第二十六話 知らない童術
ここ最近、森へ向かう理由はいつも同じだった。
童力を調べるため。
最初は礼一人だったそこにリオが加わり、感知する方法を探し、身体の中で動かし、外へ放出し、昨日はとうとう武器へ童力を巡らせる方法まで見つけた。
分からなかったことが、少しずつ分かるようになっていく。
礼にとって、それは楽しかった。
だからこそ、その日の朝。
「今日は依頼受けないか?」
いつものように森へ向かうつもりで宿を出た礼は、待っていたリオの一言に足を止めた。
「依頼?」
「ああ」
リオは腰に短剣を差し、いつもの弓を背負っていた。
「最近ずっと童術のことばっかりだろ。そろそろ普通に仕事しないと金なくなるぞ」
「…………」
礼は自分の財布の中身を思い出した。
宿代。
食事代。
紙。
インク。
剣の手入れにも金がかかる。
研究に夢中になっていたからといって、生活費まで消えてくれるわけではない。
「……それは困る」
「だろ?」
「でも矢の実験は?」
「依頼終わってからでもできる」
昨日までなら、それで納得していたかもしれない。
しかし礼は、リオの背中にある弓を見た。
「……依頼中に試せるんじゃない?」
「お前、昨日は『明日やる』って止めてたくせに」
「安全に試せそうならね」
「結局やりたいんじゃん」
「うるさいな」
笑いながら、二人はギルドへ向かった。
◇
朝の冒険者ギルドは混み合っていた。
依頼へ向かう者。
昨夜の仕事を終えて報告に来た者。
仲間を待ちながら朝食を取っている者。
そんな人々の間を抜け、礼とリオは依頼掲示板の前へ立った。
「これは?」
「遠い」
「じゃあ、こっち」
「採取か……」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、二人で受けるなら討伐でもいいかなって」
「研究馬鹿が戦闘狂になってない?」
「なってないよ」
言い返しながら、礼は一枚の依頼書を取った。
街から半日ほど離れた森で、レッドファングが確認されたらしい。
狼に似た四足の魔物で、単体ならそれほど危険な相手ではない。ただし群れを作る習性があり、数が増えると脅威度が一気に上がる。
依頼書に記載されている確認数は四から五体。
今の礼なら、単独でも十分対応できる数だった。
「これにする?」
リオが依頼書を覗き込む。
「ちょうどいいんじゃないか。俺もいるし」
「だからって油断はしないでよ」
「分かってるって」
受付で手続きを済ませ、二人は街を出た。
門を抜けたところで、礼は無意識に腰の剣へ触れた。
ガルドたちと別れてから一年。
一人で依頼を受けることには、とっくに慣れた。
けれど今日は、隣に誰かがいる。
前を歩く背中についていくのではない。
どちらかが命令するわけでもない。
リオが隣を歩いている。
それだけのことなのに、一人で歩く時とは少し違って感じられた。
◇
目的の森へ着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。
簡単な食事を済ませてから、二人はレッドファングの痕跡を探し始めた。
最初に足跡を見つけたのはリオだった。
「礼」
しゃがみ込んだリオの隣へ行く。
湿った地面に、獣の足跡が残っている。
「レッドファング?」
「たぶん」
リオは周囲の地面にも目を向けた。
一つではない。
少し離れた場所にもある。
さらにその先にも。
礼もしゃがみ、痕跡を追った。
「……多くない?」
「俺もそう思った」
依頼書には四から五体と書かれていた。
だが、残されている足跡は明らかにそれ以上だった。
重なっているため正確な数までは分からない。それでも十体近く、あるいはそれ以上いる可能性がある。
さらに礼は、成体より一回り小さな足跡を見つけた。
「増えてるのかも」
「子供?」
「たぶん。依頼が出てから繁殖したか、別の群れと合流したか」
リオが立ち上がった。
「どうする?」
礼は少し考えた。
今の二人なら戦えるかもしれない。
童術もある。
昨日は武器へ童力を巡らせる方法まで見つけた。
けれど、依頼された状況とは違う。
倒せるかもしれないという理由だけで、わざわざ危険を増やす必要はなかった。
「戻ろう」
「いいのか?」
「依頼内容と違う。ギルドに報告して、必要なら人数を増やした方がいい」
「倒せそうでも?」
「倒せるかどうかと、戦うべきかは別だよ」
口にしてから、礼は少しだけ懐かしい気持ちになった。
昔なら、自分では決められなかった。
危険なのか。
進むのか。
