第三十四話 隣に立つもの
グランドラが大地を蹴った。
その巨体からは到底想像できない速度だった。地面を覆っていた小石が後方へ弾け、四本の脚が岩盤を踏み砕くたび、採石場全体が低く震える。
礼は走った。
背後を確認する余裕などない。
全身を巡る童力を脚へ寄せ、地面を蹴る。身体が一気に前へ押し出されるが、それでも背後から響く重い足音は離れてくれなかった。
「礼! 右!」
リオの声が飛ぶ。
考えるより先に右へ跳んだ。
次の瞬間、礼がいた場所へグランドラの頭部が突っ込んだ。
岩が砕けた。
飛び散った破片が頬を掠める。
着地に失敗した礼は肩から地面へ転がり、勢いのまま二度、三度と回転した。
「っ……!」
肺の中の空気が押し出される。
それでも身体を起こした。
痛い。
右肩だけではない。背中も、膝も、さっきから何度も無理な動きを繰り返した脚も痛んでいる。
けれど、動く。
骨は折れていない。
剣もある。
童力も――まだ残っている。
「大丈夫か!」
少し離れたところから、ダリオの声が聞こえた。
「はい!」
答えながら立ち上がる。
グランドラもまた、ゆっくりと身体の向きを変えていた。
赤黒い光が、持ち上がった甲殻の隙間で脈打っている。
何なのかは分からない。
ただ、先ほどまでとは明らかに違う。
速さも、力も。
そして何より、その動きから理性のようなものが消えていた。
それまでは攻撃された方向へ反応し、邪魔な相手を排除しながら戦っていた。それが今は、視界に入ったものすべてを壊そうとしているように見える。
「正面で受けるな!」
ダリオの怒声が飛んだ。
「盾は二人一組! 止めようとするな、進路を逸らせ! 槍は脚を狙え! 魔術隊は動きを制限しろ!」
指示を受け、冒険者たちが散っていく。
混乱している。
負傷者もいる。
それでも、誰一人として好き勝手には動いていなかった。
礼は荒い呼吸を繰り返しながら、その光景を見た。
すごい。
こんな状況でも、まだ戦える。
自分とリオだけなら、互いを見るだけでいい。相手が何をしようとしているかも、最近では何となく分かるようになってきた。
だが、ここには二十人以上いる。
知らない者同士もいる。
使う武器も、得意なことも違う。
それでも、ダリオの声一つで全員の動きが変わった。
「《土壁》!」
魔術師の杖が地面へ向けられる。
グランドラの進路上で岩混じりの土が隆起し、分厚い壁を作った。
巨体がそこへ突っ込む。
一枚目は、ほとんど速度を落とすことなく粉砕された。
二枚目。
激突。
土と石が舞い上がる。
今度は僅かに速度が落ちた。
「今だ!」
二人の槍使いが左右から飛び込んだ。
狙ったのは甲殻ではない。
前脚の付け根。
硬い外殻の切れ目へ、二本の穂先が深く潜り込んだ。
グランドラが咆哮した。
耳の奥が痺れる。
だが、槍使いたちは怯まない。
さらに押し込もうとする。
「離れろ!」
ダリオが叫んだ。
二人が即座に槍から手を放した。
直後、グランドラの尾が通過する。
空気が唸った。
一人は身を伏せて避けた。
もう一人は間に合わなかった。
「ぐあっ!」
身体が宙へ浮く。
地面へ叩きつけられた男のもとへ、礼は反射的に駆け出そうとした。
だが、それより早く別の冒険者が走っていた。
「こっちは任せろ!」
負傷者の腕を肩へ回しながら、男が礼を睨む。
「前を見ろ!」
「……はい!」
礼は足を止めた。
自分一人で全部をやる必要はない。
助ける人間もいる。
守る人間もいる。
なら、自分は。
今、自分にできることをする。
「リオ!」
戦場の向こうへ声を投げる。
「右脚!」
「見えてる!」
すぐに返事があった。
礼はグランドラの右後脚へ目を向けた。
リオが弓を引く。
距離がある。
だが、飛び出した矢には微かに童力が残っていた。
礼にはそれが分かる。
矢は甲殻の隙間へ吸い込まれた。
硬い音。
完全には刺さらない。
それでも、鏃は弾かれずに残った。
「入った!」
リオの声が聞こえる。
礼は走った。
童力を脚へ集中させる。
