第二十三話 二人で見つける
世界で二人目の童術使用者が誕生した、その翌朝。
礼がいつもの森へ着くと、先に来ていたリオは右腕を押さえながら、何とも言えない顔で木の根元に座っていた。
昨日までなら、礼の姿を見つけるなり立ち上がっていたはずだ。それが今日は妙に大人しい。嫌な予感を覚えながら近づくと、リオは気まずそうに視線を逸らした。
「……どうした?」
「ちょっと、右腕が痛い」
礼は足を止めた。
「昨日は何ともなかっただろ」
「昨日はな」
「何した?」
「…………」
「リオ」
「宿に帰ってから、少し練習した」
予想通りの答えに、礼は深く息を吐いた。
昨日、リオは初めて童力を右腕まで動かすことに成功した。礼が何度も失敗し、身体を痛めながら身につけたことを、リオはわずか数日で成し遂げたのだ。嬉しくなかったはずがない。
だからこそ、宿へ帰ってからもう一度試したくなる気持ちも分かる。
分かるのだが、それとこれとは別だった。
「どれくらい流した?」
「昨日より、ほんのちょっと多く」
「その『ほんのちょっと』で痛くなってるんだろ」
「でも、昨日は平気だったぞ」
「だから昨日と同じところでやめとけばよかったんだよ」
礼は荷物を地面へ置くと、リオの前にしゃがみ込んだ。
「腕、見せて」
差し出された右腕に目立った腫れはない。指も動くし、肘も曲がる。ただ、手を強く握らせると前腕に鈍い痛みが走るらしく、リオの眉がわずかに寄った。
その様子を見ているうちに、礼は一年前の自分を思い出した。
童力を腕へ集めれば、確かに力は強くなる。
だから、もっと集めればもっと強くなると思った。
結果は単純だった。
強くなった力に、自分の身体が耐えられなかった。
「今日は右腕に童力を流すの禁止」
「ええ?」
「当たり前だろ。壊したら練習どころじゃなくなる」
「せっかく昨日できるようになったのに」
「できるようになったからって、何してもいいわけじゃない」
なおも不満そうなリオを無視して、礼は鞄からノートを取り出した。
『童力の過剰集中により、身体へ負担が発生』
そこまで書いてから、昨日のリオの様子を思い返す。
『本人が少量と認識していても、身体にとって適量とは限らない』
「……何書いてる?」
「お前が馬鹿やった記録」
「ひどくない?」
「次に同じことする奴が出た時、止められるだろ」
冗談のつもりで答えたのだが、リオが何も返さなかった。
不思議に思って顔を上げると、リオは礼ではなく、その手にあるノートを見ていた。
「次って、俺以外にも教えるつもりなのか?」
「まだ分からない」
「でも、いるかもしれないって思ってる?」
礼はすぐには答えなかった。
昨日までなら、その問いに対して考える必要すらなかっただろう。
一年間、自分だけのものだった。
童力も。
童術も。
誰かに教えられるものなのかすら分からなかった。
けれど今、目の前には童力を感じ、実際に動かした人間がいる。
自分だけではなかった。
ならば、二人だけだと決めつける理由もない。
「……いるかもしれない」
礼はノートへ視線を戻した。
「でも、その前に俺たちがちゃんと分からないと駄目だと思う」
「俺たち?」
「何だよ」
「いや」
リオは少しだけ口元を緩めた。
「何でもない」
その顔が妙に嬉しそうなのが気になったが、礼は追及しなかった。
◇
右腕を休ませる必要があるのなら、別の場所で試せばいい。
そう考えた二人は、今日は左腕へ童力を移動させることにした。
まず感知から始める。
昨日までは、ここだけでかなりの時間を使っていた。ところがリオは目を閉じてから十数秒ほどで、小さく「あった」と呟いた。
「もう?」
「昨日より分かりやすい」
「一回やめて、もう一度」
「疑ってる?」
「確認してるだけ」
リオは呆れながらも、一度意識を外へ戻した。少し時間を置いてから再び集中すると、今度もそれほど待たずに童力を捉える。
偶然ではなさそうだった。
礼はすぐにノートを開いた。
『三日目。感知に必要な時間が大幅に短縮』
その下に、『反復による習熟?』と付け足す。
「なあ」
「何?」
「お前、今でもいちいち目を閉じないと分からないの?」
「いや。意識すればすぐ分かる」
「じゃあ俺も、そのうちそうなるかもしれないな」
「たぶん」
「だったら最初からそう言えよ」
「二人しかいないのに断言できるかよ」
そう答えながら、礼は少しおかしくなった。
一年前の自分は、何か一つできるようになるたびに、それが童力そのものの性質なのか、自分だけの特徴なのかすら判断できなかった。
