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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第二十七話 道の先へ


 礼は、昨日と同じ森に立っていた。


 正確には、昨日レッドファングの群れと戦った場所からはかなり離れている。いつもリオと童術の実験に使っている、人のあまり来ない森の一角だった。


 朝露の残る草の上に立ち、礼は左手を前へ伸ばしている。


 掌へ意識を向ける。


 胸の奥にある童力を捉え、腕へ流す。


 そこから掌へ。


 そして――身体の外へ。


「…………」


 何も起きない。


 いや、正確には童力そのものは放出されている。


 昨日まで何度も練習した、普通の放出だ。


 目には見えない力が掌から外へ流れ、少し離れた草を揺らして消えていく。


 それだけだった。


「もう一回」


 礼は呟き、呼吸を整えた。


 昨日のことを思い出す。


 大型のレッドファングがリオへ迫っていた。


 助けた冒険者たちにも別の一体が迫っていた。


 どちらにも間に合わない。


 あの瞬間。


 胸の奥で、何かが開いた。


 冷たい感覚。


 自分の内側にあるはずなのに、自分のものではないような何か。


 そこから黒い影が溢れた。


 地面を這い、二つに分かれ、魔物たちへ伸びた。


 そして――腕。


 人間の腕のように見える何か。


 礼は目を閉じた。


 思い出せ。


 あの時、どこに童力があった。


 どう動いた。


 どこを通った。


 何を考えていた。


「……やめろ」


 小さく呟いてみる。


 何も起こらない。


 礼は眉を寄せた。


「……やめろ」


 やはり何も起こらない。


 少し迷ってから、声を大きくする。


「やめろ!」


 森に声だけが響いた。


 鳥が数羽、驚いたように枝から飛び立っていく。


「…………」


 恥ずかしい。


「何やってんだ?」


「うわっ!」


 背後から突然声をかけられ、礼は飛び上がるように振り返った。


 少し離れた木の横に、リオが立っていた。


 弓を背負い、呆れたような顔でこちらを見ている。


「いつからいたの?」


「二回目の『やめろ』くらいから」


「最悪だ……」


「昨日みたいに叫んだら出るか試してたのか?」


「……一応」


 リオが吹き出した。


「笑うなよ!」


「いや、だって一人で森に向かって『やめろ!』って」


「俺だって好きでやってるんじゃない!」


「もう一回やってくれよ。今度は昨日くらい本気で」


「絶対嫌だ」


「じゃあ俺が魔物役やろうか?」


「もっと嫌だよ」


 礼は溜息をつき、伸ばしていた左手を下ろした。


 笑っていたリオも、やがて表情を戻す。


「……出ない?」


「うん」


 礼は自分の掌を見る。


「普通の童力なら動く。放出もできる。でも昨日の感覚が全然ない」


「黒いやつも?」


「何も」


「腕みたいなのも?」


「出ない」


「人みたいなのは?」


 礼の視線が僅かに止まった。


 昨日。


 黒い影の奥に、一瞬だけ見えた気がした。


 誰かが立っていたような輪郭。


「……あれは見間違いかもしれない」


「でも見たんだろ?」


「見たと思う。でも戦ってたし、疲れてたし……」


「じゃあ見間違いじゃなかったら?」


「分からないよ」


 礼は正直に答えた。


 それが、一番気持ち悪かった。


 これまで童力について分からないことはいくらでもあった。


 そもそも最初は、名前すらなかった。


 けれど、それらはすべて自分で見つけたものだった。


 感じて。


 試して。


 失敗して。


 少しずつ使い方を覚えた。


 昨日のあれだけは違う。


 自分が見つけたわけではない。


 やろうとしたわけでもない。


 知らないものが、勝手に自分の中から出てきた。


「なあ」


 リオが隣へ来る。


「もう一回、俺が危なくなったら出たりして」


「試さないからな」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔で分かる」


「昨日のお返しかよ」


 リオは笑った。


 礼も少しだけ笑ったが、すぐに首を振る。


