第二十八話 揺らぐ童力
翌朝。
知らない天井を見上げて、礼は一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなかった。
薄い木板を何枚も並べた天井。壁際には小さな窓があり、隙間から差し込んだ朝日が床を細長く照らしている。階下からは食器の触れ合う音と、何かを焼いている匂いが漂ってきていた。
「……ああ」
ローデンだ。
昨日、護衛依頼を終えて辿り着いた街。
礼は身体を起こした。
昨夜は宿を探した後、リオと一緒に食事を取り、そのまま早めに眠った。二日間歩き続けた疲れが残っているかと思ったが、身体は思ったより軽い。
顔を洗い、荷物をまとめる。
ノートが入っていることを確認し、剣を腰へ差した。
部屋を出ると、ちょうど隣の扉も開いた。
「おはよ」
「おはよう」
出てきたリオは、少し眠そうだった。
「眠そうだな」
「そう?」
「うん」
「知らない宿だからじゃねえの」
「俺は普通に寝られたけど」
「礼はどこでも寝そうだもんな」
「どういう意味?」
「褒めてる」
「絶対違うだろ」
二人で階段を下りる。
朝食は黒パンと野菜のスープ、それに薄く切った焼き肉だった。
味は悪くない。
ただ、礼がいつも暮らしていた街の宿とは少し味付けが違う。
「これ、何入ってるんだろ」
礼がスープを見ながら呟く。
「知らん」
「ちょっと辛いよね」
「俺こっちの方が好きかも」
「じゃあ帰らずここに住めば?」
「極端すぎるだろ」
そんな話をしながら朝食を終える。
昨日までは、今日になれば元の街へ戻るつもりだった。
けれど予定は変わった。
ローデンの冒険者ギルドへ行き、面白そうな依頼があれば受けてみる。
その後どうするかは、まだ決めていない。
それでいい。
宿を出ると、朝の大通りにはすでに多くの人がいた。
店を開ける商人。
荷物を運ぶ男たち。
パンを抱えて走っていく子供。
知らない街の朝を眺めながら、二人は歩いた。
「ギルド行く前にさ」
リオが言った。
「昨日の矢、もう一回試していい?」
礼は足を止めた。
「俺も言おうと思ってた」
「だろ?」
「一回成功しただけだからね。距離も測りたい」
「街の外でいいよな」
「うん。人がいないところ探そう」
結局、ギルドへ向かう予定は後回しになった。
◇
街の南側。
街道から少し外れたところに、背の低い草が広がる場所があった。
遠くには森が見える。
人通りもほとんどない。
礼は適当な枯れ木へ歩いていき、幹に布を巻き付けた。
「これでいいかな」
「距離は?」
「最初は二十歩くらい」
「近くない?」
「昨日と同じくらいから始めるの」
「はいはい」
リオが弓を構える。
礼は少し離れた場所からノートを開いた。
「準備できたら言って」
「できてる」
「じゃあやってみて」
リオが矢を番える。
弦を引く前に、右手へ意識を集中させた。
礼も目を細める。
昨日と同じ。
身体から矢へ童力を流す。
循環させる必要はない。
放つ直前まで矢へ流し続け、身体から離れた後は童力が消えるより先に標的へ到達させる。
理屈は単純だった。
リオの掌から童力が動く。
矢へ。
「…………」
礼は眉を寄せた。
「リオ」
「分かってる」
流れがおかしい。
矢へ向かった童力が、安定しない。
一度は矢の表面へ広がった。
だがすぐに薄くなり、また濃くなる。
昨日はもっと滑らかだった。
リオが弦を引く。
「撃つぞ」
「待って」
礼が止めた。
「何だよ」
「一回やめよう」
リオは不満そうな顔をしたが、弦を戻した。
「やっぱ変?」
「うん」
「俺もそんな気がした」
リオが右手を開いたり閉じたりする。
「昨日より流しづらい」
「もう一回、矢なしでやってみて」
「分かった」
今度は掌へ童力を集める。
それだけならできる。
しかし。
「……揺れてる」
