第二十一話 二人目
噂というものは、本人の知らないところで勝手に育つらしい。
礼がそのことを知ったのは、グランドベアを倒した翌日の朝だった。
いつものように宿で朝食を済ませ、冒険者ギルドへ向かった礼は、壁一面に貼られた依頼書を眺めていた。朝のギルドは人が多い。今日の仕事を探す冒険者たちの話し声と、受付から飛ぶ呼び声、装備の金具が触れ合う音が混ざり、広い建物の中には独特の騒がしさが満ちていた。
礼は採取依頼を一枚めくり、その下に隠れていた討伐依頼へ目を通す。
報酬は悪くない。
場所も遠くない。
ただ、昨日はグランドベアと戦ったばかりだ。身体に痛みが残っているわけではないものの、無理に討伐依頼を続ける必要もない。
今日は採取くらいにしておくか。
そう考えていたところで、背後から声をかけられた。
「礼」
「はい?」
振り返る。
受付に座っていた顔馴染みの女性が、手招きしている。
「ちょっといい?」
「何ですか?」
依頼板から離れ、受付へ向かう。
女性は礼が近づくのを待ってから、妙に楽しそうな顔で尋ねた。
「童術って何?」
礼の足が止まった。
「…………」
「礼?」
「……何で知ってるんですか」
「昨日、グランドベアに襲われてた冒険者を助けたでしょ?」
嫌な予感がした。
「助けましたけど」
「その人たち、昨日の夜に酒場で喋ってたわよ」
「……何を」
「十八歳くらいの若い冒険者が、一人でグランドベアを倒したって」
「一人で倒したっていうのは、ちょっと違います。俺が着いた時には、あの人たちが先に戦ってましたから」
「身体強化の魔術みたいなものを使ってたって」
「魔術じゃないです」
「それも言ってた」
「…………」
礼は目を閉じた。
その先に何を言われるのか、もう分かった。
「それで、本人に何を使ったのか聞いたら、《童術》って答えたって」
「……全部喋ってるじゃん」
思わず漏れた言葉に、受付の女性が笑う。
「秘密だったの?」
「いや……秘密にしてくれとは言ってないですけど」
「じゃあいいじゃない」
「よくはないですよ。もうちょっとこう……あるでしょ」
「何が?」
「分かんないですけど……」
自分でも何を期待していたのか分からない。
考えてみれば、冒険者が珍しい出来事を酒場で話すなど普通のことだ。巨大な魔物に襲われ、そこへ現れた若い冒険者に助けられ、その若者が見たこともない術を使っていた。
話の種としては、十分すぎる。
「それで?」
女性が身を乗り出した。
「童術って、本当に魔術じゃないの?」
「違います」
「魔力は?」
「使ってません」
「じゃあ、何を使ってるの?」
「……童力」
「童力?」
「俺がそう呼んでるだけです」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
一年前まで、その言葉を知る者は自分しかいなかった。
ノートの中に書いただけの名前だった。
それを他人へ説明している。
「魔力とは違う力が、自分の中にあるんです。それを俺は童力って呼んでて。それを動かしたり、身体に巡らせたりする技術を、童術って呼んでます」
「へえ……」
女性は感心したように頷いたが、すぐに首を傾げた。
「それ、他の人も使えるの?」
「…………」
礼は答えられなかった。
「分かりません」
「分からないの?」
「試したことないんで」
「じゃあ礼だけ?」
「今のところは」
「珍しい力なのね」
「珍しいのかどうかも分からないです。俺が知らないだけで、他にも持ってる人がいるかもしれないし」
そこまで答えてから、礼は自分の言葉に少し引っかかった。
他にも持っている人がいるかもしれない。
もちろん、考えたことはある。
だから一年前のノートにも、『誰にある?』と書いた。
ただ、実際に誰かを調べたことはなかった。
調べ方が分からなかったし、そもそも自分の中にあるものを理解するだけで精一杯だったからだ。
