第十五話 五人分の朝食
翌朝、礼は扉を叩く音で目を覚ました。
「礼! 朝だぞ!」
眠りの底まで届きそうな大声だった。
礼は薄く目を開け、ぼんやりと天井を見つめた。見慣れた木目が視界に入る。窓の隙間から差し込む朝の光も、廊下を誰かが歩く床板の軋みも、何もかも昨日までと同じだった。
「朝飯なくなるぞ!」
もう一度、扉の向こうから声が飛んでくる。
ボルグだ。
「……分かった」
「聞こえん!」
「分かったって!」
「そうか!」
満足したらしい。廊下を遠ざかっていく足音は、負傷した右脚を庇っているせいか、いつもより少しだけ不揃いだった。
礼はしばらく起き上がらなかった。
目だけを動かし、閉じた扉を見る。
何度、この声で起こされただろう。
最初の頃は、朝から何でこんなに元気なんだと本気でうるさく思っていた。それがいつの間にか、ボルグに起こされない朝の方が珍しくなっていた。
「……朝飯か」
呟いて身体を起こす。
途端に右肩から脇腹にかけて鈍い痛みが走り、礼は思わず顔をしかめた。
「っ……」
治療師から今日は絶対安静だと言われている。昨日よりはいくらか楽になっていたが、身体のあちこちが守護者との遭遇を忘れさせてはくれない。
左手もまだ腫れている。
黒い外殻を殴った時のことを思い出し、礼は苦い顔で拳を眺めた。
「……そりゃ殴った方も痛いよな」
今になれば当たり前だ。
力が強くなったからといって、自分の拳まで石や鉄になるわけではない。
礼はベッドから降り、机へ目を向けた。
昨夜使ったノートが置いてある。
開かれたページの上には、大きく『???』と書かれていた。
魔力とは違う何か。
自分の内側に存在している、正体不明の力。
脚へ流せば身体が驚くほど加速し、腕へ流せば力が増した。使えば減り、休息を取れば少しずつ戻るらしい。
分かったことは、まだそれだけだ。
礼は目を閉じ、自分の内側へ意識を向けてみる。
昨日より簡単に見つかった。
身体の奥底に、確かに何かがある。
――ドクン。
心臓とは違う、奇妙な感覚。
「……戻ってる」
昨夜より、さらに少し。
確かめてみたい。
どこまで細かく動かせるのか。脚だけではなく、指先へも流せるのか。量を調整すれば、昨日のように壁へ激突せずに済むのか。
そんな疑問が次々と浮かぶ。
「あとで試すか」
礼はノートを閉じた。
その時、階下から笑い声が聞こえてきた。
ミレナの声だった。
続いてボルグの大声。
何を話しているのかまでは聞き取れない。それでも、どちらがどちらなのかはすぐに分かった。
そのことに気づいて、礼の手が止まった。
この一か月で覚えた声だった。
礼は扉を見る。
昨日までなら、腹が減ったというだけで開けられた扉だ。
今日は、手を伸ばすまでに少し時間がかかった。
◇
食堂へ降りると、焼いたパンの香ばしい匂いがした。
窓から差し込む朝日がテーブルの半分を照らし、木の皿やスープの表面を柔らかく光らせている。
いつもの席。
そこには、五人分の朝食が用意されていた。
礼は階段の最後の一段を下りる前に、足を止めた。
焼いたパン。卵。薄い野菜のスープ。それに小さな腸詰めが一本ずつ。
豪華な料理ではない。
この宿では珍しくもない。
それでも礼にとって、五人分の朝食には特別な意味があった。
この世界へ来て間もない頃。
朝、食堂へ降りてきた礼は、自分の席にも当然のように料理が置かれていることに驚いた。
誰かが、自分の分まで用意している。
それだけのことが、あの頃の礼には理解できなかった。
日本では、朝食がない日も珍しくなかった。
冷蔵庫を開けて何もなければ、水だけ飲んで学校へ行った。誰かが自分のために食事を用意して待っているなど、いつの頃からか想像もしなくなっていた。
それなのに、この世界へ来てからは。
五人分あることが、いつの間にか当たり前になっていた。
