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童貞にして最強 ―穢れなき力を手にした男の黙示録―  作者: 忠犬むつ公
第一部

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第十四話 再会

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!


少しでもこの物語を読んでくださる方がいることが、とても励みになっています。


第14話から、しばらくの間は毎日3話、朝・昼・夜に1話ずつ投稿していく予定です!


まだまだ物語は始まったばかりですが、如月礼がこれからどんな道を歩んでいくのか、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。


これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いします!

遺跡を出てから、どれほど歩いたのか分からない。


 太陽はまだ沈んでいなかったが、森へ差し込む光はずいぶんと傾いていた。木々の影が長く伸び、乾いた土の上を縞模様に染めている。


 礼はその影を踏みながら、ゆっくりと歩いていた。


 身体はひどい有様だった。


 守護者の攻撃を受けた右肩は、腕を上げようとするだけで激痛が走る。左手は黒い外殻を殴ったせいで腫れ上がり、握ろうとすると骨の奥まで疼いた。脇腹も呼吸のたびに痛む。


 何より、疲れていた。


 足を一歩前へ出す。それだけの動作が、もう億劫だった。


 それでも歩いた。


 行き先が決まっているわけではない。


 ただ、ガルドたちを探さなければならないと思った。


「……どこ行ったんだよ」


 呟いてみても、森から返事はない。


 遺跡には複数の出口があったらしい。礼が這い出した場所も、五人で最初に入った入口とはまったく違う場所だった。


 ならば、四人も別の場所から出ているかもしれない。


 無事なら。


 そこまで考えて、礼の足が止まった。


 自分の中に浮かんだ言葉が、妙に腹立たしかった。


「……無事なら、って」


 乾いた笑いが漏れる。


「馬鹿じゃねえの、俺」


 彼らは自分を置いていった。


 あの黒い部屋に、一人で。


 守護者が迫っていることを知りながら。


 死ぬかもしれないどころではない。普通なら死んでいた。自分の中にあの奇妙な何かを見つけなければ、今頃は遺跡の床に転がっていたはずだ。


 恨んでいる。


 少なくともガルドのことは、今すぐ笑って許せるような気持ちではなかった。


 だったら、四人がどうなったかなど放っておけばいい。


 そう思うのに。


『森では、目だけを使っちゃ駄目』


 ミレナの声を思い出す。


『まず、自分の中を探せ』


 セイルの声も。


 守護者から逃げる礼を救ったのは、四人と過ごした一か月の記憶だった。


 置いていかれたあとでさえ、彼らから教わったことに助けられた。


 その事実が、礼にはどうしようもなく腹立たしかった。


「……ほんと、最悪だ」


 小さく吐き捨て、再び歩き出した。


 嫌いになれれば楽なのに。


 どうしても、そうはなれなかった。



     ◇



 しばらく進んだところで、見覚えのある道に出た。


 一本だけ不自然に曲がった大木が、街道へ向かって枝を伸ばしている。


「あ……」


 覚えている。


 遺跡へ向かう途中、ここでボルグが休憩しようと言い出したのだ。


『少し休まんか!』


『出発して十分だぞ』


『十分も歩いたではないか!』


『子供でももう少し歩けるわよ』


 そんなやり取りを聞きながら、礼は笑っていた。


 ほんの数日前のことだ。


 なのに、ずっと昔の出来事のように思えた。


 この道を辿れば街道に出る。


 そこから先は街へ続いている。


 宿にも戻れる。


 帰れる。


「…………」


 礼は大木の前で立ち止まった。


 帰る。


 その言葉を頭の中で繰り返してみる。


 以前なら何の疑問もなかった。


 仕事が終われば宿へ帰る。


 五人で食卓を囲む。