比較する相手がいなかったからだ。
今は違う。
自分に起きたことが、リオにも起きるのかを確かめられる。
リオにだけ起きることがあれば、それもまた一つの手掛かりになる。
一人増えただけ。
たったそれだけで、昨日まで見えなかったものが見え始めていた。
「じゃあ、左腕に動かしてみよう」
「ああ」
ところが、感知とは違い、こちらは簡単にはいかなかった。
リオは何度も試したが、童力は左腕へ移ってくれない。昨日、右腕へ動かした時の感覚を思い出そうとしているらしいが、眉間の皺は深くなる一方だった。
「……駄目だ」
「右は?」
「右ならできそう」
「今日は駄目」
「分かってるよ」
リオは目を開け、自分の左手を恨めしそうに眺めた。
「何で右だけできるんだ?」
「俺も最初は左右で差があった」
「利き手だからとか?」
「俺もそう思った。でも脚でも左右差があったから、たぶんそれだけじゃない」
言いながら、礼は自分の左腕へ童力を巡らせてみる。
今なら考える必要もない。
意識を向ければ、胸の奥から伸びた流れが肩を通り、肘を抜け、指先まで届く。
だが、最初からこうだったわけではない。
何度も失敗した。
流れが途切れた。
多く送りすぎて痛めた。
そうして繰り返すうちに、少しずつ扱いやすくなった。
「……道、なのかな」
「道?」
「昨日言っただろ。童力を無理やり押すんじゃなくて、通る道を作る感じだって」
「ああ」
「一回通った場所は、次から通しやすくなるのかもしれない」
そこまで言ったところで、リオが自分の左肩に触れた。
「だったら、いきなり手まで通そうとする必要ないんじゃないか?」
「え?」
「昨日は右肩までやって、次に肘、それから手だっただろ?」
礼は黙った。
確かにそうだった。
昨日は慎重に教えようとしたから、自然と段階を分けた。
今日は一度成功した経験があるせいで、無意識に同じ結果を求めていた。
「……やってみるか」
「だろ?」
リオが得意げに笑う。
礼は少し悔しかったが、ノートにはきちんと『段階的に移動させた方が成功しやすい可能性』と書き加えた。
再びリオが目を閉じる。
今度は手を目指さない。
まずは肩。
ただそこまで童力を動かすことだけに意識を向ける。
森を渡る風が葉を揺らし、頭上で小鳥が短く鳴いた。
礼は何も言わず待った。
一分。
二分。
やがて、リオの眉間から力が抜ける。
「……来た」
「左肩?」
「ああ。たぶん」
礼は思わず身を乗り出した。
「どんな感じ?」
「右と同じ。ちょっと……熱いような」
「痛みは?」
「ない」
「じゃあ一回止めよう」
「え?」
「今日はそこまで」
「肘までやろうぜ」
「駄目」
「何でだよ。できそうなのに」
礼は黙ってリオの右腕を指差した。
それだけで十分だったらしい。
「……はい」
「よろしい」
「何か腹立つな」
礼は笑いながら、成功した条件をノートへ書き込んだ。
自分が痛い思いをして覚えたことなら、リオまで同じ痛みを経験する必要はない。
昨日まで漠然と考えていたことが、少しずつ形になってきた。
もしかすると。
教えるというのは、こういうことなのかもしれない。
◇
それから数日間、二人は毎日のように森へ通った。
右腕の痛みが完全に引くまでは無理な強化を避け、左肩、左肘、左手、右脚、左脚と、場所を変えながら少量の童力を動かしていく。
礼は、その結果を可能な限り記録した。
成功した時と失敗した時。
疲れている時と休んだ後。
食事の前後。
睡眠時間。
天候まで書き始めた頃には、さすがにリオも呆れていた。
「天気まで必要か?」
「分からないから書いてる」
「昨日の昼飯まで書いてるじゃん」
「食事で童力の回復量が変わるかもしれない」
「俺、パン二個食ったんだけど」
「書いてある」
「……なあ、俺ってもしかして実験動物?」
礼はペンを動かしたまま答えた。
「嫌ならやめる?」
「それは嫌だ」
「じゃあ実験動物」
「お前、最近俺の扱い雑になってない?」
「気のせい」
「絶対嘘だろ」
くだらない言い合いをしながら、それでも研究は少しずつ進んでいった。
礼一人だった頃よりも、明らかに速かった。
何より大きかったのは、リオが礼と同じ結果を出すとは限らないことだった。
童力を感じるまでに必要な時間も違う。
動かしやすい場所も違う。
礼には分かりやすかった説明が、リオにはまったく伝わらないこともある。
逆に、礼が何日も悩んだことを、リオが何気ない一言で別の方向から考え直させることもあった。
そうして比較を続けているうちに、礼は一つ気になることを見つけた。