「礼?」
ミレナが気づいた。
「何してるの? そんなところで」
「……いや」
礼は階段を下りた。
「何でもない」
いつもの席に座る。
椅子を引く音。
セイルが本のページをめくる音。
ボルグがパンを千切る音。
ミレナが熱いスープを冷ますために息を吹きかける音。
以前なら意識もしなかった音が、今日は妙にはっきりと耳へ入ってきた。
「礼」
「ん?」
「遅いぞ」
ボルグが言った。
その手には、すでに半分ほどになったパンが握られている。
「……俺を起こしてから食べ始めるまで早すぎない?」
「朝飯は戦いだからな!」
「何と戦ってんだよ」
「空腹だ!」
「一人でやっててくれ」
ミレナが呆れたように笑った。
「こいつ昨日もあれだけ食べたのにね」
「昨日は昨日だ。今日は今日だ!」
「便利な身体」
「羨ましいか?」
「全然」
いつもの会話だった。
礼はパンを手に取った。
焼きたてなのか、まだほんのりと温かい。千切ると内側から僅かに湯気が上がった。
口へ運ぶ。
美味しい。
昨日までと同じ味だった。
向かいではセイルが本を読みながらスープを飲んでいる。
「それ、食事中くらい閉じたら?」
礼が言うと、セイルが本から目を上げた。
「今まで何も言わなかっただろう」
「今日から気になった」
「なぜだ」
「なんとなく」
「理不尽だな」
「たまにはいいだろ」
「よくない」
礼は笑った。
セイルも僅かに口元を緩める。
普通だった。
怖いくらい、普通だった。
昨日までと同じ朝。
同じ四人。
同じ食卓。
ボルグはうるさく、ミレナはそれを適当にあしらい、セイルは食事中でも本を読む。
自分もそこに混ざっている。
何も変わっていないように見える。
礼はもう一度パンを千切った。
このままでいい。
ふと、そう思った。
昨日のことを忘れる必要はない。
ただ、触れなければいい。
時間が経つのを待てばいい。
一週間。
一か月。
半年。
いつか、あの遺跡のことを思い出しても苦しくなくなる日が来るかもしれない。
また五人で依頼へ行って。
荷物を持って。
ガルドから剣を教わって。
帰ってきたら食事をする。
朝になればボルグが扉を叩く。
それでいいのではないか。
だって。
礼は目の前の食卓を見る。
失いたくなかった。
ようやく手に入れたものだった。
自分の分の食事があること。
名前を呼ばれること。
帰れば「おかえり」と言われること。
誰かとくだらないことで笑えること。
全部。
失いたくない。
カタン、と小さな音がした。
礼は反射的に顔を上げた。
ガルドがナイフを皿へ置いただけだった。
目が合う。
「…………」
「…………」
ほんの一瞬。
それだけだった。
なのに礼の目には、食堂ではない場所が映った。
黒い扉。
狭くなっていく隙間。
向こう側に立つガルド。
『生きろ!!』
礼の指先から力が抜けた。
千切りかけていたパンが皿へ落ちる。
「……礼?」
ミレナがこちらを見た。
「大丈夫?」
「……うん」
礼は落としたパンを拾った。
「ちょっと手、痛かっただけ」
「まだ腫れてるものね。無理しちゃ駄目よ」
「分かってる」
嘘だった。
手ではない。
礼は俯いたまま、パンを口へ運んだ。
失いたくない。
それは本当だった。
でも。
戻れない。
それも、たぶん本当だった。
◇
食事の終わり頃、ボルグが礼の皿に残っていた腸詰めをちらちらと見始めた。
「……何」
「いや」
「食いたいの?」
「礼が食わんのであれば、食材を無駄にするのは良くないと思ってな」
「めちゃくちゃ食いたいだけじゃん」
「違う。これは食材への敬意だ」
「嘘つけ」
ボルグの手が伸びる。
横からミレナが叩いた。
「痛っ!」
「怪我人のご飯取らない」
「俺も怪我人だぞ!」
「だから?」
「怪我人には優しくするものではないのか!」