 朝になればボルグが扉を叩き、下へ降りれば自分の分の朝食がある。


 いつの間にか、それが当たり前になっていた。


 今はもう、「帰る」という言葉がどこを指しているのか分からない。


 日本の家なのか。


 街の宿なのか。


 それとも、あの四人がいる場所なのか。


「……今はいいか」


 礼は首を振った。


 考えたところで答えなど出そうになかった。


 まずは四人を探す。


 それから考えればいい。


 そう自分に言い聞かせ、礼は街道へ向かった。



     ◇



 街道へ出た時、最初に聞こえたのは人の声だった。


 遠くから複数人の話し声がする。


 冒険者だろうか。


 この道は街と遺跡のある森を結んでいる。人が歩いていても不思議ではない。


 礼は特に気にすることなく歩き続けた。


「――い!」


 誰かが叫んでいる。


 礼は顔を上げた。


「――礼!!」


 身体が止まった。


 聞き間違えるはずがなかった。


 街道の向こうに十人ほどの人影が見える。その中から、一人の女がこちらへ走り出していた。


 弓を背負っている。


 走り方にも見覚えがある。


「……ミレナ?」


「礼!!」


 彼女は何度も名前を呼びながら駆けてくる。


 生きていた。


 その事実を理解した瞬間、礼の胸の奥から何かが込み上げた。


 安堵だった。


 間違いなく。


 よかった。


 ミレナが生きている。


「礼……!」


 近づくにつれて彼女の顔が見えた。


 泣いていた。


 髪は乱れ、頬には汚れが残っている。目元は赤く腫れていた。


「よかった……!」


 ミレナが両腕を広げた。


「本当に……よかった……!」


 そのまま礼を抱きしめようとする。


 あと数歩。


 礼は一歩、後ろへ下がった。


「…………」


 ミレナの足が止まった。


 広げられていた腕も、行き場を失う。


 礼自身、どうして後ろへ下がったのか分からなかった。


 考えてやったわけではない。


 嫌いだからでもない。


 身体が勝手に動いた。


「あ……」


 違う。


 そう言おうとした。


 だが、何が違うのか自分でも説明できない。


 ミレナはしばらく礼を見つめたあと、ゆっくりと腕を下ろした。


「……ごめん」


 その一言に、礼の胸が締めつけられた。


 謝ってほしかったはずなのに。


 いざ謝られると、それも違うような気がした。


「礼!」


 大きな声が響いた。


 ミレナの後ろから、ボルグが歩いてくる。


 右脚を引きずり、別の冒険者に肩を借りていた。包帯は礼が遺跡で巻いたものから新しいものに替わっている。


「礼……!」


 大男の顔が、みるみる歪んだ。


「生きてたのか……!」


「……うん」


「そうか……そうか!」


 ボルグは礼のところまで来ようとしたが、負傷した右脚に体重をかけた瞬間、顔をしかめた。


「馬鹿、動くな」


 その身体を支えたのはセイルだった。


 彼も無傷ではない。ローブはところどころ破れ、眼鏡の片方にはひびが入っている。


 礼と目が合った。


「……礼」


「セイルさん」


「ああ」


 それきり、セイルは黙った。


 いつもなら、何かしら言葉が出てくる男だった。


 分からないことは分からないと言い、必要なことは必要だと言う。


 そんなセイルが、今は何を言えばいいのか分からないようだった。


 そして。


 礼は三人の向こうにいる男を見つけた。


 ガルド。


 少し離れたところに立っていた。


 服は破れ、剣を握っていた右手には包帯が巻かれている。頬にも乾いた血の跡が残っていた。


 無事だった。


 その姿を見た瞬間、礼は確かにそう思った。


 よかった。


 だが、その感情を追いかけるように、別の光景が蘇る。


 閉じていく黒い扉。


 狭くなる隙間。


 向こう側にいたガルド。


『お前と会えて、よかった』


『生きろ!!』


 最後に見えた口の動き。


 ――すまない。


「…………」


 胸の奥がぐちゃぐちゃになった。


 嬉しい。


 腹が立つ。


 安心した。


 顔も見たくない。


 全部が同時に存在していた。


 ガルドが一歩近づいた。


