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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第十九話 童力

その日の朝、礼は実験へ出かけなかった。


 目を覚まし、一階で朝食を取り、いつものように荷物をまとめたところまでは昨日と同じだった。だが、部屋へ戻って木剣を手に取ろうとしたところで、脇腹に鈍い痛みが走った。


「……痛っ」


 服をめくって確認する。


 遺跡で負った傷はまだ完全には治っていない。昨日ホーンウルフから逃げた際に無理をしたせいか、周囲には薄い青痣が残っていた。


 右肩も同じだった。


 腕は動く。


 剣も振れる。


 しかし、動くことと治っていることは違う。


 昨日までは新しい力を試したいという気持ちの方が強く、痛みを無視していた。けれど、ここで怪我を悪化させれば、何日も動けなくなるかもしれない。


 今の礼には、無理をした時に止めてくれる人間がいない。


「……今日はやめとくか」


 口にすると、思っていた以上に簡単に諦められた。


 少し前なら、できるまで続けようとしたかもしれない。


 礼は木剣を壁へ戻し、代わりに机の上のノートを手に取った。


 身体を使えないなら、頭を使えばいい。


 調べたいことなら、まだ山ほどあった。



     ◇



 窓を開けると、朝の風が部屋へ入ってきた。


 通りから荷車の音が聞こえる。店を開くために木戸を動かす音や、誰かを呼ぶ声も混じっていた。


 礼は椅子へ腰掛け、ノートを最初から読み返した。


『自分の中に、魔力とは違う何かがある。』


『使うと減る。休むと戻る?』


『脚に流すと速くなる。』


『腕に流すと力が強くなる。ただし身体そのものが強くなるわけではない?』


 その先には、この二日間で増えた記録が続いている。


 流す量は変えられる。


 複数の場所へ同時に流すことは難しい。


 身体の中を一つの流れとして巡らせることができる。


 全身へ薄く巡らせれば、脚だけ、腕だけへ集めた時ほど大きな効果はない代わりに、身体全体の動きが良くなる。


 ただし、集中が乱れれば流れも途切れる。


 そして。


『力が始まる場所がある?』


『中心?』


『核?』


 礼はそこでページをめくった。


 最後に書かれているのは、昨日の夜に残した疑問だった。


『条件』


『誰にある?』


『どうして生まれる?』


『何をすると増える?』


『何をすると減る?』


 そして最後。


『俺にあって、他の人にないものは?』


「…………」


 昨日は、ここで考えるのをやめた。


 分からなかったからだ。


 だが、一晩眠ったところで答えが勝手に現れるはずもない。


 礼はペンを手に取った。


「……とりあえず、書くか」


 自分について。


 思いつくことを全部。


 関係があるかどうかは後から考えればいい。


 最初に書いたのは、


『日本人』


 だった。


「まあ、これは普通に怪しいよな」


 この世界に来てから、日本という国を知っている人間には会っていない。


 言葉は通じるのに、文字は違う。


 円も使えない。


 学生証に書かれた文字を読める人間もいなかった。


 自分が別の世界から来たことと、この力に何らかの関係がある可能性は十分にある。


 次。


『異世界から来た』


 日本人であることと似ているが、一応分けた。


『十七歳』


 年齢。


『男』


 性別。


『魔力がほとんどない』


 これもかなり怪しい。


 魔力が少ないからこそ、別の何かを感じ取れたのかもしれない。


 礼は少し考え、


『遺跡へ入った』


 とも書いた。


「でも、その前から……」


 遺跡の深部で初めて強く意識した。


 だが、あの感覚自体はもっと前にもあった気がする。


 少なくとも、遺跡に入ったことで突然生まれたと断定することはできない。


 その横に疑問符を付ける。


 さらに思いつくものを書く。


『剣が弱い』


「……これは関係ないだろ」


 線を引いた。


『金がない』


「もっと関係ない」


 これも消す。


 少し考える。


『家族がこの世界にいない』


 ペン先が止まった。


「…………」


 何となく、そこには触れたくなかった。


 線も引かず、そのまま次へ進む。


『彼女がいない』


 書いてから。


 礼はしばらく眺めた。


「…………」


 自分で書いた。


