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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第三十四話 隣に立つもの

グランドラが大地を蹴った。


 その巨体からは到底想像できない速度だった。地面を覆っていた小石が後方へ弾け、四本の脚が岩盤を踏み砕くたび、採石場全体が低く震える。


 礼は走った。


 背後を確認する余裕などない。


 全身を巡る童力を脚へ寄せ、地面を蹴る。身体が一気に前へ押し出されるが、それでも背後から響く重い足音は離れてくれなかった。


「礼! 右!」


 リオの声が飛ぶ。


 考えるより先に右へ跳んだ。


 次の瞬間、礼がいた場所へグランドラの頭部が突っ込んだ。


 岩が砕けた。


 飛び散った破片が頬を掠める。


 着地に失敗した礼は肩から地面へ転がり、勢いのまま二度、三度と回転した。


「っ……!」


 肺の中の空気が押し出される。


 それでも身体を起こした。


 痛い。


 右肩だけではない。背中も、膝も、さっきから何度も無理な動きを繰り返した脚も痛んでいる。


 けれど、動く。


 骨は折れていない。


 剣もある。


 童力も――まだ残っている。


「大丈夫か!」


 少し離れたところから、ダリオの声が聞こえた。


「はい!」


 答えながら立ち上がる。


 グランドラもまた、ゆっくりと身体の向きを変えていた。


 赤黒い光が、持ち上がった甲殻の隙間で脈打っている。


 何なのかは分からない。


 ただ、先ほどまでとは明らかに違う。


 速さも、力も。


 そして何より、その動きから理性のようなものが消えていた。


 それまでは攻撃された方向へ反応し、邪魔な相手を排除しながら戦っていた。それが今は、視界に入ったものすべてを壊そうとしているように見える。


「正面で受けるな!」


 ダリオの怒声が飛んだ。


「盾は二人一組! 止めようとするな、進路を逸らせ! 槍は脚を狙え! 魔術隊は動きを制限しろ!」


 指示を受け、冒険者たちが散っていく。


 混乱している。


 負傷者もいる。


 それでも、誰一人として好き勝手には動いていなかった。


 礼は荒い呼吸を繰り返しながら、その光景を見た。


 すごい。


 こんな状況でも、まだ戦える。


 自分とリオだけなら、互いを見るだけでいい。相手が何をしようとしているかも、最近では何となく分かるようになってきた。


 だが、ここには二十人以上いる。


 知らない者同士もいる。


 使う武器も、得意なことも違う。


 それでも、ダリオの声一つで全員の動きが変わった。


「《土壁》!」


 魔術師の杖が地面へ向けられる。


 グランドラの進路上で岩混じりの土が隆起し、分厚い壁を作った。


 巨体がそこへ突っ込む。


 一枚目は、ほとんど速度を落とすことなく粉砕された。


 二枚目。


 激突。


 土と石が舞い上がる。


 今度は僅かに速度が落ちた。


「今だ!」


 二人の槍使いが左右から飛び込んだ。


 狙ったのは甲殻ではない。


 前脚の付け根。


 硬い外殻の切れ目へ、二本の穂先が深く潜り込んだ。


 グランドラが咆哮した。


 耳の奥が痺れる。


 だが、槍使いたちは怯まない。


 さらに押し込もうとする。


「離れろ!」


 ダリオが叫んだ。


 二人が即座に槍から手を放した。


 直後、グランドラの尾が通過する。


 空気が唸った。


 一人は身を伏せて避けた。


 もう一人は間に合わなかった。


「ぐあっ!」


 身体が宙へ浮く。


 地面へ叩きつけられた男のもとへ、礼は反射的に駆け出そうとした。


 だが、それより早く別の冒険者が走っていた。


「こっちは任せろ!」


 負傷者の腕を肩へ回しながら、男が礼を睨む。


「前を見ろ!」


「……はい!」


 礼は足を止めた。


 自分一人で全部をやる必要はない。


 助ける人間もいる。


 守る人間もいる。


 なら、自分は。


 今、自分にできることをする。


