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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第二話 知らない世界

鳥の声が聞こえた。


 チチチ――。


 どこか近くで、葉の擦れる音がする。


 頬を撫でる風は少し冷たく、湿った土と草の匂いを運んでくる。


「…………」


 如月礼は、目を閉じたまま考えた。


 おかしい。


 自分の部屋ではない。


 まず、布団の感触がない。


 背中に当たっているものが硬い。


 それに、鳥の声。


 家の周りでも聞こえることはある。


 だが。


 こんなに近かっただろうか。


「…………」


 礼はゆっくり目を開いた。


 青空。


「…………」


 目を閉じた。


 三秒。


 もう一度開く。


 青空。


「…………」


 もう一度。


 閉じる。


 開く。


 青空。


「……いや」


 礼は上半身を起こした。


「どこだよ、ここ」


 森だった。


 見渡す限りの木々。


 生い茂る草。


 足元には湿った土。


 頭上では枝葉の隙間から陽光が差し込んでいる。


 自分はそのど真ん中に寝転がっていた。


「…………」


 礼はしばらく動かなかった。


 状況を整理する。


「昨日……」


 学校から帰った。


 家に誰もいなかった。


 ベッドへ寝転んだ。


 時計が止まった。


 電気が消えた。


 空間に亀裂が入った。


 変な光が現れた。


 それから。


「……飲み込まれた」


 夢。


 最初に浮かんだ可能性。


 礼は自分の頬を抓った。


「痛っ」


 離す。


「…………」


 もう一回。


「痛ぇ!」


 夢ではなさそうだった。


「いやいやいや……」


 立ち上がる。


 制服についた草を払った。


 鞄も近くに落ちている。


 拾い上げる。


 中身を確認する。


 教科書。


 ノート。


 筆箱。


 財布。


 学生証。


 家の鍵。


 昨日と変わっていない。


「……誘拐?」


 口に出してから首を傾げる。


「誘拐犯が鞄ごと森に捨てるか?」


 それ以前に、どうやって自宅から運び出した。


 あの光は何だった。


「ドッキリ……」


 周囲を見回す。


「誰が俺にこんな金かけるんだよ」


 あり得ない。


 そもそも、ドッキリを仕掛けてくるような人間に心当たりがない。


「…………」


 礼は頭を抱えた。


「マジでどこだよ……」


 返事をする者はいなかった。


     ◇


 ひとまず。


 歩くことにした。


 その場で待っていても何も起こらない。


 方角は分からない。


 太陽の位置を見ても、礼には大した知識がなかった。


「太陽が……あっちだから……」


 考える。


「…………」


 やめた。


「知らん」


 適当に歩いた。


 最初の三十分ほどは、まだ余裕があった。


 見たことのない植物。


 妙に大きな木。


 色鮮やかな鳥。


 珍しいものを見つけるたび、立ち止まった。


「これ、日本にいる鳥か?」


 分からない。


 スマートフォンがあれば調べられたかもしれない。


「…………」


 礼は苦笑した。


「持ってねえわ」


 こんな時まで役に立たない。


 いや。


 仮に持っていたとしても、電波があるのかは怪しい。


 一時間。


「……暑い」


 二時間。


「…………」


 三時間。


「道ねえじゃん」


 余裕がなくなってきた。


 歩いても。


 歩いても。


 木。


 草。


 土。


 時々、鳥。


 人間の姿はない。


 道路もない。


 電柱もない。


 建物もない。


「おーい!」


 叫んでみる。


「誰かいませんかー!」


 返事なし。


「…………」


 少し恥ずかしくなった。


「何やってんだ俺」


 だが、笑っていられたのもそこまでだった。


「……喉渇いた」


 朝から何も飲んでいない。


 腹も減っている。


 鞄の中に食べ物はない。


 昨日、公園の少年へ渡したパンが最後だった。


「……あいつ食ったかな」


 こんな状況なのに、ふと思い出した。


「まあ、母ちゃん来てたし大丈夫か」


 歩き続ける。


 足が痛い。