「……礼?」
「あ、いや。何でもないです」
女性にそう答え、礼は依頼板へ戻ろうとした。
その時だった。
「如月礼って、お前?」
知らない声がした。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
礼と同じくらいの年齢だろう。
短く切った茶色の髪。革の胸当てに、使い込まれた小さな弓。腰には短剣が一本下がっている。
顔には見覚えがあった。
話したことはないが、ギルドで何度か見かけている。
「そうだけど」
「昨日、グランドベア倒した?」
「……またその話?」
青年の目が輝いた。
「じゃあ本当なんだな」
「一人で倒したわけじゃないって説明したところ」
「童術ってのを使ったっていうのも?」
「それは本当」
「教えてくれ」
「嫌だ」
「早くない!?」
即答された青年が目を見開いた。
礼は依頼板へ向き直る。
「まだ何も説明してないだろ!」
「教えてくれって説明は聞いた」
「じゃあ何で嫌なんだよ」
「教えられないから」
「今、嫌って言っただろ」
「どっちでもいいよ」
「よくない!」
朝のギルドで騒ぐ二人を、何人かの冒険者が振り返った。
礼は視線が集まっていることに気づき、小さく息を吐いた。
「……とりあえず、名前」
「リオ」
「歳は?」
「十八」
「同い年か」
「だから敬語はいらない」
「使ってないだろ」
「あ、本当だ」
何なんだこいつ。
礼は早くも少し疲れていた。
◇
リオは、結局昼まで礼についてきた。
採取依頼を受けるのは諦めた。
森までついてこられても困るし、何より、どうやら話を聞くまで離れるつもりがないらしい。
二人はギルド近くの食堂へ入り、向かい合って昼食を取っていた。
「……で、何で覚えたいの」
礼はパンをちぎりながら尋ねた。
「強くなりたい」
「それは聞いた」
「まだ言ってないぞ」
「言いそうだったから」
「何だそれ」
リオが不満そうにスープを飲む。
「冒険者なら強くなりたいだろ」
「まあ、そうだけど」
「俺、魔力が少ないんだ」
礼の手が止まった。
「どのくらい?」
「火をつけるくらいならできる。でも戦闘じゃ使い物にならない」
「見せて」
「ここで?」
「小さい火なら大丈夫だろ」
リオは周囲を確認してから、掌を上に向けた。短い詠唱の後、指先に小さな火が灯る。
確かに弱い。
だが、礼よりはずっと多い。
「……俺よりあるな」
「え?」
「俺、ほとんど魔力ないから」
「それでグランドベア倒したのか?」
「だから童術を使ったんだって」
リオの表情が変わった。
「なら、やっぱり教えてくれ」
「だから、俺もよく分かってないんだよ」
「一年研究してるんだろ?」
「何でそこまで知ってるんだ」
「さっき受付の人と話してたじゃん」
「聞いてたのかよ」
「近くにいた」
礼は額を押さえた。
どうやら昨日から、自分の知らないところで童術の情報が随分と広がっているらしい。
「使えるのに、教えられないのか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「俺、自分で見つけたから」
リオが黙った。
「誰かに教わったわけじゃない。最初は使い方も分からなかったし、一年かけて自分で試して、少しずつできることを増やしただけなんだ」
「じゃあ、それをそのまま教えてくれればいい」
「それができるなら苦労しないんだけどな」
礼はパンを口へ運びながら考える。
どうやって童力を見つけた。
魔力を探した。
その奥へ意識を沈めた。
そこで、何かを感じた。
言葉にすれば簡単だ。
しかし、その「奥」がどこなのかと聞かれれば説明できない。
今では意識すれば自然に触れられるから、余計に最初の感覚を説明するのが難しくなっている。
礼は向かいに座るリオを見た。
「……一回だけ試すか」
「本当か!?」