「リオ!」


 戦場の向こうへ声を投げる。


「右脚!」


「見えてる!」


 すぐに返事があった。


 礼はグランドラの右後脚へ目を向けた。


 リオが弓を引く。


 距離がある。


 だが、飛び出した矢には微かに童力が残っていた。


 礼にはそれが分かる。


 矢は甲殻の隙間へ吸い込まれた。


 硬い音。


 完全には刺さらない。


 それでも、鏃は弾かれずに残った。


「入った!」


 リオの声が聞こえる。


 礼は走った。


 童力を脚へ集中させる。


 一歩目で加速し、二歩目でさらに身体を押し出す。


 景色が後ろへ流れた。


 誰かが驚いたような声を上げた気がしたが、聞き取れなかった。


 リオの矢。


 その周囲。


 甲殻の継ぎ目。


 剣の柄を握る。


 童力を右腕へ。


 掌へ。


 そこから柄へ流し、刀身の表面へ沿わせる。


 以前なら、それだけで意識のほとんどを持っていかれた。


 今は走りながらでもできる。


「――っ!」


 踏み込んだ。


 剣を振り抜く。


 鈍い衝撃が腕へ返った。


 刃が止まりかける。


 それでも、童力を途切れさせない。


「入れ……!」


 甲殻の隙間へ、刃が沈んだ。


 血が飛ぶ。


 グランドラの巨体が大きく揺れた。


「通った……!」


 礼自身が驚いていた。


 浅い。


 致命傷には程遠い。


 それでも、今までより明らかに深い。


 喜んでいる暇はなかった。


 グランドラが脚を振り上げる。


 礼は剣を抜き、後方へ跳んだ。


 直後、巨大な前脚が地面を叩いた。


 砕けた石が雨のように飛ぶ。


 礼は腕で顔を庇いながら着地した。


「おい!」


 近くにいた剣士が、目を丸くしている。


「今の何だ!」


「え?」


「剣だ! 何をした!」


「童――」


 説明しかけて。


 グランドラの尾が視界の端に入った。


「後で!」


「お前から言い出したんじゃねえか!」


 二人同時に地面へ伏せる。


 頭上を尾が通り過ぎた。


 風圧だけで髪が乱れる。


 礼は転がりながら距離を取り、立ち上がった。


 戦いはまだ続いている。



     ◇



「また刺さった……」


 リオの隣にいた弓兵が、呆然と呟いた。


「浅いですけどね」


 リオは新しい矢を取り出した。


「いや、そうじゃない」


「?」


「あそこは普通の矢じゃ通らん」


「そうみたいですね」


「そうみたいですね、じゃない」


 男は先ほどグランドラへ刺さった矢と、リオの手元を交互に見る。


「何をしてる?」


「童力を――」


 そこまで言って、リオは止まった。


「……見えません?」


「何が?」


「これ」


 矢へ童力を流す。


 身体の中から腕へ。


 指先から矢柄へ。


 鏃まで。


 今では慣れた感覚だった。


 だが、隣の男は眉を寄せるだけだった。


「何も見えん」


「見えるものじゃないです」


「じゃあ何で聞いた」


「いや、何となく分かるかなって」


「分からん」


「ですよね」


「だから何なんだ!」


 リオは答えず、弓を構えた。


 説明するには長い。


 何より今は、説明している場合ではない。


 狙う。


 右後脚。


 礼がつけた傷。


 だが、グランドラが動く。


 リオは弦を緩めた。


「撃たないのか?」


「今は外れる」


「分かるのか」


「たぶん」


「たぶんで矢を撃つなよ」


「だから撃たなかったんです」


「……それもそうか」


 妙な会話になった。


 その瞬間、グランドラの頭がこちらを向いた。


 リオの表情が変わる。


「逃げますよ」


「何?」


「来る」


 次の瞬間。


 巨体が動いた。


「散れ!」


 弓兵たちが左右へ走る。


 リオも駆け出した。


 背後から地面を叩く音が迫ってくる。


 その途中。


 一人の弓兵が足を滑らせた。


「っ!」


 倒れる。


 グランドラは止まらない。


「おい!」


