第十七話 自分だけの答え
街を出てから一時間ほど歩いたところで、礼は自分が何も考えずに歩いていたことに気づいた。
「……どこ行くんだ、俺」
足を止める。
振り返れば、街を囲む城壁はまだ見えていた。街道を行き交う人の姿もちらほらとあり、荷馬車が一台、礼が来た道をゆっくりと進んでいく。
行き先は決めていない。
次の街がどこにあるのかも知らない。
そもそも、傷の治っていない身体で遠出するつもりもなかった。
ただ、あの宿を出る。
自分の足で、自分から。
それだけを決めて歩き始めた。
「…………」
礼はもう一度、街の方を見た。
あそこへ戻れば、たぶん四人はいる。
今ならまだ、戻れる。
門をくぐって宿へ行き、「やっぱりもう少しいる」と言えば、きっと誰も笑わない。ボルグなら大声で喜ぶだろうし、ミレナは呆れながらも笑うだろう。セイルは何も言わず本を読み、ガルドも理由を聞かない気がする。
想像できた。
あまりにも簡単に。
「……やめよう」
礼は前を向いた。
戻りたいから出てきたのではない。
嫌いになったから出てきたわけでもない。
自分で決めるために出てきた。
なら、最初の行き先くらい自分で考えなければならない。
そう思ったところで、礼は気づいた。
「いや、だからどこ行くんだよ」
結局、何も決まっていない。
思わず笑った。
格好よく別れてきたつもりだったが、現実はこんなものだった。
◇
礼が最初に選んだのは、別の街でも村でもなかった。
街道から少し外れた、小さな林だった。
以前、ガルドたちと依頼へ向かった際に通ったことがある。危険な魔物はほとんど出ず、街からも遠くない。何かあっても一時間ほど歩けば戻れる距離だ。
そして何より、人目が少ない。
「……ここならいいか」
木々の間を進み、少し開けた場所を見つける。
背の低い草が生え、中央には古い切り株があった。近くを細い小川が流れているらしく、水の音も聞こえる。
礼は荷物を下ろし、切り株へ腰掛けた。
右肩が痛む。
長く歩いたせいか、脇腹も少し疼いていた。
「旅に出る身体じゃねえな、これ」
自分で言って苦笑する。
だから今日は遠くへ行かない。
むしろ、やるべきことがある。
礼は鞄からノートを取り出した。
何度も開いたせいで、すでに端が少し傷んでいる。
最初の頃は薬草や魔物について書いていた。
『白線三本=薬草』
『二本=吐く。絶対食うな』
『ホーンウルフ=弱いらしい。絶対嘘』
『荷物は命より軽い』
ページをめくる。
ガルド。
ミレナ。
セイル。
ボルグ。
そして。
『仲間』
礼の指が、一瞬だけ止まった。
「…………」
そのページを静かにめくる。
次に現れたのは、昨夜まで書き足していた記録だった。
『自分の中に、魔力とは違う何かがある。』
『使うと減る。休むと戻る?』
『脚に流すと速くなる。』
『流しすぎると壁にぶつかる。かなり痛い。』
『腕に流すと力が強くなる。ただし身体が強くなるわけではない?』
『硬いものを殴ると普通に自分も痛い。』
その下には、大きく。
『???』
礼はしばらく、それを眺めた。
「……何なんだろうな、お前」
自分の身体に聞いてみる。
当然、答えは返ってこない。
ならば。
「調べるしかないか」
礼はペンを手に取った。
◇
最初にやったのは、何もしないことだった。
切り株へ座り、目を閉じる。
セイルに教えられた通り、自分の内側へ意識を向けた。
魔力を探す時と同じだ。
外を見るのではなく、自分を見る。
呼吸。
鼓動。
身体の内側。
最初に感じるのは、微かな魔力だった。
礼にも魔力がまったくないわけではない。ただ、あまりにも少ない。魔術を実用的に扱えるほどではなく、適性を調べた水晶にもほとんど反応しなかった。
その微かな感覚を、さらに越える。
もっと奥へ。
遺跡で死にかけた時。
何でもいいから自分を生かしてくれと願い、必死に探した場所。
今は、あの時ほど時間はかからなかった。
――ドクン。
「……あった」
目を閉じたまま呟く。
そこにある。
以前よりはっきり分かる。
魔力とは違う。
説明しろと言われても困る。
色が見えるわけではない。
形があるわけでもない。
熱いわけでも冷たいわけでもない。
ただ。
自分の中に、何かがある。
それだけは確信できる。
礼は目を開け、ノートへ書いた。
『①何もしなくても存在する。』
少し考え、付け足す。
『寝た後の方が多い気がする。』
「気がする、ばっかりだな」
仕方がない。
比較する道具など持っていないのだから。
水晶が反応するかも分からない。
そもそも、あの力を自分以外の人間が感じられるのかさえ知らない。
礼はペンを置いた。
「次」
立ち上がる。
右肩を使うのは避ける。
まずは遺跡でも何度か成功した、脚だ。
身体の奥にあるものへ意識を向ける。
そこから。
脚へ。
「……流す」
自分で口に出してみる。