「十分してるでしょ。昨日だって肩貸したじゃない」
「では腸詰めも貸してくれ」
「返ってこないでしょ」
「…………」
「何で黙るのよ」
礼は二人を見ながら、腸詰めを半分に切った。
「ほら」
「いいのか!?」
「半分だけな」
「礼……!」
「その顔やめろ。気持ち悪い」
「俺は今、友情に感動している!」
「腸詰め半分で友情確認すんなよ」
食卓に笑いが起きた。
礼も笑った。
心から。
そして、笑いながら思った。
やっぱり好きだ。
この時間が。
この四人が。
だから。
苦しかった。
◇
朝食のあと、四人はギルドへ向かうことになった。
遺跡で起きたことを正式に報告しなければならないらしい。
「お前は来るな」
宿の入口で、ガルドが礼に言った。
「治療師にも今日は休めと言われただろ」
「分かってる」
「本当に分かってる顔か?」
「何だよその顔」
「お前、放っておいたら歩き回りそうだからな」
「信用ねえなあ」
思わず言ってから、礼は少しだけ言葉に詰まった。
信用。
ガルドも気づいたのかもしれない。
一瞬だけ沈黙が落ちる。
けれどガルドは表情を変えず、
「昼には戻る」
とだけ言った。
「うん」
ミレナが礼の顔を覗き込む。
「ちゃんと寝てなさいよ?」
「分かってるって」
「昨日もそんなこと言って無茶したんじゃないでしょうね」
「昨日は無茶しないと死んでたんだよ」
口にしてから、しまったと思った。
ミレナの表情が固まる。
「あ……」
「…………」
「ごめん」
「いや」
礼は首を振った。
「俺も、ごめん」
気まずい。
こんなふうに気を遣う関係ではなかった。
以前ならミレナが何か言い、礼が返し、それで終わった。
今は一つの言葉を口にするたび、その下に別の意味がないか探してしまう。
「じゃ、行ってくる」
「うん」
ボルグが杖代わりの棒をつきながら手を上げる。
「昼飯までには戻るぞ!」
「お前は飯しかないのか」
「生きる基本だ!」
「それは否定できないけど」
最後にセイルが礼を見る。
いつもより長い。
「……何?」
「いや」
「何だよ」
「君は分かりやすいようで、時々まったく分からない顔をする」
「悪口?」
「観察結果だ」
「もっと悪いわ」
「何か隠しているのか?」
心臓が僅かに跳ねた。
昨夜のノートが頭をよぎる。
名前のない力。
セイルなら何か知っているかもしれない。
聞けば。
教えてくれるかもしれない。
「…………」
それでも。
「別に」
礼は答えた。
セイルはしばらく礼を見つめていたが、それ以上追及しなかった。
「そうか」
その一言だけを残し、宿を出ていく。
扉が閉じた。
四人の足音が遠ざかる。
礼は一人になった。
◇
部屋へ戻った礼は、治療師の言いつけ通りベッドへ横になった。
だが眠れなかった。
身体は疲れている。
目を閉じれば、すぐにでも眠れそうなほど重い。
それなのに頭だけが妙に冴えていた。
寝返りを打つ。
右肩が痛む。
「……暇だ」
天井を見ながら呟く。
やがて諦めて起き上がった。
部屋を見渡す。
狭い。
ベッドと机、小さな棚。それだけでほとんど埋まる。
この部屋へ初めて通された日のことを覚えている。
『今日はここ使え』
ガルドがそう言った。
『金は?』
『報酬から引く』
『俺まだ何もしてないけど』
『じゃあ借金だな』
『いきなり借金背負わせるなよ』
そんな会話をした。
日本で使っていた部屋より狭く、ベッドも硬かった。
それなのに、あの夜は妙に安心して眠れた。
礼は机の横に立てかけてある木剣を見た。
ガルドとの稽古で使っていたものだ。
手に取る。
握りの部分には、自分の手に馴染んだ跡がある。
『腰が引けてる』
『怖いんだから仕方ないだろ』
『怖くても前に出る練習だ』
『無茶言うなよ』
『だから練習するんだ』
礼は何度も振った。
最初はまともに構えることすらできなかった。
