第二十九話 防ぐ力
翌朝。
礼が目を覚ました時、最初に考えたのは昨日の研究のことだった。
正確には、研究結果そのものというより、今日もう一度リオの童力を確認しなければならない、ということだ。
身体を起こし、窓を見る。
ローデンの朝は早い。
まだ陽が完全に昇りきっていないというのに、通りからは荷車の音が聞こえている。宿の一階からも、すでに朝食の準備をしているらしい音がしていた。
礼は顔を洗い、着替えを済ませた。
そして部屋を出る。
隣の扉を叩いた。
「リオ、起きてる?」
返事がない。
「リオ?」
もう一度叩く。
「……起きてる」
低い声が返ってきた。
「じゃあ出てきて」
「嫌だ」
「何で?」
「お前が朝から来る理由が一つしか思いつかない」
「童力の確認」
「ほらな」
「昨日決めただろ」
「朝飯の後でいいだろ……」
扉越しに深い溜息が聞こえた。
礼は少し考える。
「じゃあ朝飯の後」
「……分かった」
「その前に――」
「昨日は何もしてねえからな!」
「まだ聞いてないよ!」
「聞くつもりだっただろ!」
礼は思わず笑った。
「早く着替えてよ」
「誰のせいで朝から疲れてると思ってんだ……」
ぼやく声を背中に聞きながら、礼は階段を下りた。
◇
朝食を終えた二人は、昨日と同じ場所へ向かった。
ローデンの南。
街道から外れた草地。
昨日、リオの童力の乱れを調べた場所だ。
「じゃあ、まず普通に動かしてみて」
「はいはい」
リオが右手を前へ出した。
礼はその隣でノートを開く。
童力を感じる。
動かす。
肩から腕へ。
腕から掌へ。
そして指先へ。
「……どう?」
「普通」
「昨日の朝みたいな感じは?」
「ないな」
礼も観察する。
昨日とは違う。
リオの童力は滑らかに動いている。
「短剣」
「そこまでやる?」
「やる」
「分かったよ」
リオが腰から短剣を抜いた。
掌から刃へ童力を流す。
表面へ留める。
身体と短剣の間で循環させる。
こちらも問題ない。
「矢も」
「絶対言うと思った」
今度は弓。
矢を番える。
童力を纏わせる。
昨日の朝に見られた乱れはなかった。
リオが弦を引く。
「撃っていい?」
「うん」
矢が放たれる。
童力を纏った矢は空を切り、枯れ木へ突き刺さった。
飛翔中に童力は減衰している。
だが、完全に消える前に届いた。
「……戻ってる」
礼は呟いた。
「だから言っただろ」
「昨日の夕方にもかなり戻ってたけど、今日はほぼ普段通りだね」
ノートへ書く。
『翌朝――童力操作、正常』
『感知、移動、循環、武器への維持、矢への付与――異常なし』
少し迷った。
『前日の変動は一時的なものと推測』
そして、その下。
『原因――未確定』
「何て書いた?」
「原因はまだ分からないって」
「それだけ?」
「うん」
リオがほっとしたような顔をする。
「何?」
「いや。昨日みたいなこと書き始めるかと思って」
「記録は昨日したから」
「消してくれてもいいんだけど」
「消さないよ」
「だよな……」
礼はノートを閉じた。
「よし。ギルド行こう」
「今日はちゃんと依頼するんだな」
「昨日も行っただろ」
「見ただけじゃん」
「今日は受ける」
「研究は?」
「依頼しながらやればいい」
リオが笑う。
「昨日、俺が言ったやつじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「じゃあ発案――リオ?」
「それは書かなくていい」
「何でだよ」
二人は話しながらローデンへ戻った。
◇
ローデンの冒険者ギルドは、礼が普段利用している街のものより少し小さかった。
それでも朝は混んでいる。
依頼を探す冒険者。
受付に並ぶ者。
朝から酒を飲んでいる者までいる。
礼とリオは掲示板の前に立った。
「これ」
リオが一枚を指差した。
「また討伐?」
「いいじゃん」
「昨日も魔物と戦っただろ」