一歩目で加速し、二歩目でさらに身体を押し出す。
景色が後ろへ流れた。
誰かが驚いたような声を上げた気がしたが、聞き取れなかった。
リオの矢。
その周囲。
甲殻の継ぎ目。
剣の柄を握る。
童力を右腕へ。
掌へ。
そこから柄へ流し、刀身の表面へ沿わせる。
以前なら、それだけで意識のほとんどを持っていかれた。
今は走りながらでもできる。
「――っ!」
踏み込んだ。
剣を振り抜く。
鈍い衝撃が腕へ返った。
刃が止まりかける。
それでも、童力を途切れさせない。
「入れ……!」
甲殻の隙間へ、刃が沈んだ。
血が飛ぶ。
グランドラの巨体が大きく揺れた。
「通った……!」
礼自身が驚いていた。
浅い。
致命傷には程遠い。
それでも、今までより明らかに深い。
喜んでいる暇はなかった。
グランドラが脚を振り上げる。
礼は剣を抜き、後方へ跳んだ。
直後、巨大な前脚が地面を叩いた。
砕けた石が雨のように飛ぶ。
礼は腕で顔を庇いながら着地した。
「おい!」
近くにいた剣士が、目を丸くしている。
「今の何だ!」
「え?」
「剣だ! 何をした!」
「童――」
説明しかけて。
グランドラの尾が視界の端に入った。
「後で!」
「お前から言い出したんじゃねえか!」
二人同時に地面へ伏せる。
頭上を尾が通り過ぎた。
風圧だけで髪が乱れる。
礼は転がりながら距離を取り、立ち上がった。
戦いはまだ続いている。
◇
「また刺さった……」
リオの隣にいた弓兵が、呆然と呟いた。
「浅いですけどね」
リオは新しい矢を取り出した。
「いや、そうじゃない」
「?」
「あそこは普通の矢じゃ通らん」
「そうみたいですね」
「そうみたいですね、じゃない」
男は先ほどグランドラへ刺さった矢と、リオの手元を交互に見る。
「何をしてる?」
「童力を――」
そこまで言って、リオは止まった。
「……見えません?」
「何が?」
「これ」
矢へ童力を流す。
身体の中から腕へ。
指先から矢柄へ。
鏃まで。
今では慣れた感覚だった。
だが、隣の男は眉を寄せるだけだった。
「何も見えん」
「見えるものじゃないです」
「じゃあ何で聞いた」
「いや、何となく分かるかなって」
「分からん」
「ですよね」
「だから何なんだ!」
リオは答えず、弓を構えた。
説明するには長い。
何より今は、説明している場合ではない。
狙う。
右後脚。
礼がつけた傷。
だが、グランドラが動く。
リオは弦を緩めた。
「撃たないのか?」
「今は外れる」
「分かるのか」
「たぶん」
「たぶんで矢を撃つなよ」
「だから撃たなかったんです」
「……それもそうか」
妙な会話になった。
その瞬間、グランドラの頭がこちらを向いた。
リオの表情が変わる。
「逃げますよ」
「何?」
「来る」
次の瞬間。
巨体が動いた。
「散れ!」
弓兵たちが左右へ走る。
リオも駆け出した。
背後から地面を叩く音が迫ってくる。
その途中。
一人の弓兵が足を滑らせた。
「っ!」
倒れる。
グランドラは止まらない。
「おい!」
リオが振り返る。
距離。
間に合わない。
矢を撃ったところで止められない。
「礼!」
反射的に叫んだ。
遠い。
礼は反対側にいる。
その時だった。
「《土壁》!」
地面が隆起した。
グランドラの正面へ、岩混じりの壁が立ち塞がる。
激突。
壁は一瞬で崩れた。
だが、その一瞬があった。
「立て!」
魔術師の声。
倒れた弓兵が起き上がる。
リオは男の腕を掴み、引っ張った。
三人で岩陰へ飛び込む。
直後、背後で土壁が完全に砕けた。
「……死ぬかと思った」
助けられた男が呟いた。
リオも息を吐く。
「俺も」
岩陰から顔を出す。
土壁を作った魔術師と目が合った。
魔術師が一度だけ頷いた。
リオも頷き返す。
礼だけではない。
自分だけでもない。
ここにいる全員で戦っている。
それを、今さらながら実感した。
◇
どれほど戦っていたのか、礼にはもう分からなかった。
グランドラの身体には傷が増えている。
