第二十話 知られる力
如月礼が、自分の中にある名もなき力を《童力》と名付けてから、一年が過ぎた。
十八歳になった礼は、もう一年前の少年と同じではなかった。
背は少し伸びた。
肩幅も広くなり、細かった腕には剣を振り続けた分だけ筋肉がついた。もともと痩せ気味だった身体も、一人で冒険者として生活するうちに余計な細さが取れ、まだ青年というには若いながらも、少なくとも一目で「冒険者らしい」と思われる程度には変わっている。
腰には剣があった。
木剣ではない。
一年前、自分の金で買った鉄の剣だった。
決して高価なものではない。装飾もなく、名のある鍛冶師が打ったものでもない。それでも、何度も研ぎ、何度も手入れをしたその剣は、今ではすっかり礼の手に馴染んでいた。
その切っ先が、森の中でゆっくりと持ち上がる。
十歩ほど先。
一頭のホーンウルフが低く唸っていた。
灰色の毛。
額から伸びた一本の角。
地面を掻く前脚。
牙の隙間から垂れる唾液。
礼は剣を構えたまま、相手を見ていた。
「…………」
一年前なら。
それだけで心臓が跳ねていた。
初めて見た時は、ガルドたちの後ろから眺めているだけだった。それでも怖かった。
そして一年前。
一人で《童力》を研究していた頃に遭遇した時は、全身へ力を巡らせることには成功したものの、戦闘中に集中が乱れ、結局は脚へ力を流して逃げた。
あの時は、それでよかった。
今でも礼はそう思っている。
逃げることは恥ではない。
勝てない相手から逃げる。
危険なら退く。
荷物と命なら、命を取る。
それを教えた男の声は、一年経った今でも頭の中から消えていなかった。
『怖くなくなった奴から死ぬ』
「……分かってるよ」
礼は小さく呟いた。
ホーンウルフの後ろ脚が沈む。
来る。
礼は知っていた。
飛びかかる直前、僅かに重心が後ろへ移ることも。
最初に角を避ければ、その後に牙が来ることも。
正面から剣を振れば、相手の方が速いことも。
何度も戦った。
何度も逃げた。
傷も増えた。
その度に覚えた。
ホーンウルフが地面を蹴った。
速い。
だが。
もう、見えない速さではなかった。
礼は半歩だけ横へずれた。
角が頬のすぐ横を抜ける。
無理に剣を振らない。
狼が着地する。
振り向く。
もう一度、低く構える。
「……怖いな」
礼は呟いた。
それでいい。
恐怖があるから相手を見る。
恐怖があるから距離を測る。
恐怖があるから、無駄に踏み込まない。
二度目。
ホーンウルフが飛んだ。
礼は踏み込んだ。
今度は避けるだけではない。
角の外側へ身体を滑らせ、そのまま剣を振る。
刃が首筋を捉えた。
肉を断つ感触が手へ伝わる。
ホーンウルフの身体が地面を転がり、落ち葉を巻き上げた。
数度痙攣した後。
動かなくなる。
「…………」
礼はすぐには剣を下ろさなかった。
数秒。
相手が本当に動かないことを確認してから、ようやく息を吐いた。
「……よし」
剣についた血を払う。
それだけだった。
《童力》は使っていない。
使う必要がなかった。
一年前なら、考えられなかったことだった。
◇
「ホーンウルフ一頭。討伐確認したよ」
昼過ぎ。
冒険者ギルドの受付で、職員の女性が確認票へ印を押した。
「はい」
「相変わらず一人?」
「相変わらず一人です」
「どこか入ればいいのに。誘われてるでしょ?」
「まあ……たまに」
「断ってる?」
「断ってます」
「もったいない」
礼は苦笑した。
この一年で。
街の人間とも、それなりに顔見知りになった。
冒険者として依頼を受け。
仕事をして。
報酬をもらう。
それを繰り返していれば、自然と知り合いも増える。
以前ほど文字に苦労することもなくなった。依頼書くらいなら普通に読めるし、簡単な文章なら書ける。
剣も使える。
魔物の知識も増えた。
薬草も見分けられる。
野営もできる。
一年前の礼を知る者が見れば、驚いただろう。
ただ。