退くのか。
いつも前にガルドがいて、その判断に従っていた。
今は自分で決める。
リオも反対しなかった。
「了解。帰るか」
二人が来た道へ戻ろうとした、その時だった。
森の奥から、何かが聞こえた。
鳥の声ではない。
魔物の咆哮でもない。
「――助けてくれ!」
人の声だった。
礼とリオが同時に振り返る。
もう一度。
今度ははっきり聞こえた。
「誰か――!」
礼はリオを見た。
リオも礼を見ていた。
話し合う必要はなかった。
「行くぞ」
「ああ!」
二人は声のした方向へ走り出した。
◇
木々を抜けた先に、小さく開けた場所があった。
そこに三人の冒険者がいた。
若い。
礼たちと同じくらいか、それより少し上だろう。
一人は地面に倒れている。
もう一人は片脚から血を流しながら剣を構え、残った一人が倒れた仲間を引きずろうとしていた。
その周囲を取り囲んでいるのは、赤褐色の毛を持つ獣。
レッドファング。
礼が一目で確認できただけでも八体。
さらに奥から二体が近づいている。
「リオ!」
「分かってる!」
返事と同時に、リオが弓を構えた。
矢が放たれる。
一体のレッドファングが飛びかかろうとした瞬間、その肩へ矢が突き刺さった。
獣の注意が逸れる。
その間に礼は地面を蹴った。
剣を抜きながら距離を詰め、負傷した冒険者へ飛びかかろうとしていた一体へ斬りつける。
刃が首筋へ入った。
倒れる。
「走れる!?」
礼が叫ぶ。
「一人、脚をやられてる!」
「後ろへ! 動ける人が倒れてる人を運んで!」
「でも――」
「早く!」
迷っている時間はない。
礼の声に押されるように、二人が仲間を抱えて後退する。
当然、レッドファングたちもそれを見逃さなかった。
二体が追おうとする。
そこへ矢が飛んだ。
一体の前脚に突き刺さる。
「そっちは行かせない!」
リオが次の矢を番える。
礼も剣を構え直した。
残り九体。
いや。
茂みの奥で、まだ何かが動いている。
「……聞いてた数と全然違うな」
「帰ったら受付に文句言う?」
「生きて帰ったらな!」
「縁起悪いこと言うなよ!」
一体が正面から飛びかかってくる。
礼は半歩横へずれ、牙を避けながら剣を振った。
浅い。
それでも着地したところへもう一撃を入れ、仕留める。
右からもう一体。
振り返る。
間に合わない。
礼は咄嗟に左腕で頭を庇った。
その直前、横から飛んできた矢が獣の腹へ刺さった。
軌道が逸れる。
「助かった!」
「前見ろ!」
言われるまでもなかった。
次が来ている。
数が多い。
普通に戦っていては押し切られる。
礼は呼吸を整えた。
胸の奥にある童力を捉える。
そこから全身へ。
腕。
脚。
胴。
身体の中へ一本の流れを作る。
途端に、周囲の動きが僅かに遅く感じられた。
正確には、礼自身の反応が速くなっている。
一体目の突進を避ける。
剣を振る。
その勢いのまま身体を回し、横から来た二体目を蹴り飛ばす。
以前なら、それだけで童力の流れが乱れていた。
今は違う。
戦いながらでも維持できる。
一年かけて身体に覚えさせた流れだった。
「礼、右!」
リオの声。
振り返った先から、一際大きな個体が現れた。
他のレッドファングより明らかに大きい。
肩までの高さだけでも礼の腰を越えている。
毛は暗い赤色をしており、口元から覗く牙も長い。
「こいつが群れの頭か……!」
大型個体が地面を蹴った。
速い。
礼は正面から剣を合わせた。
金属が何か硬いものを叩く音が響く。
「っ……!」
牙に刃を弾かれた。
腕が痺れる。
大型個体は着地すると、すぐに向きを変えた。
もう一度来る。
礼は剣を握り直した。
普通に斬るだけでは浅い。
なら。
昨日の方法を使う。
身体を巡っている童力の一部を右腕へ。
掌へ。
そこから剣へ。
「……っ」
途切れた。
大型個体が迫る。
礼は横へ飛び、地面を転がった。
立ち止まっている時ならできた。
だが、走りながら。
敵の動きを見ながら。
全身の循環を維持したまま、さらに剣まで流れへ組み込む。
思っていた以上に難しい。
「礼!」
リオが矢を放つ。
大型個体の肩へ刺さった。
だが浅い。
獣は一瞬怯んだだけで、今度はリオへ顔を向けた。
「リオ、離れろ!」
礼が走る。
大型個体もリオへ向かって駆け出した。
その途中に、リオはもう一本の矢を番えた。
「……やってみる」
「何を!?」
「昨日の続き!」
礼は意味を理解した。
「矢はまだ試してない!」
「だから今試す!」
「今!?」
「他にいつやるんだよ!」
言い返しながら、リオは矢を握る指へ意識を集中させた。
