第十八話 巡る力
翌朝、礼が目を覚まして最初に見たものは、見慣れない天井だった。
薄くひびの入った板張りの天井。窓から差し込む朝日は、昨日まで泊まっていた宿よりも少しだけ白く、光の筋の中では細かな埃がゆっくりと舞っている。寝返りを打つたびに軋むベッドも、薄い掛け布団も、まだ自分のものという感じがしなかった。
しばらくぼんやりと天井を眺めてから、礼はようやく思い出した。
自分は昨日、ガルドたちのパーティーを抜けたのだ。
「……朝か」
身体を起こした途端、右肩の奥に鈍い痛みが走った。思わず顔をしかめ、続いて脇腹へ手を当てる。こちらもまだ治ってはいない。医者には安静にしていろと言われたし、昨日の実験で転んだせいか、むしろ少し痛みが増している気さえした。
そんな状態で旅に出た自分を、今さらながら馬鹿だと思う。
もっとも、遠くへ行くつもりは最初からなかった。昨日も結局、街へ戻って別の宿を取っただけだ。
礼はベッドの脇へ目を向けた。
小さな机の上に、昨夜開いたままにしていたノートが置かれている。
『⑦全身に流したらどうなる?』
最後に書いた一文が、朝日の中にはっきりと見えた。
礼は肩を押さえたまま、しばらくそれを眺めた。
「……ちょっとだけなら」
誰に向かって言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
◇
宿の一階で出された朝食は、パンと野菜の入った薄いスープだった。
もちろん一人分だ。
礼はパンをちぎり、スープへ浸しながら、何となく周囲を眺めていた。近くの席では商人らしい男たちが今日の道程について話し合い、その向こうでは三人組の冒険者が昨夜の酒の話で笑っている。厨房から肉を焼く匂いが漂い、女将が皿を重ねて運ぶたびに小さな音が響いた。
昨日までとは違う宿で、知らない人間に囲まれて、一人で朝食を食べている。
それなのに世界は何事もなかったように動いている。
自分がパーティーを抜けたことなど、この街に暮らす大半の人間は知らない。知ったところで、どうでもいいことだろう。朝になれば店は開き、冒険者は仕事へ向かい、商人は荷車を走らせる。
その当たり前のことが、礼には少し寂しく、同時に少しだけありがたかった。
パンを食べ終え、スープを飲み干す。
「ごちそうさまでした」
癖のように口にしてから席を立った。
返事はない。
ボルグが「それは飯を食い終わった時の呪文か?」と聞いてくることもない。
礼は口元だけで小さく笑い、代金を払って宿を出た。
◇
昨日と同じ林へ向かった。
ただし、歩く速度は昨日よりも遅い。
傷が悪化しては意味がない。それくらいは礼にも分かっていた。昨日、何度も転んでから理解したとも言える。
街道を歩きながら右肩を庇っていると、ふと頭の中にガルドの声が浮かんだ。
『怖いから警戒する。怖いから準備する』
「分かってるって」
反射的に返事をしてから、礼は足を止めた。
当然、隣には誰もいない。
「……俺、独り言増えたな」
これはかなり嫌だった。
再び歩き始める。
昨日と同じ場所へ着くと、まず周囲を調べた。柔らかな土に大きな足跡はなく、草が荒らされた形跡もない。聞こえるのは小川のせせらぎと鳥の声だけだった。
荷物を切り株のそばへ置き、礼はノートを開いた。
『⑦全身に流したらどうなる?』
今日調べるのは、これだ。
目を閉じて呼吸を整え、自分の内側へ意識を向ける。
最初に感じるのは、相変わらず頼りないほど小さな魔力だった。そこを越え、さらに深く意識を沈める。遺跡で初めて見つけた時には死に物狂いで探さなければならなかったものが、今では以前よりずっと簡単に見つかるようになっていた。
――ドクン。
胸の奥というわけでも、腹の底というわけでもない。
場所を指差せと言われれば困る。
ただ、自分というもののさらに内側に、確かに何かがある。
「……よし」
礼はその一部を右脚へ流した。
すぐに感覚が変わる。筋肉が膨らんだわけではないのに、地面を強く蹴れば昨日と同じように身体が前へ飛び出すだろうという確信があった。
続いて左脚へも流す。
ここまでは昨日、何度も成功している。
問題は、その先だった。
礼は左腕へ意識を向けた。
名前のない力が脚から身体の中を移動し、腕へ集まっていく。
「…………」
何となく違和感があった。
左腕には確かにある。