「声でかい」
「悪い」
「できる保証ないぞ」
「いい」
「俺も教え方分かんない」
「いい」
「途中でやっぱ無理って言うかもしれない」
「いい」
「……何でもいいんだな」
「覚えられるなら」
リオは迷わなかった。
礼はその顔をしばらく見ていたが、それ以上は聞かなかった。
強くなりたい理由。
何かあるのかもしれない。
でも、話したくないことなら無理に聞く必要はない。
それも。
昔、教えてもらったことだった。
◇
午後。
二人は街から少し離れた森へ来ていた。
礼にとっては懐かしい場所だった。
一年前。
何度もここへ通った。
童力を脚へ流して転び、左右の量を間違えて木へ突っ込みそうになり、全身へ巡らせようとして何度も失敗した。
あの頃につけた靴跡など、当然もう残っていない。
季節が巡り、草が伸び、落ち葉が積もった森は、一年前と似ているようで少し違って見えた。
「ここで練習してたのか?」
「最初の頃は」
「一人で?」
「一人で」
「よくやったな」
「他に教えてくれる奴いなかったからな」
そう答えてから、礼は少しだけ考えた。
童力について教えてくれる人はいなかった。
それは本当だ。
けれど、何もかも一人で覚えたわけではない。
自分の中の魔力を探す方法は、セイルに教えてもらった。
剣の振り方も、身体の動かし方も、ガルドから教わった。
森を見る方法はミレナに。
危険から身を守る方法は、四人全員から。
だから。
「……まあ、全部一人ってわけでもないけど」
「ん?」
「何でもない」
礼は荷物を木の根元へ置いた。
「座って」
リオが素直に地面へ座る。
「目、閉じて」
「分かった」
「自分の中に魔力あるだろ」
「ああ」
「それを探して」
しばらくして、リオが頷く。
「ある」
「じゃあ、その奥」
「奥?」
「もっと奥」
「どこ?」
「…………」
礼は黙った。
「礼?」
「もっと……こう……内側」
「だから、どこだよ」
「俺にも分かんないんだよ」
リオが目を開けた。
「教える気ある?」
「あるよ!」
「今の説明で!?」
「だから最初に言っただろ! 俺も教え方分かんないって!」
自分でできることと。
他人に教えられることは違う。
礼は開始から十分もしないうちに、その事実を思い知らされた。
◇
それから二時間。
結局、何も起きなかった。
姿勢を変えた。
呼吸を整えた。
魔力を一度強く意識させ、そこから別のものを探させた。
礼自身が童力を感じながら、その感覚をできるだけ言葉にしてみた。
それでもリオは、魔力以外の何かを見つけることができなかった。
「……駄目だ」
木にもたれたリオが、疲れたように息を吐いた。
「何もない」
「ないのか、見つけられないのかも分からないな」
「お前はどうやって見つけたんだよ」
「俺?」
礼は答えようとして。
少し迷った。
「……死にかけてた」
「は?」
「魔物に追い詰められて、剣も壊れて、腕もまともに動かなくて。もう何でもいいから助けろって思いながら、自分の中を探した」
「…………」
「それで見つけた」
「参考にならねえよ」
「俺もそう思う」
二人とも黙った。
葉の隙間から差し込んでいた陽は、来た時より傾いている。
今日はここまでか。
礼はそう考えた。
「明日もやる?」
「やる」
即答だった。
「まだやるの?」
「まだ一日だろ」
「まあ、そうだけど」
「お前だって一年やったんだろ?」
「……そうだな」
礼は少し笑った。
「じゃあ明日も」
「ああ」
その日は、それで別れた。
◇
夜。
宿へ戻った礼は、机の上へ古いノートを開いた。
ページをめくる。
一年前の自分が書いた文字が並んでいる。
『力が始まる場所がある?』
『中心?』
『核?』
さらにめくる。
『条件』
『誰にある?』
『どうして生まれる?』
『俺にあって、他の人にないものは?』
その下には、自分について思いつく限り書き出した記録が残っている。