甲殻は何か所も焦げ、脚には槍が刺さり、首にはリオの矢が残っている。
効いている。
間違いなく。
だが、こちらも限界へ近づいていた。
負傷して後方へ下がった者がいる。
折れた武器が地面に転がっている。
魔術師たちの顔にも疲労が見える。
礼自身、呼吸が戻らない。
童力もかなり使った。
全身循環。
剣への付与。
障壁。
そして、昨日見つけたばかりの圧縮と解放。
何度も使えば、当然減る。
「このままじゃ……」
先にこちらが動けなくなる。
何か必要だった。
ただ削り続けるのではなく、一気に状況を変える何かが。
「ダリオさん!」
「何だ!」
「甲殻が薄いところは!?」
「腹だ!」
ダリオはグランドラから視線を外さず答えた。
「だが、下へ潜るな! 潰されるぞ!」
「他は!?」
「首の下と脚の付け根だ! 口の中も柔らかい!」
礼はグランドラを見る。
脚。
さっきから狙っている右後脚。
そこにはすでに傷が集中している。
あれを壊せれば。
倒せる。
腹を晒せるかもしれない。
「リオ!」
呼ぶ。
少し離れた場所でリオが振り向いた。
礼は自分の右後脚を指差してから、グランドラを指す。
それだけで伝わったらしい。
リオが頷いた。
「右脚だな!」
「そこに集中する!」
「分かった!」
その会話を聞いていたダリオが、すぐに声を張った。
「魔術隊! 右へ寄せろ!」
礼は思わず振り返った。
「え?」
「何を驚いてる!」
「いや……」
「やるんだろ!」
「はい!」
「なら迷うな!」
胸の奥が僅かに強張った。
自分の考えに、他人が合わせる。
今までとは違う。
失敗したら。
その考えが一瞬だけ頭を過ぎる。
礼は首を振った。
今は考えるな。
「リオ!」
「準備できてる!」
「三本、続けていける?」
「簡単に言うなよ!」
「無理?」
「……やる!」
リオが矢を番える。
同時に魔術師たちが杖を上げた。
詠唱が重なる。
空気が熱を持つ。
「《火炎槍》!」
「《氷槍》!」
左右から魔術が飛んだ。
グランドラが頭を振る。
炎を避ける。
氷が肩へ直撃し、甲殻の一部が白く凍りついた。
「今!」
リオの一射目。
外れる。
二射目。
甲殻に弾かれた。
「くそっ……!」
三射目。
リオが息を止める。
礼は走り出した。
矢が飛ぶ。
今度は。
刺さった。
「礼!」
「見えた!」
脚へ童力を集める。
加速する。
グランドラとの距離が一気に縮まった。
その時、巨体が動いた。
「――っ!」
尾。
こちらへ来る。
避ければ攻撃の機会を失う。
受ければ、ただでは済まない。
礼は右手を伸ばした。
昨日見つけたばかりの方法。
童力を身体の外へ。
広げない。
最初から一点へ。
押し込む。
まだ遅い。
もっと。
「――っ!」
解放。
鈍い衝撃音が響いた。
グランドラの尾が僅かに軌道を変える。
「足りない……!」
完全には逸れない。
礼は身体を捻った。
太い尾が右肩を掠めた。
その瞬間、身体の向きが強引に変えられた。
「ぐっ!」
地面へ転がる。
剣が手から離れた。
痛みで右腕が痺れる。
それでも、動いた。
折れてはいない。
礼は地面へ手をつき、剣を見る。
数歩先。
手を伸ばす。
掴む。
立つ。
目の前には、傷ついた右後脚。
「まだ……!」
剣へ童力を流す。
振る。
傷口へ刃が食い込んだ。
グランドラが吠えた。
血が礼の頬へ飛ぶ。
もう一度。
剣を抜く。
振り上げる。
そこで。
視界が暗くなった。
「……え?」
何かが、太陽を遮っている。
見上げる。
グランドラの前脚。
巨大な岩塊のような脚が、礼の真上にあった。
「礼!!」
リオの声。
避ける。
そう思った。
だが身体が動かない。
踏み込みすぎた。
足場も悪い。
間に合わない。
時間が、妙にゆっくりになった気がした。
脚が落ちてくる。
あれに潰されたら。
死ぬ。
礼は剣を両手で握った。
頭上へ構える。
意味がない。
こんな鉄剣一本で、あの重量を受け止められるはずがない。
分かっている。
それでも。
他にできることがなかった。