 誰に見られたわけでもない。


 なのに、少し腹が立った。


「これも関係ないだろ」


 線を引こうとする。


 その途中で、手が止まった。


 彼女がいない。


 十七歳。


 男。


「…………」


 嫌な連想が生まれた。


「いや」


 礼は首を振った。


「ないない」


 もう一度ノートを見る。


 男。


 十七歳。


 彼女がいない。


「…………」


 礼はゆっくりとペンを動かした。


『童貞』


 書いた。


 数秒。


 何も起きない。


 当然だった。


「……何書いてんだ、俺」


 急に馬鹿馬鹿しくなった。


 線を引いて消そうとする。


 だが。


 ペン先が紙へ触れる寸前で、また止まった。


「…………」


 関係ない。


 普通に考えれば関係ない。


 自分の中にある謎の力と、童貞であることに何の関係がある。


 あるはずがない。


 そう思う。


 では。


 関係ないと証明できるのか。


「…………できないな」


 礼は頭を抱えた。


「いやいやいや……」


 研究。


 そう。


 これは研究だ。


 思いついた可能性を、自分が恥ずかしいからという理由だけで消すのは違う気がする。


 セイルならどうするだろう。


 たぶん。


 笑わない。


 あの男なら眼鏡を押し上げて、


『根拠は?』


 と聞く。


「……根拠はない」


 礼は答えた。


 当然、セイルはいない。


「でも、違うって根拠もない……」


 最悪だった。


 礼は『童貞』の横に、小さく疑問符を付けた。


『童貞?』


「…………」


 ものすごく頭の悪い研究ノートに見えてきた。


 礼は両手で顔を覆った。



     ◇



 しばらくして、礼は気を取り直した。


 候補を書いただけだ。


 童貞だからこの力が生まれたと決まったわけではない。


 むしろ可能性だけで言えば、日本人だから、異世界人だから、魔力が少ないからという方がよほどありそうに思える。


 問題は。


「どうやって調べるんだ、これ」


 日本人は自分しかいない。


 異世界から来た人間にも会ったことがない。


 魔力が少ない人間なら探せるかもしれないが、その人間の中に同じ力があるかどうか、礼自身が調べられるのかも分からない。


 年齢。


 性別。


 そして童貞かどうか。


「…………聞くの?」


 知らない男へ近づいて。


『すみません。童貞ですか?』


「無理だろ」


 即座に却下した。


 その後に『ちょっと身体の中を調べさせてください』まで続く。


「捕まるわ」


 礼は椅子の背へもたれた。


 この世界の法律を詳しく知らなくても、それくらいは分かる。


 結局。


 今のところ、自分自身で調べられることは限られている。


 礼はノートの余白に、


『条件については保留。比較できる人が必要』


 と書いた。


 そして、その下へ。


『仮説:童貞であることが関係している?』


 書き終えた瞬間、何とも言えない気持ちになった。


「……これ、誰にも見せたくねえな」


 心からそう思った。



     ◇



 昼を過ぎた頃。


 礼はベッドへ寝転がりながら、セイルからもらった本を読んでいた。


『初級魔術理論』


 別れ際に渡されたものだ。


『魔術を使えなくても、知識は使える』


 セイルはそう言った。


 今のところ、その言葉は正しかった。


 この世界の文字にはまだ慣れていないため、読む速度は遅い。分からない単語も多い。それでも、基礎的な部分なら少しずつ理解できる。


 魔力とは何か。


 どう感知するか。


 どう操作するか。


 魔術師は何をしているのか。


 礼は何度も前のページへ戻りながら読み進めた。


 その中で、一つの説明に目が留まった。


 魔力を持っていることと。


 魔術を使えることは。


 同じではない。


「…………」


 礼は身体を起こした。


 本を机へ置く。


 ゆっくりと、その部分を読み直す。


 魔力そのものは、多くの人間が持っている。


 だが、それを感知し、意識的に操作し、定められた方法によって現象へ変える技術が必要になる。


 それが。


 魔術。


 礼は本から目を離した。


 机の隣には、自分のノートがある。


「……感知」


 できる。


 目を閉じれば、今ではかなり簡単に見つけられる。


「操作」


 できる。


 脚へ。


 腕へ。


 全身へ。