だが、先ほどまで満たしていたはずの右脚の感覚が薄くなっている。
礼は一度すべてを止め、最初からやり直した。
右脚、左脚、左腕。
今度は左脚が薄くなる。
さらに腹へ流そうとすると、腕からも消え始めた。
「……何でだ?」
目を開ける。
ノートを引き寄せ、『複数の場所に同時に流すのが難しい』と書き込んだ。その下へ『意識を別の場所に向けると、前の場所から消える?』と続ける。
しかし、両脚には同時に流せている。
なら、できないわけではない。
単に自分がやり方を知らないだけなのかもしれない。
礼はもう一度立ち上がった。
◇
右脚へ流し、左脚へ流す。そこから左腕へ移し、薄くなった右脚へ戻す。次は腹へ意識を向け、その間に左脚の感覚が消えかけたことに気づいて慌てて戻す。
何度繰り返しても同じだった。
身体の一か所へ集中すれば、別の場所への意識が疎かになる。右脚、左脚、左腕、腹、背中。頭の中で順番に確認し続けているうちに、自分が何をしているのか分からなくなってきた。
「右脚……左脚……腕……腹……右脚……」
そこで礼は眉を寄せた。
「……待て。左脚、消えてない?」
確認する。
消えていた。
「人体操作むずすぎるだろ……」
ため息をつき、切り株へ腰を下ろした。
全身へ同時に流す。
言葉にすれば簡単なのに、実際にやろうとすると途端に難しくなる。右腕にはこれくらい、脚にはこれくらい、と身体中を個別に意識し続けるなど、今の礼にはできそうになかった。
水を一口飲み、ノートを眺める。
そこで、昨日から何度も使っている言葉が目に留まった。
『流す』
礼はペンの先で、その二文字を軽く叩いた。
「流す……か」
今までは、身体の奥にある力を目的の場所へ送り込むことを、何となく「流す」と呼んでいた。
脚を強くしたければ脚へ。
腕なら腕へ。
それぞれ別の器へ水を注ぐように。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
礼は自分の手首へ触れた。皮膚の下で、脈が一定の間隔で打っている。
血は身体中を巡っている。
右腕へ送る血と左脚へ送る血を、自分が一つずつ意識しているわけではない。一つの流れが枝分かれしながら身体を巡り、また戻ってくる。
そこまで考えたところで、礼の指が止まった。
「……別々にする必要、ないんじゃないか?」
すぐに立ち上がる。
目を閉じると、名前のない力は先ほどと同じ場所にあった。
今度は右脚へ入れて終わりにしない。
脚へ流し、そこから腰へ。
さらに腹へ。
胸へ。
肩へ。
左腕へ。
身体の中で一本の道を作るように、ゆっくりと意識を動かしていく。
胸の辺りで途切れた。
「あ」
消えた。
もう一度。
今度は量を減らす。
脚から腰、腹、背中、肩。そこから腕へ。
先ほどより長く続いたが、指先まで意識したところでまた流れが消えた。
「くそ……」
だが、先ほどまでとは違う。
できそうな感覚があった。
礼はノートへ戻り、新しい一文を書き加える。
『別々に流すんじゃなく、一つの流れにする?』
その下へ少し大きく、
『身体の中を回す。』
と書いた。
「……もう一回」
礼は再び立ち上がった。
◇
昼になる頃には、礼はすっかり疲れていた。
途中で流れが切れる。力を込めすぎて脚だけに集まる。右肩を通そうとして傷に痛みが走り、慌てて止める。集中しすぎて呼吸まで浅くなり、普通に息苦しくなったこともあった。
身体を激しく動かしているわけではない。それなのに、頭の芯が重い。
名前のない力も、朝より少し薄くなっていた。
礼は木の根元へ背を預け、水を飲んだ。
「研究するだけで疲れるんだな……」
目の前では、小川の水が何の苦労もなく流れている。
礼はそれをぼんやり眺めた。
自分も、あんなふうにできればいい。
押し込むのではなく、自然に。
無理に動かすのではなく、流れそのものを作る。
そう考えたところで、もう一度試したい衝動が湧いた。
だが立ち上がりかけた礼は、自分の右肩へ触れて止まった。
一人なのだ。
ここで倒れても、ガルドはいない。
ミレナも、セイルも、ボルグもいない。
誰かが止めてくれるわけでもない。
「……休むか」
自分でそう決めて、礼は木の根元へ座り直した。
以前なら、できるまで意地になって続けていたかもしれない。
けれど、遺跡で死にかけた経験は、少なくとも無茶を格好いいとは思わせなくなっていた。
◇