「――っ!」
歯を食いしばる。
その時だった。
足元で。
何かが動いた。
「…………?」
黒いもの。
最初は、自分の影だと思った。
だが違う。
太陽は前方にある。
影が伸びる方向がおかしい。
それは礼の足元から滲み出すように広がり、ゆっくりと隣へ伸びていった。
知っている。
礼の背筋を、戦いとは別の冷たさが走った。
「……また」
森で見た。
自分の意思とは関係なく現れた、黒い腕。
童力だった。
少なくとも、礼にはそう感じられた。
けれど。
自分の童力とは違った。
自分の中にあるものなのに。
知らない誰かの手に触れたような。
あの気味の悪い感覚。
黒いものが持ち上がった。
地面から。
ゆっくりと。
礼の隣で。
立ち上がる。
「…………」
人。
そう思った。
顔はない。
目も。
口も。
服さえ分からない。
黒い輪郭だけが、人間の形を作っている。
誰だ。
礼はそう思った。
だが、不思議だった。
怖い。
知らない。
気味が悪い。
それなのに。
隣に立たれた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
懐かしいような気がした。
理由などない。
会ったこともない。
顔さえないのだから。
それでも。
ずっと昔からそこにいたものが、ようやく姿を見せたような。
そんな感覚だけがあった。
グランドラの脚が迫る。
考えている時間はない。
礼は剣を握った。
隣の影も。
腕を動かした。
「――――」
何かを握っている。
そう見えた。
だが、そこには何もない。
礼が剣を振る。
人影も同時に踏み込んだ。
誰かに合わせたわけではない。
合図もない。
それなのに。
まるで何度も一緒に戦ったことがあるように、動きが重なった。
「――っ!」
礼の剣がグランドラの脚へぶつかる。
同時に。
隣で。
存在しない何かが振り抜かれた。
重い音がした。
剣の音ではない。
魔術の爆発でもない。
空気そのものを巨大な槌で殴ったような、腹の底へ響く音。
グランドラの脚が逸れた。
「――――ッ!」
巨大な前脚が、礼のすぐ横へ叩きつけられる。
地面が揺れた。
岩が砕ける。
土煙が舞い上がった。
礼は。
立っていた。
「…………」
自分が生きていることを確認するのに、数秒かかった。
呼吸。
できる。
身体。
動く。
そして。
隣。
礼は顔を向けた。
いた。
まだ。
黒い人影が。
「……誰?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
人影は答えない。
「お前……」
礼が手を伸ばす。
その瞬間。
輪郭が揺れた。
「待って」
黒い身体が崩れていく。
煙ではない。
霧でもない。
ただ、そこに留まれなくなったように、少しずつ薄れていく。
「待って!」
指先が届くより先に。
消えた。
「…………」
何もない。
礼の隣には。
砕けた石と。
自分自身の影だけが残っていた。
「礼!」
足音。
リオが駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「……うん」
「今の何だよ!」
礼はリオを見る。
「見えた?」
「見えたっていうか……いたよな!?」
「人だった?」
「分かんねえよ! 黒くて……でも、人みたいな……」
「顔は?」
「見えなかった!」
「何か持ってた?」
「知らない! 一瞬だったんだぞ!」
「でも――」
「おい!」
別の声が割り込んだ。
先ほどの槍使いが、こちらを見ている。
「今、お前の横に誰かいたよな?」
礼は言葉を失った。
見えていた。
自分だけではない。
「何だ、あれ……」
「召喚魔術か?」
「詠唱なんてしてないぞ」
「そもそもあいつ、魔力が――」
「後にしろ!!」
ダリオの怒声が、全員の意識を引き戻した。
「まだ終わってない!」
グランドラが身体を起こそうとしている。
礼も我に返った。
「右脚!」
ダリオが叫ぶ。
「今ので崩れてる! 全員、そこへ集中しろ!」