「危険な状況じゃないと出ない可能性はある。でも、それを確認するために本当に危険な状況を作るのは駄目だ」


「だな」


「それに……」


 礼は少し考えてから続けた。


「再現できないなら、今は童術とも言い切れない」


「童力だったんだろ?」


「たぶん。でも俺が考えてる童術って、童力を使うための技術だから。自分で出せないものを術って呼んでいいのか分からない」


 リオが腕を組む。


「面倒くさいこと考えるなあ」


「大事だよ」


「礼らしいけど」


 礼は荷物からノートを取り出した。


 昨日の記録があるページを開き、その下へ今日の日付を書く。


『翌朝、再現実験』


 続ける。


『通常の童力操作――可能』


『放出――可能』


『黒色の影――確認できず』


『昨日と同様の感覚――なし』


 そして少し考えた後、最後に一文を加えた。


『再現できないものを、術と呼んでいいのか?』


「……よし」


 ノートを閉じる。


「終わり?」


「うん」


 リオが意外そうな顔をした。


「珍しいな」


「何が?」


「礼なら、出るまで三日くらいここにいると思ってた」


「俺を何だと思ってるの?」


「童術馬鹿」


「…………」


 すぐには否定できなかった。


「ほら」


「うるさいな」


「それで、今日はどうする?」


 礼は少し考える。


 本当なら昨日失敗した矢の実験をしたかった。


 だが昨日の依頼は、予定外の戦闘になったとはいえ完了している。大型個体の討伐報酬も出るはずだ。


 それに――。


「ギルド行こう」


「依頼?」


「うん。昨日の報告もあるし」


「矢は?」


「それもやりたいけど……」


 礼はリオの背中にある弓を見た。


「研究だけしてても、実戦で使えなかったら意味ないって昨日分かったから」


「確かにな」


「だからしばらく、依頼をやりながら試そう」


 リオの口元が上がる。


「それ、いいな」


 二人は並んで森を出た。


 礼は一度だけ振り返った。


 朝日の差し込む森には、当然ながら黒い影などどこにもない。


 昨日の出来事が夢だったのではないかと思うほど、いつも通りの景色だった。


 けれど左手に残っている感覚だけは、まだ完全には消えていなかった。


 礼はそれ以上考えず、前を向いた。



 ◇



「護衛?」


 ギルドの受付で、礼は依頼書を見ながら聞き返した。


「ええ。明日の朝出発です」


 顔馴染みになった受付の女性が答える。


「商人の馬車を、南のローデンまで護衛する依頼ですね。片道二日ほど。荷物は布と日用品が中心です」


「危険度は?」


「街道沿いですから、それほど高くありません。ただ、最近ゴブリンの目撃情報が少し増えています」


 礼は依頼書へ視線を戻した。


 護衛対象は馬車二台。


 商人が二人。


 御者が二人。


 護衛は礼たちを含めて四人を予定しているらしい。


「ローデンって行ったことある?」


 礼が横を見る。


「ない」


 リオは即答した。


「礼は?」


「俺もない」


「じゃあこれにしよう」


「決めるの早くない?」


「いいじゃん。二日だろ?」


 礼は再び依頼書を見る。


 この街へ来てから一年以上が経っている。


 途中、近隣の村や森へ依頼で向かったことはある。だが、拠点そのものを移すほど遠くへ行ったことはなかった。


 理由があったわけではない。


 この街は暮らしやすかった。


 ギルドの勝手も分かる。


 宿の女将とも顔馴染みになった。


 何より――。


 ガルドたちと出会った街だった。


 礼がこの世界で初めて「帰る場所」を知った場所。


 パーティーを離れた後も、結局ここへ戻ってきた。


「礼?」


 リオに呼ばれ、礼は顔を上げた。


「どうした?」


「いや……」


 もう一度、依頼書を見る。


 目的地。


 ローデン。


 知らない町。


「……受けよう」


「よし」


 受付の女性へ依頼書を渡した。


 手続きはすぐに終わった。


 明朝、南門集合。


 それだけだ。


 たった二日の道程。


 別に大冒険へ出るわけではない。


 それでもギルドを出た時、礼はいつもと少し違う気持ちになっていた。



 ◇



 翌朝。


 南門にはすでに二台の馬車が停まっていた。


 商人たちへ挨拶を済ませ、もう二人の護衛とも顔を合わせる。


