第三十二話 何もない場所に
翌朝、礼が目を覚ました時、最初に思い浮かんだのは昨日助けた男の顔だった。
薄い朝日が、閉じ切っていない木窓の隙間から差し込んでいる。
見慣れない天井をしばらく眺めてから、礼は身体を起こした。村の宿はローデンで泊まっていた場所よりもずっと小さく、壁も床も古い。少し身体を動かすだけで、寝台の木枠が軋んだ。
外から鶏の鳴き声が聞こえる。
続いて、桶でも運んでいるのだろうか。誰かが歩くたび、規則正しく水の揺れる音がした。
穏やかな朝だった。
昨日、街道で血を流していた男の姿が嘘だったように思えるほどに。
「……大丈夫かな」
呟いてから、礼は寝台を降りた。
着替えを済ませ、ノートと剣を持つ。
部屋を出ると、そのまま隣の扉の前へ立った。
手を上げる。
「起きてるぞ」
叩くより先に、中から声がした。
礼は上げた手をそのまま止めた。
「……まだ何も言ってないけど」
「どうせ昨日の人を見に行くんだろ」
「うん」
「ちょっと待ってろ」
扉の向こうで物音がする。
しばらくして現れたリオは、髪の片側を盛大に跳ねさせていた。
「寝癖すごいよ」
「お前が朝早いんだよ」
「もう朝だろ」
「朝飯は?」
「その後」
「先に食わない?」
「状態だけ確認したい」
「逃げないって」
「分かってるけど」
礼が階段へ向かうと、後ろからリオの溜息が聞こえた。
「こういう時だけ妙にせっかちなんだよなあ……」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言った」
二人は宿を出た。
昨日の負傷者は、村の治療師の家に寝かされていた。
礼たちが訪ねると、白髪の老人はすぐに奥へ通してくれた。
「昨夜は熱も出なかった」
「本当ですか?」
「ああ。傷も落ち着いている」
その言葉を聞いて、礼の肩から僅かに力が抜けた。
部屋の奥に置かれた寝台へ目を向ける。
男は起きていた。
まだ顔色は良くない。
けれど昨日とは違い、自分で上半身を起こしている。
「お」
礼に気づいた男が笑った。
「昨日の兄ちゃんじゃないか」
「身体、大丈夫ですか?」
「見ての通りだ。まだ痛えけどな」
そう言って、男は脇腹へ視線を落とす。
「少なくとも、生きてる」
「……よかった」
思っていたよりも素直に言葉が出た。
礼は息を吐きながら寝台へ近づく。
「傷、見てもいいですか?」
「もちろんだ」
治療師が包帯を外した。
深く裂けた傷は、まだ生々しく残っている。
当然だ。
昨日の《童癒》で傷が消えたわけではない。
だが、出血は止まっていた。
治療師によれば、傷の周囲の腫れも予想より酷くないらしい。
「昨日のあれが効いたのか?」
男が尋ねる。
礼は傷を見つめたまま、少し考えた。
「……分かりません」
「分からないのか」
「普通に治療してもらった分もありますし、昨日やったことがどこまで影響したのか比較できないので」
「相変わらずだな、お前」
後ろでリオが笑う。
「だって、本当に分からないだろ」
「まあな」
礼は立ち上がった。
「今日は俺からは何もしません」
「いいのか?」
「はい。普通に回復しているなら、わざわざ分からない方法を使う必要はないですから」
昨日は違った。
何もしなければ危険だった。
だから使った。
今は治療師がいる。
傷も落ち着いている。
ならば、研究のためだけにこの男の身体を使う理由はない。
「それと……」
礼は少し迷った。
それから頭を下げる。
「昨日は、ありがとうございました」
「礼」
後ろからリオの声が飛んだ。
「逆だろ」
「え?」
礼が顔を上げる。
負傷した男も、一瞬きょとんとしていた。
やがて笑い出す。