 リオが振り返る。


 距離。


 間に合わない。


 矢を撃ったところで止められない。


「礼!」


 反射的に叫んだ。


 遠い。


 礼は反対側にいる。


 その時だった。


「《土壁》!」


 地面が隆起した。


 グランドラの正面へ、岩混じりの壁が立ち塞がる。


 激突。


 壁は一瞬で崩れた。


 だが、その一瞬があった。


「立て!」


 魔術師の声。


 倒れた弓兵が起き上がる。


 リオは男の腕を掴み、引っ張った。


 三人で岩陰へ飛び込む。


 直後、背後で土壁が完全に砕けた。


「……死ぬかと思った」


 助けられた男が呟いた。


 リオも息を吐く。


「俺も」


 岩陰から顔を出す。


 土壁を作った魔術師と目が合った。


 魔術師が一度だけ頷いた。


 リオも頷き返す。


 礼だけではない。


 自分だけでもない。


 ここにいる全員で戦っている。


 それを、今さらながら実感した。



     ◇



 どれほど戦っていたのか、礼にはもう分からなかった。


 グランドラの身体には傷が増えている。


 甲殻は何か所も焦げ、脚には槍が刺さり、首にはリオの矢が残っている。


 効いている。


 間違いなく。


 だが、こちらも限界へ近づいていた。


 負傷して後方へ下がった者がいる。


 折れた武器が地面に転がっている。


 魔術師たちの顔にも疲労が見える。


 礼自身、呼吸が戻らない。


 童力もかなり使った。


 全身循環。


 剣への付与。


 障壁。


 そして、昨日見つけたばかりの圧縮と解放。


 何度も使えば、当然減る。


「このままじゃ……」


 先にこちらが動けなくなる。


 何か必要だった。


 ただ削り続けるのではなく、一気に状況を変える何かが。


「ダリオさん!」


「何だ!」


「甲殻が薄いところは!?」


「腹だ!」


 ダリオはグランドラから視線を外さず答えた。


「だが、下へ潜るな! 潰されるぞ!」


「他は!?」


「首の下と脚の付け根だ! 口の中も柔らかい!」


 礼はグランドラを見る。


 脚。


 さっきから狙っている右後脚。


 そこにはすでに傷が集中している。


 あれを壊せれば。


 倒せる。


 腹を晒せるかもしれない。


「リオ!」


 呼ぶ。


 少し離れた場所でリオが振り向いた。


 礼は自分の右後脚を指差してから、グランドラを指す。


 それだけで伝わったらしい。


 リオが頷いた。


「右脚だな!」


「そこに集中する!」


「分かった!」


 その会話を聞いていたダリオが、すぐに声を張った。


「魔術隊! 右へ寄せろ!」


 礼は思わず振り返った。


「え?」


「何を驚いてる!」


「いや……」


「やるんだろ!」


「はい!」


「なら迷うな!」


 胸の奥が僅かに強張った。


 自分の考えに、他人が合わせる。


 今までとは違う。


 失敗したら。


 その考えが一瞬だけ頭を過ぎる。


 礼は首を振った。


 今は考えるな。


「リオ!」


「準備できてる!」


「三本、続けていける?」


「簡単に言うなよ!」


「無理?」


「……やる!」


 リオが矢を番える。


 同時に魔術師たちが杖を上げた。


 詠唱が重なる。


 空気が熱を持つ。


「《火炎槍》!」


「《氷槍》!」


 左右から魔術が飛んだ。


 グランドラが頭を振る。


 炎を避ける。


 氷が肩へ直撃し、甲殻の一部が白く凍りついた。


「今!」


 リオの一射目。


 外れる。


 二射目。


 甲殻に弾かれた。


「くそっ……!」


 三射目。


 リオが息を止める。


 礼は走り出した。


 矢が飛ぶ。


 今度は。


 刺さった。


「礼!」


「見えた!」


 脚へ童力を集める。


 加速する。


 グランドラとの距離が一気に縮まった。


 その時、巨体が動いた。


「――っ!」


 尾。


 こちらへ来る。


 避ければ攻撃の機会を失う。


