第三話 温かい食卓
「食え」
目の前に置かれた皿から、湯気が立っていた。
「…………」
如月礼は、それを見つめていた。
肉。
大きな肉だった。
表面には焼き目がつき、脂が照明の光を反射している。
隣には潰した芋のようなもの。
さらに。
パン。
スープ。
「…………」
「どうした?」
向かいに座ったガルドが首を傾げた。
「食わないのか?」
「いや」
礼は答えた。
「食います」
フォークらしきものを手に取る。
肉へ突き刺した。
切る。
口へ運ぶ。
「…………」
噛む。
肉汁が広がった。
「……うま」
思わず声が漏れた。
「だろ?」
ガルドが笑う。
「ここの鹿肉は結構いけるんだ」
「鹿なんですか、これ」
「なんだと思って食ってたんだ」
「牛」
「牛より高いぞ」
「じゃあ鹿でいいです」
「なんだそりゃ」
隣から笑い声。
弓を背負っていた女性だった。
「変な子ね、あんた」
「よく言われます」
「絶対言われてないでしょ」
「……たまに」
「今考えたわね?」
礼は答えず、もう一口食べた。
美味い。
本当に美味い。
腹が減っていたから。
それだけではない。
温かい。
焼きたての肉。
温かいスープ。
まだ柔らかいパン。
昨日の朝に食べたのは、一日賞味期限の切れた食パンだった。
昨日の夜は、何も食べていない。
その前は。
目玉焼き。
その前は――。
「礼?」
「ん?」
「ぼーっとしてると取るわよ」
「やめろ」
女性のフォークが肉へ伸びていた。
礼は皿を引き寄せる。
「俺のです」
「あら。さっきまで遠慮してたくせに」
「これは俺のです」
「急に強欲になったわね」
「飯に関しては」
「ハハハ!」
大柄な男が豪快に笑った。
店中に響くような声だった。
「気に入ったぞ、礼!」
「声でけえ……」
「なんだ!」
「声がでかいって言ったんです!」
「そうか!」
「さらにでかくするなよ!」
また笑い声が上がる。
「…………」
礼も。
少しだけ笑った。
◇
そこは冒険者たちがよく利用する酒場兼宿屋らしい。
一階が食堂。
二階から上が客室。
壁には剣や盾。
角の生えた獣の頭。
依頼らしき紙。
様々な装備を身につけた人々が酒を飲み、飯を食べている。
礼には。
何もかもが珍しかった。
「改めて紹介しておくか」
ガルドが言った。
「俺はガルド。一応、このパーティーのまとめ役だ」
「一応じゃないでしょ」
女性が口を挟む。
「頼りないけどリーダーよ」
「余計だ」
「私はミレナ」
女性が自分を指す。
「見て分かると思うけど、弓」
「見れば分かります」
「可愛くないわね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
次。
杖を持っていた青年。
礼より少し年上だろうか。
眼鏡を掛けている。
「セイルだ」
「よろしくお願いします」
「魔術師をしている」
礼の手が止まった。
「……魔術師?」
「そうだが」
「魔術使えるんですか?」
「魔術師だからな」
「見せてもらっていいですか?」
「今?」
「今」
「飯屋で?」
「……ダメですか」
セイルは少し困った顔をした。
「後でな」
「マジですか」
「マジ……?」
「本当ですか」
「ああ」
礼の顔が少し明るくなる。
ミレナがそれを見て笑った。
「魔術が珍しいの?」
「珍しいっていうか……」
礼は城門で見た炎を思い出した。
「あんなの、初めて見たんで」
三人の表情が僅かに変わる。
「初めて?」
「はい」
「魔術を?」
「はい」
「一度も?」
「はい」
「…………」
「…………」
しまった。
礼はパンを齧った。
「まあ、色々あるんです」
ガルドが礼を見る。
だが。
「そうか」
それだけだった。
聞いてこない。
礼は少しだけ意外に思った。
そして最後。
「俺はボルグだ!」
大男が胸を叩いた。
「盾役だ!」
「でしょうね」
「分かるか!」
「それ背負ってれば」
人一人隠せそうな大盾。
「こいつはすごいぞ!」
「何がです?」
「硬い!」
「盾が?」
「俺が!」
「そっちかよ」
「ガハハハハ!」
また笑う。
礼は思った。
変な人たちだ。
◇
「まず確認しておく」
食事が一段落すると、ガルドの表情が少しだけ真面目になった。
「礼。お前、何ができる?」
「…………」
礼も考えた。
「荷物持ち」
「それはこれからやる仕事だ」
「ですよね」
「剣は?」