「礼っていうのか」
「……はい」
「俺の方が礼を言う側だろ」
「でも、まだ完成してないものを使わせてもらったので」
「それでもだ」
男は脇腹を庇いながら、ゆっくり身体を起こした。
「俺は生きてる」
礼は黙った。
「ありがとう、礼」
真正面から言われると、どう返せばいいのか分からなかった。
誰かを助けたくてやった。
それだけだった。
それなのに、胸の奥が妙にむず痒い。
「……はい」
結局、それしか言えなかった。
◇
朝食を済ませた後、二人は商人の荷馬車とともに村を出た。
昨日負傷していた三人の冒険者は、そのまま村で療養することになった。
空はよく晴れていた。
昨夜のうちに少しだけ雨が降ったらしく、街道脇の草には細かな水滴が残っている。馬車の車輪が湿った土を踏むたび、柔らかな音がした。
しばらくは誰も喋らなかった。
礼は歩きながら、昨日のことを考えていた。
《童癒》。
まだそう呼んでいいものなのかさえ分からない。
傷そのものを治せたわけではない。
けれど、血は止められた。
少なくとも、童力を持っていない人間にも何らかの形で作用させられることは分かった。
それ以上に気になっていることがある。
「なあ」
隣を歩いていたリオが声をかけてきた。
「ん?」
「昨日のやつ」
「《童癒》?」
「そっちじゃなくて。血止めた方」
「《童貞障壁》?」
「それ」
礼は何とも言えない顔になった。
「……やっぱりその名前で呼ぶの?」
「ノートに書いたのお前だろ」
「仮称だから」
「もう定着してるだろ」
「俺たち二人しか使ってないのに、何に定着してるんだよ」
「俺たちに」
「嫌だなあ……」
リオが笑った。
礼は自分の右手へ目を落とす。
「でも、あれ面白かった」
「何が?」
「最初は壁だっただろ」
「ああ」
「グレイボアを止めるために、童力を面みたいに広げた」
掌を開く。
昨日の感覚を思い出す。
身体から離れた童力。
放っておけば散ってしまうそれを、一か所へ留める。
「でも昨日は、傷の形に合わせた」
「血を止めるためにな」
「うん」
礼は指を曲げたり伸ばしたりしながら、考えを言葉にしていく。
「やってることは、ほとんど同じなんだ」
「同じ?」
「童力を外に出して、散らないように留める。グレイボアの時は壁の形にして、昨日は傷を覆う形にした」
「使い方が違うだけか」
「たぶん」
礼は頷いた。
「形を変えるだけで、全然違うことに使えた」
そこで、ふと足が遅くなった。
リオが数歩先へ進み、振り返る。
「どうした?」
「……何もない」
「何が?」
礼は街道脇の空間へ手を伸ばした。
そこには何もない。
草原の向こうから吹いてきた風が、指の間を抜けていくだけだ。
「《童貞障壁》」
「あるだろ。壁が」
「そうじゃなくて」
礼は首を振った。
「身体を強くする時は、身体がある」
「うん」
「剣に童力を纏わせる時は、剣がある。矢なら矢がある。《童癒》だって、作用させてるのは人の身体だ」
「ああ」
「でも障壁は違う」
何もない場所に、童力を留める。
支える物はない。
纏わせる物もない。
それでも。
確かに、あの壁は存在した。
「……童力だけなんだ」
リオの表情から笑いが消えた。
「じゃあさ」
礼は、何もない空間を見つめる。
「童力って、何かに作用させなくても使えるんじゃないか?」
「どういうこと?」
「俺もまだ分からない」
「またそれか」
「今思いついたんだから仕方ないだろ」
礼は少し考えた。
「ローデンに戻ったら試したい」
「何を?」
「童力だけで、何ができるのか」
リオも礼と同じ場所へ視線を向けた。
何もない。
ただ風が吹いている。
「……火とか?」
「火?」