初めてガルドの剣へ木剣を当てられた日は、子供みたいに嬉しかった。
明日も。
明後日も。
その次も。
そう言われた。
「…………」
礼は木剣を元の場所へ戻した。
視線を下げると、学校の鞄がある。
この世界へ来た時に持っていたものだ。
中には教科書、筆箱、学生証。
そして日本円。
この世界では何の価値もない。
それでも捨てられなかった。
礼は学生証を取り出した。
写真。
名前。
如月礼。
十七歳。
「…………」
この世界では、何の意味も持たない紙切れ。
けれど、それだけが自分がどこから来たのかを証明している。
日本へ帰れるのだろうか。
以前は、もっと考えていた気がする。
今は。
帰りたいのかすら、分からない。
あの家。
母親。
冷蔵庫。
財布の二百三十八円。
誰も待っていない部屋。
戻ったところで、何がある。
「……何もねえか」
礼は学生証を鞄へ戻した。
だから。
嬉しかった。
この世界でガルドたちに拾われた時。
飯を食わせてもらった。
服を買ってもらった。
剣を教えてもらった。
名前を呼んでもらった。
仲間だと言ってもらった。
帰れば、おかえりと言ってもらえた。
ようやく。
自分にも。
居場所ができた。
「…………」
礼はベッドへ腰を下ろした。
そして、昨日から何度も避けていた問いを、初めて真正面から考えた。
居場所とは、何だろう。
誰かに「ここにいていい」と言われた場所なのか。
誰かが自分の席を用意してくれる場所なのか。
だとしたら。
その誰かが「ここにいられない」と決めた時。
自分の居場所はなくなるのか。
遺跡で。
ガルドは決めた。
礼を残すと。
仕方がなかった。
理屈は理解している。
誰か一人が残らなければ、全員が死ぬ。
ボルグは負傷していた。
ミレナは彼を支える必要がある。
セイルには魔術がある。
ガルドは三人を生きて帰すために必要だった。
だから礼だった。
理解できる。
理解できてしまう。
だからこそ。
「……怖いんだ」
礼はようやく気づいた。
もう一度、誰かに決められることが。
ここにいていい。
ここにいなくていい。
必要だ。
必要じゃない。
自分の居場所を、自分以外の誰かに決められることが。
怖い。
日本でもそうだった。
母親の都合で、礼の存在はあったりなかったりした。
家にいるのに、いないように扱われる。
食事が用意されるかどうかも、その日の母親次第だった。
そして、この世界でも。
ようやく手に入れたと思った場所から。
自分はまた、誰かの判断で外へ出された。
「…………」
礼は両手を見た。
傷だらけの手。
昨日。
この手で。
自分は生き残った。
正確には、一人ではなかった。
四人に教わったものがあった。
でも。
最後に。
走ると決めたのは自分だった。
あの名前のない力を動かそうとしたのも。
失敗して。
壁にぶつかって。
それでももう一度試したのも。
自分。
「……そっか」
小さな声が漏れた。
答えは突然現れたわけではなかった。
ずっと胸の中にあったものが、ようやく言葉になっただけだった。
「俺、自分で決めたいんだ」
どこにいるか。
誰といるか。
何をするか。
自分が必要かどうかさえ。
誰かに決めてもらうのではなく。
自分で。
◇
昼を過ぎても、礼は眠らなかった。
代わりに、少しずつ荷物を整理し始めた。
最初から出ていくつもりだったわけではない。
ただ、使うものと使わないものを分けた。
服を畳んだ。
水筒を確認した。
ノートを鞄へ入れた。
学生証も。
気づいた時には、ほとんどの荷物が一つにまとまっていた。
礼は床に置かれた鞄を見つめた。
それはどう見ても、旅立つ人間の荷物だった。
「…………」
しばらく見つめる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……出るんだな、俺」