 革靴で森を歩くものではない。


「くそ……」


 礼は木へ手をついた。


 喉が渇く。


 水。


 まず水が欲しい。


 耳を澄ませる。


「…………」


 微かに。


 水の流れるような音。


「……マジ?」


 音のする方向へ進んだ。


 草を掻き分ける。


 枝が制服へ引っ掛かる。


「痛っ……!」


 それでも進む。


 そして。


「あった!」


 小さな川。


 礼は駆け寄った。


 透明な水。


「水……!」


 手を伸ばして。


 止まった。


「…………」


 飲んでいいのだろうか。


 寄生虫。


 細菌。


 学校で習ったような気がする。


「川の水って、そのまま飲んじゃダメなんだよな……」


 でも喉は渇いている。


「…………」


 水を見る。


「煮沸……」


 火がない。


 鍋もない。


「詰んでね?」


 数分悩んだ。


 結局。


「……腹壊したら、その時考える」


 手ですくって飲んだ。


 冷たい。


「っ……うま」


 もう一口。


 さらに一口。


 生き返る。


「水ってこんなうまかったんだな……」


 顔も洗った。


 少しだけ落ち着いた。


 川沿いなら人里へ出られるかもしれない。


 そんな曖昧な知識を頼りに、再び歩き始めた。


     ◇


 どれほど歩いただろう。


 太陽の位置が変わっている。


 森が少しずつ暗くなってきた。


「……まずいな」


 夜になる。


 野宿。


 その言葉が頭に浮かぶ。


「無理だろ」


 虫。


 寒さ。


 野生動物。


 熊なんて出たら終わる。


 そもそもここが日本なのかすら分からない。


「…………」


 そこで。


 礼の足が止まった。


 少し先。


 地面に何かがある。


「……何だ?」


 近づく。


 跡。


 土の上を何かが通った跡。


 二本。


 平行に続いている。


「車……?」


 違う。


 タイヤ痕にしては細い。


 その横には。


「…………」


 蹄。


「馬?」


 礼は顔を上げた。


 森の中に道がある。


 人工的に踏み固められた道。


「道……!」


 思わず声が出た。


 人がいる。


 少なくとも。


 この道を使っている誰かがいる。


「よっしゃ……!」


 礼は歩き出した。


 疲れた脚が少しだけ軽くなる。


 十分。


 二十分。


 そして。


 遠くから音。


 ガラガラ。


 何かが回転する音。


 パカッ。


 パカッ。


「…………」


 礼は立ち止まった。


 道の向こうから何かが来る。


 馬。


 その後ろに。


「…………馬車?」


 本物だった。


 木製の車体。


 大きな車輪。


 二頭の馬。


 御者席には、布の服を着た男。


 礼の横を通り過ぎていく。


「…………」


 振り返る。


 馬車は遠ざかっていった。


「馬車……」


 今時、観光地でもなければ見ない。


 それも。


 あんな本格的なもの。


「…………いや」


 礼は歩き始める。


 何かがおかしい。


 さらに進む。


 人とすれ違った。


 腰に剣を提げた男。


 革の防具。


 マント。


 礼を見る。


 珍しそうな顔をしたが、そのまま通り過ぎた。


「…………」


 礼は振り返った。


 男の腰。


 どう見ても剣。


「コスプレ……?」


 あり得ない。


 さらに。


 森を抜けた。


「…………は?」


 礼の目の前に。


 巨大な城壁があった。


 石。


 何メートルあるのか分からない。


 左右へ延々と続いている。


 城壁の向こうには尖塔。


 煙突から煙。


 旗。


 大きな門。


 そこへ馬車や人々が列を作っている。


 鎧を着た兵士。


 槍。


 剣。


 荷車。


 馬。


「…………」


 礼は動かなかった。


 頭が理解を拒んでいる。


「いやいやいや……」


 一歩後ろへ下がる。


「待て待て待て」


 もう一度見る。


 城壁。


 変わらない。


「映画の撮影?」


 周囲を見る。


 カメラはない。


 スタッフもいない。


 電線もない。


 車もない。


 舗装された道路もない。


 見えるものすべてが。


 まるで。


「…………異世界」