「魔術みたいにさ」
リオが人差し指を立てる。
小さな火が灯った。
彼にも使える、ごく初歩的な魔術だ。
「童力でも、こういうのできないのか?」
「……分からない」
「水とか」
「分からない」
「風」
「だから分からないって」
「何なら分かるんだよ」
「分からないから調べるんだよ!」
前を歩いていた商人が振り返った。
「お前さんたち、朝から元気だな」
二人は顔を見合わせ、そのまま黙った。
◇
ローデンへ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ギルドで依頼完了の報告を済ませ、報酬を受け取る。
外へ出ると、リオが宿の方向へ歩き出した。
礼は逆へ向かった。
三歩ほど進んだところで。
「礼」
「何?」
「宿、そっち」
「知ってる」
「じゃあ何でそっち行くんだよ」
「街の外」
「……やっぱり?」
「やっぱり」
リオは深く息を吐いた。
「昼飯」
「途中で買おう」
「絶対忘れるだろ」
「忘れないよ」
「昨日も俺が止めなかったら食わなかっただろ」
「…………」
「何で黙るんだよ」
「買ってから行こう」
「よろしい」
二人は露店でパンと干し肉を買い、そのまま街の外へ向かった。
ローデンの外れ。
街道から少し離れた場所に、人の来ない草地がある。
以前にも童術の実験で使った場所だった。
遠くに街壁が見える。
その向こうには青い空。
風に揺れる草の音以外、聞こえるものはない。
礼は鞄を地面へ置いた。
リオは近くへ腰を下ろし、早速パンを取り出した。
「食べないの?」
「あとで」
「ほら」
「忘れてないだろ!」
「一口でも食え」
「分かったよ」
礼はパンを一口齧った。
飲み込む。
それから立ち上がった。
「で?」
リオがパンを食べながら聞く。
「何するんだ?」
「まず……火」
「本当にやるんだ」
「魔術と比較しやすいだろ」
礼は右手を前へ伸ばした。
目を閉じる。
意識を内側へ。
胸の奥。
魔力とは違う場所にある、今ではすっかり馴染んだ感覚。
童力。
それを腕へ流す。
肩。
肘。
手首。
掌。
そこから、身体の外へ押し出した。
何もないはずの掌の前に、自分の一部だけが残っているような奇妙な感覚が生まれる。
放っておけば散る。
それを逃がさない。
薄く広げれば《童貞障壁》になる。
今は形を作らず、その場へ留めた。
「……ここまではできる」
「で、火は?」
「今から」
「どうやって?」
「…………」
礼は目を開けた。
「分からない」
「だと思った」
「うるさいな」
火を思い浮かべる。
リオが指先へ灯した、小さな炎。
熱。
燃えるという現象。
童力へ意識を向ける。
燃えろ。
念じてみる。
何も起きない。
「…………」
「どう?」
「何も」
「もっと気合い入れろ」
「そういう問題なのかな……」
もう一度。
今度は目を閉じ、炎をできるだけ鮮明に想像する。
焚き火。
蝋燭。
こちらの世界へ来る前に見ていた、ガスコンロの青い火まで思い出した。
けれど。
童力は童力のままだった。
「……駄目」
「じゃあ水」
「もっと分からない」
「風は?」
「風……」
礼は掌の童力を、そのまま前へ押し出した。
草がざわりと揺れる。
「お」
リオが身を乗り出す。
「できた?」
「……違う」
「何で?」
「童力を飛ばしたから、その勢いで空気が動いただけだと思う」
「風じゃん」
「結果として風が起きただけ。風そのものを作ったわけじゃない」
「細かいなあ」
「全然違うだろ」
礼はしゃがみ込み、ノートを開いた。
『童力による属性現象への変換実験』
『火――失敗』
『水――方法不明』
『風――童力放出に伴う空気の移動のみ確認』