「昨日じゃない。二日前」
「細かいな」
依頼書を見る。
ローデン北西部の森で、グレイボアと呼ばれる魔物が増えているらしい。
大きな猪に似た魔物。
農地へ降りてくる前に数を減らしてほしい、という依頼だった。
「グレイボアって戦ったことある?」
礼が聞く。
「ある。二回くらい」
「強い?」
「突進が面倒。まともに食らったら骨折する」
「それ、十分危ないじゃん」
「だから避けるんだよ」
「簡単に言うなあ」
「レッドファングより分かりやすいぞ。真っ直ぐ来るから」
礼は依頼書をもう一度見る。
討伐数の指定は三体。
森の奥へ入りすぎなければ、危険度もそれほど高くない。
「これにしようか」
「決まり」
二人は依頼書を剥がし、受付へ持っていった。
◇
昼前には、目的の森へ到着した。
ローデン周辺の森は、礼が普段依頼を受けている地域とは植生が少し違っていた。
背の高い木が多く、地面には茶色い落ち葉が厚く積もっている。
歩くたび、乾いた音がする。
「足跡」
リオがしゃがんだ。
礼も隣へ行く。
地面に、大きな蹄の跡がある。
「グレイボア?」
「たぶん。新しいな」
「何体?」
「そこまでは分からん」
リオが立ち上がる。
「行こう」
二人は速度を落とした。
森の中を進む。
やがて。
低い唸り声が聞こえた。
礼が剣へ手をかける。
「いる」
「うん」
茂みの向こう。
一頭。
灰色の硬そうな毛に覆われた、大きな猪がいた。
礼の腰ほどまである。
頭部からは二本の牙。
こちらに気づく。
前脚が地面を掻いた。
「来るぞ」
リオが弓を構えた。
グレイボアが走り出す。
速い。
見た目から想像したよりずっと速かった。
「礼!」
「分かってる!」
横へ飛ぶ。
巨大な身体が礼のすぐ横を通過した。
風圧。
落ち葉が舞う。
「うわっ……!」
「だから言っただろ!」
「思ったより速い!」
グレイボアが急停止する。
向きを変える。
リオが矢を放った。
肩へ刺さる。
浅い。
「硬っ!」
「毛が邪魔してる!」
礼は剣を抜いた。
童力を全身へ巡らせる。
身体。
腕。
掌。
剣へ。
刃の表面を童力が巡る。
グレイボアが再び突進した。
今度は直前まで待つ。
「――っ!」
横へ。
すれ違いざまに剣を振る。
刃が毛を裂いた。
血が飛ぶ。
だが浅い。
「まだ!」
グレイボアが暴れる。
礼は距離を取った。
「硬いな……」
「首狙えるか?」
「やってみる」
その時。
右側の茂みが大きく揺れた。
「礼!」
「え?」
二頭目。
考えるより先に、灰色の塊が飛び出してきた。
「っ!」
近い。
避けられない。
礼は咄嗟に剣を身体の前へ出した。
直後。
グレイボアの頭が剣へ激突する。
「ぐっ……!」
腕に凄まじい衝撃。
足が地面を滑る。
止められない。
礼は吹き飛ばされた。
「礼!」
背中から地面へ落ちる。
肺から空気が抜けた。
「っ、は……!」
息ができない。
視界が揺れる。
それでも起きなければならない。
グレイボアがこちらを向いている。
もう一度。
来る。
「礼、避けろ!」
リオが矢を放つ。
グレイボアの頬へ刺さる。
だが止まらない。
礼は身体を起こそうとした。
間に合わない。
足へ童力を集める。
駄目だ。
姿勢が悪い。
この状態から一気に動けば、また制御を失う。
なら。
受けるしかない。
礼は剣を構えた。
さっきと同じでは駄目だ。
剣だけでは衝撃を殺せない。
もっと。
何か。
「――っ!」
グレイボアが迫る。
礼は反射的に左手を前へ出した。
童力を集める。
掌へ。
そこから外へ。
放出。
だが。
撃ち出さない。
「……止まれ!」
掌の前へ押し出す。
童力が外へ出る。
いつもなら、そのまま拡散する。
それを。
逃がさない。
押し続ける。
前へ。
広く。
薄く。
その瞬間。
グレイボアの頭が、礼へ届くより先に止まった。
――ドンッ!