『日本人』
『異世界から来た』
『十七歳』
『男』
『魔力がほとんどない』
そして。
『童貞?』
「…………」
礼はその文字を見つめた。
一年前。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながら書いた仮説だった。
今も、本当に関係があるのかは分からない。
そもそもリオに童力があるかどうかさえ分かっていない。
ただ。
比較する相手が初めて現れた。
礼は新しいページを開き、今日分かったことを書き始める。
『リオ。十八歳。男性。魔力は少ない。ただし俺よりは多い。』
『現時点では童力を感知できず。』
『教え方に問題がある可能性も高い。』
そこまで書き。
礼は止まった。
「…………」
確認。
研究するなら。
条件は一つずつ確認した方がいい。
そう思う。
思うのだが。
「……聞くのか、これ」
自分で書いた『童貞?』という文字が、急に重く見えた。
知らない男に。
童貞かどうか。
聞く。
「…………」
礼は机へ額をつけた。
「嫌だな……」
だが、しばらくして顔を上げる。
「……研究だし」
誰に言うでもなく呟いた。
もう一度ノートを見る。
「……研究だからな」
二回言った。
それでも。
嫌なものは嫌だった。
◇
翌朝。
森の入口へ行くと、リオはすでに待っていた。
「早いな」
「教えてもらう側だから」
「真面目だな」
「強くなりたいからな」
二人で昨日と同じ場所へ向かう。
木々の間を歩きながら、礼は何度か口を開きかけた。
その度に閉じる。
リオが不思議そうにこちらを見た。
「さっきから何?」
「いや……」
「何かあるなら言えよ」
「…………」
礼は足を止めた。
聞くなら今だ。
研究。
これは研究だ。
変な意味はない。
「リオ」
「ん?」
「一個、確認したいことあるんだけど」
「何?」
「…………」
礼は視線を逸らした。
鳥の声がする。
風が吹く。
こんな爽やかな朝にする質問ではない気がする。
「お前……」
「うん」
「…………童貞?」
リオが止まった。
森の音だけが続いた。
「……は?」
「いや、違う」
「何が!?」
「そういう意味じゃない!」
「じゃあどういう意味だよ!」
「研究だよ!」
「何の研究で朝から男の童貞確認するんだよ!」
「童術だよ!!」
「童術と俺の童貞に何の関係があるんだよ!?」
「それを調べてんだって!!」
近くの枝に止まっていた鳥が、驚いたように飛び立った。
礼はその背中を見送りながら、猛烈に帰りたくなった。
◇
「……一年前に」
森の中。
二人は向かい合って座っていた。
リオの目が冷たい。
「自分にしかない特徴を、思いつく限り書いたんだよ」
「それで?」
「その中に……童貞っていうのがあって」
「何で?」
「俺が知りたいよ」
「お前が書いたんだろ」
「候補だよ。候補」
礼はノートを開き、一年前のページを見せた。
リオが覗き込む。
日本人。
異世界から来た。
十七歳。
男。
魔力がほとんどない。
その下に。
『童貞?』
「……本当に書いてある」
「だから言っただろ」
「一年間残してたの?」
「消す理由もなかったから」
「…………」
リオが少し距離を取った。
「引くなよ」
「いや……」
「研究だから」
「便利だな、その言葉」
礼もそう思った。
「で?」
聞く。
「…………」
「どうなの」
「本当に必要?」
「必要かどうかを調べるために聞いてる」
「…………」
リオは顔を逸らした。
耳が少し赤い。
「……そうだよ」
「え?」
「童貞だよ」
「…………」
「何か言えよ!」
「いや」
礼は慌ててノートへ目を落とした。
新しいページ。
『リオ。十八歳。男性。魔力少量。童貞。』
「書くな!」
「記録しないと意味ないだろ!」
「せめて伏せ字にしろ!」
「研究ノートに伏せ字使ってどうすんだよ!」
「俺の尊厳のためだよ!」
