮。
以前は、それだけで精一杯だった。
暴れようとする力を抑え。
漏れないよう意識し。
腕を震わせながら。
何秒もかけていた。
今は違う。
集める。
留める。
圧縮する。
それだけ。
呼吸は乱れない。
右腕も震えない。
双角獣が迫る。
二十メートル。
十五。
十。
礼は静かに息を吐いた。
「――《童貞破》」
白い奔流が、世界を塗り潰した。
轟音とともに街道の土が巻き上げられ、真正面から童力を受けた双角獣の巨体が地面を離れる。
数メートル。
十メートル。
土を抉りながら後方へ押し流され、やがて横倒しになった巨体が街道を滑った。
静かになった。
舞い上がった土だけが、春の日差しの中をゆっくり落ちてくる。
礼は右手を下ろした。
「……ちょっと強すぎたかな」
「今さら?」
いつの間にか戻ってきたリオが、呆れた顔で弓を下ろす。
「前より威力上がってるぞ」
「圧縮する量、少し増やしたから」
「少し?」
「うん」
リオが礼の前を見る。
礼も見る。
街道が抉れていた。
「…………」
「次から減らせ」
「そうする」
双角獣へ近づき、息がないことを確認する。
終わった。
「あの……」
背後から声がした。
振り返る。
助けた冒険者の一人。
礼とそれほど年齢の変わらない若い男が、呆然とこちらを見ていた。
男の視線が。
倒れた双角獣へ。
抉れた地面へ。
バルトたちへ。
最後に礼へ戻る。
「あんたたち……何者なんだ?」
「え?」
礼は少し困った。
冒険者です。
そう答えようとした。
「童術師ですよ」
先に答えたのは、ハインだった。
礼が振り返る。
「……ハイン」
「何?」
「いや」
童術師。
かつてリオが何気なく考えた名前だった。
童術を使う者。
ただ、それだけ。
最初は自分たち二人しかいなかった。
今は。
誰も笑わない。
誰も奇妙そうな顔をしない。
リオも。
バルトも。
ハインも。
それを当たり前のように受け入れている。
「童術師……?」
若い冒険者が繰り返した。
「はい」
今度は礼が答えた。
「俺たちは、童術師です」
◇
その夜。
宿の机で、礼は今日の記録を書き終えた。
童貞破。
圧縮時間、短縮。
威力、増加。
制御、良好。
連続使用には、まだ身体への負担が大きい。
改善の余地あり。
ペンを置く。
机の上には、何冊ものノートが積み重なっていた。
一番下。
最初の一冊。
童力という名前すらなかった頃の記録。
その上には、リオと二人で書いたもの。
さらに。
戦闘。
治癒。
障壁。
武器。
身体。
精神。
そして、誰かに教えるための記録。
礼は背もたれへ身体を預けた。
「……二年か」
「何が?」
ベッドからリオの声がした。
「ローデンに来てから」
「ああ」
「俺、二十歳になったんだなって」
「今さら?」
「なんか実感なくて」
「俺もないけどな」
「リオも二十歳だっけ」
「そうだよ」
「そっか」
それきり。
しばらく二人とも喋らなかった。
窓の外から、夜のローデンの音が聞こえる。
誰かの笑い声。
遠くを走る馬車。
酒場から漏れる音楽。
二年前。
二人だった。
今は違う。
童力を知る者がいる。
童術を使う者がいる。
礼がいなくても依頼へ行き、戦い、帰ってくる者までいる。
「増えたな」
リオがぽつりと言った。
「何が?」
「足音」
礼は振り返った。
リオは天井を見ている。
「前にも言ってたね」
「もっと増えるぞ」
「どうだろ」
「増えるよ」
「なんで分かるの?」
「今日もいただろ」
「何が?」
「俺たち見てた奴」
礼は、今日助けた冒険者たちを思い出した。
「ああ」
「そのうち来るぞ」
「何が?」
「『教えてください』って」
礼は机の上のノートへ目を向けた。
「……また?」
「また」
少し笑う。
そのとき。
階下から声がした。
「礼さーん!」
「…………」
二人が同時に黙った。
「ほら」
リオが笑う。
「嘘だろ」
「礼さん! いますかー!」
礼は椅子から立ち上がった。
扉を開け。
階段を下りる。
宿の入口には、見覚えのある若い男が立っていた。
今日。
双角獣から助けた冒険者だった。
「あの!」
礼を見つけた途端、男は勢いよく頭を下げた。
「俺にも、童術を教えてください!」
「…………」
二階を見る。
手すりから顔を出したリオが、声を殺して笑っていた。
礼は小さく息を吐く。
それから、男へ向き直った。
「……分かりました」
「本当ですか!?」
「ただ、その前に確認したいことがあります」
「はい!」
二年前なら。
少しくらい躊躇したかもしれない。
今はもう。
礼は真顔で尋ねた。
「童貞ですか?」
「…………え?」
二十歳になった礼の後ろには。
もう、十を超える足音があった。
それでも礼自身は、自分が何かの長になったつもりなどなかった。
分からないことを調べる。
分かったことを教える。
困っている人間がいれば助ける。
必要なら戦う。
礼にとっては。
二年前から、何一つ変わっていない。
「……あの、それ答えないと駄目ですか?」
「重要なので」
二階から、堪えきれなくなったリオの笑い声が響いた。
「礼! お前、本当に最初にそれ聞くようになったな!」
「だって重要だろ!」
先生と呼ばれるたびに否定する回数だけは。
二年前より。
ずっと増えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
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これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いいたします!