リオが弓を構える。
魔術師たちが杖を向ける。
槍使いたちが走る。
礼も剣を握った。
今は。
考えるな。
「《氷槍》!」
氷が飛ぶ。
「撃て!」
矢が続く。
槍が突き込まれる。
傷ついた右後脚へ、攻撃が集中した。
グランドラが立ち上がろうとする。
脚が震える。
それでも立つ。
「まだだ!」
礼は走った。
残った童力を剣へ流す。
身体から。
腕。
掌。
柄。
刃。
これで最後でもいい。
「――倒れろ!」
剣を叩き込んだ。
すでに傷ついていた甲殻へ亀裂が走る。
その亀裂へ槍が入った。
矢が刺さった。
さらに魔術が直撃する。
甲殻が砕けた。
グランドラの右脚が沈む。
巨体が傾く。
「離れろ!」
冒険者たちが一斉に退く。
次の瞬間。
地面が揺れた。
グランドラの身体が横倒しになる。
舞い上がった土煙で、一瞬何も見えなくなった。
「腹が出た!」
誰かが叫ぶ。
ダリオの声が続いた。
「魔術隊!」
横倒しになったグランドラの腹。
そこには、背中のような分厚い甲殻がない。
魔術師たちが一斉に杖を向けた。
「撃て!!」
炎。
氷。
岩。
色の違う魔術が、次々と腹部へ直撃する。
皮膚が裂ける。
グランドラが咆哮した。
起き上がろうと脚を動かす。
「前衛!」
ダリオが走った。
剣士。
槍使い。
盾役まで。
動ける者が続く。
礼も走ろうとした。
「礼!」
肩を掴まれた。
「何!?」
リオだった。
「お前は行くな」
「でも――」
「顔見ろ」
「顔?」
「真っ青だぞ」
「まだ動ける」
「童力は?」
言われて。
礼は自分の内側へ意識を向けた。
「……少し」
「少しだろ」
「でも」
「俺たちだけで戦ってるんじゃない」
その言葉で。
礼は前を見る。
ダリオがいる。
槍使いがいる。
剣士がいる。
魔術師がいる。
弓兵がいる。
みんなが戦っている。
自分が行かなければ倒せないわけではない。
さっきだって。
リオではなく、別の魔術師が弓兵を助けた。
自分が全部やる必要はない。
「……うん」
礼は剣を下ろした。
「じゃあ、周りを見る」
「それでいい」
リオは弓を構えた。
「俺はまだ撃てる」
「無理しないで」
「お前に言われたくない」
「……確かに」
礼は苦笑した。
そして。
戦場を見る。
「尾!」
グランドラの尾が動く。
「左から来る!」
前衛たちが離れる。
「頭上げる!」
グランドラが苦しげに首を持ち上げる。
口が開く。
「リオ!」
「見えてる!」
弦が鳴った。
矢が飛ぶ。
その一本にだけ。
礼には、見慣れた感覚があった。
童力。
矢は開いた口の中へ吸い込まれた。
グランドラの頭が大きく跳ねる。
「効いた!」
「押せ!!」
ダリオが叫ぶ。
そこからは。
誰の攻撃が最後だったのか、礼にも分からなかった。
魔術が飛んだ。
剣が入った。
槍が突き刺さった。
矢が降った。
一つ一つなら、小さな傷だったのかもしれない。
けれど。
それらが何度も重なった。
やがて。
グランドラの尾が地面へ落ちた。
前脚から力が抜ける。
最後に一度だけ。
採石場の奥まで響く、低い咆哮を上げて。
巨大な頭が。
地面へ沈んだ。
◇
すぐに歓声は上がらなかった。
誰も動かない。
ただ。
荒い呼吸だけが、あちこちから聞こえていた。
礼も剣を握ったまま、グランドラを見つめている。
動かない。
けれど、さっきまであれほど暴れていた。
まだ起きるのではないか。
そんな気がしてならない。
ダリオが慎重に近づいた。
剣を構えたまま、グランドラの頭部へ触れる。
反応はない。
しばらく待つ。
誰も喋らない。
やがて。
ダリオが大きく息を吐いた。
「……終わりだ」
剣を下ろす。
「討伐完了!」
一瞬の静寂。
それから。
「っしゃあああああ!!」
誰かの声をきっかけに、採石場が歓声に包まれた。
「やった!」
「生きてる!」
「酒だ! 帰ったら絶対飲むぞ!」
「お前さっきからそれしか言ってねえだろ!」
笑い声。
その場へ座り込む者。
仲間と抱き合う者。
倒れている仲間のところへ走る者。