 受ければ、ただでは済まない。


 礼は右手を伸ばした。


 昨日見つけたばかりの方法。


 童力を身体の外へ。


 広げない。


 最初から一点へ。


 押し込む。


 まだ遅い。


 もっと。


「――っ!」


 解放。


 鈍い衝撃音が響いた。


 グランドラの尾が僅かに軌道を変える。


「足りない……!」


 完全には逸れない。


 礼は身体を捻った。


 太い尾が右肩を掠めた。


 その瞬間、身体の向きが強引に変えられた。


「ぐっ!」


 地面へ転がる。


 剣が手から離れた。


 痛みで右腕が痺れる。


 それでも、動いた。


 折れてはいない。


 礼は地面へ手をつき、剣を見る。


 数歩先。


 手を伸ばす。


 掴む。


 立つ。


 目の前には、傷ついた右後脚。


「まだ……!」


 剣へ童力を流す。


 振る。


 傷口へ刃が食い込んだ。


 グランドラが吠えた。


 血が礼の頬へ飛ぶ。


 もう一度。


 剣を抜く。


 振り上げる。


 そこで。


 視界が暗くなった。


「……え?」


 何かが、太陽を遮っている。


 見上げる。


 グランドラの前脚。


 巨大な岩塊のような脚が、礼の真上にあった。


「礼!!」


 リオの声。


 避ける。


 そう思った。


 だが身体が動かない。


 踏み込みすぎた。


 足場も悪い。


 間に合わない。


 時間が、妙にゆっくりになった気がした。


 脚が落ちてくる。


 あれに潰されたら。


 死ぬ。


 礼は剣を両手で握った。


 頭上へ構える。


 意味がない。


 こんな鉄剣一本で、あの重量を受け止められるはずがない。


 分かっている。


 それでも。


 他にできることがなかった。


「――っ!」


 歯を食いしばる。


 その時だった。


 足元で。


 何かが動いた。


「…………?」


 黒いもの。


 最初は、自分の影だと思った。


 だが違う。


 太陽は前方にある。


 影が伸びる方向がおかしい。


 それは礼の足元から滲み出すように広がり、ゆっくりと隣へ伸びていった。


 知っている。


 礼の背筋を、戦いとは別の冷たさが走った。


「……また」


 森で見た。


 自分の意思とは関係なく現れた、黒い腕。


 童力だった。


 少なくとも、礼にはそう感じられた。


 けれど。


 自分の童力とは違った。


 自分の中にあるものなのに。


 知らない誰かの手に触れたような。


 あの気味の悪い感覚。


 黒いものが持ち上がった。


 地面から。


 ゆっくりと。


 礼の隣で。


 立ち上がる。


「…………」


 人。


 そう思った。


 顔はない。


 目も。


 口も。


 服さえ分からない。


 黒い輪郭だけが、人間の形を作っている。


 誰だ。


 礼はそう思った。


 だが、不思議だった。


 怖い。


 知らない。


 気味が悪い。


 それなのに。


 隣に立たれた瞬間。


 ほんの一瞬だけ。


 懐かしいような気がした。


 理由などない。


 会ったこともない。


 顔さえないのだから。


 それでも。


 ずっと昔からそこにいたものが、ようやく姿を見せたような。


 そんな感覚だけがあった。


 グランドラの脚が迫る。


 考えている時間はない。


 礼は剣を握った。


 隣の影も。


 腕を動かした。


「――――」


 何かを握っている。


 そう見えた。


 だが、そこには何もない。


 礼が剣を振る。


 人影も同時に踏み込んだ。


 誰かに合わせたわけではない。


 合図もない。


 それなのに。


 まるで何度も一緒に戦ったことがあるように、動きが重なった。


「――っ!」


 礼の剣がグランドラの脚へぶつかる。


 同時に。


 隣で。


 存在しない何かが振り抜かれた。


 重い音がした。


 剣の音ではない。


 魔術の爆発でもない。