礼は呟いた。
「だよな」
リオの童力は、元々礼より少ない。
その代わり、細かな操作ではリオの方が安定していることさえあった。
だからこそ、違和感が分かる。
量が減っているのか。
それとも制御だけがおかしいのか。
「体調悪い?」
「別に」
「熱は?」
「ない」
「頭痛とか」
「ないって」
「腕は?」
「痛くない」
「昨日の戦闘でどこか怪我した?」
「してない」
「本当に?」
「してたら言うよ」
礼はノートへ書き込んだ。
『リオ――童力操作に乱れ』
『感知――可能』
『移動――可能』
『精密操作――不安定』
「昨日の夜、何食べた?」
「礼と同じだろ」
「その後」
「何も食ってない」
「酒は?」
「飲んでない」
「寝たの何時?」
「お前と別れて、そんな経ってない」
「夜中に起きた?」
「一回くらい起きた気もするけど、すぐ寝た」
「睡眠不足……ではなさそうか」
「お前、医者みたいになってるぞ」
「原因分からない方が嫌だろ」
「まあ、そうだけど」
礼は考える。
昨日と今日で何が違う。
食事はほぼ同じ。
大きな怪我もない。
魔力を使ったわけでもない。
疲労なら、むしろ昨日の方が酷かったはずだ。
昨日は二日間の護衛の途中だった。
それでも矢への童力付与には成功した。
なら、身体的な疲労だけでは説明できない。
「もう一回」
今度は矢ではなく、短剣を使わせる。
リオは腰から短剣を抜いた。
掌から刃へ童力を流す。
こちらもできる。
だが、やはり昨日までより不安定だった。
「…………」
礼はノートを見つめた。
何かを見落としている。
童力。
普通の魔力とは違う力。
礼とリオ。
現在、確認できている童術師は二人。
二人に共通するもの。
魔力が少ない。
男。
十八歳。
そして。
礼の視線が、ノートの古いページへ落ちた。
そこには以前、自分で書いた文字がある。
『童貞?』
「…………」
礼は顔を上げた。
「リオ」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
「何だよ」
「昨日……女の人と何かした?」
「…………は?」
リオの動きが止まった。
「いや、だから」
「何でそうなるんだよ!」
「可能性を潰してるだけだよ!」
「飛躍しすぎだろ!」
「でも童力が童貞と関係してる可能性はあるだろ?」
「まだ確定してねえだろ!」
「だから調べてるんじゃん!」
「してねえよ!」
即答だった。
礼は少し安心した。
「じゃあ違うか……」
「何なんだよ、急に」
「いや、もし童貞じゃなくなったことで童力が変化したなら、大きな発見だから」
「人の初体験を研究材料にすんな」
「してないんだろ?」
「してない!」
「じゃあいいじゃん」
「よくねえよ!」
礼は再びノートへ目を落とした。
違う。
なら、他に昨日と今日で変わったものは――。
「…………」
ふと。
一つ思いついた。
礼は顔を上げる。
リオを見る。
またノートを見る。
もう一度リオを見る。
「何だよ」
「…………」
「その顔やめろ」
「リオ」
「だから何だよ」
聞くべきか。
礼は本気で迷った。
しかし。
これは研究だ。
童力の発生条件そのものに関わるかもしれない。
恥ずかしいから聞かない、では済まされない。
「昨日――」
「うん」
「……自慰した?」
風が吹いた。
草が揺れた。
遠くで鳥が鳴いている。
リオは動かなかった。
「…………」
「…………」
「……何て?」
「だから――」
「聞こえてる」
「じゃあ何で聞き返したの」
「お前が本当にそれを聞いたのか確認したかったんだよ!」
「大事なんだって!」
「何が大事なんだよ!」
「童力の変動条件!」
「朝っぱらから人の自慰を研究すんな!!」
「俺だって聞きたくて聞いてるんじゃないよ!」
「じゃあ聞くな!」