礼は。
その場に腰を下ろした。
「……疲れた」
足に力が入らない。
隣へリオも座る。
「俺も」
「大型討伐って、毎回こんななのかな」
「だったら俺、しばらくいい」
「俺も」
「本当に?」
「…………」
「その間は何だよ」
「いや」
礼は倒れたグランドラを見る。
「ちょっとだけ、面白かった」
「ほらな」
リオが笑う。
礼も笑った。
それから。
何となく。
隣を見た。
「…………」
誰もいない。
当然だった。
リオは反対側にいる。
そこにあるのは、砕けた石と地面だけ。
「礼?」
「……さっきの」
リオの笑みが消えた。
「ああ」
「本当に見えたんだよね」
「見えた」
「俺だけじゃなくて」
「他の奴も言ってただろ」
「……うん」
礼は自分の手を見る。
開く。
握る。
何も変わらない。
「前にも出た」
「森の時?」
「うん」
「腕みたいなのが出たってやつ」
「そう」
礼は胸へ手を当てた。
童力。
まだ僅かに残っている。
いつもの感覚だ。
自分のもの。
自分が見つけた力。
自分で名前をつけた力。
なのに。
「あれも童力だった」
「今日のも?」
「たぶん」
「じゃあ礼の童術なんじゃないのか?」
「……分からない」
礼は首を振った。
「俺が出そうと思って出したんじゃない」
「それは前も言ってたな」
「それだけじゃなくて」
言葉が出てこない。
どう説明すればいいのだろう。
自分の中から現れた。
なら、自分の力のはずだ。
それなのに。
「俺の童力なんだけど……」
礼は隣の空いた場所を見る。
「俺のじゃない感じがする」
リオは何も言わなかった。
「それと」
「まだあるのか」
「……変なんだけど」
「何?」
礼は少し迷った。
口にしたら、余計に変な話になる気がした。
それでも。
「初めて見たはずなのに」
風が吹く。
採石場に残った土埃が、二人の前を薄く流れていく。
「ちょっとだけ、懐かしい気がした」
「…………」
「意味分からないよね」
「分からない」
「だよな」
「でも」
リオは少し考えてから続けた。
「調べればいいだろ」
「……うん」
「分からないなら、いつもみたいに」
礼はリオを見る。
それから。
少しだけ笑った。
「そうだな」
「帰ったら?」
「調べる」
「その前に飯」
「分かってるよ」
「本当に?」
「今日は食べるって」
「昨日も似たようなこと言ってたぞ」
「食べたじゃん」
「冷めたパンをな」
二人の声は、まだ騒がしい冒険者たちの歓声へ紛れていった。
けれど礼は。
立ち上がる直前。
もう一度だけ。
自分の隣を見た。
誰もいなかった。
◇
ローデンへ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
負傷者は多かった。
骨を折った者。
深い裂傷を負った者。
まともに歩けず、仲間に肩を借りている者もいる。
それでも。
死者はいなかった。
ギルドへ討伐成功が伝えられると、職員たちから歓声が上がった。
居合わせた冒険者たちまで騒ぎ始める。
礼はその輪から少し離れたところに立っていた。
疲れていた。
嬉しくないわけではない。
ただ。
頭の中では、別のものが離れなかった。
黒い人影。
「礼」
「ん?」
「報酬、明日だって」
「そっか」
「宿戻るぞ」
「うん」
「研究は明日」
「え」
「え、じゃない」
「ノートに書くだけ」
「お前の『書くだけ』は信用してない」
「忘れたら困るだろ」
「飯食ってから」
「……分かった」
「絶対だぞ」
二人はギルドを出た。
礼は気づかなかった。
その背中を、何人もの冒険者が見ていたことに。
「あの二人……」
今日、リオの隣で戦っていた弓兵が呟いた。
「何なんだ?」
返事をしたのは、一人の魔術師だった。
礼が最初に障壁で助けた男だ。
「分からん」
「剣士の方、魔術はほとんど使えないって言ってたよな」
「ああ」
「じゃあ、あの壁は?」
「分からん」
「弓の奴の矢は?」
「分からん」
「何もないところから何か飛ばしてたぞ」