 二人とも礼たちより年上の冒険者だった。


 片方は槍を使う三十代ほどの男。


 もう一人は二十代半ばくらいの女性で、短剣と小さな盾を装備している。


 特に問題もなく、馬車は街を出発した。


 最初の数時間は平和だった。


 馬車の車輪が土を踏む音。


 馬の蹄。


 時折すれ違う旅人。


 街から離れるほど建物は減り、やがて周囲には草原と森ばかりが広がるようになった。


 礼とリオは一台目の馬車の横を歩いていた。


「暇だな」


 リオが言った。


「護衛で暇なのはいいことだよ」


「分かってるけどさ」


「魔物出てほしいの?」


「それは困る」


「じゃあ暇でいいだろ」


「でも暇だ」


「面倒くさいな」


 そんな話をしているうちに昼になった。


 街道脇で短い休憩を取り、また歩く。


 夕方になっても何事も起こらなかった。


 その日は街道から少し離れた開けた場所で野営することになった。


 馬を休ませ、簡単な食事を取る。


 見張りは交代制だった。


 礼とリオの番は、夜の前半。


 焚き火を挟んで座りながら、礼は暗い森の方を眺めていた。


「なあ」


 向かいに座っていたリオが声をかける。


「何?」


「昨日の矢」


「うん」


「ちょっと考えた」


 礼は視線を戻した。


 リオは一本の矢を手にしている。


「昨日は短剣と同じようにしようとしたんだよ」


「循環?」


「ああ。俺から矢に流して、戻そうとした」


「でも放したら切れる」


「そう」


 リオは矢を指先で回した。


「だからさ。戻さなくていいんじゃないか?」


 礼は眉を寄せた。


「どういうこと?」


「剣はずっと持ってるだろ。だから童力を巡らせ続けられる。でも矢は違う」


「うん」


「撃ったら終わりだ」


「それはそうだけど……」


「だったら、ずっと残す必要ないだろ?」


 礼は黙った。


 リオは持っている矢を礼へ向けた。


「昨日、矢を撃った時さ。放した瞬間に全部消えたわけじゃなかった気がするんだ」


「……そうなの?」


「たぶん。すぐ薄くなった。でも、一瞬は残ってた」


 礼は昨日の戦いを思い出す。


 リオの矢。


 大型個体へ命中した。


 確かに童力の大半は失われていた。


 だから失敗だと思った。


 だが。


「……全部残す必要がない」


「だろ?」


 リオが笑う。


「当たるまで残ってればいい」


 礼は焚き火を見た。


 燃えた薪が小さく崩れ、火の粉が舞い上がる。


 考えてみれば単純なことだった。


 礼はずっと「どうすれば童力を物へ維持できるか」を考えていた。


 剣なら、それでいい。


 だが矢は違う。


 必要なのは永続的な維持ではない。


 放ってから。


 敵へ届くまで。


 ほんの数秒。


 それだけ残ればいい。


「……試したい」


「だろ?」


「今?」


「一本だけ」


「昨日も聞いたよ、それ」


「今日は本当に一本」


 礼は周囲を見る。


 他の護衛と商人たちは休んでいる。


 暗闇へ矢を撃つわけにもいかない。


「駄目」


「えー」


「護衛中だよ。矢が一本減るだろ」


「一本くらい」


「駄目」


「礼って変なところ真面目だよな」


「普通だよ」


 不満そうなリオを無視し、礼はノートを取り出した。


「でも記録はする」


「何て?」


「『矢は童力を循環させる必要がない可能性』」


「あと発案者」


「……」


「大事だろ?」


 礼はリオを見る。


 得意げな顔をしている。


 仕方なく、その下へ小さく書いた。


『発案――リオ』


「書いたよ」


「よし」


「何でそんな嬉しそうなの?」


「歴史に残るかもしれないだろ」


「残らないよ」


「分かんないぞ。五百年後とかに、このノートが見つかるかもしれない」


「その前に捨てるよ」


「捨てんなよ!」


 礼は笑いながらノートを閉じた。


 五百年後。


 そんな先のことなど、想像もできなかった。


 そもそも自分たちが作っているものが、何年残るのかさえ分からない。


 童術を使える人間は、今のところ二人しかいない。


 それでも。


 今日一つ分からなかったことを、明日二人で試す。


 今は、それで十分だった。



 ◇



 翌日の昼前。


 リオの考えを試す機会は、向こうからやってきた。


「止まれ!」