 空気そのものを巨大な槌で殴ったような、腹の底へ響く音。


 グランドラの脚が逸れた。


「――――ッ!」


 巨大な前脚が、礼のすぐ横へ叩きつけられる。


 地面が揺れた。


 岩が砕ける。


 土煙が舞い上がった。


 礼は。


 立っていた。


「…………」


 自分が生きていることを確認するのに、数秒かかった。


 呼吸。


 できる。


 身体。


 動く。


 そして。


 隣。


 礼は顔を向けた。


 いた。


 まだ。


 黒い人影が。


「……誰?」


 自分でも驚くほど、小さな声だった。


 人影は答えない。


「お前……」


 礼が手を伸ばす。


 その瞬間。


 輪郭が揺れた。


「待って」


 黒い身体が崩れていく。


 煙ではない。


 霧でもない。


 ただ、そこに留まれなくなったように、少しずつ薄れていく。


「待って!」


 指先が届くより先に。


 消えた。


「…………」


 何もない。


 礼の隣には。


 砕けた石と。


 自分自身の影だけが残っていた。


「礼!」


 足音。


 リオが駆け寄ってくる。


「大丈夫か!?」


「……うん」


「今の何だよ!」


 礼はリオを見る。


「見えた?」


「見えたっていうか……いたよな!?」


「人だった?」


「分かんねえよ! 黒くて……でも、人みたいな……」


「顔は?」


「見えなかった!」


「何か持ってた?」


「知らない! 一瞬だったんだぞ!」


「でも――」


「おい!」


 別の声が割り込んだ。


 先ほどの槍使いが、こちらを見ている。


「今、お前の横に誰かいたよな?」


 礼は言葉を失った。


 見えていた。


 自分だけではない。


「何だ、あれ……」


「召喚魔術か?」


「詠唱なんてしてないぞ」


「そもそもあいつ、魔力が――」


「後にしろ!!」


 ダリオの怒声が、全員の意識を引き戻した。


「まだ終わってない!」


 グランドラが身体を起こそうとしている。


 礼も我に返った。


「右脚!」


 ダリオが叫ぶ。


「今ので崩れてる! 全員、そこへ集中しろ!」


 リオが弓を構える。


 魔術師たちが杖を向ける。


 槍使いたちが走る。


 礼も剣を握った。


 今は。


 考えるな。


「《氷槍》!」


 氷が飛ぶ。


「撃て!」


 矢が続く。


 槍が突き込まれる。


 傷ついた右後脚へ、攻撃が集中した。


 グランドラが立ち上がろうとする。


 脚が震える。


 それでも立つ。


「まだだ!」


 礼は走った。


 残った童力を剣へ流す。


 身体から。


 腕。


 掌。


 柄。


 刃。


 これで最後でもいい。


「――倒れろ!」


 剣を叩き込んだ。


 すでに傷ついていた甲殻へ亀裂が走る。


 その亀裂へ槍が入った。


 矢が刺さった。


 さらに魔術が直撃する。


 甲殻が砕けた。


 グランドラの右脚が沈む。


 巨体が傾く。


「離れろ!」


 冒険者たちが一斉に退く。


 次の瞬間。


 地面が揺れた。


 グランドラの身体が横倒しになる。


 舞い上がった土煙で、一瞬何も見えなくなった。


「腹が出た!」


 誰かが叫ぶ。


 ダリオの声が続いた。


「魔術隊!」


 横倒しになったグランドラの腹。


 そこには、背中のような分厚い甲殻がない。


 魔術師たちが一斉に杖を向けた。


「撃て!!」


 炎。


 氷。


 岩。


 色の違う魔術が、次々と腹部へ直撃する。


 皮膚が裂ける。


 グランドラが咆哮した。


 起き上がろうと脚を動かす。


「前衛!」


 ダリオが走った。


 剣士。


 槍使い。


 盾役まで。


 動ける者が続く。


 礼も走ろうとした。


「礼!」


 肩を掴まれた。


「何!?」


 リオだった。


「お前は行くな」


「でも――」


「顔見ろ」


「顔?」


「真っ青だぞ」


「まだ動ける」


「童力は?」


