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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第三十三話 大型討伐

ギルドへ入った瞬間、礼はいつもと違う空気に気づいた。


 普段なら朝から酒を飲んでいる冒険者がいて、依頼掲示板の前では仕事を探す者たちが声を交わし、受付では報酬を巡って揉める声が聞こえる。


 今日は、そのどれもなかった。


 人はいる。


 むしろ、普段より多い。


 それなのに妙に静かだった。


「……何かあったのかな」


 礼が呟くと、隣を歩いていたリオも周囲を見回した。


「依頼じゃない?」


「でも、こんなに集まる?」


「でかいやつとか」


 二人が奥へ進む。


 そこで礼は、依頼掲示板の中央に貼られた一枚の紙に気づいた。


 他の依頼書とは違う。


 大きな紙。


 その周囲だけ、人が避けるように空いている。


 上部には赤い文字が記されていた。



『緊急討伐依頼』



「緊急……」


 礼は人の間から紙を覗き込んだ。


 文字はもう問題なく読める。


 こちらの世界へ来たばかりの頃は、一文字も分からなかった。


 今では時間をかければ、大抵の文章は読めるようになっていた。


『討伐対象――岩甲竜グランドラ』


『確認地点――ローデン北西、旧採石場周辺』


『全長――推定十メートル』


『被害――街道を通行中の荷馬車二台、冒険者三名』


『複数パーティーによる共同討伐を推奨』


『参加者募集――本日正午まで』



「竜……?」


 思わず声が出た。


「地竜だな」


 横から知らない男の声がした。


 見ると、大きな盾を背負った冒険者が立っていた。


 三十歳くらいだろうか。


 礼より頭一つ分ほど大きい。


「飛ぶやつじゃない。四本足で地面を這う方だ」


「強いんですか?」


 礼が尋ねると、男は依頼書を見上げた。


「グランドラなら、かなり面倒だな」


「面倒?」


「見れば分かる」


 男はそう言い残して離れていった。


「……見れば分かるって」


 リオが呟く。


「見たくなくなってきた」


「俺もちょっと」


 そう答えながらも、礼の目は依頼書から離れなかった。


 全長十メートル。


 今まで戦った魔物とは明らかに規模が違う。


 グレイボアも大きかった。


 グランドベアも強かった。


 けれど。


 それらを複数のパーティーで討伐しろ、などという依頼は出なかった。


「参加する?」


 リオが聞いた。


「…………」


 礼は少し考えた。


 危険だ。


 それは間違いない。


 だが。


 自分たちだけで戦うわけではない。


 それに――。


「大型の魔物相手に、童術がどこまで使えるかは知りたい」


「やっぱりそっちか」


「リオだって気になるだろ」


「まあ、気になるけど」


「矢も試せる」


「……それ言われると行きたいな」


 リオは背負っている弓へ手を触れた。


 礼はもう一度、依頼書を見る。


 少しだけ胸が高鳴っている。


 怖くないわけではない。


 けれど、知らないものを見たいという気持ちもあった。


「行こうか」


「決まりだな」


 二人は受付へ向かった。



     ◇



 正午。


 ローデン北門の外には、二十人を超える冒険者が集まっていた。


 礼はその光景を見て、思わず足を止めた。


「……多いな」


「本当に討伐なんだな」


 リオも珍しく少し緊張した声を出す。


 装備も様々だった。


 大盾を持つ重装の戦士。


 長槍を担いだ男。


 剣士。


 弓兵。


 杖を持つ魔術師。


 腰に薬瓶をいくつも下げた治療役らしき者もいる。


 それぞれが普段組んでいる仲間同士で固まり、装備を確認していた。


 礼たちのような二人組は見当たらない。


「……俺たち、少なくない?」


「今さら?」


「いや、こうして見ると」


「帰る?」


「それは嫌」


「じゃあいいだろ」


 参加者の中央に、四十歳前後の男が立った。


 腰には幅の広い長剣。


 短く刈った黒髪。


 頬には古い傷が一本走っている。


「全員聞いてくれ!」


 声が通った。


 周囲の冒険者たちが話を止める。


「今回の討伐指揮を任された、ダリオだ!」


 男――ダリオが全員を見回した。


「参加者二十六名! 五つのパーティーと、臨時参加が二名!」


 最後のところで、何人かの視線が礼たちへ向いた。


「臨時参加って俺たち?」


「たぶん」


 礼が小声で答える。


「先に言っておく! 今回の目的はグランドラの討伐だが、無理だと判断した場合は撤退する! 死ぬことが仕事じゃない! 勝手な行動はするな!」


 何人かが頷いた。


 礼も頷く。


 ダリオは地面へ広げた簡単な地図を指した。


「グランドラは旧採石場を縄張りにしている。昨日の夕方にも姿を確認した。今朝はまだ移動した形跡がない」


 地図の一点を指で叩く。


「前衛が正面を受ける。槍と剣は側面。弓は後方から関節と目を狙え。魔術師は甲殻の薄い腹側を狙う。治療役は絶対に前へ出るな」