童力。
掌から矢へ。
昨日、短剣へ巡らせた時と同じように、細い流れを作る。
だが矢は短剣とは違う。
放した瞬間、自分の身体から離れる。
循環はできない。
「くそ……!」
リオが弦を引き絞る。
大型個体が迫る。
考えている時間はない。
矢を放った。
風を切る音。
矢は大型個体の胸へ命中した。
刺さる。
だが。
「浅い!」
リオが顔を歪めた。
礼にも分かった。
矢が手を離れた瞬間、纏わせていた童力の大半が消えた。
失敗。
大型個体は止まらない。
「リオ、逃げろ!」
「分かってる!」
リオが横へ走る。
大型個体が追う。
礼も脚へ童力を集めた。
地面を蹴る。
一気に距離を詰める。
だが、まだ遠い。
その時。
別の方向から悲鳴が上がった。
「うわっ!」
助けた冒険者たちの方だった。
別のレッドファングが回り込んでいる。
負傷者を運んでいるため、逃げ切れない。
礼は一瞬、足を止めた。
リオ。
冒険者たち。
どちらも危ない。
どちらへ行く。
「くそっ……!」
大型個体がリオへ飛びかかる。
同時に、別の一体が負傷した冒険者へ牙を剥いた。
間に合わない。
どちらにも。
礼は剣を握ったまま、反射的に左手を伸ばした。
「――やめろ!!」
その瞬間。
胸の奥で。
何かが、開いた。
「――――っ?」
礼の身体が強張った。
童力。
そう思った。
確かに童力だった。
だが。
違う。
いつも自分が動かしているものとは、何かが違った。
冷たい。
身体の内側にあるはずなのに、触れたことのない場所から溢れてくるような感覚。
自分のものなのに。
自分のものではない。
それが、礼の意思とは関係なく身体の外へ流れ出した。
地面の色が変わった。
礼は息を呑んだ。
足元から滲み出した黒い影が、濡れた土の上を這うように広がっていく。
魔力ではない。
魔術でもない。
それだけは、礼自身が一番よく分かっていた。
影は二つに分かれた。
一つはリオへ迫る大型個体へ。
もう一つは、冒険者へ飛びかかろうとしているレッドファングへ。
速い。
地面を這う黒い何かが獣たちの足元へ到達した。
そして。
影が、持ち上がった。
「……は?」
リオの口から、呆けた声が漏れた。
腕。
そう見えた。
黒い影から伸びたものが、獣の脚へ絡みついている。
一つではない。
二つ。
三つ。
形の定まらない細長い影が、まるで地面の下から誰かが手を伸ばしているように、レッドファングの身体へ絡みつく。
大型個体の動きが止まった。
空中へ跳び上がる直前だった身体が不自然に引かれ、地面へ叩きつけられる。
もう一体も同じだった。
何が起きているのか理解できないまま、地面を掻いて暴れている。
礼も。
理解できなかった。
「……何だよ、これ」
伸ばした左手が震えている。
自分がやった。
それは分かる。
自分から出た童力だった。
それなのに。
こんな使い方は知らない。
試したこともない。
考えたことすらない。
黒い影の向こうで、何かが揺れた。
人。
ほんの一瞬。
誰かが立っているように見えた。
顔はない。
輪郭すら曖昧だった。
一人なのか。
何人なのかも分からない。
次の瞬間には、それも消えた。
「礼!」
リオの声で我に返る。
黒い腕が薄れている。
大型個体が再び身体を起こそうとしていた。
「今だ!」
「あ、ああ!」
考えるのは後だ。
礼は地面を蹴った。
童力を脚へ。
加速する。
大型個体まで一気に距離を詰める。
剣を握る。
身体の循環。
そこから腕へ。
掌へ。
剣へ。
一度、流れが乱れた。
だが。
昨日、何度も失敗した。
今朝までなら、そこで一度止まっていたかもしれない。
今は止まれない。
剣先を終点にしない。
流す。
戻す。
身体と剣を一つの流れにする。
繋がった。
「――っ!」
礼は剣を振り抜いた。
刃が大型個体の首へ入る。
先ほどとは違う。
硬い毛皮を抜け。
肉へ。
深く。
獣の身体が大きく揺れ、そのまま地面へ倒れた。
動かない。
群れの頭を失ったからなのか。
あるいは先ほどの異様な現象に怯えたのか。
残っていたレッドファングたちは次々と森の奥へ逃げていった。
追わなかった。
礼は剣を構えたまま、しばらく動けなかった。
呼吸が荒い。
腕も震えている。
けれど、それは戦闘の疲労だけではなかった。
「礼」
リオが近づいてくる。
「大丈夫か?」
「……うん」
「今の、何だ?」
聞かれると思った。
だから礼は答えようとした。
けれど。
何も言えなかった。
童力。
それは間違いない。
魔術ではない。
自分から出た。