「でも必要なんだよ!」
「何で必要なんだよ!」
「童貞だからだよ!」
「説明になってねえ!!」
リオの声が草原へ響いた。
礼は周囲を見る。
幸い誰もいない。
「声大きいよ」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「で?」
「何が『で?』だ!」
「したの?」
「…………」
リオが黙った。
礼も黙る。
「…………」
「…………」
妙に長い沈黙だった。
礼はゆっくりと目を細めた。
「……した?」
「…………昨日」
「したんだ」
「言わせんな!!」
礼はすぐノートへ視線を落とした。
「書くな!!」
「研究記録だから!」
「やめろ!」
「ちょっ、引っ張るな! 破れる!」
「破れ!」
「貴重な記録なんだって!」
「俺の尊厳よりか!?」
「童術の研究ではかなり重要だよ!」
「最悪だこいつ!!」
しばらくノートを巡る攻防が続いた。
最終的に礼が背中へ隠すことで、どうにか守り切った。
「はあ……はあ……」
「何で俺がこんなことで疲れなきゃいけねえんだ……」
二人とも息を切らしていた。
礼は警戒するリオから距離を取り、ノートを開く。
「具体的なことは書かないから」
「当たり前だ!」
「昨日、自慰をした。その翌朝、童力の精密操作が不安定になった。これだけ」
「十分嫌なんだけど」
「名前消す?」
「そういう問題か?」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「書かなきゃいいだろ!」
「それじゃ研究にならない!」
リオは頭を抱えた。
「……もう好きにしろ」
「ありがとう」
「礼を弟子に取る奴がいたら、絶対止める」
「俺、誰かの弟子になる予定ないけど」
「そういう意味じゃねえよ」
礼は記録を続けた。
『前夜、射精あり』
書いたところで。
「待て」
「何?」
「何で言い換えた?」
「記録だから正式な方がいいかなって」
「余計嫌だわ!」
「じゃあどう書けばいいの!?」
「知らねえよ!」
礼は仕方なくそのままにした。
笑いそうになるのを堪えながら、次の行を書く。
『翌朝、童力の精密操作に乱れ』
『因果関係――不明』
そこまで書いたところで、礼の手が止まった。
「……まだ分からない」
「何が」
「本当にこれが原因なのか」
リオも少し真面目な顔になる。
「たまたまかもしれないってこと?」
「うん。睡眠とか、昨日までの疲労とか、別の原因かもしれない」
「じゃあどうする?」
「時間を置いて、もう一回測ろう」
「それだけ?」
「今日はそれだけ」
リオが露骨に安堵した。
「よかった……」
「何が?」
「いや、何でもない」
礼は首を傾げた。
◇
昼を過ぎても、二人はローデンにいた。
ギルドへ行き、掲示されている依頼を眺める。
薬草採取。
荷運び。
近隣農村の害獣駆除。
護衛。
元の街とは依頼の内容も少し違っていた。
礼は何枚か気になるものを覚えておき、昼食を取った。
その後、街を歩いた。
武器屋。
道具屋。
露店。
特に何かを買うわけでもない。
ただ知らない街を見る。
リオは昼頃には、朝のことを忘れたように振る舞っていた。
礼もわざわざ蒸し返さなかった。
夕方。
二人は再び街の外へ出た。
「やるの?」
「確認だけ」
「まだ変だったら?」
「明日も確認する」
「毎日?」
「戻るまで」
「面倒くせえ……」
「自分の身体だろ」
「礼に言われると何か腹立つな」
朝と同じ場所へ向かう。
同じ枯れ木。
同じ距離。
リオが矢を番える。
「じゃあ流してみて」
「はいよ」
童力が動く。
礼は集中した。
「…………あれ?」
朝より安定している。
完全に普段通りとは言えない。
だが明らかに乱れが小さい。
「リオ、自分では?」
「……朝より楽だな」
「撃ってみて」
リオが弦を引く。