 迷いがない。


 誰が何をするべきか。


 はっきりしている。


 礼は聞きながら感心していた。


 自分とリオだけで戦う時とは、まるで違う。


 二人なら、互いの動きを見てその場で決める。


 だが二十六人もいれば、それでは動けない。


「そこの二人」


 突然呼ばれた。


「え?」


 礼が顔を上げる。


 ダリオがこちらを見ていた。


「二人組だな?」


「はい」


「役割は?」


 礼は少し考えた。


「俺は剣です」


「魔術は?」


「ほとんど使えません」


「そうか」


 ダリオは礼の装備を見る。


 鉄剣。


 軽装。


 大きな盾はない。


「なら側面へ回れ。正面には出るな。グランドラの突進を受け止められる装備じゃない」


「分かりました」


「そっちは?」


「弓です」


 リオが答える。


「魔術は?」


「少しだけ」


「攻撃に使えるか?」


「小さい火くらいなら」


「なら弓に専念しろ。グランドラの甲殻には普通の矢は通らん。目、口、脚の付け根を狙え」


「分かりました」


 ダリオは二人を見比べた。


「二人だけで参加するのは構わんが、無理はするな。大型討伐が初めてなら、周りの動きをよく見ろ」


「はい」


 礼は素直に頷いた。


 馬鹿にされたとは思わなかった。


 むしろ、ありがたい。


 知らないことを教えてくれている。


 ダリオが次の冒険者へ指示を出し始める。


 リオが小声で言った。


「ちゃんとした人だな」


「うん」


「礼、勝手に研究始めるなよ」


「しないよ」


「本当に?」


「戦闘中だぞ」


「戦闘中でもやるじゃん」


「…………」


「何で黙るんだよ」


「気をつける」


「頼むぞ」


 二人は他の冒険者たちとともに歩き始めた。



     ◇



 旧採石場までは、一時間ほどだった。


 近づくにつれて景色が変わっていく。


 草原が減り、むき出しの岩が増える。


 かつて石を切り出していたのだろう。途中には人工的に削られた崖や、使われなくなった木製の足場が残されていた。


 人の気配はない。


 鳥の声すら少なかった。


「……静かだな」


 リオが呟く。


「うん」


 礼は剣の柄へ手を置いた。


 前を歩く冒険者たちも、さっきまでの軽口をやめている。


 足音。


 装備が擦れる音。


 風。


 それだけが聞こえる。


 やがて先頭を歩いていた斥候役の男が手を上げた。


 全員が止まる。


「いた」


 小さな声だった。


 礼は岩陰から先を見る。


 最初。


 大きな岩だと思った。


 採石場の中央。


 灰褐色の塊が横たわっている。


 その表面は岩肌のようにひび割れていた。


 だが。


 動いた。


「…………」


 礼は息を止めた。


 巨大な頭が持ち上がる。


 四本の脚。


 太い尾。


 背中から脇腹までを覆う、何層にも重なった甲殻。


 十メートル。


 依頼書にはそう書かれていた。


 実際に見ると、その数字より遥かに大きく感じる。


「でか……」


 隣でリオが呟いた。


 礼も同じことを思っていた。


 グランドラが頭を動かす。


 地面を擦るような低い唸り声。


 それだけで、胸の奥まで振動した。


「全員、配置につけ」


 ダリオの声も低い。


 冒険者たちが散る。


 大盾を持った者たちが前へ。


 槍と剣が左右へ。


 魔術師と弓兵が後ろ。


 礼は指示通り、右側面へ移動した。


 リオは後方。


 一度だけ目が合う。


 リオが頷く。


 礼も頷き返した。


「行くぞ!」


 ダリオの声。


「魔術隊!」


 三人の魔術師が同時に杖を構えた。


 周囲の空気が変わる。


 礼にも分かる。


 魔力だ。


 熱が集まる。


「《火炎槍》!」


 二本の炎が放たれる。


 別の魔術師からは、鋭く尖った氷が飛んだ。


 炎と氷。


 それらがグランドラの側面へ直撃する。


 爆音。


 蒸気。


 グランドラが咆哮した。


「前衛!」


「おおッ!」


 盾を持った冒険者たちが進む。


「左右から削れ! 正面には立つな!」


 剣士と槍使いが走った。


 礼も続く。


 グランドラが頭を振る。


 巨大な身体からは想像できないほど速い。


 前脚が振り上げられた。


「来るぞ!」


 大盾が並ぶ。


 衝突。


 鈍い音が採石場に響いた。


「ぐっ……!」


 盾役の男たちが後ろへ滑る。


 それでも耐えた。


 その瞬間。


「今だ!」


 槍が突き出される。


 脚の付け根。


 甲殻の隙間。


 一本。


 二本。


 グランドラが身を捩る。


「礼!」


 後方からリオの声。


 礼は右へ跳んだ。


 直後、矢が横を通過する。


 グランドラの目を狙った一射。


 頭を振られ、外れた。


 だが矢は頬の甲殻へ当たり、乾いた音を立てて弾かれる。


「硬っ!」


 リオの声が聞こえた。


 礼も剣を振る。


 右後脚。


 全身へ童力を巡らせる。


 踏み込む。


 刃を振り抜いた。


 ガンッ!