昼食を取り、しばらく身体を休めたあとで、礼はもう一度立ち上がった。
今度は最初から欲張らないことにした。
速くならなくていい。
強くならなくていい。
ただ、途切れずに一周させる。
目を閉じ、自分の奥にあるものへ触れる。
――ドクン。
引き出す量は、ほんの少し。
脚へ。
腰へ。
腹へ。
そこから背中を通り、肩へ。
傷のある右側を避けるようにして左腕へ流し、指先まで行ったところで、今度は戻す。
焦らない。
途切れそうになっても、強く押し込まない。
小川の水を思い出す。
細くてもいい。
流れていればいい。
肩から胸へ。腹へ。そして再び脚へ。
その瞬間だった。
身体の中で、今まで別々に存在していた感覚が一つに繋がった。
礼は息を止めた。
力が脚にある。
腕にもある。
背中にも、腹にも。
けれど、どこか一か所へ溜まっているわけではない。
細い流れとなって、自分の身体の中を巡っている。
「……できた?」
声に出した途端、集中が乱れかけた。
「おっと……」
慌てて意識を戻す。
恐る恐る一歩踏み出した。
足が軽い。
もう一歩。
昨日、脚だけへ流した時のように身体が前へ吹き飛ぶことはなかった。代わりに、自分が思ったより少し速く、少し滑らかに足が出る。
軽く地面を蹴ってみる。
「うわっ」
身体が予想以上に浮いた。
だが着地はできた。
転ばない。
「……おお」
礼の顔に自然と笑みが浮かぶ。
今度は走ってみる。
木と木の間を抜け、方向を変え、止まる。
脚だけへ流した時より速度そのものは遅い。それでも、自分の身体を自分で制御できる。
「すげえ……」
もう一度走る。
曲がる。
止まる。
ちゃんと止まれる。
「これなら壁にぶつからない!」
その喜び方が正しいのかはともかく、礼にとっては大きな進歩だった。
◇
調子に乗りかけたところで、荷物のそばに置いていた木剣が目に入った。
ガルドから教わる時に使っていたものだ。
礼は少し迷ってから、それを手に取った。
「振るだけなら……」
右肩へ負担をかけないように構える。
足の位置を決める。腰を落とす。肩の力を抜く。
ガルドに何度も直された姿勢だった。
最初は剣を振るだけで身体のあちこちがばらばらに動いた。腕だけで振るな。腰を使え。足から動け。言われるたびに意味が分からなかった。
今なら。
少しだけ分かる気がした。
礼は木剣を振った。
空気を切る音が、いつもより鋭い。
驚いて剣を見る。
もう一度。
今度は意識して、脚から腰へ、背中から肩へと流れを保ったまま振る。
ヒュッ、と短い音が鳴った。
「……速い」
腕だけが強くなったわけではない。
脚が地面を踏む。
腰が回る。
背中が動き、肩から腕へ力が伝わる。
身体全部の動きが、ほんの少しずつ底上げされている。
だから、一つの動作として繋がった時に違いが出る。
遺跡で守護者を殴った時は、腕だけへ力を集めた。その結果、威力は上がったが、自分の身体が耐えられなかった。
「……そっか」
礼は木剣を下ろした。
「一か所に全部入れるから駄目だったんだ」
力そのものに身体を硬くする効果がないのなら、無理に一か所だけを強くするのではなく、身体全体で動けばいい。
もちろん、それで本当に怪我をしなくなるのかは分からない。
分からないなら、書いておく。
礼はノートを開いた。
『全身に薄く流すと、身体全体の動きが良くなる。』
『速さと力の両方が少し上がる?』
『一か所へ大量に集めるより安定する。』
少し迷い、最後に付け加える。
『身体の中で回すと維持しやすい。たぶん。』
「……たぶん多いな」
仕方がない。
今はまだ、何も確かではないのだから。
◇
午後になり、もう少しだけ循環を試してから帰ろうと考えていた時だった。
茂みの奥で、草が擦れる音がした。
礼は反射的に顔を上げた。
鳥が飛び立つ音とは違う。もう少し低く、重い。
木剣を手元へ引き寄せる。
身体の内側を巡らせていた力は、緊張しただけで少し乱れた。
逃げる。
最初に浮かんだのは、その選択肢だった。
それでいい。
何がいるのかも分からない状態で戦う理由はない。
ただし、背中を向ける前に相手を確認する。
ガルドから何度も言われたことだった。
礼はゆっくり立ち上がり、茂みを見つめる。
葉が揺れた。
灰色の毛並みが見える。
低い姿勢。口元から覗く牙。そして額から伸びた短い角。
「……ホーンウルフ」
礼の喉が小さく鳴った。