パーティーには入らなかった。
誘われたことはある。
何度か、一時的に他の冒険者と仕事をしたこともある。
別に、人と行動することそのものが嫌になったわけではない。
話すのも嫌いではない。
誰かと食事をするのも。
笑うのも。
今でも好きだった。
それでも。
誰かの後ろを歩くことだけは、まだできなかった。
「次はどうする?」
受付の女性に聞かれ、礼は依頼板を見る。
「今日はいいです。帰ります」
「あら珍しい」
「朝から森歩いてたんで」
「十八歳でしょう?」
「十八歳にも疲労はあります」
「若いんだから働きなさい」
「急に厳しいな……」
受付の女性が笑った。
礼も笑う。
それから報酬を受け取り、ギルドを出た。
◇
礼が一年間、同じ街に留まり続けたわけではない。
いくつかの街を渡った。
小さな村にも行った。
護衛依頼で数日かけて街道を歩いたこともある。
ただ、最初にガルドたちと過ごしたこの街へは何度か戻ってきた。
理由を聞かれても、上手く説明できない。
慣れているから。
仕事が多いから。
研究に使える森が近いから。
理由なら、いくらでも作れた。
けれど。
たぶん、それだけではない。
街を歩けば。
時々、昔のことを思い出す。
五人で歩いた道。
ボルグが露店の肉を見て立ち止まった場所。
ミレナに薬草の名前を問題にされた帰り道。
セイルと魔術について話した広場。
ガルドに初めて木剣を買ってもらった店。
今では。
それらを見ても、足が止まることは少なくなった。
忘れたわけではない。
慣れただけだった。
人は。
案外、いろいろなことに慣れる。
◇
翌朝。
礼は宿の一階へ降りた。
「おはよう、礼」
「おはようございます」
女将が厨房から顔を出した。
「今日は早いね」
「依頼見に行こうかなって」
「その前に食べな」
「はい」
いつもの席へ座る。
しばらくして。
朝食が運ばれてきた。
パン。
卵。
野菜のスープ。
一人分だった。
「いただきます」
礼はパンをちぎった。
湯気の立つスープへ口をつける。
一人分の朝食にも、もう慣れた。
最初の頃は。
向かいに誰もいないことが、妙に気になった。
パンを食べれば、ボルグの声を思い出した。
本のページをめくる音が聞こえれば、セイルを探した。
香草が入ったスープを飲めば、ミレナに教わった薬草を思い出した。
そして。
誰かに「おかえり」と言われれば。
どうしても。
あの食堂を思い出した。
五人分の朝食が並んでいた場所を。
けれど。
一年も経てば。
人は慣れる。
礼は一人で起き。
一人で食べ。
一人で仕事へ行くことを覚えた。
「礼」
「はい?」
「昼も外?」
「そのつもりです」
「じゃあ弁当作っとこうか?」
礼は少し驚いて女将を見る。
「いいんですか?」
「昨日も森だったんだろ。ちゃんと食べな」
「……じゃあ、お願いします」
「はいよ」
女将が厨房へ戻る。
礼はもう一口スープを飲んだ。
少しだけ。
笑った。
◇
その日の依頼は、街道沿いに現れた魔物の調査だった。
数日前から、商人たちが魔物の姿を目撃している。
まだ被害はない。
種類も不明。
危険度も分からない。
そのため、まず周辺を調査する。
討伐できそうなら討伐。
危険なら戻って報告。
単純な仕事だった。
「危険なら帰ってこいよ」
受付でそう言われた礼は、
「分かってます」
と答えた。
昔なら。
誰かに言われなければ分からなかった。
今は違う。
死なないことも仕事のうちだと知っている。
街を出て、一時間ほど。
街道から森へ入る。
礼は足跡を探した。
地面。
枝。
木の幹。
糞。
毛。
魔物が残すものはいくらでもある。
これも。
最初に教えてくれたのは、ミレナだった。
「……大きいな」
泥に残った足跡を見て、礼は眉を寄せた。
ホーンウルフではない。
四足。
爪がある。
かなり重い。
礼はしゃがみ、指で足跡の縁をなぞった。
新しい。
おそらく昨夜か、今朝。