「っ……!」


 腕が痺れた。


 斬ったというより、岩を鉄の棒で叩いたような感触だった。


 僅かに傷はついた。


 それだけ。


「これが……」


 礼は一度距離を取る。


 強い。


 何より硬い。


 グランドラがこちらへ顔を向けた。


「礼! 離れろ!」


 リオの声。


 礼は地面を蹴った。


 童力を脚へ集中させる。


 一瞬で加速。


 直後。


 さっきまで礼がいた場所へ巨大な顎が叩きつけられた。


 石が砕ける。


「……危な」


 冷たいものが背中を走った。


 まともに受ければ。


 死ぬ。


 考えるまでもない。


「ぼーっとするな!」


「はい!」


 近くの剣士に怒鳴られ、礼は返事をする。


 再び走る。


 今度は剣へ童力を流した。


 身体。


 肩。


 腕。


 掌。


 柄。


 刀身。


 表面へ。


 散らさない。


 刃に沿って巡らせる。


「――っ!」


 振る。


 先ほどより深い手応え。


 甲殻に一本の傷が走った。


「……!」


 礼自身が驚いた。


 通る。


 まだ浅い。


 けれど。


 普通に斬った時より、明らかに深い。


「おい」


 近くにいた槍使いが礼を見る。


「今の……」


「礼!」


 声。


 振り向く。


 グランドラの尾が迫っていた。


「っ!」


 跳ぶ。


 尾が足元を薙ぐ。


 風圧だけで身体が揺れた。


 礼は地面へ転がり、すぐに立ち上がる。


 今は説明している場合じゃない。


 戦場全体を見る。


 すごい。


 自分たちだけで戦う時とはまるで違う。


 誰かが攻撃すれば、別の誰かが隙を作る。


 盾が受ける。


 槍が止める。


 魔術が削る。


 弓が狙う。


 負傷者が出れば、すぐに後ろへ運ばれる。


 何度も大型討伐を経験している者もいるのだろう。


 互いに知らないパーティー同士でも、役割が噛み合っている。


「……すごいな」


 思わず呟いた。


 その時。


「右! 来るぞ!」


 誰かが叫んだ。


 グランドラが突然、方向を変えた。


 巨体が走り出す。


 地面が震える。


「盾隊!」


「構えろ!」


 三人が前へ出る。


 大盾を地面へ固定する。


 グランドラが突っ込んだ。


 激突。


 轟音。


 一人が吹き飛んだ。


「ぐあっ!」


「ガラン!」


「崩すな!」


 残った二人が耐える。


 だが。


「駄目だ、下がれ!」


 押されている。


 グランドラの脚が地面を掻くたび、大盾が少しずつ後退する。


 その後ろ。


 魔術師がいる。


「退け!」


 ダリオが叫ぶ。


 盾役が横へ逃げる。


 進路が開いた。


 グランドラが再び走る。


「――っ!」


 魔術師の一人が転んだ。


 杖が地面へ転がる。


「まずい!」


 礼は走った。


 遠い。


 間に合わない。


 脚へ童力。


 加速。


 それでも。


 グランドラの方が近い。


「避けろ!」


 誰かが叫ぶ。


 魔術師が身体を起こそうとする。


 間に合わない。


 礼の右手が前へ出た。


 考えるより先だった。


 身体の外へ童力を放つ。


 広げる。


 留める。


 薄い面。


 昨日まで何度も試した感覚。


「止まれ……!」


 何もない空間。


 そこへ。


 童力を固定した。


 次の瞬間。


 ドンッ!!