初めてガルドたちと仕事へ出た日に見た魔物だった。
あの時は、怖くて身体が震えた。
自分には何もできなかった。
けれどガルドは、それでいいと言った。
『お前が戦わなくて済むなら、その方がいい』
『俺たちがいる』
今はいない。
だからこそ、自分で決める。
礼は木剣を握ったまま、ゆっくりと後ろへ下がった。
「……今日は帰るわ」
ホーンウルフに言葉が通じるとは思っていない。それでも口に出すと、少しだけ呼吸が落ち着いた。
「怪我人だし。こっちもお前とやる理由ないし」
もう一歩下がる。
相手が追ってこなければ、それで終わりだ。
しかしホーンウルフは低く唸ると、前脚を地面へ沈めた。
その姿勢には見覚えがあった。
「――っ!」
跳ぶ。
礼は反射的に脚へ力を集めようとして、寸前で思い直した。
今日、何度も練習した。
一か所ではない。
全身へ。
細く巡らせる。
身体が動いた。
大きく横へ踏み出すと、ホーンウルフの牙が目の前を通り過ぎた。
速い。
それでも、脚だけを強化した時とは違って身体が置いていかれない。
着地した礼は、そのまま木剣を構え直した。
ホーンウルフもすぐに向き直る。
互いに距離を取った。
礼の心臓が速くなる。
怖い。
だが、身体は動いた。
一瞬だけ、考えが頭をよぎる。
これなら。
戦えるかもしれない。
「……試せるか?」
口にした直後、礼は自分で顔をしかめた。
「いや、何考えてんだ俺」
研究のために命を賭ける。
それでは本末転倒だ。
今の自分には木剣しかなく、身体には怪我まで残っている。
逃げられるなら逃げる。
そう決めた時、ホーンウルフが再び飛び込んできた。
礼は横へ動いた。
今度は先ほどより余裕がある。
すれ違いざまに木剣を振ると、胴へ鈍い手応えが返ってきた。
「ギャン!」
魔物が地面を転がった。
礼は目を見開いた。
「……当たった」
自分で一番驚いていた。
だが喜んでいる暇はない。
木剣で殴った程度では倒れない。ホーンウルフはすぐに起き上がり、先ほどよりも強く牙を剥いた。
「……だよな」
怒らせただけかもしれない。
ホーンウルフが三度目の突進に入る。
礼は動こうとした。
その瞬間、開かれた口の奥に並ぶ牙が見えた。
黒い守護者の腕が脳裏を掠めた。
閉じていく扉。
ガルドの顔。
『生きろ!!』
「――っ」
呼吸が止まった。
それだけだった。
だが、身体の中を巡っていた細い流れが、一瞬で途切れた。
踏み出した足が、思っていたほど前へ出ない。
「え――」
ホーンウルフの爪が迫る。
礼は咄嗟に身体を捻った。爪先が服を裂き、その勢いのまま地面へ転がる。
脇腹に痛みが走った。
「っ……!」
歯を食いしばって起き上がる。
ホーンウルフはすでにこちらを向いていた。
礼は自分の身体を探る。
流れが消えている。
「集中が……切れたら……」
もう一度巡らせようとする。
だが、さっきまでとは違う。
目の前に魔物がいる。
怖い。
息が速い。
脚、腰、腹、背中――順番に意識しようとしても、ホーンウルフが動くたびに集中が乱れる。
「こういう時に使えなきゃ意味ねえだろ……!」
言っている間にも、魔物が距離を詰めてくる。
礼は一瞬迷った。
そして、全身への循環を諦めた。
できないことを続けるより、できることを使う。
脚だけなら。
もう何度もやった。
力を流す。
――ドクン。
地面を蹴った。
身体が前へ飛び出す。
木々の間を抜け、街道の方向へ走る。背後から追ってくる足音が聞こえたが、礼は振り返らなかった。
右へ曲がる。
少し量を減らす。
また加速する。
何度か方向を変えるうちに、後ろの気配は遠ざかっていった。
それでも礼はしばらく走り続け、街道が見える場所まで来てからようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をつき、乱れた呼吸を整える。
脇腹が痛い。
額から汗が落ちる。
ホーンウルフは追ってこない。
逃げた。
倒せなかった。
それでも。
礼は息を吐きながら、小さく笑った。
「……まあ、生きてるし」
それでいい。
少なくとも、今は。
◇
宿へ戻った礼は、傷が開いていないことを確認してからベッドへ腰を下ろした。
服にはホーンウルフの爪が掠めた跡が残っている。
「……危なかったな」
今になって少し怖くなった。
礼はノートを開き、今日分かったことを書き足していった。