「……え?」
礼の身体はまだ地面にある。
剣にも触れていない。
グレイボアの鼻先は。
礼の左手から、僅かに離れたところで止まっていた。
「な……」
次の瞬間。
押し留めていた何かが砕けた。
グレイボアが再び前へ出る。
「礼!」
今度こそ礼は横へ転がった。
牙が服を掠める。
立ち上がる。
「今の……」
考える暇はない。
「礼! 後で考えろ!」
「分かってる!」
リオの声で意識を戦闘へ戻す。
二頭。
一頭目も戻ってきている。
「右頼む!」
「任せろ!」
礼は左の個体へ走った。
童力を全身へ循環。
さらに剣へ。
今度は待たない。
こちらから距離を詰める。
グレイボアが頭を下げた。
突進。
直前で身体をずらす。
首。
そこへ剣を振り下ろす。
童力を纏った刃が硬い毛を裂き、その下へ食い込んだ。
グレイボアが倒れる。
「一体!」
「こっちはまだ!」
リオの方を見る。
もう一頭が彼へ向かっている。
リオは矢を番えていた。
童力を流す。
弦を引く。
放つ。
矢は飛翔しながら童力を失っていく。
だが、消える前に届く。
グレイボアの目元へ深く刺さった。
魔物が大きく頭を振る。
「今!」
礼が走る。
横から首へ一撃。
二頭目が倒れた。
森に静けさが戻った。
「…………」
「…………」
二人はしばらく動かなかった。
「……三体じゃなかった?」
リオが言う。
「依頼は三体」
「あと一体か」
「うん」
「休む?」
「休もう」
「だよな」
二人は同時にその場へ座り込んだ。
◇
「それで」
少し息が整った頃。
リオが言った。
「さっきの何?」
「……分からない」
「また?」
「またって言うなよ」
「この前も分からない影出したじゃん」
「あれとは違う」
「分かるの?」
「うん」
礼は左手を見る。
「あれは……俺の童力だった」
そこだけは分かる。
二日前の黒い影。
あれには、自分の童力でありながら自分のものではないような、奇妙な感覚があった。
今のものには、それがない。
間違いなく礼自身の童力だった。
「何した?」
「放出」
「撃ったの?」
「違う」
礼は立ち上がった。
左手を前へ出す。
「普通、外に出した童力って散るだろ?」
「うん」
「それを……散らさないようにした」
「どうやって?」
「分からない」
「結局分からないんじゃん」
「感覚だよ!」
礼はもう一度集中する。
掌へ童力を集める。
外へ。
放出。
今度は戦闘中より慎重に。
童力が掌の外へ出る。
拡散しようとする。
「……逃げるな」
意識で押し留める。
薄く。
広げる。
すると。
「…………」
礼の掌の前。
目には何も見えない。
だが確かに、何かがある。
「リオ」
「何?」
「手、出して」
「嫌だ」
「何で?」
「最近お前に『試す』って言われると怖い」
「いいから」
「絶対変なことしない?」
「しないよ」
リオが警戒しながら手を伸ばした。
「ここ」
礼の掌の前へ触れる。
「……あ」
「分かる?」
「何かある」
リオの手が止まっている。
何もない空間で。
「押してみて」
「こう?」
リオが力を入れる。
礼の腕へ負荷がかかった。
「……重い」
「お前が?」
「うん。童力が押されてる感じがする」
「じゃあもっと押すぞ」
「待っ――」
リオが力を込めた。
次の瞬間。
礼の童力が散った。
「うわっ」
「消えた」
「押しすぎ!」
「押せって言ったのお前だろ!」
「もっととは言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「まあいい」
リオが地面へ落ちていた枝を拾った。
「これで試そう」
「壊さないでよ」
「壊れたら作り直せばいいだろ」
「簡単に言うなあ」
もう一度。
礼は童力を外へ出した。
散らさない。
面のように広げる。
「できた」
リオが枝を軽く突き出す。
止まる。
「……すげえ」
もう少し強く。
童力が揺れる。
さらに強く。
砕ける。
「強度はそんなにない」
「でも防げるぞ」
「今は枝くらいだけどね」
「さっきグレイボア止めただろ」
「あれは……必死だったから」