「使ったことないです」
「弓」
「ないです」
「魔術」
「さっき初めて見ました」
「…………」
ガルドが腕を組む。
「野営経験」
「ないです」
「魔物の知識」
「ないです」
「薬草」
「ないです」
「地図は?」
「読めないと思います」
「文字」
「読めません」
「…………」
「…………」
沈黙。
礼は少し気まずくなった。
「俺、思ってたより使えないですね」
「思ってたよりどころじゃないわよ」
ミレナが言った。
「よく今まで生きてこられたわね」
「昨日までは普通に生きてたんですけどね」
「どんな場所で?」
「…………」
礼は少し考えた。
「遠いところです」
「どの辺り?」
「めちゃくちゃ遠いところ」
「雑ね」
「説明しても信じてもらえないと思うんで」
嘘ではない。
別世界から来ました。
などと言って信じてもらえるとは思えない。
ガルドはしばらく礼を見ていた。
「まあいい」
「いいんですか」
「誰にだって話したくないことくらいある」
「…………」
「仕事さえちゃんとやればな」
ガルドはそう言って酒を飲んだ。
礼は少しだけ目を伏せる。
「……はい」
「ただし」
ガルドが指を一本立てた。
「俺たちについてくるなら、覚えてもらうことは山ほどある」
「例えば?」
「全部だ」
「…………」
「この国のこと。金。魔物。冒険者。野営。危険な植物。薬草。街道。最低限の戦い方」
「多くないです?」
「お前が知らなさすぎるんだよ」
「ですよね」
反論できなかった。
「それと」
ガルドが礼の制服を見る。
「その服もどうにかした方がいい」
「これしかないです」
「だから買う」
「金ないです」
「貸しだ」
「…………」
礼が顔を上げる。
「返せよ?」
「……もちろん」
「働いて返せばいい」
簡単に言う。
礼にとっては。
あまり馴染みのない言葉だった。
必要なものを買ってもらう。
そして。
働いて返す。
それだけ。
「…………」
「なんだ?」
「いや」
礼はスープを飲んだ。
「ありがとうございます」
◇
食事の後。
礼たちは宿の裏手へ出た。
日はすでに沈みかけている。
「約束だからな」
セイルが杖を持つ。
「おお……」
礼は少し離れたところから見ていた。
「そんなに期待されると困るんだが」
「いや、だって魔法ですよ」
「魔術だ」
「違うんですか?」
「魔法は……」
セイルが説明を始めようとして。
「長くなるから今度でいい」
「なんで始めたんですか」
「俺もそう思った」
セイルは杖を前へ向ける。
「見てろ」
「はい」
短い詠唱。
礼には意味が分からない。
だが。
空気が変わった。
「《灯火》」
杖の先。
小さな光が生まれる。
「…………!」
浮かんでいる。
火ではない。
白い光。
夕闇の中で、静かに周囲を照らしている。
「すげえ……」
「初歩魔術だぞ」
「いや、すごいでしょ」
「そうか?」
「何もないところから光出てんですよ?」
「魔力がある」
「魔力」
「ああ」
セイルが自分の胸へ手を置く。
「人間だけじゃない。魔物や動物、植物にも程度の差はあれ魔力が存在する」
「…………」
「それを感知し、制御して、術式を通して現象へ変換する。それが魔術だ」
礼は光を見る。
「魔力……」
「興味あるか?」
「そりゃ」
礼は自分の手を見る。
「俺にもできます?」
「適性次第だな」
「適性?」
「魔力量や属性、感知能力。人によって違う」
「じゃあ俺にもあるかもしれない?」
「可能性はある」
「…………」
礼の目が輝いた。
ミレナが後ろから言う。
「分かりやすいわねえ」
「うるさい」
「さっきまで死にそうな顔してたのに」
「してないです」
「してたわよ」
「してない」
「してた」
「してない」
「子供か、お前ら」
ガルドが呆れた。
「魔力を見るなら、明日にしろ」
「今じゃダメですか?」
「もう暗い」
「ちょっとくらい」
「明日」
「…………はい」
礼は露骨に残念そうな顔をした。
「明日になったら魔力がなくなるわけじゃないわよ」
ミレナが笑う。
「それもそうか」
礼はもう一度。
セイルの作った光を見た。
魔力。
魔術。
自分にも。
もしかしたら。
この世界で何かできるかもしれない。
ほんの少し。
そんな期待を抱いた。
◇
「ここ使え」
ガルドが扉を開けた。
「…………」
小さな部屋。
ベッド。
机。
椅子。
窓。
それだけ。
「狭くて悪いな」
「いや」