周囲を見る。
「……帰った方がいいか?」
分からない相手と戦う必要はない。
足跡の大きさと場所だけ報告すれば、調査依頼としては十分だ。
そう考えた時だった。
森の奥から。
「――誰か!!」
声がした。
礼が顔を上げる。
「助けてくれ!!」
人間。
近い。
「……っ」
礼は走った。
◇
木々の間を抜けた先。
最初に見えたのは、倒れた荷車だった。
車輪が一つ壊れている。
荷物が地面へ散らばり、馬は綱を引き千切って逃げたらしい。
その前に。
三人の男がいた。
冒険者だ。
一人は剣士。
一人は槍。
もう一人は地面に倒れている。
そして。
その三人と向かい合っているものを見て。
礼は足を止めた。
「……でか」
熊に似ていた。
ただし。
礼が知っている熊より、明らかに大きい。
立ち上がれば二メートルを軽く超えるだろう。
黒い毛皮。
異様に太い前脚。
額から二本の短い角。
礼も本で見たことがある。
グランドベア。
単独でも中級冒険者数人で討伐する魔物。
「おい!」
剣士が礼に気づいた。
「逃げろ! 一人じゃ無理だ!」
礼は返事をしなかった。
倒れている男を見る。
動いている。
生きている。
槍を持った男も、脚を怪我していた。
二人で一人を運んで逃げるのは難しい。
「…………」
逃げる。
自分だけなら。
できる。
礼は腰の剣へ手を置いた。
グランドベアが吠えた。
空気が震える。
腹の奥まで響く声に。
礼の身体が僅かに強張った。
「……怖いな」
心臓が速くなる。
手のひらに汗が滲む。
だから。
相手を見る。
怖いから。
考える。
前脚。
太い。
一発でもまともに受ければ危険。
毛皮も厚い。
普通の斬撃では浅い。
動きは。
ホーンウルフほど速くない。
礼は息を吐いた。
「……三人とも、動けますか?」
「は?」
「動けます?」
「こいつが気を失ってる! あと、こっちは脚をやられた!」
礼は頷いた。
「じゃあ」
剣を抜く。
「俺が引きつけます」
「馬鹿か!? 一人で――」
「倒すとは言ってません」
礼はグランドベアを見る。
「逃げる時間くらいなら、作れると思います」
自信があるわけではない。
ただ。
何もできないとも思わなかった。
グランドベアが礼へ顔を向けた。
「……来いよ」
低く呟く。
熊が走った。
◇
速い。
見た目より遥かに。
礼は横へ飛んだ。
巨大な前脚が、さっきまで礼のいた場所を薙ぐ。
風圧だけで髪が揺れた。
「うわ……」
当たれば終わる。
礼は剣を構え直す。
後ろでは冒険者たちが倒れた仲間を運び始めている。
時間を稼ぐ。
それだけでいい。
グランドベアが振り返った。
二度目。
今度は前脚。
礼は後ろへ下がる。
爪が服を掠めた。
「っ……!」
浅い。
大丈夫。
だが。
普通に戦って勝てる相手ではない。
礼は剣を握り直した。
使うか。
迷う。
一年間。
《童力》について調べ続けてきた。
あの日。
名前を付けてからも。
何度も試した。
脚。
腕。
全身。
失敗した。
転んだ。
木にぶつかった。
筋を痛めた。
一度は流しすぎて、丸一日まともに歩けなくなった。
それでも。
一年前とは違う。
もう。
戦いながらでも。
できる。
礼は呼吸を整えた。
自分の内側へ。
意識を沈める。
魔力ではない。
その奥。
この一年で。
何百回も触れた場所。
――ドクン。
あった。
《童力》。
そこから。
少しだけ引き出す。
脚へ。
腰へ。
腹へ。
胸へ。
肩へ。
腕へ。
別々ではない。
一つの流れ。
身体の中を巡らせる。
循環させる。
礼の足元で。
落ち葉が小さく揺れた。
「…………」
グランドベアが走る。
礼も。
踏み込んだ。
「――っ!」
世界が。
少しだけ遅くなる。
熊の爪が迫る。
一年前なら。
逃げるだけで精一杯だった。
今は。
見える。
礼は身体を沈めた。
爪の下へ潜る。
踏み込む。
腰を回す。
剣を振る。
刃が。