 言われて。


 礼は自分の内側へ意識を向けた。


「……少し」


「少しだろ」


「でも」


「俺たちだけで戦ってるんじゃない」


 その言葉で。


 礼は前を見る。


 ダリオがいる。


 槍使いがいる。


 剣士がいる。


 魔術師がいる。


 弓兵がいる。


 みんなが戦っている。


 自分が行かなければ倒せないわけではない。


 さっきだって。


 リオではなく、別の魔術師が弓兵を助けた。


 自分が全部やる必要はない。


「……うん」


 礼は剣を下ろした。


「じゃあ、周りを見る」


「それでいい」


 リオは弓を構えた。


「俺はまだ撃てる」


「無理しないで」


「お前に言われたくない」


「……確かに」


 礼は苦笑した。


 そして。


 戦場を見る。


「尾!」


 グランドラの尾が動く。


「左から来る!」


 前衛たちが離れる。


「頭上げる!」


 グランドラが苦しげに首を持ち上げる。


 口が開く。


「リオ!」


「見えてる!」


 弦が鳴った。


 矢が飛ぶ。


 その一本にだけ。


 礼には、見慣れた感覚があった。


 童力。


 矢は開いた口の中へ吸い込まれた。


 グランドラの頭が大きく跳ねる。


「効いた!」


「押せ!!」


 ダリオが叫ぶ。


 そこからは。


 誰の攻撃が最後だったのか、礼にも分からなかった。


 魔術が飛んだ。


 剣が入った。


 槍が突き刺さった。


 矢が降った。


 一つ一つなら、小さな傷だったのかもしれない。


 けれど。


 それらが何度も重なった。


 やがて。


 グランドラの尾が地面へ落ちた。


 前脚から力が抜ける。


 最後に一度だけ。


 採石場の奥まで響く、低い咆哮を上げて。


 巨大な頭が。


 地面へ沈んだ。



     ◇



 すぐに歓声は上がらなかった。


 誰も動かない。


 ただ。


 荒い呼吸だけが、あちこちから聞こえていた。


 礼も剣を握ったまま、グランドラを見つめている。


 動かない。


 けれど、さっきまであれほど暴れていた。


 まだ起きるのではないか。


 そんな気がしてならない。


 ダリオが慎重に近づいた。


 剣を構えたまま、グランドラの頭部へ触れる。


 反応はない。


 しばらく待つ。


 誰も喋らない。


 やがて。


 ダリオが大きく息を吐いた。


「……終わりだ」


 剣を下ろす。


「討伐完了!」


 一瞬の静寂。


 それから。


「っしゃあああああ!!」


 誰かの声をきっかけに、採石場が歓声に包まれた。


「やった!」


「生きてる!」


「酒だ! 帰ったら絶対飲むぞ!」


「お前さっきからそれしか言ってねえだろ!」


 笑い声。


 その場へ座り込む者。


 仲間と抱き合う者。


 倒れている仲間のところへ走る者。


 礼は。


 その場に腰を下ろした。


「……疲れた」


 足に力が入らない。


 隣へリオも座る。


「俺も」


「大型討伐って、毎回こんななのかな」


「だったら俺、しばらくいい」


「俺も」


「本当に?」


「…………」


「その間は何だよ」


「いや」


 礼は倒れたグランドラを見る。


「ちょっとだけ、面白かった」


「ほらな」


 リオが笑う。


 礼も笑った。


 それから。


 何となく。


 隣を見た。


「…………」


 誰もいない。


 当然だった。


 リオは反対側にいる。


 そこにあるのは、砕けた石と地面だけ。


「礼?」


「……さっきの」


 リオの笑みが消えた。


「ああ」


「本当に見えたんだよね」


「見えた」


「俺だけじゃなくて」


「他の奴も言ってただろ」


「……うん」


 礼は自分の手を見る。


 開く。


 握る。


 何も変わらない。


「前にも出た」


「森の時?」


「うん」


「腕みたいなのが出たってやつ」


「そう」


 礼は胸へ手を当てた。


 童力。