放つ。
矢が飛ぶ。
童力は徐々に失われていく。
それでも昨日と同じように、完全に消える前に標的へ到達した。
布を巻いた枯れ木へ深く刺さる。
二人はしばらく黙っていた。
「……戻ってきてる」
礼が言った。
「みたいだな」
礼はすぐノートを開いた。
『夕刻――精密操作の回復を確認』
『童力総量については大きな変化なし?』
『時間経過による回復の可能性』
「ってことは」
リオが言う。
「別に童術が使えなくなったわけじゃないんだな」
「うん」
「童貞じゃなくなったわけでもないし」
「うん」
「…………」
「…………」
礼は顔を上げた。
「何?」
「いや」
リオが妙な顔をしている。
「改めて言われると腹立つなと思って」
「自分で言ったんだろ」
「そうだけど」
礼は笑った。
それからノートへ視線を戻す。
少なくとも、一つ分かった。
今朝の現象が昨夜の行為と関係しているとしても、童力そのものが失われたわけではない。
感知できる。
動かせる。
そして時間が経てば、制御も戻ってくる。
ならば。
『射精による童力の永久的消失――確認できず』
『一時的な操作精度への影響の可能性あり』
『ただし因果関係は未確定』
そこまで書く。
さらに。
『童貞状態――継続』
「それ消せ」
「何で?」
「必要ないだろ!」
「必要だよ。前提条件なんだから」
「誰が見るんだよそのノート!」
「俺」
「じゃあ覚えとけ!」
「忘れるかもしれないだろ」
「忘れねえよ! 俺が童貞なのをお前が忘れるわけないだろ!」
「何で俺が責められてるの?」
「全部お前のせいだ!」
また言い合いになる。
それでも朝ほど深刻ではなかった。
童力は戻りつつある。
原因はまだ分からない。
けれど少なくとも、何か取り返しのつかない異常が起きたわけではなさそうだった。
「よし」
礼はノートを閉じた。
「明日の朝も測ろう」
「まだやるのかよ」
「当然だろ」
「もう戻ったじゃん」
「完全に戻ったか確認しないと」
「はいはい」
リオは矢を回収しに歩いていった。
その背中を見ながら、礼は考える。
童力は、身体の状態によって変化する。
それ自体は不思議ではない。
疲れれば集中できなくなる。
怪我をすれば動かしづらくなる。
けれど今回の変化が、本当に昨夜の行為と関係しているのなら。
童力は、自分たちが思っている以上に身体の状態と深く結びついていることになる。
そして何より。
童力が童貞であることと関係しているのなら――。
どこまでが「童貞であること」に含まれるのか。
礼はノートをもう一度開いた。
一番下へ、新しい疑問を書く。
『童力に影響するのは、童貞という状態そのものなのか?』
少し考える。
その下へ。
『それとも、性的な行為全般が影響するのか?』
「礼ー!」
遠くからリオが呼んでいる。
「何ー?」
「宿戻ろうぜ! 腹減った!」
「今行く!」
礼はノートを閉じた。
答えはまだない。
そもそも、二人しかいない。
比べる相手すらいないのだ。
なら、今は分からなくてもいい。
記録しておけばいい。
いつか新しいことが分かった時、この日の記録が役に立つかもしれない。
礼はリオのところへ走った。
「なあ」
歩き出したリオが言う。
「何?」
「一個だけ言っとく」
「うん」
「今日の記録、絶対誰にも見せるなよ」
「何で?」
「何でじゃねえよ!」
「でも、もし将来ほかの童術師が――」
「見せるな!」
「分かった、分かった」
「絶対だからな!」
「はいはい」
「返事が軽い!」
夕暮れの街道に、二人の声が響く。
この時の礼はまだ知らなかった。
今日記録した小さな違いが、いつか童術師にとって決して笑えない問題と結びつくことを。
今はただ。
世界に二人しかいない童術師が、童力と童貞の関係について、一つ新しい疑問を見つけただけだった。