 量も、少しなら変えられる。


「決まった使い方……」


 脚へ流せば速くなる。


 腕へ流せば力が増す。


 身体へ巡らせれば全体の動きが良くなる。


 完璧ではない。


 戦いながら維持することも難しい。


 失敗もする。


 それでも。


 同じことをすれば。


 似た結果が起こる。


「…………」


 礼は椅子へ座った。


 ノートを開く。


 昨日までの記録を、もう一度見る。


 遺跡で初めて使った時は。


 ただ必死だった。


 死にたくなかった。


 何でもいいから自分を生かしてほしかった。


 あの時は偶然だった。


 でも。


 今は違う。


 自分の意思で見つけられる。


 自分の意思で動かせる。


 自分の意思で使える。


 まだ未熟でも。


 再現できる。


「……これも」


 礼はセイルの本へ目を向けた。


「術……なのか?」


 その言葉を口にした瞬間。


 何かが。


 ほんの少しだけ。


 繋がった気がした。



     ◇



 夕方。


 礼は机の前で、ずっとノートを睨んでいた。


 まず。


 名前が必要だった。


 これまで何度も、


『謎の力』


『魔力とは違う何か』


『自分の中にあるもの』


 と書いてきた。


 だが。


 いつまでも、それでは不便だ。


「仮でいいんだよな」


 誰かに発表するわけではない。


 自分が分かればいい。


 礼は新しいページを開いた。


『名称』


 書く。


 その下へ。


『新魔力』


「……いや」


 すぐに消した。


「魔力じゃないから調べてんだろ」


 次。


『生命力』


「……なんか死にそう」


 消す。


『内力』


「何だそれ」


 消す。


『謎力』


「ダサい」


 消した。


 紙の上に黒い線だけが増えていく。


「名前つけるの難しすぎるだろ……」


 世の中にあるものには、当たり前のように名前がついている。


 剣。


 魔力。


 魔術。


 冒険者。


 魔物。


 今まで気にしたこともなかった。


 だが、存在していなかったものに初めて名前を付けろと言われると、途端に難しい。


 礼はペンを指先で回した。


 そして。


 先ほど書いたページが目に入った。


『仮説:童貞であることが関係している?』


「…………」


 目を逸らす。


 もう一度見る。


「いや」


 ない。


 さすがにない。


 仮説だ。


 しかも根拠は何もない。


 そんなものを名前に使う必要は――。


「……仮の名前だしな」


 礼は呟いた。


 ペンが動く。


『童貞の力』


「…………」


 書いてしまった。


 礼は真顔で眺めた。


「死ぬほどダサいな」


 さすがにこれは嫌だった。


 しかし、『謎の力』よりは区別できる。


 何より、自分が見れば何を指しているか分かる。


「童貞の力……」


 長い。


 毎回書くのも面倒だ。


「……童……力?」


 礼の手が動いた。


『童力』


「…………」


 部屋が静かになった。


 外から、荷車が石畳を走る音が聞こえてくる。


 礼は紙の上に書かれた二文字を見つめた。


 さっきより短い。


 書きやすい。


 意味も。


 まあ。


 自分には分かる。


「…………」


 しばらく考えた末。


「もっとダサくなった気がする」


 礼は呟いた。


 それでも。


 線は引かなかった。



     ◇



 名前を付けると。


 不思議なことに、それまで曖昧だったものが少しだけはっきりしたように感じた。


 もちろん。


 力そのものが変化したわけではない。


 礼の身体の中にあるものは、名前を付ける前も後も同じだ。


 ただ。


『童力を脚へ流す』


『童力を腕へ流す』


『童力を全身へ巡らせる』


 そう書けば。


 記録しやすい。


「……便利だな」


 礼は少しだけ感心した。


 名前とは。


 こういうものなのかもしれない。


 分からないものを。


 分からないままでも。


 ひとまず掴める形にする。


 礼は新しいページに、


『童力』


 と書き。


 その下へ、これまで分かったことを整理していった。


 感知できる。


 操作できる。


 使うと減る。


 時間、休息、食事などで回復する可能性がある。


 脚へ流せば速度が上がる。


 腕へ流せば力が増す。


 全身へ巡らせれば、身体全体の動きを底上げできる。