 先頭を歩いていた槍使いの冒険者が声を上げた。


 馬車が止まる。


 礼も剣へ手をかけた。


 街道脇の茂みが揺れている。


 一つ。


 二つ。


 さらに反対側。


「ゴブリンだ!」


 小柄な影が飛び出した。


 全部で六体。


 棍棒や錆びた短剣を持っている。


 依頼時に聞いていた通り、街道周辺へ出没している群れだろう。


「馬車から離れるな!」


 槍使いの男が叫ぶ。


 もう一人の護衛が商人たちの前へ立った。


 礼は剣を抜く。


 リオもすぐに弓を構えた。


 一体が礼へ走ってくる。


 遅い。


 昨日のレッドファングに比べれば、動きも読みやすい。


 礼は棍棒を避け、剣を振った。


 一撃。


 倒れる。


 横からもう一体。


 今度は槍使いが仕留めた。


「リオ!」


「分かってる!」


 返事と同時に矢が飛ぶ。


 普通の矢だ。


 馬車の後ろへ回り込もうとしていたゴブリンの胸へ刺さる。


 残り三体。


 そのうち一体が、他より少し離れた場所にいた。


 礼はリオを見る。


 リオもこちらを見た。


 言葉はいらなかった。


 一本の矢を抜く。


 弓へ番える。


 リオの表情が変わった。


 掌から。


 矢へ。


 童力を流す。


 昨日までのように、戻そうとはしない。


 矢の表面へ薄く流し続ける。


「…………」


 弦を引く。


 狙う。


 礼には童力そのものを見ることはできない。


 それでも、リオが矢へ何かをしていることは分かった。


 細い。


 礼よりずっと少ない童力。


 けれど流れは安定している。


 リオが息を止めた。


 そして。


 指を離した。


 矢が飛ぶ。


 同時に。


 矢を覆っていた童力が、急速に薄れていく。


 消える。


 やはり身体から離れた瞬間から維持できない。


 それでも。


「――届く!」


 礼が思わず叫んだ。


 童力が完全に消えるより先に。


 矢がゴブリンへ到達した。


 鈍い音。


 胸へ深く突き刺さる。


 普通の矢より、明らかに深い。


 ゴブリンの身体が後ろへ倒れ、そのまま動かなくなった。


「…………」


 リオが弓を構えたまま固まっていた。


「リオ!」


「……できた」


「後!」


「え?」


 残っていたゴブリンが横から迫っていた。


「うわっ!」


 リオが慌てて飛び退く。


 その前へ礼が入り、剣を振るった。


 最後の一体が倒れる。


「戦ってる途中で止まるなよ!」


「お前だって昨日やってただろ!」


「俺は止まってない!」


「似たようなもんだ!」


「違う!」


 言い合いながら周囲を見る。


 もう動いている敵はいない。


 槍使いの冒険者が、呆れたように二人を見ていた。


「お前ら……仲いいな」


「「よくないです」」


 声が重なった。


 一瞬の沈黙。


 先に吹き出したのはリオだった。


 礼も堪えきれず笑った。


 緊張していた商人たちまで、つられるように笑い始める。


 街道に、少しだけ穏やかな空気が戻った。



 ◇



 戦闘の後。


 馬車を再び出発させる前に、リオは自分が放った矢を回収した。


「見ろよ」


 矢を持って礼のところへ来る。


 先端は少し曲がっていた。


「深かった」


「うん。普通の時より明らかに」


「成功だよな?」


「たぶん」


「そこは成功って言えよ!」


「一回だけじゃ分からないだろ」


「出たよ研究馬鹿」


 礼は笑いながらノートを取り出した。


 街道脇にしゃがみ、今の出来事を忘れないうちに記録する。


『矢への童力付与――成功』


 書いてから、一度止まる。


「成功って書いてんじゃん」


 覗き込んできたリオが言った。


「うるさい」


 続ける。


『身体から離れた後、童力は急速に減衰』


『完全消失まで僅かな時間あり』


『消失前に対象へ到達した場合、威力向上を確認』


 そして。


 少しだけ迷ってから。


『発案――リオ』


「よし」


「だから何でお前が満足するんだよ」


「俺の技だから」


「まだ技って呼べるほどじゃない」


「じゃあ名前付けようぜ」


「早い」


「何がいい?」


「付けないよ」


「童矢とか」


「ダサい」


「お前にだけは言われたくない」