 グランドラの頭が、見えない何かへ激突した。


「――――ッ!?」


 巨大な身体が揺れる。


 完全には止まらない。


 礼の童力が軋む。


 見えない壁へ、とてつもない圧力がかかる。


「ぐっ……!」


 礼の腕が震えた。


 違う。


 腕で支えているわけではない。


 それでも、そう錯覚するほど重い。


「無理……!」


 ひびが入るような感覚。


 童力が崩れる。


 持たない。


 けれど。


 ほんの一瞬。


 グランドラの突進が止まった。


「今だ! 逃げろ!」


 魔術師が我に返り、横へ転がる。


 直後。


 礼の障壁が砕けた。


 グランドラが前へ飛び出す。


 誰もいなくなった地面を、巨大な顎が抉った。


「…………」


 一瞬。


 戦場から音が消えたように感じた。


 実際には違う。


 グランドラは唸っている。


 誰かが走っている。


 武器の音も聞こえる。


 それなのに。


 何人もの冒険者が礼を見ていた。


「……今の」


 近くにいた魔術師が呟いた。


「誰の魔術だ?」


 礼は荒い呼吸を整えながら答えた。


「魔術じゃ……ないです」


「何?」


 答える余裕はなかった。


「礼!」


 リオの声。


 グランドラが身体を回す。


「まだ来る!」


「分かってる!」


 礼は剣を握り直した。



     ◇



 リオは弓を引きながら、舌打ちした。


「硬すぎるだろ……!」


 何本目か分からない。


 目。


 口。


 脚の付け根。


 狙える場所を狙っている。


 だが大型の魔物は、ただ大きいだけではなかった。


 頭を動かす。


 脚を動かす。


 こちらの攻撃を嫌がって身体を捩る。


 小さな急所へ当てるのは簡単ではない。


「弓は甲殻を狙うな!」


 近くにいる別の弓兵が叫んだ。


「分かってる!」


「ならもっと待て! 無駄矢を使うな!」


 正しい。


 普通の矢では通らない。


 さっきも頬へ当たった矢が簡単に弾かれた。


「…………」


 リオは新しい矢を番えた。


 鏃を見る。


 礼と何度も試した。


 童力を矢へ。


 身体から。


 指。


 矢柄。


 鏃まで。


「……普通なら、な」


 童力を纏わせる。


 狙う。


 距離はある。


 飛んでいる間に童力は減る。


 分かっている。


 なら。


 消える前に届けばいい。


 リオは少し前へ出た。


「おい! 弓は前へ出るな!」


「大丈夫!」


「何が大丈夫だ!」


 さらに数歩。


 グランドラまでの距離を測る。


「ここなら……」


 弦を引き絞る。


 童力を矢へ。


 今までより少し多く。


 鏃まで満たす。


 グランドラが横を向いた。


 首の甲殻。


「……そこ」


 放つ。


 矢が飛ぶ。


 童力が少しずつ薄れる。


 それでも。


 届く。


 ガッ!


 硬い音。


 リオは目を細めた。


 矢が。


 落ちない。


「……入った」


 浅い。


 ほんの僅か。


 だが。


 鏃が甲殻へ食い込んでいた。


「…………」


 近くの弓兵が動きを止めた。


「お前」


「浅いな……」


「今の矢」


「距離があると駄目だな」


「何をした?」


「もう少し近ければ、童力が残るか」


「おい」


 リオは聞いていなかった。


 次の矢を取り出す。


「礼!」


 戦場の向こうにいる礼が一瞬こちらを見る。