礼は中へ入った。
ベッドを触る。
柔らかい。
「十分です」
「そうか?」
「はい」
「朝は早いぞ」
「何時です?」
「鐘が六回鳴ったら下へ来い」
「時計ないんですか」
「トケイ?」
「……なんでもないです」
「変な奴だな」
「今日だけで何回目だろ、それ」
ガルドが笑った。
「じゃあな、礼」
「あ」
礼が呼び止める。
「ん?」
「今日は……」
何と言えばいいのか。
飯を食わせてもらった。
仕事をくれた。
部屋まで用意してくれた。
「ありがとうございました」
ガルドは一瞬だけ礼を見る。
「礼」
「はい」
「お前、明日から働くんだぞ」
「はい」
「なら今日の飯も部屋も慈善じゃない」
「…………」
「働いた分は払う」
「でも俺、今日何もしてないですよ」
「じゃあ明日多めに働け」
「横暴だな」
「ハハッ」
ガルドは手を上げた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
扉が閉じる。
静かになった。
「…………」
一人。
礼はベッドへ腰を下ろした。
知らない部屋。
知らない国。
知らない世界。
今日の朝。
森で目覚めた。
何も分からなかった。
水を探した。
何時間も歩いた。
魔術を見た。
街へ入った。
金が使えなかった。
泊まる場所もなかった。
そして。
ガルドたちに会った。
「…………」
礼はベッドへ倒れ込んだ。
天井を見る。
古い木材。
自分の部屋とは違う。
「異世界……か」
まだ実感は薄い。
帰れるのかも分からない。
怖くないと言えば嘘になる。
明日どうなるのか。
一週間後。
一ヶ月後。
何も分からない。
それでも。
腹はいっぱいだった。
今夜眠る場所がある。
明日やることがある。
「…………」
不思議だった。
昨日まで。
日本には家があった。
自分の部屋もあった。
学校もあった。
なのに。
いつも。
帰っても誰もいなかった。
今日。
世界そのものが変わった。
家もない。
金もない。
何もない。
それなのに。
『じゃあ行くぞ、礼』
『礼、これ食べる?』
『明日になったら魔力がなくなるわけじゃないわよ』
『おやすみ』
「…………」
礼は目を閉じた。
「……変なの」
小さく笑った。
知らない世界の。
知らない宿屋。
名前を知っている人間が、四人いる。
明日の朝。
下へ行けば。
たぶん。
あいつらがいる。
それだけのことが。
なぜか。
少し嬉しかった。
◇
翌朝。
鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
「ん……」
四回。
礼が目を開ける。
五回。
「…………」
六回。
「…………六?」
飛び起きた。
「やっべ!」
制服を着たまま寝ていた。
靴を履く。
扉を開ける。
階段を駆け下りる。
「すみません!」
一階。
食堂。
ガルド。
ミレナ。
セイル。
ボルグ。
四人がすでに座っている。
「遅いぞ、礼!」
ガルドが言った。
「初日から寝坊?」
ミレナが笑う。
「鐘六回って言っただろ」
セイル。
「若者はよく寝るからな!」
ボルグ。
「すみません!」
「まあ座れ」
「え?」
「飯だ」
ガルドが向かいの椅子を指した。
そこには。
五人分の朝食。
パン。
卵。
スープ。
礼の分も。
最初から置いてある。
「…………」
「礼?」
「あ、いや」
礼は椅子を引いた。
座る。
「いただきます」
「イタダキマス?」
ミレナが首を傾げた。
「あー……俺のいたところの言葉です」
「どういう意味?」
「飯を食う前に言うんです」
「へえ」
ガルドがパンを取る。
「じゃあ食うぞ」
「はい」
礼もパンを手に取った。
温かい。
焼きたてだった。
「…………」
昨日まで。
朝起きても。
食卓には何もなかった。
誰もいなかった。
今日。
目の前には。
四人いる。
「礼、卵取って」
「自分で取れよ」
「近いでしょ」
「はいはい」
「礼! 肉も食え!」
「朝からそんな食えねえよ!」
「若いんだから食える!」
「その理論なんなんだよ!」
笑い声。
朝の食堂。
騒がしい。
礼は。
笑っていた。
この世界へ来て。
まだ二日目。
帰る方法すら分からない。
何一つ持っていない。
何一つ知らない。
それでも。
如月礼はこの朝。
生まれて初めて。
**自分のために用意された朝食を、誰かと一緒に食べていた。**