「見た」
「あの黒い人影は?」
「それも分からん」
弓兵が呆れた顔をする。
「何なら分かるんだよ」
魔術師は答えなかった。
ギルドを出ていく二人の背中を見つめる。
そして。
「……一つだけ」
「何だ?」
「あれは魔術じゃない」
弓兵が眉を寄せた。
「何で分かる?」
「魔力が動いていなかった」
「……は?」
「何度見てもだ。身体を強化した時も、剣でグランドラの甲殻を斬った時も、あの壁を出した時も」
魔術師は、自分の手を見る。
「俺たちが魔術を使えば、魔力が動く。どれだけ隠そうとしても、あれほどの現象なら分かる」
「じゃあ……」
「あの少年は違った」
魔術師は顔を上げた。
「ほとんど魔力を使わずに、あれだけのことをしていた」
「……何だよ、それ」
「だから分からない」
しばらく沈黙する。
やがて弓兵が、ギルドの扉へ視線を向けた。
「本人に聞けばいいんじゃないか?」
「……そうだな」
それだけ言って。
二人もまた、仲間たちのところへ戻っていった。
◇
その夜。
宿の小さな机で、礼はノートを開いていた。
夕食は食べた。
リオに目の前で確認された。
その後、ようやく部屋へ戻ることを許された。
机の上にはランプが一つ。
黄色い光が、開いたページを照らしている。
礼は今日の出来事を、一つずつ書き出した。
『岩甲竜グランドラ』
『大型魔物に対する童術の使用』
『全身循環――有効』
『剣への童力循環――甲殻への効果あり』
そこで少し考え。
『ただし、武器自体の損耗は防げない』
と付け加える。
次。
『外部障壁――大型魔物の突進に対しても、一時的な阻害が可能』
『童力消費――大』
『圧縮した童力の解放――物体への物理的干渉を確認』
『圧縮工程の短縮――可能』
『最初から狭い範囲へ放出することで、圧縮に必要な時間を短縮できる可能性』
ペンが止まる。
礼はしばらく、その文字を見つめた。
今日だけで。
昨日まで分からなかったことが、いくつも分かった。
普段なら。
きっと嬉しかった。
もっと試したいと思った。
もちろん今も思っている。
けれど。
そのページには書けないものが一つ残っていた。
礼はノートをめくった。
何枚か戻る。
森で。
黒い腕が現れた日。
最後に書いた一文。
『あれは、本当に俺の童力だったのか?』
「…………」
礼は指先で、その文字をなぞった。
今日。
また現れた。
偶然ではない。
少なくとも、存在しないものを二度も見たとは考えにくい。
何より。
今日はリオも見た。
他の冒険者たちも。
礼は新しいページを開いた。
ゆっくりと書く。
『黒色の現象について』
『以前確認した現象と酷似』
『発生条件――不明』
『自身の意思による発動――否』
『童力反応――あり』
そこまで書いて。
礼は目を閉じた。
思い出す。
あの感覚。
自分の足元から出た。
自分の中に繋がっていた。
童力だった。
なのに。
『自身の童力との感覚的相違――あり』
続ける。
『前回――複数の腕のような形状』
『今回――人型』
ペン先が紙の上で止まった。
人型。
あれは。
ただ人間に似た形を取っただけなのだろうか。
それとも。
本当に。
誰かがそこにいたのだろうか。
馬鹿げている。
そう思う。
けれど。
あの時。
礼は確かに感じた。
知らないはずなのに。
ほんの少しだけ。
懐かしいと。
礼はその感覚まではノートに書かなかった。
まだ。
記録にするには曖昧すぎる。
代わりに。
『正体――不明』
とだけ書いた。
ランプの火が小さく揺れた。
風だろうか。
礼は顔を上げる。
窓は閉まっている。
「…………」
部屋には。
誰もいない。
隣の部屋にはリオがいる。
それだけだ。
礼は再びノートへ目を落とした。
最後に。
一行。
書く。
『あれは、誰だ?』
ペンを置く。
椅子の背へ身体を預ける。
静かな部屋だった。
遠くから、酒場の笑い声が微かに聞こえる。
礼は何となく。
机の隣へ目を向けた。
そこには当然。
誰も立っていなかった。