口にしてみる。
悲しかった。
怖かった。
それでも、不思議と迷いは少なかった。
四人が嫌いだからではない。
むしろ逆だった。
好きだった。
今朝だって楽しかった。
ボルグの腸詰めを半分やった。
ミレナとくだらない話をした。
セイルの本をからかった。
ガルドと目が合った。
ここにいたい。
まだ、そう思っている。
だからこそ。
このまま何もなかったことにはできなかった。
礼は窓の外を見る。
知らない街並み。
さらにその向こうには、礼がまだ何も知らない世界が広がっている。
「……出よう」
今度は、はっきり言った。
誰かに追い出される前に。
誰かに置いていかれる前に。
ではない。
自分が。
行きたいから。
自分で歩きたいから。
出ていく。
◇
夕方。
階段を上がってくる足音が聞こえた。
やがて、礼の部屋の前で止まる。
コンコン、と二度。
「礼」
ガルドだった。
「開いてるよ」
扉が開く。
ガルドは部屋へ入ると、まず礼を見た。
「体調は?」
「昨日よりはマシ」
「寝てたか?」
「…………」
「寝てないな」
「何で分かるんだよ」
「お前の顔見れば分かる」
「一か月しか一緒にいないくせに」
言ってから、礼は少しだけ笑った。
ガルドも僅かに笑う。
「一か月も一緒にいたからな」
「…………」
笑いが消えた。
ガルドの視線が床へ移る。
まとめられた荷物。
長い沈黙。
ガルドは何も聞かなかった。
そのことが礼にはありがたく、同時に少しだけ寂しかった。
「ガルドさん」
「何だ」
「話があります」
「ああ」
ガルドは部屋の扉を閉めた。
椅子には座らず、礼の前に立ったまま待つ。
礼は何度も考えていた言葉を、頭の中でもう一度組み立てた。
もっと上手な言い方があるのかもしれない。
でも。
十七歳の自分には、これくらいしか言えなかった。
「俺」
一度、息を吸う。
「パーティーを抜けようと思います」
ガルドの表情は変わらなかった。
驚いていない。
おそらく。
荷物を見る前から。
分かっていたのだろう。
「……そうか」
「うん」
「決めたのか」
「……多分」
「多分か」
「俺、まだ十七だから」
礼は苦笑した。
「そんな簡単に全部決められないよ」
「そうだな」
ガルドの声は優しかった。
その優しさが、今は少し痛かった。
「でも」
礼は続ける。
「ここにいたら駄目だと思う」
ガルドは黙って聞いている。
「みんなが嫌いだからじゃない。ミレナも、セイルさんも、ボルグさんも……」
そこで一度言葉を止めた。
「ガルドさんも」
ガルドの目が僅かに揺れる。
「嫌いになれない」
「…………」
「恨んではいるけど」
「ああ」
「めちゃくちゃ」
「ああ」
「たぶん、しばらく許せない」
「ああ」
否定しない。
怒りもしない。
それが。
本当に。
ずるいと思った。
「でも、ここにいると」
礼は自分の手を見た。
「あの扉のこと、ずっと思い出すと思う」
ガルドの顔を見る。
「ガルドさんが何か決めるたびに、今度は俺かなって思う」
「…………」
「また俺が置いていかれるんじゃないかって」
言葉にしてみると、胸の奥にあった恐怖の形が、ようやくはっきりした。
「たぶん俺、もうガルドさんの判断を、前みたいには信じられない」
ガルドは目を逸らさなかった。
「……そうだな」
その返事に礼の胸が痛んだ。
「だから、一緒には行けない」
「ああ」
「ごめん」
「謝るな」
ガルドはすぐに言った。
「お前が謝ることじゃない」
「昨日もそれ言った」
「何度でも言う」
「そういうところ、嫌いです」
「…………」
「ちゃんといい人なの」
礼は笑った。
「もっと嫌な奴だったら楽だったのに」
ガルドは何も言わない。
「飯だけ食わせて、荷物持たせて、危なくなったら捨てるような奴だったら」
笑おうとした。
上手くいかなかった。