 礼は呟いた。


 馬鹿馬鹿しい。


 そんなものあるわけがない。


 漫画。


 アニメ。


 小説。


 その中の話だ。


「……ないない」


 笑う。


「さすがにない」


 その時。


「おい! 下がれ!」


「え?」


 怒鳴り声。


 礼の横を荷馬車が通る。


 その荷台から。


 何かが飛び出した。


 大きな蜥蜴。


 いや。


 蜥蜴にしては大きすぎる。


 犬ほどある。


 口を開く。


 鋭い牙。


「うわっ!?」


 礼が尻餅をついた。


「逃げたぞ!」


「押さえろ!」


 兵士が走る。


 蜥蜴が礼へ向かう。


「ちょ、待っ――!」


 兵士の一人が手を向けた。


「《火球》!」


「――は?」


 炎。


 何もない空間から。


 炎の塊が生まれた。


 飛ぶ。


 蜥蜴へ直撃。


 爆ぜた。


 礼は。


 動けなかった。


「危なかったな、坊主」


 兵士が言う。


「…………」


「怪我は?」


「今の……」


「ん?」


「今の何ですか」


「何って」


 兵士が怪訝そうな顔をする。


「魔術だが」


「…………」


 礼は炎が消えた場所を見る。


 焦げた地面。


 鼻を刺す臭い。


 夢ではない。


 手品でもない。


「魔術……」


 兵士が笑った。


「お前、魔術を見るのは初めてか?」


「…………」


 礼は答えられなかった。


 心臓が速い。


 馬車。


 剣。


 城壁。


 見たことのない生き物。


 そして。


 魔術。


「…………マジかよ」


 認めざるを得なかった。


 本当に。


 ここは。


 自分の知っている世界ではない。


     ◇


「次!」


 城門。


 礼の番になった。


 兵士が手を出す。


「身分証」


「…………」


「どうした」


「あの」


「なんだ」


「これでもいいですか」


 学生証を出した。


 兵士が受け取る。


「…………」


 裏返す。


「なんだこれは」


「ですよね」


「文字が読めん」


「俺はそっちの文字が読めないです」


「何?」


「いや、なんでもないです」


 なぜか言葉は通じる。


 理由は分からない。


 だが城門に書かれている文字は、一文字も読めなかった。


「出身は?」


「日本です」


「ニホン?」


「……知らないですよね」


「どこの領地だ?」


「たぶん、こっちにはないです」


「こっち?」


「…………」


 兵士の目が鋭くなる。


 まずい。


 どう説明する。


『別世界から来ました』


 絶対に頭がおかしいと思われる。


「その格好は何だ?」


「制服です」


「セイフク?」


「学校の……」


「学校?」


「あー……」


 会話が進まない。


 後ろから苛立った声。


「早くしろ!」


「詰まってるぞ!」


「すみません!」


 なぜ自分が謝っているのか。


 兵士はため息を吐いた。


「金は?」


「あります」


 礼は財布を出した。


「これです」


 百円玉。


 十円玉。


 兵士が手に取る。


「…………」


 眺める。


「なんだこれは」


「ですよね」


 二回目だった。


「この国の貨幣ではない」


「……ですよね」


 三回目。


 兵士は頭を抱えた。


     ◇


 結局。


 荷物を確認され。


 武器を持っていないことを確認され。


 散々怪しまれた末に、礼は街へ入ることを許された。


「…………」


 石畳。


 木と石で造られた建物。


 露店。


 馬車。


 鎧を着た者。


 ローブ姿の者。


 見たことのない食べ物。


 知らない文字。


「すげえ……」


 一瞬。


 純粋にそう思った。


 ゲームの中。


 映画のセット。


 そんな光景が現実として目の前にある。


「異世界……」


 少しだけ。


 胸が高鳴った。


 魔術。


 冒険。


 剣。


 もしかしたら。


 自分にも何か。


「…………」


 腹が鳴った。


 グゥゥゥ――。


「…………」


 現実へ戻された。


「飯」


 露店を見る。


 肉。


 パン。


 スープ。


 美味そうな匂い。


 財布を見る。


 日本円。


「…………使えねえ」