「リオ。お前、俺より童力が少ないかもしれない」
「……いきなり嫌なこと言うなよ」
休憩中だったリオが露骨に顔をしかめた。
「まだ決まったわけじゃない」
「でも少ないんだろ?」
「今のところは」
「やっぱり少ないんじゃねえか」
落ち込むリオの横で、礼は地面に二本の線を引いた。
「俺が童力を見つけた時は、脚へ集めたら自分でも止められないくらい加速した」
「壁に突っ込んだやつ?」
「突っ込んでない」
「突っ込みかけたやつ」
「……それはそう」
礼は片方の線を長く伸ばした。
「でも、お前は今のところ、同じように一ヶ所へ集めてもそこまで大きな変化はない」
「俺、童術の才能ない?」
その問いに、礼はすぐ答えなかった。
才能。
自分自身、何度もその言葉を考えたことがある。
魔力の才能がない。
剣だって特別ではない。
もし一年前の自分が、誰かに同じことを言われていたらどう感じただろう。
「分からない」
「またそれかよ」
「だって、童力が多い奴が才能あるって誰が決めた?」
「……え?」
「俺たちしかいないんだぞ」
礼は自分で引いた二本の線を見る。
「もしかしたら量が多い方が強いかもしれない。でも、少ない童力で同じことができる奴の方が上手いって考え方もできるだろ」
「効率ってこと?」
「そう。それに、童力量そのものが増える可能性だってある。俺は見つけてから一年経ってるけど、お前はまだ数日だ」
リオはしばらく黙っていた。
やがて、地面の枝を拾い上げる。
「だったら俺、少ない方がいいかも」
「何で?」
「少ない力でお前と同じことできたら、俺の方が上手いってことだろ?」
「何で俺を基準にするんだよ」
「一人目だから」
「勝手に目標にするなよ」
「もうした」
リオは笑った。
礼も呆れながら笑い返した。
その時、礼はふと思った。
もしリオがいなければ。
自分はきっと、童力は多ければ多いほどいいと考えていた。
実際、自分一人しかいないのなら、それ以外の基準など思いつきにくい。
だが今は違う。
同じ力を持つ、違う人間がいる。
違うからこそ、分かることがある。
「……面白いな」
「何が?」
「いや」
礼はノートを開いた。
『童力量と童術の適性は同一とは限らない』
まだ仮説だ。
だから、その横にはいつものように小さく疑問符を付けた。
◇
さらに数日後。
リオは両腕と両脚へ、少量ずつなら安定して童力を動かせるようになっていた。
全身を一つの流れとして巡らせることは、まだできない。
それでも、感知するだけだった最初の日と比べれば大きな進歩だった。
その日は、童力が実際に身体能力へ影響しているのかを確認するため、一本の木を使っていた。
「絶対に殴るなよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「信用なさすぎだろ」
「勝手に右腕痛めた奴だからな」
「もう治ったよ」
「治ったから言ってる」
リオは不満を口にしながら、木の幹へ両手を当てた。
まずは童力を使わずに押す。
当然ながら、大人が両腕を回しても余るほどの木が動くはずもない。目的は木を倒すことではなく、本人が力の入り方の違いを感じられるかどうかだ。
「次、右腕に童力。いつもの量だけ」
「分かった」
リオの表情が変わる。
目を閉じる必要はなくなっていた。
呼吸を整え、意識を内側へ向ける。
やがて右肩がわずかに動いた。
「来た」
「痛くない?」
「大丈夫」
「じゃあ押して」
リオが幹を押す。
木は動かない。
だが、本人にはすぐ分かったらしい。
「あ」
「どう?」
「違う」
「どのくらい?」
「それは分からない。でも、さっきより明らかに力が入る」
「もう一回やろう」
童力を抜く。
押す。
流す。
押す。
何度か繰り返すうちに、リオの顔に笑みが浮かび始めた。
「やっぱり違う」
自分の右手を見つめる。
「ちゃんと強くなってる」
「……うん」
礼も、気づけば笑っていた。
童力を感じた。
動かした。
そこまでは、本人の感覚でしか確認できなかった。
だが今。
ほんの僅かとはいえ、童力によって身体能力が変化した。
礼が一年間使い続けてきたものと、同じ現象がリオにも起きている。
これで少なくとも、「自分と同じような何かを感じている」という段階から、一つ先へ進んだ。
リオの中にあるものを童力と呼んでもいい。
礼は、ようやくそう思えた。
「なあ、礼」
「ん?」
「これってもう、俺も童術使ってるってことでいいんだよな?」
「……いいと思う」
「じゃあさ」
リオは木から手を離すと、嬉しそうに振り返った。