 集中が切れれば維持できない。


 身体の中に、起点のようなものが存在する可能性がある。


 そして。


『発生条件:不明』


 その横に、小さく。


『童貞?』


 礼は書いた。


「……やっぱこれだけ浮いてるな」


 だが。


 残した。



     ◇



 そこまで整理したところで。


 礼はセイルの本を見た。


 魔力。


 魔術。


 力そのものと。


 それを扱う技術。


 別々の言葉がある。


 なら。


「…………」


 礼は嫌な予感がした。


 いや。


 もう。


 答えは分かっていた。


「待て」


 誰も急かしていない。


「別に、名前つけなくても……」


 自分で言って。


 すぐに否定する。


 いや。


 必要だ。


 これから研究するなら。


 童力そのものと。


 童力を扱う技術は。


 分けて記録した方がいい。


「…………」


 礼は新しいページを開いた。


 ペン先を紙へ置く。


 魔力を扱う技術。


 魔術。


 童力を扱う技術。


「…………」


 ペンが止まる。


「いやいやいや」


 分かっている。


 分かっているから嫌だった。


 だが。


 他に思いつかない。


 そして。


 何より。


 分かりやすい。


 礼は深く息を吐いた。


「……もういいや」


 書く。


『童術』


 その二文字が。


 紙の上に残った。


「…………」


 礼はしばらく眺めた。


 童力。


 童術。


 並べてみる。


「…………ダッサ」


 誰も聞いていない部屋で。


 十七歳の少年は。


 本気でそう思った。


 それでも。


 消さなかった。



     ◇



 夜になった。


 礼は机に置いたノートを、もう一度開いた。


 今日。


 何か特別なことをした気はしない。


 怪物を倒したわけでもない。


 新しい技を使えるようになったわけでもない。


 ただ。


 今まで名前のなかったものへ。


 名前を付けた。


 それだけだった。


 窓の外では、いつものように街の夜が始まっている。


 酒場から笑い声が聞こえる。


 どこかの家では、夕食の支度をしているのだろう。香辛料と焼いた肉の匂いが、開いた窓からわずかに入ってくる。


 遠くで鐘が鳴った。


 けれど。


 礼のために鳴った鐘ではない。


 神が何かを告げることもなかった。


 空が光ることも。


 大地が揺れることもない。


 世界は。


 何も変わっていないように見えた。


 礼はノートの最後のページを見る。


『童力』


 そして。


『童術』


「……まあ、仮だからな」


 誰に言うでもなく呟く。


「もっといい名前思いついたら変えればいいし」


 ノートを閉じる。


 その日は、それで終わった。


 如月礼にとっては。


 ただ、それだけの日だった。


 けれど。


 この世界には、それ以前から《魔力》があった。


 魔力を操り、炎を生み、水を動かし、風を起こす《魔術》があった。


 剣を振るう者がいて。


 弓を引く者がいて。


 何百年、何千年という時間の中で、人々はそれらを磨き、教え、受け継いできた。


 その歴史のどこにも存在しなかったものが。


 この日。


 たった一冊のノートの上で、初めて形を得た。


 魔力とは異なる、名もなき力。


 礼はそれを――


 《童力》と名付けた。


 そして。


 その力を感知し、操り、身体へ流し、現象へ変えるための技術。


 魔術とは異なる、もう一つの術。


 それを――


 《童術》と名付けた。


 まだ、その名を知る者は世界に一人しかいない。


 使える者も一人。


 教える者も。


 学ぶ者もいない。


 ましてや、この二つの言葉がやがて国境を越え、幾万もの人間の生死を左右し、一つの国家の礎にまでなることなど。


 誰も知らなかった。


 礼自身でさえ。


 知らなかった。


 ただ一つ。


 この日。


 後に世界が《童術》と呼ぶことになるものが。


 確かに生まれた。


 その始まりにいたのは、英雄でもなければ、王でもない。


 神でも。


 皇帝でも。


 《童師》でもない。


 異世界でようやく一人で歩き始めたばかりの、十七歳の少年だった。


 その名を。


 如月礼という。

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