「刺さった!」


「本当に!?」


「浅いけど!」


「距離は!?」


「もう少し近い方がいい!」


「分かった!」


「何が分かったんだよ!」


 近くの弓兵が叫んだ。


 リオは振り返った。


「え?」


「お前ら、さっきから何の話をしてる!」


「何って……」


 答えようとして。


 地面が揺れた。


「来るぞ!」


 全員が身構える。



     ◇



 戦闘が始まって、どれほど経ったのか。


 礼には分からなくなっていた。


 五分。


 十分。


 もっとかもしれない。


 グランドラはまだ倒れない。


 身体には無数の傷。


 魔術によって焦げた甲殻。


 槍が刺さった脚。


 リオの矢も一本、首に残っている。


 それでも。


 動いている。


「しぶとい……!」


 礼も息が上がっていた。


 童力はまだある。


 だが、減っている。


 障壁でかなり使った。


 全身強化。


 剣への循環。


 普段の戦闘より消費が早い。


「全員、一度距離を取れ!」


 ダリオが叫ぶ。


 冒険者たちが離れる。


 グランドラも追ってこない。


 荒い息を吐きながら、こちらを睨んでいる。


「効いてる!」


 誰かが言った。


「このまま削ればいける!」


 確かに弱っている。


 礼もそう思った。


 だが。


「……待って」


 何かがおかしい。


 グランドラが動かない。


 逃げようとしているわけでもない。


 頭を低くしている。


 背中の甲殻が。


「……開いてる?」


 今まで隙間なく重なっていた岩のような甲殻。


 その一枚一枚が、僅かに持ち上がっていた。


「ダリオさん!」


 礼が叫ぶ。


 ダリオも気づいた。


 表情が変わる。


「全員下がれ!!」


 直後。


 グランドラが咆哮した。


 今までとは違う。


 空気そのものが震えた。


 持ち上がった甲殻の隙間から、赤黒い光が漏れる。


「何だ、あれ……」


 リオが礼の近くまで走ってくる。


「知らない」


「俺も初めて見る」


 ダリオが剣を構えたまま言った。


「グランドラがこんなことをするなんて聞いてない」


「変異種……?」


 魔術師の一人が呟く。


 グランドラの前脚が地面を踏みしめる。


 岩が割れた。


 さっきまでとは違う。


 礼にも分かった。


「……速くなる」


「分かるの?」


「分からない。でも」


 礼は剣を握り直す。


「来る」


 次の瞬間。


 巨体が消えた。


「――っ!?」


 速い。


 十メートル近い身体が、信じられない速度で地面を駆けた。


「散れ!!」


 冒険者たちが左右へ飛ぶ。


 一人。


 間に合わない。


「危ない!」


 グランドラの尾が振り抜かれる。


 礼は走った。


 遠い。


 剣では間に合わない。


 障壁。


 いや。


 あの速度を止めれば、さっきより大きな負荷がかかる。


 間に合わない。


 何か。


 何かないか。


 礼の頭に、昨日の光景が浮かんだ。


 草原。


 掌。


 何もない空間へ集めた童力。


 圧縮。


 解放。


 地面に残った、小さな窪み。


「……っ!」


 礼は右手を伸ばした。


 童力を外へ出す。


 集める。


 だが。


 遅い。


 昨日は何秒もかけた。


 散らさないように。


 少しずつ。


 丁寧に。


 今はそんな時間はない。


(もっと早く)