「簡単に嫌いになれたのに」
「……すまない」
「それも嫌い」
「そうか」
「すぐ謝るし」
「悪かった」
「ほら」
今度は。
二人とも。
少しだけ笑った。
その笑いが消えたあと。
礼は聞いた。
「……引き止めないんですか」
ガルドはすぐには答えなかった。
部屋の隅。
立てかけられた木剣へ視線を向ける。
「引き止めたい」
礼の指が僅かに動いた。
「できるなら、また五人で仕事をしたい」
「…………」
「朝飯も食いたい」
今朝の食卓が浮かんだ。
焼いたパン。
ボルグ。
ミレナ。
セイル。
五人分の皿。
「お前に剣も教えたい」
礼は木剣を見た。
明日も。
明後日も。
その次も。
教えると言ってくれた。
「まだ、お前に教えてないことが山ほどある」
「…………」
「だから」
ガルドは礼を見る。
「引き止めたい」
礼は唇を噛んだ。
言うな。
そう思った。
そんなことを言われたら。
残りたくなる。
「でも」
ガルドは続けた。
「俺が引き止めていいことじゃない」
「…………」
「お前が決めたことなら」
ゆっくり。
言った。
「俺は、それを尊重する」
「……ずるいよ」
礼の口から漏れた。
「そうか」
「ずるい」
「ああ」
「それ言われたら、俺」
喉が詰まる。
「ガルドさんのこと、もっと嫌いになれないじゃん」
「…………」
ガルドは何も答えなかった。
礼は目元を擦った。
「明日」
少し時間を置いてから言う。
「出ようと思います」
「どこへ行く」
「分かんない」
「当てはあるのか」
「ない」
「金は」
「少しある」
「十分か?」
「……分かんない」
「食い物は」
「…………」
「礼」
「分かったよ! これから考える!」
ガルドが小さく笑った。
「やっぱり心配だな」
「子供扱いすんなよ」
「十七だろ」
「そっちだって二十代だろ」
「俺は大人だ」
「ギリギリじゃん」
「何がだ」
礼も笑った。
こんな時なのに。
笑える。
それが。
やっぱり。
悲しかった。
「でも」
礼は窓の外を見た。
夕暮れの街。
知らない世界。
「自分で歩いてみたい」
ガルドは礼の横顔を見ている。
「どこに行くかも」
礼は続けた。
「何をするかも」
昨日見つけた。
名前のない力。
あれが何なのかも。
「自分で決めてみたい」
ガルドは長い間、何も言わなかった。
礼の決意が一時の怒りから出たものではないと確かめるように、ただ静かに見つめていた。
やがて。
「……分かった」
そう言った。
◇
ガルドが部屋を出ていったあと、礼はしばらく動けなかった。
扉が閉じる音を聞いてから、力が抜けるようにベッドへ倒れ込む。
「……言っちゃった」
天井を見る。
明日。
ここを出る。
一人で。
急に怖くなった。
金。
食事。
仕事。
泊まる場所。
この世界の文字だって、まだ全部読めるわけではない。
「…………」
やっぱり残る。
そう言えば。
きっと。
四人は受け入れてくれる。
ガルドも。
何も言わず。
また。
明日の朝。
五人分の朝食。
用意される。
「…………」
礼は目を閉じた。
『怖がることを恥ずかしいと思うな』
また。
あの男の声。
「……うるせえよ」
思わず笑った。
『怖いから警戒する。怖いから準備する。怖いから仲間を見る』
「今、仲間から離れようとしてんだけど」
返事はない。
当然だ。
「……ほんと」
礼は腕で目を覆った。
「嫌いにならせてくれよ……」
少しだけ。
涙が出た。
それでも。
礼はもう。
決めていた。
翌朝。
自分はこの宿を出る。
初めて手に入れた居場所を。
今度は、誰かに追い出されるのではなく。
自分の意思で。
その先に何があるのか。
まだ何も知らない。
自分が何者になるのかさえ。
礼には分からなかった。
ただ。
何者でもないのなら。
これから、自分で決めればいい。
そう思えた。