『魔術のような属性変換――現時点では確認できず』
書き終えて、ペン先を止める。
「……魔術と同じことはできないのかな」
「じゃあ終わり?」
「まだ何も始まってないだろ」
礼は立ち上がった。
再び童力を外へ出す。
掌の前に留める。
何かへ変えようとするから駄目なのかもしれない。
魔力は術式を通して現象へ変わる。
なら、童力にも同じことをさせる必要があるのか。
そもそも。
これは魔力ではない。
「……そのまま」
「何?」
「童力を、そのまま使ったらどうなるんだろう」
礼は掌の前にある感覚へ意識を集中させた。
そこには何も見えない。
けれど、ある。
自分には分かる。
童力がある。
《童貞障壁》では、それを薄く広げた。
広げて。
留めて。
壁にした。
なら。
「逆にしたら……?」
「逆?」
礼は指をゆっくり閉じる。
「広げるんじゃなくて」
童力を一か所へ集める。
「小さくする」
外へ出した童力は、常に散ろうとする。
今までは、その流れを抑えるだけだった。
今回は違う。
散らさないだけではない。
さらに内側へ。
押し込む。
「……っ」
思った以上に難しかった。
水を握ろうとしているような感覚に近い。
強く押さえれば、指の隙間から逃げる。
意識を向けた反対側から童力が散る。
「礼?」
「ちょっと待って」
呼吸を整える。
力任せでは駄目だ。
全体を同時に。
逃げる場所を作らないように。
少しずつ。
小さく。
小さく。
掌の前にあった童力が、一点へ集まっていく。
その時。
礼は眉を寄せた。
「……重い」
「何が?」
「分からない」
「また?」
「でも、重い」
何も見えない。
手に触れているわけでもない。
それなのに、掌の前だけ空気が重くなったように感じる。
押さえつけている童力が、内側から押し返してくる。
さっきまでとは違う。
散ろうとしているだけではない。
何かが。
そこに溜まっている。
「もう少し……」
礼はさらに童力を圧縮した。
小さく。
もっと。
その瞬間だった。
押さえ込んでいた感覚が、突然消えた。
「あ――」
パンッ、と乾いた音が弾けた。
顔へ何かがぶつかった。
礼は反射的に目を閉じる。
「うわっ!」
少し離れた場所で、リオの声がした。
草が大きく揺れる。
風が抜ける。
やがて。
静かになった。
礼はゆっくり目を開けた。
「…………」
炎はない。
煙もない。
光ったわけでもない。
地面にも目立った変化はなかった。
ただ。
先ほどまでとは違う方向へ、周囲の草が倒れている。
「……何だった?」
リオが身体を起こした。
「分からない」
「爆発したぞ」
「爆発……」
礼は自分の右手を見る。
怪我はない。
痛みもない。
ただ、使った分だけ童力が減っている。
「もう一回」
「待て」
「何?」
「何が起きたか分かってないんだろ?」
「だから、もう一回やって確かめる」
「危なくない?」
「今の量なら――」
「今は怪我しなかっただけだろ」
礼は口を開きかけた。
閉じる。
リオの言う通りだった。
「……確かに」
「だろ?」
「じゃあ、もっと少ない量でやる」
「聞いてた?」
「聞いてたよ」
リオが頭を抱えた。
次は、少し場所を変えた。
礼の正面。
数歩離れたところへ、細い枯れ枝を一本立てる。
「何で枝?」
「変化が分かりやすいから」
「折れたら?」
「何かが当たったってこと」
「なるほど」
今度は先ほどより少ない童力を使う。
掌から外へ。
留める。
そこから、圧縮する。
一度経験したからか、先ほどより感覚が掴みやすかった。
逃げようとする童力を、四方から押さえる。
小さく。
少しずつ。
やがて、またあの重さが生まれる。
「……できた」