 尾が迫る。


(集めるんじゃない)


 礼は歯を食いしばった。


(最初から――)


 掌の前。


 広げない。


 大きく出さない。


 最初から。


 小さな一点へ。


「――そこに出ろ!」


 童力が集中する。


 昨日とは違う。


 圧縮する時間がほとんどない。


 荒い。


 不安定。


 それでも。


 礼は解放した。


 ドンッ!!


 見えない衝撃が、グランドラの尾へぶつかった。


 巨大な尾が僅かに逸れる。


 ほんの少し。


 それだけ。


 だが。


「うわっ!」


 冒険者の頭上を、尾が通過した。


 風圧で男が転がる。


 それでも。


 生きている。


「…………」


 礼は自分の掌を見た。


 できた。


 昨日より。


 速く。


「礼!」


 リオが叫ぶ。


「後!」


 振り返る。


 グランドラがこちらを見ていた。


「……やば」


 赤黒い光。


 開いた甲殻。


 その巨体が。


 今度は礼へ向きを変える。


「礼! 逃げろ!」


 走る。


 童力を脚へ。


 加速。


 背後で地面が砕ける音がした。


 礼は振り返らない。


 今は逃げる。


 ただそれだけ。


 だが。


 その様子を見ていた者がいた。


 後方にいた魔術師。


 先ほど礼の障壁に助けられた男だった。


「……おかしい」


 隣の魔術師が杖を構えながら聞く。


「何がだ!」


「あの少年だ」


「今はそんな場合か!」


「魔力が……」


 男は礼を見る。


 全身を異常な速度で駆け巡る少年。


 剣へ何かを纏わせ。


 何もない場所に壁を作り。


 今。


 何もない空間から、グランドラの尾を弾いた。


「……動いていない」


「何?」


「あれだけの現象を起こしたのに」


 魔術師の顔から血の気が引いていく。


「魔力が、ほとんど動いていない」


「そんなわけが――」


「俺もそう思う」


 杖を握る手に力が入る。


「だから、おかしいんだ」


 その視線の先。


 礼はそんな会話が交わされていることなど知らず、必死にグランドラの突進から逃げていた。


「リオ!」


「何!?」


「こいつ、さっきより速い!」


「見れば分かる!」


「どうする!?」


「俺に聞くなよ!」


「何か考えて!」


「走りながら無茶言うな!」


 グランドラが再び咆哮する。


 採石場が震えた。


 礼は走りながら剣を握り直す。


 息が苦しい。


 童力も減っている。


 周囲の冒険者たちにも疲労が見える。


 それでも。


 まだ誰も逃げていない。


 ダリオが剣を掲げた。


「立て直すぞ!!」


 声が響く。


「まだ終わってない!」


 冒険者たちが武器を構え直す。


 礼も足を止めた。


 隣へリオが並ぶ。


「礼」


「何?」


「帰ったら、さっきの教えて」


「どれ?」


「何もないところからドンってやったやつ」


「あれ?」


「それ」


「まだ俺もよく分かってない」


「じゃあ一緒に調べよう」


 礼は一瞬だけリオを見る。


 そして笑った。


「うん」


 二人は前を向く。


 赤黒い光を甲殻の隙間から漏らしながら、グランドラがこちらを睨んでいる。


 礼は剣へ童力を流した。


 隣ではリオが、新しい矢を弦へ番える。


 周囲では魔術師たちが詠唱を始め、盾役が再び前へ出ていく。


 戦いは、まだ終わっていなかった。

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