「俺も童術師ってこと?」
「童術師?」
「魔術を使う奴は魔術師だろ。剣を使う奴は剣士。だったら童術を使う奴は童術師じゃないのか?」
言われてみれば、その通りだった。
礼はこれまで、自分自身に肩書きを付けようと考えたことがない。
童力を使う。
童術を研究する。
それだけだった。
「……童術師」
口にしてみる。
妙な感じがした。
「いいじゃん」
「そうか?」
「格好いいだろ」
「最初に『童』ってついてるけど」
「それを言い出したら童術って名前つけた奴に文句言えよ」
「俺なんだよな……」
二人で顔を見合わせた。
先にリオが吹き出し、礼も耐えられなくなった。
森の中に笑い声が響く。
ひとしきり笑ったあと、リオはまだ嬉しそうに自分の右手を握った。
「じゃあ俺、二人目だな」
「何の?」
「童術師。お前が一人目で、俺が二人目」
「世界のどこかに他にもいるかもしれないだろ」
「でも、お前は知らないんだろ?」
「まあ」
「俺も知らない。だったら今のところ二人目だ」
ずいぶん都合のいい理屈だった。
それでも礼は、否定しなかった。
一年前。
名もない力を見つけた時には、自分以外の誰かが同じものを使う日が来るなど想像もしなかった。
それが今では、隣にいる男が当たり前のように童力を使い、童術について意見を言い、自分を二人目の童術師だと名乗っている。
不思議だった。
そして。
悪くないと思った。
◇
帰り道。
夕暮れの森を歩いていると、少し前を歩いていたリオが突然振り返った。
「そういえばさ」
「何?」
「俺、お前のこと何て呼べばいい?」
「礼でいいだろ」
「でも俺、お前から童術教わってるじゃん」
「同い年だろ」
「先生とか?」
「やめろ」
「じゃあ師匠」
「もっとやめろ」
「礼先生」
「一番嫌だ」
リオが楽しそうに笑う。
「でも先生だろ?」
「違う。俺だって分からないことだらけなんだから」
「俺より知ってる」
「一年早く始めただけ」
「なら先輩?」
「礼でいいって」
「童術先生」
「お前、もう教えるのやめるぞ」
「それは困る!」
慌てたリオの声に、礼は笑った。
自分が誰かの先生になるなど、考えたこともない。
それに今の礼には、リオを弟子だと思う感覚もなかった。
確かに童力の使い方を教えている。
けれど今日、左腕へ童力を通す方法を考えたのはリオだった。
童力の量だけで強さが決まるわけではないかもしれないと気づけたのも、二人を比べられたからだ。
教えているだけではない。
自分もまた、リオから新しいものをもらっている。
今は、それでよかった。
◇
その夜。
礼は宿の机でノートを開いた。
油灯の小さな炎が揺れるたび、紙の上を薄い影が行き来する。
数日前に作ったページには、『確認済み童力保有者』という見出しがあり、その下に二つの名前が並んでいた。
『如月礼』
『リオ』
礼はしばらくそれを眺めてから、見出しへ一本の線を引いた。
代わりに、その上へ新しい言葉を書く。
『童術師』
改めて眺める。
童術師。
如月礼。
リオ。
「……二人目、か」
静かな部屋に、礼の声だけが落ちた。
たった一人増えただけだった。
けれど、一人だった頃とは何もかもが違う。
自分一人なら、成功した方法を正しいと思うしかなかった。自分にできないことは、童術ではできないのだと思い込んでいたかもしれない。
今は違う。
リオがいる。
自分とは童力量も違えば、得意な動かし方も違う。
礼が思いつかなかったことをリオが思いつき、リオが失敗した理由を礼が考える。
その積み重ねが、少しずつ童術の輪郭を作り始めている。
礼はページを遡った。
一年前に書いた、古い記録。
『誰にある?』
その問いの横は、長い間空白のままだった。
礼はそこへペン先を置いた。
『少なくとも、俺だけではない』
インクが乾くのを待ちながら、礼は椅子の背へ身体を預けた。
明日も森へ行く。
きっとリオは先に来ている。
また何かを試して、失敗して、くだらないことで言い合うのだろう。
それから二人で考える。
今までずっと一人でやってきた研究を。
これからは、二人で。
礼は新しいページを開いた。
いつものように次の実験内容を書こうとして――手を止める。
少し考えたあと、何も書かないままノートを閉じた。
明日、リオが来てから決めればいい。
油灯を消すと、窓の外から遠く酒場の笑い声が聞こえてきた。
暗くなった部屋で横になり、礼は目を閉じる。
明日やることは、まだ決まっていない。
それなのに。
明日が来るのが、少し楽しみだった。