「それ?」
「たぶん」
「俺には何も見えない」
「俺にも見えないよ」
「怖いな、それ」
礼は苦笑した。
視線を枝へ向ける。
「今から、押さえるのをやめる」
「俺、離れてるからな」
「うん」
息を吐く。
圧縮していた童力。
それを。
解いた。
パンッ。
先ほどより小さな音。
礼の前で草が揺れる。
そして。
少し遅れて。
パキッ。
乾いた音がした。
「…………」
礼は動かなかった。
数歩離れた場所で、枯れ枝の上半分が地面へ落ちた。
リオも黙っている。
風が吹く。
折れた枝の横で、草だけが揺れていた。
「……折れた」
先に声を出したのはリオだった。
「うん」
「触ってないよな?」
「触ってない」
「魔術?」
「使ってない」
「風?」
礼は返事をせず、枝へ近づいた。
しゃがむ。
折れた部分を拾い上げる。
焦げていない。
濡れていない。
凍ってもいない。
切断されたわけでもない。
ただ。
強い力で横から叩かれたように折れている。
礼は指で断面をなぞった。
「……もう一回やろう」
今度は、リオも止めなかった。
三度目。
童力を圧縮する。
解放。
草が弾ける。
四度目。
距離を離す。
同じ量でも、先ほどより草の動きが弱い。
「距離で弱くなる?」
「たぶん」
「じゃあ近い方が強いのか」
「今のところは」
五度目。
少しだけ童力量を増やす。
「礼」
「何?」
「それ、さっきより多くない?」
「ちょっとだけ」
「本当にちょっと?」
「……たぶん」
「たぶん!?」
「離れて!」
「先に言えよ!」
リオが慌てて後ろへ下がる。
礼は童力を圧縮した。
先ほどより強い反発。
掌の前に、見えない何かが膨れ上がっているような感覚。
呼吸を止める。
そして。
解放。
ドンッ!
先ほどまでとは違う、腹に響く音だった。
礼の髪が風に煽られる。
土が飛ぶ。
「うわっ!」
リオが腕で顔を庇った。
静かになる。
二人の視線が同じ場所へ向いた。
地面。
そこに。
小さな窪みができていた。
「…………」
礼は何も言えなかった。
近づく。
しゃがみ込む。
指で土へ触れる。
ただの土だ。
熱くない。
魔力の感覚もない。
それなのに。
確かに抉れている。
「礼」
「……うん」
「これ」
「うん」
リオも隣へしゃがんだ。
「攻撃に使えるんじゃないか?」
礼はすぐには答えなかった。
地面に残った小さな窪みを見る。
炎ではない。
水でもない。
風でもない。
雷でもない。
剣も使っていない。
矢もない。
身体で殴ったわけでもない。
ただ童力を外へ出した。
集めた。
圧縮した。
そして、解放した。
それだけだった。
「……童力だけだ」
「え?」
「何も使ってない」
「童力は使ってるだろ」
「そうじゃなくて」
礼は自分の右手を開いた。
掌を見る。
「身体を強くしたわけじゃない。剣に纏わせてもない。矢に乗せてもない」
リオが黙る。
「何かを使って起こしたんじゃない」
礼はもう一度、窪みを見る。
「童力だけで……起きた」
口にしてから、奇妙な感覚になった。
今まで。
童力は、自分の中にあるものだった。
身体を巡らせるもの。
身体を強くするもの。
それが剣へ伸びた。
矢へ伸びた。
身体の外へ出て、壁になった。
誰かの傷を覆った。
そして今日。
何もない場所で。
童力そのものが、現実に痕跡を残した。
礼は鞄へ手を伸ばした。
ノートを取り出す。
地面へ膝をついたまま、夢中で書いた。
『童力単独での現象発生実験』
『属性変換――確認できず』
『外部へ放出した童力を一点へ圧縮』
『圧縮状態を解除した際、衝撃の発生を確認』
『物体への接触――なし』
『媒体――なし』
『魔力――使用なし』