 まだ僅かに残っている。


 いつもの感覚だ。


 自分のもの。


 自分が見つけた力。


 自分で名前をつけた力。


 なのに。


「あれも童力だった」


「今日のも?」


「たぶん」


「じゃあ礼の童術なんじゃないのか?」


「……分からない」


 礼は首を振った。


「俺が出そうと思って出したんじゃない」


「それは前も言ってたな」


「それだけじゃなくて」


 言葉が出てこない。


 どう説明すればいいのだろう。


 自分の中から現れた。


 なら、自分の力のはずだ。


 それなのに。


「俺の童力なんだけど……」


 礼は隣の空いた場所を見る。


「俺のじゃない感じがする」


 リオは何も言わなかった。


「それと」


「まだあるのか」


「……変なんだけど」


「何?」


 礼は少し迷った。


 口にしたら、余計に変な話になる気がした。


 それでも。


「初めて見たはずなのに」


 風が吹く。


 採石場に残った土埃が、二人の前を薄く流れていく。


「ちょっとだけ、懐かしい気がした」


「…………」


「意味分からないよね」


「分からない」


「だよな」


「でも」


 リオは少し考えてから続けた。


「調べればいいだろ」


「……うん」


「分からないなら、いつもみたいに」


 礼はリオを見る。


 それから。


 少しだけ笑った。


「そうだな」


「帰ったら?」


「調べる」


「その前に飯」


「分かってるよ」


「本当に?」


「今日は食べるって」


「昨日も似たようなこと言ってたぞ」


「食べたじゃん」


「冷めたパンをな」


 二人の声は、まだ騒がしい冒険者たちの歓声へ紛れていった。


 けれど礼は。


 立ち上がる直前。


 もう一度だけ。


 自分の隣を見た。


 誰もいなかった。



     ◇



 ローデンへ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。


 負傷者は多かった。


 骨を折った者。


 深い裂傷を負った者。


 まともに歩けず、仲間に肩を借りている者もいる。


 それでも。


 死者はいなかった。


 ギルドへ討伐成功が伝えられると、職員たちから歓声が上がった。


 居合わせた冒険者たちまで騒ぎ始める。


 礼はその輪から少し離れたところに立っていた。


 疲れていた。


 嬉しくないわけではない。


 ただ。


 頭の中では、別のものが離れなかった。


 黒い人影。


「礼」


「ん?」


「報酬、明日だって」


「そっか」


「宿戻るぞ」


「うん」


「研究は明日」


「え」


「え、じゃない」


「ノートに書くだけ」


「お前の『書くだけ』は信用してない」


「忘れたら困るだろ」


「飯食ってから」


「……分かった」


「絶対だぞ」


 二人はギルドを出た。


 礼は気づかなかった。


 その背中を、何人もの冒険者が見ていたことに。


「あの二人……」


 今日、リオの隣で戦っていた弓兵が呟いた。


「何なんだ?」


 返事をしたのは、一人の魔術師だった。


 礼が最初に障壁で助けた男だ。


「分からん」


「剣士の方、魔術はほとんど使えないって言ってたよな」


「ああ」


「じゃあ、あの壁は?」


「分からん」


「弓の奴の矢は?」


「分からん」


「何もないところから何か飛ばしてたぞ」


「見た」


「あの黒い人影は?」


「それも分からん」


 弓兵が呆れた顔をする。


「何なら分かるんだよ」


 魔術師は答えなかった。


 ギルドを出ていく二人の背中を見つめる。


 そして。


「……一つだけ」


「何だ?」


「あれは魔術じゃない」


 弓兵が眉を寄せた。


「何で分かる?」


「魔力が動いていなかった」


「……は?」


「何度見てもだ。身体を強化した時も、剣でグランドラの甲殻を斬った時も、あの壁を出した時も」


 魔術師は、自分の手を見る。


「俺たちが魔術を使えば、魔力が動く。どれだけ隠そうとしても、あれほどの現象なら分かる」