「じゃあ強くできるってことじゃん」
礼は黙った。
確かにそうだ。
出力量。
広げる面積。
密度。
維持時間。
それらを調整できれば。
「…………」
礼は急いでノートを取り出した。
「始まった」
リオが呟く。
「何が?」
「研究」
「当たり前だろ!」
「あと一体残ってるぞ」
「分かってる。ちょっとだけ」
「その『ちょっと』信用できねえんだよな」
礼は構わず書く。
『放出した童力を拡散させず、一定範囲に維持することに成功』
『形状――面?』
『物理的な接触を阻害』
『外部から圧力を受けると童力が消耗』
『一定以上の圧力で崩壊』
『面積と強度の関係――未確認』
『童力量との関係――要検証』
そこまで書いて、手が止まる。
「なあ」
リオが横から覗き込む。
「これ、何て呼ぶ?」
「もう名前付けるの?」
「便利だろ。いちいち『外に出した童力を面にしてどうこう』って言うより」
「それはそうだけど……」
礼は考えた。
「童力壁」
「そのまんまだな」
「童壁」
「言いにくい」
「防御童術」
「長い」
「……童障壁?」
「なんか惜しい」
「じゃあリオ考えてよ」
「俺?」
「文句ばっかり言ってるじゃん」
「そうだな……」
リオは腕を組んだ。
二人でしばらく考える。
風が吹き、頭上の葉が揺れた。
やがて。
リオが口を開いた。
「……童貞障壁」
「…………」
「…………」
礼はリオを見る。
リオも礼を見る。
「……ダサくない?」
「童力って付けた奴が言うな」
「でも童貞障壁だよ?」
「分かりやすいだろ」
「何が?」
「童貞の力で作った障壁」
「そのままじゃん」
「技の名前なんてそんなもんだろ」
「そうかなあ……」
礼はノートへ視線を落とした。
少し迷う。
そして。
『仮称――《童貞障壁》』
と書いた。
「書いた!」
リオが笑う。
「仮称だから!」
「絶対残るぞ、それ」
「もっといい名前思いついたら変えるよ」
「変わらない気がする」
「縁起でもないこと言うなよ」
礼はノートを閉じた。
「よし」
「研究終わり?」
「一旦ね」
「じゃあ残り一体」
「探そう」
二人は立ち上がった。
歩き出す前に、礼はもう一度左手を見た。
これまで童力は、自分を強くするために使ってきた。
身体を強くする。
速く動く。
剣を強くする。
外へ放つ。
攻撃する。
だが。
今日。
初めて。
童力は、何かを防いだ。
礼は左手を握る。
「……まだ色々できそうだな」
「何が?」
「童術」
「今さら?」
「いや」
礼は首を振った。
「俺、ずっと自分を強くする方法ばっかり考えてたから」
「まあ、最初は生き残るためだったんだろ?」
「うん。でも……」
身体の外へ出せる。
物へ纏わせられる。
離れた場所まで運べる。
そして。
留めれば、壁にもなる。
「使い方って、一つじゃないんだな」
リオが少し笑った。
「そりゃそうだろ」
「何で?」
「俺と礼でも使い方違うじゃん」
「……あ」
「礼は剣。俺は弓。童力量だって違う。得意なのも違う」
リオは肩へ弓を掛け直した。
「だったら、もっとあるんじゃねえの?」
「もっと?」
「俺たちがまだ思いついてない使い方」
礼は答えなかった。
代わりに。
少しだけ笑った。
「……帰ったら試したいことある」
「依頼終わってからな」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってるって」
二人は森の奥へ歩き始めた。
残る討伐対象は一体。
まだ昼を少し過ぎたばかりだった。
礼の腰には剣。
リオの背には弓。
そして礼の鞄の中には、一冊のノートがある。
そこには今日、新しい一行が増えていた。
『仮称――《童貞障壁》』
それはまだ、猪の突進を数秒止めることしかできない、脆い壁だった。
けれど礼にとって重要だったのは、その強さではなかった。
童力は、身体を強くするだけの力ではない。
剣を強くするだけでもない。
放って敵を倒すだけでもない。
使い方を変えれば、同じ力からまったく違う結果が生まれる。
その可能性に、礼は初めて気づき始めていた。