「どういう意味だよ」


「童力と童術って名付けた奴が何言ってんだ」


「…………」


 反論できなかった。


 リオが笑う。


 礼もノートを閉じながら笑った。


 まだ名前はいらない。


 成功したのも一度だけ。


 距離によってどれほど童力が失われるのか。


 矢へ流す量で変化するのか。


 威力はどこまで上がるのか。


 調べることはいくらでもある。


 でも。


 そのすべてを今日調べる必要はない。


「行こう」


 礼は立ち上がった。


「おう」


 二人は馬車へ戻った。



 ◇



 ローデンへ到着したのは、その日の夕方だった。


 礼が暮らしていた街より少し小さい。


 それでも大通りには多くの店が並び、荷馬車が行き交い、見たことのない看板もいくつかあった。


 門を通り抜けた瞬間から、知らない匂いがした。


 焼いた肉。


 香辛料。


 どこかでパンを焼いている。


 人々の話す言葉は同じなのに、街の雰囲気はまるで違った。


 護衛してきた商人から報酬を受け取る。


「助かったよ。また機会があったら頼む」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 礼は頭を下げた。


 依頼はこれで終わりだった。


 あとは宿を取って、明日になったら帰ればいい。


 そう思っていた。


「なあ、礼」


 隣にいたリオが大通りの先を見ている。


「何?」


「次、どこ行く?」


「……帰るんじゃないの?」


「せっかく来たんだぞ」


「護衛で来ただけだろ」


「だからだよ」


 リオは大通りを指差した。


「この街にもギルドあるだろ?」


「あるだろうけど」


「依頼見に行こうぜ」


「研究は?」


「旅しながらできるだろ」


 礼は答えなかった。


 通りを歩く人々を見る。


 知らない顔ばかりだった。


 知らない店。


 知らない道。


 知らない街。


 この世界へ来たばかりの頃なら、それだけで怖かった。


 文字も読めなかった。


 金もなかった。


 剣も使えなかった。


 何を食べればいいのか。


 どこへ行けばいいのか。


 何も知らなかった。


 そんな礼を、ガルドたちが拾ってくれた。


 それから。


 一人になった。


 一人で生きられるようになった。


 そして今。


「礼?」


 隣から声がする。


 一人ではない。


 礼は少しだけ笑った。


「……行ってみるか」


「よし!」


「でも今日は宿探すからな」


「分かってる」


「あと矢の実験もしない」


「それは分かんない」


「分かれよ」


 二人は歩き始めた。


 帰るためではない。


 次にどこへ行くのかも、まだ決まっていない。


 明日、この街で依頼を探す。


 面白そうな仕事があれば受ける。


 その先に別の街があるなら、そこへ行ってもいい。


 旅の途中で童術を試すこともできる。


 失敗したら、また考えればいい。


 礼は知らない街を、リオと並んで歩いた。


 一年前。


 誰かの後ろを歩くことをやめた。


 それからずっと、自分の足で歩いてきた。


 けれど今は。


 誰かの後ろでもなく。


 誰かを従えているわけでもなく。


 同じくらいの速さで歩く足音が、すぐ隣から聞こえている。


「なあ、礼」


「今度は何?」


「腹減った」


「さっきまで旅の話してたのに?」


「旅するにも飯は必要だろ」


「それはそうだけど」


「あそこ、いい匂いするぞ」


 リオが一軒の店を指差す。


 店先から、焼いた肉の匂いが漂っていた。


 礼の腹も小さく鳴った。


 それを聞いたリオが笑う。


「礼も減ってんじゃん」


「……行こう」


「素直でよろしい」


「うるさい」


 二人は店へ向かった。


 明日どこへ行くのかは、まだ知らない。


 その先で誰と出会うのかも。


 何を見つけるのかも。


 童術がどこまで広がっていくのかさえ、今の二人には分からない。


 ただ。


 今夜は飯を食べる。


 明日は依頼を探す。


 そしてまた、二人で歩く。


 それでよかった。


 知らない街の夕暮れの中を、二人分の足音が並んで進んでいった。

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