結局。
消さなかった。
◇
二日目の訓練も、最初は昨日と変わらなかった。
リオが目を閉じる。
魔力を感じる。
礼が言葉を探す。
昨日より説明は少し変えた。
「魔力を探すんじゃなくて、一回、魔力があることだけ確認して」
「……ある」
「そこに意識を向け続けなくていい。そこじゃないものを探して」
「分かりにくい」
「俺も今そう思った」
「先生向いてないな」
「誰が先生だ」
礼は地面へ小石を投げた。
それでも。
昨日よりは。
少しだけ進んでいる気がした。
礼自身が。
どう教えればいいかを考え始めていたからだ。
自分ができることを、そのまま相手へ押しつけても意味がない。
リオが何を感じているのか。
どこで分からなくなっているのか。
それを聞かなければならない。
その考え方も。
誰かから教えられたものだった。
ガルドは。
礼が剣を振れない時。
ただ「振れ」とは言わなかった。
足の位置を直した。
握り方を直した。
何が違うのかを、一つずつ教えた。
「……そういうことか」
「何が?」
「何でもない」
礼はリオの姿勢を見る。
「背中、力入りすぎ」
「こう?」
「もうちょっと抜いて。あと、呼吸止めるな」
「分かった」
「魔力を消そうとしなくていい。そこにあっていいから、その奥……いや」
礼は途中で言葉を止めた。
「奥じゃないな」
「昨日から奥って言ってたじゃん」
「だから見つからないのかも」
「おい」
「悪い」
礼は自分でも目を閉じた。
魔力。
微かなそれを感じる。
そして。
童力。
――ドクン。
二つは。
上下に並んでいるわけではない。
魔力のさらに奥に、物理的な何かがあるわけでもない。
ただ。
感覚が違う。
「……自分の中に、もう一個ない?」
「もう一個?」
「魔力を探す時と同じように探すんじゃなくて……何て言えばいいんだろ」
言葉を探す。
「身体を動かそうとする時って、いちいち筋肉の場所考えないだろ」
「まあ」
「でも、動かそうと思えば動く」
「ああ」
「それに近い……かもしれない」
「曖昧だな」
「今作ってんだよ、説明を」
リオが少し笑った。
「じゃあ、もう一回やる」
「うん」
昼になった。
休んだ。
女将に作ってもらった弁当を二人で食べた。
午後も続けた。
何度も。
何度も。
何も起きなかった。
礼自身にも。
本当にリオの中に童力があるのか。
分からなくなってきた。
同じ十八歳。
男。
魔力が少ない。
そして。
童貞。
それでも。
何もない可能性はある。
なら。
自分だけなのか。
異世界から来たことが条件なのか。
それとも。
まだ別の何かがあるのか。
陽が傾き始めた。
「……今日は終わりにするか」
礼が言った。
「悪い」
「何で謝るんだよ」
「二日使わせた」
「俺も調べてるんだから同じだよ」
「でも――」
「見つからないって分かったなら、それも結果だろ」
礼は立ち上がり、服についた土を払った。
「また考えるよ。やり方」
「……明日もいい?」
「来るの?」
「駄目か?」
「別にいいけど」
リオも立ち上がろうとした。
その時だった。
「…………ん?」
動きが止まった。
「どうした?」
「いや……」
リオが胸元へ手を置く。
礼はその様子を見ていた。
「何?」
「今、何か……」
リオが再び座る。
目を閉じた。
「魔力?」
「分からない」
「魔力と同じ感じ?」
「……違う」
礼の表情が変わった。
手にしていた荷物を、ゆっくりと地面へ置く。
「リオ」
「待って」
声をかけようとした礼を。
今度はリオが止めた。
「消えそう」
「…………」
礼は黙った。
邪魔をしない。
風が。
木々の間を抜ける。
葉が擦れ合う音がした。
遠くで鳥が鳴いている。
夕方の森は。
昨日と何も変わらない。
リオの呼吸だけが。
ゆっくりと。
静かになっていく。
やがて。
「……ある」
小さな声がした。
礼は動かなかった。