何かを押し出すというより、通り道を意識する感覚だった。
――ドクン。
両脚に、あの奇妙な感覚が広がった。
「よし」
以前なら、このまま全力で地面を蹴っていた。
そして壁に激突した。
今日は違う。
「少しだけ」
遺跡で学んだ。
全部を使う必要はない。
礼は正面の木までの距離を確認した。
十歩ほど。
軽く地面を蹴る。
「――っ!」
身体が前へ飛び出した。
速い。
だが。
「うおっ……!」
止まれない。
礼は慌てて足を踏ん張った。
草の上を靴が滑る。
身体が前へ傾く。
「やば――」
そのまま地面へ転がった。
「っ……痛ぇ……」
しばらく草の上で丸くなる。
脇腹に響いた。
「……治ってからやればよかった」
完全に正論だった。
だが、もう始めてしまった。
礼は起き上がり、服についた草を払いながらノートへ戻った。
『②脚に流すと速くなる。』
そこまでは分かっている。
続ける。
『速く走れる、ではない?』
ペンが止まる。
「……そうだ」
走っている感覚とは少し違う。
筋肉が鍛えられたわけではない。
脚が突然強くなったようにも思えるが、それだけでは説明しにくい。
地面を蹴った瞬間。
身体そのものが、前へ押し出される。
『蹴る力が強くなる?』
『身体を動かす力が増える?』
「分かんねえ」
両方に疑問符を付けた。
◇
次は量だった。
礼は同じ場所へ戻り、先ほどよりさらに少ない量を脚へ流した。
一歩。
速い。
しかし今度は転ばない。
「……お」
もう一度。
少し増やす。
一歩。
先ほどより速い。
「おお」
さらに。
「待て」
礼は自分で止めた。
「これ調子乗ったら絶対またぶつかるやつだ」
遺跡で学習している。
少なくとも、その程度には成長した。
礼は何度か繰り返した。
少量。
少し増やす。
減らす。
片脚だけ。
両脚。
右。
左。
何度も試しているうちに、少しずつ違いが分かってくる。
右脚だけに流せば、右の蹴り出しだけが強くなる。
左も同じ。
両方へ同じ程度に流せば、身体は真っ直ぐ前へ進みやすい。
左右で量が違えば。
「うおおおっ!?」
礼の身体が盛大に横へ逸れた。
木の幹が迫る。
「待っ――!」
寸前で左足を踏ん張り、どうにか回避する。
勢い余って尻餅をついた。
「…………」
目の前に木がある。
あと少しずれていれば、顔面から突っ込んでいた。
「……危な」
冷や汗が流れる。
礼はしばらく木を見上げてから、ノートへ戻った。
『③流す量は変えられる。』
『④左右で量を変えると危ない。』
その下へ。
『木にぶつかりそうになった。』
少し考え。
『かなり危ない。』
さらに。
『一人でやる時は調子に乗らない。』
「よし」
誰に見せるわけでもない。
自分のための研究記録だった。
◇
昼頃。
礼は小川のそばでパンを食べていた。
街を出る前に買ったものだ。
一人分。
食べながら、ノートを読む。
『脚に流す→速くなる』
『量の調整可能』
『左右別々も可能』
『使うと少し減る』
最後の一文。
何度か実験したことで、身体の奥にある感覚が少し薄くなっていた。
「やっぱ減ってるよな」
遺跡ほどではない。
あの時は生きるために何度も大量に使った。
最後には、ほとんど空になったような感覚があった。
それが休めば戻る。
なら。
「何が戻してるんだ?」
食事か。
睡眠か。
時間か。
それとも全部か。
礼はパンを見る。
「……食わないで試す?」
数秒。
「嫌だな」
却下した。
腹が減る。
それに食事を抜いて倒れたら、何のための研究か分からない。
礼は残りのパンを食べた。
水を飲む。
木陰に寝転がる。
葉の隙間から青空が見えた。
静かだった。
昨日までなら。
隣には誰かがいた。
ボルグがうるさく喋って。
ミレナがそれを止めて。
セイルが本を読んで。
ガルドが次の予定を確認する。
「…………」
礼は目を閉じた。
寂しい。
そう思った。
でも。
戻ろうとは思わなかった。
寂しいことと。
間違っていることは。
たぶん違う。
礼はそんなことを考えながら、いつの間にか眠っていた。
◇
目を覚ましたのは、日が少し傾いてからだった。
「……寝てた」
身体を起こす。
どれくらい眠ったのか分からない。
一時間か。
二時間か。
礼は伸びをしかけ、右肩の痛みに顔をしかめた。
「っ……忘れてた」
それから。
ふと思い出す。
自分の内側。
目を閉じる。
探す。
――ドクン。
「……増えてる?」
礼は目を開けた。
朝ほどではない。
でも。
昼前よりは明らかに濃い。
すぐにノートを開く。
『⑤休むと戻る。』
そこで止まる。
「いや」
断定はできない。
眠った。
食事もした。
時間も経った。
どれが原因なのか分からない。
礼は『戻る』を線で消し、書き直した。
『⑤休むと戻る?』
『食事? 睡眠? 時間?』
「これも調べないとな」
少し楽しくなってきた。
自分でも意外だった。
誰にも教えてもらえない。