そこまでは分かる。
それ以上が、何一つ分からない。
「……分からない」
「分からないって、お前がやったんだろ?」
「俺が聞きたいよ」
礼は左手を見る。
何もない。
もう一度、同じことをしようと意識してみる。
童力を動かす。
掌へ。
外へ。
昨日覚えた放出ならできる。
だが。
あの冷たい感覚は、どこにもなかった。
黒い影も。
腕も。
あの、人のような何かも。
「できない」
「何が?」
「さっきのやつ。もう一回やろうとしてるけど……出ない」
リオの顔から、いつもの軽い表情が消えた。
「お前にも分からない童術ってことか?」
その言葉に、礼はすぐ答えられなかった。
童術。
自分が作った言葉だ。
童力を感じ、動かし、使うための技術。
ならば。
今のものを童術と呼んでいいのだろうか。
自分は、何もしていない。
少なくとも。
あんなものを出そうとはしていなかった。
「……分からない」
結局。
同じ言葉しか出てこなかった。
◇
助けた三人の冒険者は、幸い全員生きていた。
意識を失っていた一人も呼吸は安定しており、脚を負傷した男も歩けないほどではあるものの、命に関わる傷ではなさそうだった。
礼とリオは彼らを連れて街へ戻ることにした。
大型個体の討伐証明になる部位だけを回収し、残りの群れについてはギルドへ報告する。
帰り道。
助けた冒険者の一人が、何度も礼を見ていた。
しばらく迷った末、ようやく口を開く。
「さっきの……魔術か?」
「違います」
礼は答えた。
「じゃあ、何なんだ?」
少し前にも。
同じことを聞かれた。
あの時は答えられた。
童術。
自分が見つけた力。
自分が作った技術。
けれど。
今回は。
「……俺にも、分かりません」
それ以上、説明することはできなかった。
隣を歩いているリオも、何も言わなかった。
◇
その夜。
宿へ戻った礼は、いつもより長い時間ノートの前に座っていた。
剣に童力を巡らせた。
実戦中でも、完全ではないものの成功した。
それは記録できる。
リオが矢へ童力を纏わせようとした。
放った直後にほとんど消失した。
これも記録できる。
問題は。
その後だった。
礼は新しいページを開いた。
しばらく何も書けなかった。
やがて。
『実戦中、未知の現象を確認』
そこから先へ進む。
『童力によるものと思われる』
『魔力反応――なし』
『意図的な操作――していない』
『黒い影のようなものが発生』
『対象の拘束を確認』
ペンが止まった。
あれをどう書けばいい。
腕。
そう見えた。
だが、本当に腕だったのか。
分からない。
礼は迷った末に続けた。
『人間の腕に似た形状を確認』
『複数?』
疑問符を付ける。
そして。
あの一瞬だけ見えたもの。
『影の中に、人のようなものが見えた気がする』
書いてから。
礼はその一文を消そうとした。
気のせいかもしれない。
戦闘中だった。
疲れていた。
見間違いだった可能性もある。
それでも。
消さなかった。
分からないものを、分かったことにしない。
見たものを、見なかったことにもしない。
それがこの一年、礼が自分に決めてきたことだった。
さらに記録を続ける。
『発動条件――不明』
『再現――できず』
『通常の放出とは感覚が異なる』
最後の一文を書いたところで、礼の手が止まった。
あの感覚。
冷たかった。
怖かった。
けれど。
それだけではない。
胸の奥。
自分でも知らなかった場所が突然開き、そこから何かが溢れたような感覚。
礼は自分の胸へ手を当てた。
童力はある。
いつもの感覚だ。
そこへ意識を沈めてみる。
何もない。
それでも。
今日のあの瞬間だけ。
確かに。
自分の中に。
自分ではない何かがいた。
礼はノートへ向き直った。
迷いながら。
最後に一行だけ書き加えた。
『あれは、本当に俺の童力だったのか?』
答えは書けなかった。
礼はしばらくその一文を見つめてから、静かにノートを閉じた。
窓の外では、夜の街が眠り始めている。
遠くから聞こえていた人の声も少なくなり、やがて宿の中も静かになった。
礼は寝台へ入り、目を閉じた。
明日になれば、また調べることになるのだろう。
けれどその夜だけは、いつものように新しい疑問が増えたことを楽しむ気にはなれなかった。
暗闇の中で、昼間に見た黒い影を思い出す。
地面から伸びた、いくつもの腕。
その奥に、一瞬だけ見えた人のような輪郭。
あれが何だったのか。
礼はまだ知らない。
ただ一つだけ確かなのは。
自分が知っている《童術》の中に、あんなものは存在しなかった。