「何が?」
できるだけ静かに尋ねる。
「分からない。でも……ある」
「魔力じゃなくて?」
「たぶん」
「どんな感じ?」
「説明できない」
その答えに。
礼は。
少しだけ笑った。
「……だよな」
一年前の自分も。
同じだった。
名前なんてなかった。
何なのかも。
どう使うのかも。
何一つ分からなかった。
ただ。
そこにあることだけは。
分かった。
「礼」
「うん」
「これが……童力?」
礼はすぐには答えなかった。
自分の内側へ意識を向ける。
――ドクン。
慣れ親しんだ感覚が返ってくる。
けれど。
目の前のリオが感じているものが、本当に同じものなのか。
今の礼には確かめる方法がない。
だから。
「……まだ分からない」
正直に答えた。
「でも」
礼はしゃがみ。
リオと目線を合わせた。
「明日、もう一回探そう」
「明日?」
「一回だけじゃ偶然かもしれない。もう一回同じものを見つけられたら、その次は動かせるか試す」
「動かす……」
「俺は最初、それで壁にぶつかった」
「……大丈夫なのか、その練習法」
「同じ失敗はさせないよ」
自然に出た言葉だった。
口にしてから。
礼自身が。
少し驚いた。
一年前。
自分には。
失敗を止めてくれる人はいなかった。
どこまで童力を流せば危険なのか。
何をすれば身体を痛めるのか。
全部。
自分で失敗して覚えた。
でも。
リオまで同じ失敗をする必要はない。
「……帰ろう」
礼が立ち上がる。
「おう」
二人は並んで森を出た。
来た時より。
礼の足取りは。
ほんの少しだけ軽かった。
◇
その夜。
礼は宿の机へ向かっていた。
灯りの下。
開かれたノートへ。
今日の結果を書き込む。
『リオ』
『十八歳』
『男性』
『魔力少量』
『童貞』
最後の一行を見ると。
未だに何とも言えない気持ちになる。
「……必要な情報だからな」
誰もいないのに。
言い訳した。
その下へ。
『二日目。魔力とは異なる何かを感知したと本人が証言。』
『現時点では童力と断定できない。再現できるか確認する。』
礼はペンを止めた。
そして。
一年前のページを開く。
『仮説:童貞であることが関係している?』
あの時。
ほとんど冗談のように書いた。
根拠など何もなかった。
自分しかいなかったからだ。
今も。
証明されたわけではない。
リオが感じたものが童力かどうかすら。
まだ確定していない。
それでも。
初めて。
自分以外の人間が。
魔力とは違う何かへ触れた。
礼は少し考え。
仮説の下へ書き加えた。
『童力は童貞にのみ発現する力である可能性がある。』
ペン先を止める。
「……二人じゃ何も分かんねえよな」
だから。
その下へ。
『要検証』
と書いた。
礼はノートを閉じようとした。
しかし。
途中で手を止める。
今日。
初めて。
誰かに童力を教えようとした。
そして分かった。
自分ができるだけでは。
足りない。
もし。
リオが感じたものが。
本当に童力なら。
次は。
それをもう一度見つける方法が必要になる。
その次は。
動かす方法。
流す量。
流す場所。
危険な使い方。
安全な使い方。
自分が一年間。
転び。
ぶつかり。
傷つきながら覚えてきたことを。
他人にも分かる形へ変えなければならない。
自分だけが使うのなら。
感覚のままでもよかった。
けれど。
誰かに教えるのなら。
それでは足りない。
礼は閉じかけたノートを、もう一度開いた。
新しいページへ移る。
しばらく考えてから。
その一番上へ。
ゆっくりと文字を書いた。
『童術――感知法』
礼はその文字を眺めた。
その下には。
まだ何も書かれていない。
明日。
リオと一緒に。
探せばいい。
これまで。
礼が続けてきた研究は。
自分が生きるためのものだった。
自分の力を知るためのものだった。
けれど、この日。
その研究に。
初めて。
自分以外の人間が加わった。