 宿屋らしき建物。


 金。


「泊まれねえ」


 看板。


「読めねえ」


 仕事。


「どこで探すんだ」


 家族。


「…………」


 いない。


 知り合い。


 いない。


 身分。


 ない。


 魔術。


 使えるか分からない。


「…………」


 夕暮れ。


 礼は街の片隅。


 石段へ座っていた。


「異世界って……」


 腹が鳴る。


「もっとこう……」


 漫画なら。


 神様から力をもらったり。


 貴族に拾われたり。


 いきなり美少女と出会ったり。


「何もねえじゃん」


 礼は空を見上げた。


 見慣れない街。


 見慣れない空。


 帰る方法も分からない。


 今日眠る場所すらない。


「……帰れるのかな」


 初めて。


 その言葉が出た。


 日本。


 学校。


 友人。


 自分の部屋。


 母親。


「…………」


 礼は膝へ顔を埋めた。


「これ……」


 小さく呟く。


「普通に詰んでね?」


「――お前」


「……?」


 顔を上げる。


 男が立っていた。


 二十代後半くらいだろうか。


 革鎧。


 腰には剣。


 背中には大きな荷物。


 その後ろには三人。


 弓を背負った女性。


 杖を持った若い男。


 大盾を担いだ大柄な男。


 どう見ても。


 冒険者。


「さっきからここにいるよな」


「……まあ」


「宿は?」


「ないです」


「仲間は?」


「いません」


「家族は?」


「…………」


 一瞬。


 礼は黙った。


「いません」


 男は礼を見る。


「金は?」


「……使えるやつはないです」


「飯は?」


 礼の腹が。


 グゥゥゥ――。


 答えた。


 弓を背負った女性が吹き出した。


「分かりやすいわね」


「うるさいな」


「元気はありそうだ」


 大男が笑う。


「…………」


 礼は彼らを警戒した。


「何ですか」


 剣の男がしゃがむ。


 礼と目線を合わせる。


「俺たちは冒険者だ」


「……やっぱり」


「やっぱり?」


「いや、こっちの話です」


 男は首を傾げた。


 そして。


「お前、仕事探してるか?」


「仕事?」


「ちょうど荷物持ちが一人欲しかったんだ」


「…………」


「もちろん楽な仕事じゃない。街の外にも出る。危険もある」


 礼は黙って聞く。


「だが」


 男が言った。


「働くなら飯は食わせる」


「…………」


「寝る場所も、しばらくは何とかしてやる」


 礼の目が僅かに開く。


 飯。


 寝る場所。


 今の礼が持っていないもの。


「どうする?」


 男が手を差し出した。


 礼はその手を見る。


 知らない男。


 知らない世界。


 信用できる保証など。


 どこにもない。


 それでも。


 礼には他に何もなかった。


「…………」


 ゆっくり。


 手を伸ばす。


「……お願いします」


 男が笑った。


「決まりだ」


 礼の手を掴む。


 力強く引き起こした。


「俺はガルド」


 男が自分を指す。


「しばらくよろしくな」


「……如月礼です」


「キサラギ?」


「礼でいいです」


「そうか」


 男――ガルドは笑った。


「じゃあ行くぞ、礼」


「……はい」


 自分の名前。


 この世界へ来てから。


 初めて誰かに呼ばれた。


「飯、まだなんだろ?」


「朝からほとんど」


「そりゃ腹も鳴るわ」


 弓使いの女性が笑う。


「今日は肉よ」


「……肉?」


「嫌い?」


「いや」


 礼は。


 ほんの少しだけ笑った。


「好きです」


「なら決まり」


 四人の後ろを歩く。


 知らない街。


 知らない人々。


 知らない世界。


 それでも。


 さっきまで一人だった道を。


 今は五人で歩いている。


 礼はまだ知らなかった。


 この出会いが。


 自分を救うことも。


 自分を笑わせることも。


 自分に、この世界で初めての居場所を与えることも。


 そして。


 そのすべてが――。


 いつの日か。


 跡形もなく壊れることも。


 この時の礼は。


 まだ知らなかった。

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