グランドベアの前脚を深く斬った。
血が飛ぶ。
「グォオオオオオ!!」
熊が吠えた。
礼はすぐ離れる。
「……効いた」
倒せる。
そう思った瞬間。
『怖くなくなった奴から死ぬ』
「……はいはい」
礼は苦笑した。
調子に乗るな。
分かっている。
怒ったグランドベアが突進してくる。
礼は再び身体の中へ童力を巡らせた。
一歩。
二歩。
相手の横へ回る。
斬る。
浅い。
離れる。
追われる。
避ける。
また斬る。
派手ではない。
一撃で倒す力もない。
ただ。
礼はもう。
逃げることしかできなかった少年ではなかった。
グランドベアの動きが鈍る。
血が落ちる。
礼は呼吸を整えた。
「……もう一回」
童力を巡らせる。
今度は。
全身から。
僅かに右腕へ多く集める。
やりすぎない。
一年前。
力だけ増やして自分の手を痛めた。
あれから。
何度も量を調整した。
身体が耐えられる範囲。
剣を壊さない範囲。
それを。
知っている。
グランドベアが立ち上がった。
前脚を振り上げる。
礼は。
その懐へ入った。
「――ふっ!」
剣を振り抜く。
首。
刃が深く入る。
グランドベアの巨体が揺れた。
礼は剣を抜き。
すぐに距離を取る。
熊は。
一歩。
二歩。
礼へ近づこうとして。
崩れた。
地面が揺れた。
「…………」
礼は剣を構えたまま待った。
十秒。
二十秒。
動かない。
そこで初めて。
童力の循環を止めた。
「……ふぅ」
肩の力を抜く。
「……疲れた」
まだまだ。
楽に勝てる相手ではない。
◇
「お前……」
声がした。
礼が振り返る。
逃げたと思っていた冒険者の一人が。
こちらを見ていた。
「…………」
礼は少し嫌な予感がした。
「逃げてなかったんですか」
「仲間をあそこまで運んで……戻ってきた」
「いや、戻ってこなくても」
「今の」
男が礼の言葉を遮った。
「何だ?」
「…………」
礼は黙った。
「身体強化の魔術か?」
「……違います」
「違う?」
「はい」
「じゃあ、何なんだよ」
礼は。
答えなかった。
正確には。
答えるか迷った。
これまで。
人前で使ったことがないわけではない。
見られないように。
分からない程度に。
脚へ少し流したことくらいならある。
だが。
今のように。
明確に。
最初から最後まで見られたのは。
初めてだった。
「魔力じゃないのか?」
「違います」
「じゃあ何を使った?」
礼は自分の手を見る。
もう。
童力は巡っていない。
いつもの身体。
いつもの手。
それでも。
確かに。
そこにある。
一年前。
誰も知らなかったもの。
名前すらなかったもの。
死にたくないと願った十七歳の少年が、偶然見つけたもの。
自分で調べ。
自分で試し。
失敗して。
自分で名前を付けた。
今まで。
礼のノートの中にしか存在しなかった言葉。
「……童術」
礼は言った。
男が眉を寄せる。
「……どうじゅつ?」
「はい」
「何だ、それ」
礼は少しだけ困った。
どう説明すればいい。
一年間研究しても。
まだ分からないことばかりだ。
何故、自分にあるのか。
他の人間にもあるのか。
何が条件なのか。
本当に童貞と関係があるのか。
全部。
まだ仮説でしかない。
「……俺が」
礼は頬を掻いた。
「俺が作った……っていうか」
言ってから。
妙に恥ずかしくなった。
「……見つけた術です」
男は。
何も言わなかった。
森の中を。
風が通り抜けた。
木々が揺れる。
葉が擦れる。
遠くで鳥が鳴いている。
それだけだった。
世界は。
何も変わっていない。
ただ。
一年前。
一冊のノートの中に生まれた言葉を。
如月礼以外の人間が。
この日。
初めて耳にした。
《童術》。
後に。
数え切れないほどの人間が学び。
数え切れないほどの術式を生み。
国を守り。
国を滅ぼし。
そして。
一つの帝国そのものを支えることになる技術。
その存在を。
世界が初めて知った瞬間だった。