「じゃあ……」


「あの少年は違った」


 魔術師は顔を上げた。


「ほとんど魔力を使わずに、あれだけのことをしていた」


「……何だよ、それ」


「だから分からない」


 しばらく沈黙する。


 やがて弓兵が、ギルドの扉へ視線を向けた。


「本人に聞けばいいんじゃないか?」


「……そうだな」


 それだけ言って。


 二人もまた、仲間たちのところへ戻っていった。



     ◇



 その夜。


 宿の小さな机で、礼はノートを開いていた。


 夕食は食べた。


 リオに目の前で確認された。


 その後、ようやく部屋へ戻ることを許された。


 机の上にはランプが一つ。


 黄色い光が、開いたページを照らしている。


 礼は今日の出来事を、一つずつ書き出した。


『岩甲竜グランドラ』


『大型魔物に対する童術の使用』


『全身循環――有効』


『剣への童力循環――甲殻への効果あり』


 そこで少し考え。


『ただし、武器自体の損耗は防げない』


 と付け加える。


 次。


『外部障壁――大型魔物の突進に対しても、一時的な阻害が可能』


『童力消費――大』


『圧縮した童力の解放――物体への物理的干渉を確認』


『圧縮工程の短縮――可能』


『最初から狭い範囲へ放出することで、圧縮に必要な時間を短縮できる可能性』


 ペンが止まる。


 礼はしばらく、その文字を見つめた。


 今日だけで。


 昨日まで分からなかったことが、いくつも分かった。


 普段なら。


 きっと嬉しかった。


 もっと試したいと思った。


 もちろん今も思っている。


 けれど。


 そのページには書けないものが一つ残っていた。


 礼はノートをめくった。


 何枚か戻る。


 森で。


 黒い腕が現れた日。


 最後に書いた一文。


『あれは、本当に俺の童力だったのか?』


「…………」


 礼は指先で、その文字をなぞった。


 今日。


 また現れた。


 偶然ではない。


 少なくとも、存在しないものを二度も見たとは考えにくい。


 何より。


 今日はリオも見た。


 他の冒険者たちも。


 礼は新しいページを開いた。


 ゆっくりと書く。


『黒色の現象について』


『以前確認した現象と酷似』


『発生条件――不明』


『自身の意思による発動――否』


『童力反応――あり』


 そこまで書いて。


 礼は目を閉じた。


 思い出す。


 あの感覚。


 自分の足元から出た。


 自分の中に繋がっていた。


 童力だった。


 なのに。


『自身の童力との感覚的相違――あり』


 続ける。


『前回――複数の腕のような形状』


『今回――人型』


 ペン先が紙の上で止まった。


 人型。


 あれは。


 ただ人間に似た形を取っただけなのだろうか。


 それとも。


 本当に。


 誰かがそこにいたのだろうか。


 馬鹿げている。


 そう思う。


 けれど。


 あの時。


 礼は確かに感じた。


 知らないはずなのに。


 ほんの少しだけ。


 懐かしいと。


 礼はその感覚まではノートに書かなかった。


 まだ。


 記録にするには曖昧すぎる。


 代わりに。


『正体――不明』


 とだけ書いた。


 ランプの火が小さく揺れた。


 風だろうか。


 礼は顔を上げる。


 窓は閉まっている。


「…………」


 部屋には。


 誰もいない。


 隣の部屋にはリオがいる。


 それだけだ。


 礼は再びノートへ目を落とした。


 最後に。


 一行。


 書く。


『あれは、誰だ?』


 ペンを置く。


 椅子の背へ身体を預ける。


 静かな部屋だった。


 遠くから、酒場の笑い声が微かに聞こえる。


 礼は何となく。


 机の隣へ目を向けた。


 そこには当然。


 誰も立っていなかった。

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