答えを知っている人間もいない。
失敗すれば痛い。
危ない。
それでも。
一つ試すたびに、一つだけ分かる。
分からないことが増えることもある。
でも、それは。
「……面白いな」
礼は小さく笑った。
異世界へ来て。
初めてだった。
誰かから教わったものではない。
ガルドの剣でもない。
ミレナの薬草でもない。
セイルの魔術でもない。
ボルグの盾でもない。
もちろん。
彼らに教わったことがなければ、ここまで来られなかった。
それでも。
これは。
自分で見つけたものだった。
◇
礼はもう一つだけ試すことにした。
腕だ。
遺跡では、左腕へ力を流して守護者を殴った。
確かに威力は増した。
だが同時に、自分の手も痛めた。
ならば。
「殴らなきゃいい」
礼は落ちていた細い枝を拾った。
左手で握る。
枝へ力を流す――。
「…………」
何も起きない。
「やっぱ俺の身体だけ?」
今度は枝ではなく、左腕へ流す。
――ドクン。
感覚が移動する。
その状態で枝を握る。
力を込める。
パキッ。
「お」
簡単に折れた。
別の、少し太い枝。
同じように握る。
「……っ」
力を込める。
ミシッ。
折れた。
「おお……!」
礼は目を輝かせた。
もう少し太いもの。
探す。
そして。
木の幹を見る。
「…………」
昨日までの自分なら、殴っていたかもしれない。
礼は腫れた左手を見る。
「やめよう」
学習した。
代わりに地面へ落ちていた太めの枯れ枝を拾う。
両手で折ろうとして。
「右使えないじゃん」
肩が痛い。
「……治ってからだな」
礼は枝を捨てた。
ノートへ戻る。
『⑥腕に流すと力が強くなる。』
『でも身体自体が硬くなるわけではない。たぶん。』
『物に流せる?→今のところ無理。』
「脚と腕」
礼は自分の身体を見る。
なら。
他は?
手。
指。
背中。
腹。
頭。
全身。
「…………」
全身。
その言葉で、ペンが止まった。
脚だけなら速くなる。
腕だけなら力が強くなる。
ならば。
身体全部へ。
同時に。
薄く。
流したら。
「…………」
試してみたい。
猛烈に。
でも。
礼は自分の脇腹を触った。
痛い。
右肩も。
痛い。
そして。
今日だけで何度か転んだ。
「……明日だな」
初めて。
自分から実験をやめた。
ガルドなら。
たぶん。
『それでいい』
と言う。
「……だから、うるせえって」
礼は笑った。
◇
日が沈む前に、礼は街へ戻った。
ただし。
以前の宿には戻らなかった。
別の宿を探した。
看板の文字を読み。
値段を確認し。
一人分の部屋を取る。
受付の男に名前を聞かれた。
「如月礼」
男は聞き慣れない名前に首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
部屋へ入る。
昨日までより狭い。
ベッドも少し硬そうだ。
当然。
朝になっても。
五人分の朝食はない。
「…………」
礼は荷物を置いた。
少し。
寂しかった。
それでも。
「まあ、いいか」
今日は。
自分で選んだ宿だった。
ベッドへ腰を下ろし、ノートを開く。
今日一日の記録を読み返す。
『①何もしなくても存在する。寝た後の方が多い気がする。』
『②脚に流すと速くなる。』
『③流す量は変えられる。』
『④左右で量を変えると危ない。』
『⑤休むと戻る? 食事? 睡眠? 時間?』
『⑥腕に流すと力が強くなる。身体自体が硬くなるわけではない?』
『物に流せる?→今のところ無理。』
最後に。
礼は新しく一行を書いた。
『⑦全身に流したらどうなる?』
その文字を見つめる。
明日。
試す。
礼はペンを置こうとして。
止まった。
「…………」
まだ。
一番大事なことが残っている。
ページの一番上。
大きな。
『???』
これだ。
礼はそこを見つめた。
使い方は、少し分かってきた。
脚へ流せる。
腕へも流せる。
量も調整できる。
使えば減る。
休めば戻るらしい。
でも。
そもそも。
「……何なんだ、これ」
魔力とは違う。
少なくとも。
自分にはそう感じる。
では。
どこから来た。
なぜ自分にある。
他の人間にもあるのか。
なぜ今まで誰も教えてくれなかった。
分からない。
礼は新しいページを開いた。
そこへ。
ゆっくりと書く。
『この力は、何なのか。』
少し考え。
その下へ。
『どこから来ている?』
さらに。
『なぜ俺にある?』
礼はペンを置いた。
窓の外では。
知らない街の夜が始まっていた。
答えは。
まだ一つもない。
それでも。
礼は少し笑った。
「……まずは、そこからか」
十七歳の少年が、その夜ノートへ書き残した三つの疑問。
それはまだ、誰にも知られていない。
歴史書にも。
魔術書にも。
どんな学者の論文にも存在しない問いだった。
そして。
その答えを知る者も。
まだ、この世界にはいなかった。
だから。
如月礼は。
自分で探すことにした。