『集中が切れると、全身の流れも切れる。』
『戦っている時に維持するのは難しい。』
『脚だけなら使いやすい。たぶん慣れているから。』
そこで少し迷ってから、
『ホーンウルフ一匹から逃げた。』
と書いた。
しばらく眺める。
何となく負けたようで悔しい。
礼はその横へ、小さく一文を足した。
『生きてるので問題なし。』
「……よし」
誰に見せるわけでもないのに、少しだけ満足した。
ノートを最初から読み返す。
脚へ流せば速くなる。
腕へ流せば力が増す。
量は調整できる。
使えば減り、休めば戻るらしい。
そして今日、身体の中を巡らせることもできた。
昨日までばらばらだったものが、少しずつ一つの形になり始めている。
礼はそこで、ふと手を止めた。
今日、何度も身体の中へ力を巡らせた。
脚へ流した時も。
腕へ流した時も。
全身へ巡らせた時も。
最初に力を引き出している感覚だけは、いつも同じだった。
「……待てよ」
ノートを机へ置き、目を閉じる。
今度は使わない。
動かさない。
ただ、自分の内側を見る。
最初に微かな魔力がある。
それを越える。
――ドクン。
名前のない力が、そこにあった。
礼は眉を寄せる。
心臓ではない。
血でもない。
腹の中に何か物理的な器官があるという感覚とも違う。
それでも、力を使おうとした時には必ずここへ意識が向く。
ここから引き出し、身体へ流している。
「……始まる場所がある?」
目を開け、ノートへ書き込む。
『力が始まる場所がある?』
その下に『中心?』と書き、さらに迷ってから『核?』と付け加えた。
「核……」
声にしてみると、少し大げさな気がした。
「まあ、仮でいいか」
消さずに残しておく。
礼は椅子の背へ身体を預けた。
今までは、どう使うかばかり考えていた。
速くなる。
強くなる。
全身へ巡らせる。
けれど、それより先に調べなければならないことがあるのかもしれない。
そもそも、この力は何なのか。
なぜ自分の中にあるのか。
魔力についてなら、セイルが教えてくれた。この世界に生きる者なら多かれ少なかれ持っていて、長い時間をかけて多くの人間が研究し、魔術として体系化してきた。
だが、これは違う。
少なくとも、セイルは知らなかった。
遺跡で礼が初めてこの感覚に気づいた時も、他の四人が何かを感じた様子はなかった。
自分だけなのだろうか。
もしそうなら、なぜ。
異世界から来たからか。
魔力がほとんどないからか。
あるいは、まったく別の理由なのか。
礼は新しいページを開いた。
少し考えてから、上に『条件』と書く。
その下へ、思いつくまま疑問を並べていった。
『誰にある?』
『どうして生まれる?』
『何をすると増える?』
『何をすると減る?』
最後の一行を書く前だけ、ペンが止まった。
礼は自分自身について考えた。
日本から来た。
十七歳。
魔力はほとんどない。
この世界では珍しい名前。
読み書きは最近覚えた。
剣もまだ弱い。
そして――。
そこまで考えたところで、礼は首を振った。
今はまだ、何が関係しているのか分からない。
だからこそ、決めつけずに調べる。
礼は最後の一行を書いた。
『俺にあって、他の人にないものは?』
ペンを置く。
窓の外では日が傾き、向かいの建物の屋根が夕日に染まっていた。階下からは夕食の支度をする音が聞こえ、誰かが笑っている声もする。
礼はその一文を、しばらく黙って眺めていた。
答えはまだ分からない。
それでいい。
昨日より今日の方が、分かることは増えた。
今日分からなかったことなら、明日調べればいい。
「……次は、これか」
礼は指先で最後の一行をなぞった。
誰かに教えてもらうことはできない。
答えの載った本もない。
だから、自分で確かめるしかない。
この時の礼はまだ知らなかった。
今日、林の中でどうにか作り上げた不格好な「流れ」が、やがて数え切れないほどの人間に教えられる技術になることを。
身体の奥に見つけた「核かもしれない何か」が、遠い未来には研究者たちによって幾つもの論文を書かれるほど重要な概念になることを。
そして何より。
ノートの最後に残された、あまりにも単純な問い。
『俺にあって、他の人にないものは?』
その答えを探すことが。
やがて如月礼自身の人生だけでなく、この世界の歴史まで変えることになるなど。
十七歳の少年は、まだ知るはずもなかった。