そこでペンが止まった。
礼は少しだけ考える。
そして最後に。
『童力のみ』
四文字。
何度か読み返した。
「なあ」
横からリオが覗き込む。
「これ、何て呼ぶ?」
「まだ早い」
「名前ないと不便じゃん」
「そもそも、何が起きてるのか分かってない」
「童爆」
「嫌だ」
「早いよ!」
「絶対変な名前付けると思った」
「じゃあ童貞爆発」
「もっと嫌だよ!」
「分かりやすいだろ」
「嫌だって!」
「《童破》」
「…………」
礼は一瞬だけ黙った。
リオがニヤリとする。
「今ちょっと迷っただろ」
「迷ってない」
「絶対迷った」
「まだ名前は付けない!」
礼はノートを閉じた。
リオが笑う。
礼も堪えきれず笑った。
しばらく二人の声が草原に響いた。
やがて笑いが収まる。
礼は何気なく、もう一度地面へ目を向けた。
小さな窪み。
ほんの少し土が抉れただけだ。
それでも。
目が離せなかった。
「……リオ」
「ん?」
「これさ」
礼は窪みを指差した。
「もっと童力を増やしたら、どうなるんだろう」
リオも窪みを見る。
少しだけ沈黙した後。
「試す?」
礼は考えた。
掌に残っている感覚。
さっきの反発。
放した瞬間の衝撃。
「……今日はやめとく」
「お」
「何だよ」
「珍しい」
「制御できなくなったら危ないだろ」
「成長したなあ」
「うるさい」
「じゃあ明日?」
「場所変えたい」
「どこに?」
「もっと何もないところ」
「……結局やるんじゃん」
「当たり前だろ」
礼はもう一度ノートを開いた。
『童力量と威力の関係』
『圧縮率との関係』
『距離による減衰――あり?』
『方向を指定できるか?』
『範囲を変更できるか?』
書けば書くほど、調べたいことが増えていく。
一つ分かったと思えば、その隣に新しい疑問が生まれる。
礼は最後の一文字を書き終え、顔を上げた。
風が吹いていた。
草が揺れる。
その向こうには、何もない青空が広がっている。
少し前まで、童力は自分の身体の中だけにあるものだった。
今はもう違う。
礼は右手を空へ伸ばした。
何もない場所。
けれど。
そこへ童力を出せることを、自分はもう知っている。
「……面白いな」
無意識に、そんな言葉が漏れた。
「何が?」
「童術」
リオが少し笑った。
「今さら?」
「今さらじゃないよ」
「最初からずっと楽しそうだったじゃん」
「そうだけど」
礼は手を下ろした。
「思ってたより、ずっと色んなことができるのかもしれない」
「例えば?」
「それが分からないから面白いんだろ」
「またそれか」
二人で笑う。
しばらくして、リオが何かを思い出したように「あ」と声を上げた。
「礼」
「何?」
「昼飯」
「…………」
礼は振り返った。
少し離れた草の上。
実験を始める前に一口だけ齧ったパンが、そのまま置かれている。
「……忘れてた」
「ほら!」
「今食べるよ!」
「だから言っただろ!」
リオが呆れながらパンを拾い上げる。
礼もノートを閉じ、草の上へ腰を下ろした。
冷めたパンを受け取る。
その向こう。
二人の実験で抉れた小さな窪みが、まだ地面に残っていた。
礼はパンを齧りながら、しばらくそれを眺めていた。
「明日、朝から行こう」
「嫌だ」
「何で!?」
「絶対長くなる」
「昼までには帰るよ」
「信用できない」
「じゃあ昼飯持っていけばいいだろ」
「そういう問題じゃねえよ」
また声が響く。
風に揺れる草原の真ん中で。
礼の傍らには、一冊のノートが置かれていた。
風でページが一枚だけめくれる。
そこには、つい先ほど書かれた文字が残っていた。
『童力のみ』
礼はそれに気づかないまま、リオと明日の話をしていた。