 礼の右足が、反射的に後ろへ動きかける。


 今度は自分で止めた。


「……礼」


「…………」


「怪我は」


「大丈夫です」


 ほとんど反射的な嘘だった。


 ガルドの視線が礼の右肩、腫れた左手、血で汚れた服を順番に追う。


 大丈夫ではないことなど、一目で分かっただろう。


 それでもガルドは指摘しなかった。


「……そうか」


 短く答え、それ以上は近づかなかった。



     ◇



 周囲にいた冒険者たちは、礼を捜索するために集められた者たちだった。


 ギルドで何度か見たことのある顔も混じっている。


「……俺を探してたの?」


 礼が尋ねると、ミレナが頷いた。


「遺跡を出て、ボルグを治療所まで運んで……そのあとすぐよ」


 礼は思わずガルドを見た。


「街に戻ったんですか」


「ああ」


「それで、またここに?」


「ああ」


「……何で?」


 自分でも、意地の悪い質問だと思った。


 答えなど分かっている。


 それでも聞かずにはいられなかった。


「何で探すんですか」


 誰も口を開かなかった。


 ガルドだけが礼を見ていた。


「お前を置いてきたからだ」


「…………」


「俺が置いてきた。だから戻った」


 その答えに、礼は笑いそうになった。


 面白かったからではない。


 あまりにも理解できなかったからだ。


「変じゃないですか、それ」


「ああ」


「置いていったんですよ」


「ああ」


「俺一人を、あそこに」


「ああ」


「守護者が来るのも分かってた」


「ああ」


 ガルドは否定しない。


 そのことが余計に腹立たしかった。


「それで、あとから探しに戻ってくるんですか」


「ああ」


「……意味分かんないですよ」


「分かってる」


「分かってないだろ!」


 声が大きくなった。


 周囲の冒険者たちが振り返る。


 礼は続けようとして、言葉を飲み込んだ。


 何で俺だった。


 仲間じゃなかったのか。


 五人で帰るって言っただろ。


 離さないって言っただろ。


 喉元まで出かかった言葉を、無理やり押し戻す。


 ここで全部吐き出したら、自分でも止められなくなりそうだった。


「……ごめん」


 礼は顔を背けた。


「謝るな」


 ガルドが静かに言った。


「お前が謝ることじゃない」


「…………」


「俺が悪い」


「そういうの……」


 礼は小さく息を吐いた。


「今は聞きたくないです」


「……分かった」


 ガルドは、それ以上何も言わなかった。



     ◇



 礼本人が見つかったことで、捜索は打ち切られた。


 手伝ってくれた冒険者たちは次々に街へ戻っていく。何人かは礼の肩を叩こうとして、怪我のひどさを見て途中で手を止めた。


「よく生きてたな」


「治療所へ直行しろよ」


 礼は一人ひとりに頭を下げた。


 やがて街道に残ったのは、いつもの五人だけになった。


 いつもの。


 その言葉が、今は妙にしっくりこない。


「街へ戻ろう」


 ガルドが言った。


「お前も治療が必要だ」


 礼は返事をしなかった。


「礼?」


 ミレナに名前を呼ばれ、ようやく顔を上げる。


「……俺」


 何を言いたいのか、自分でも分からなかった。


 ただ、このまま何事もなかったように歩き出すことだけはできなかった。


「分かんない」


「何が?」


「全部」


 ミレナは黙った。


 礼は自分の胸の中にあるものを、ひとつずつ確かめるように話した。


「怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる」


「……うん」


「ガルドさんのこと、たぶん今までで一番恨んでる」


「ああ」


 ガルドが頷く。


「でも……」


 そこで言葉に詰まった。


 言いたくなかった。


 認めたくもなかった。


 それでも嘘をつくのは、もっと嫌だった。


「みんなが生きてて、よかったとも思ってる」


 ミレナの目が揺れた。


「それが……自分でも気持ち悪い」


「礼……」


「俺を置いていった人たちなんだから、嫌いになればいいのに」


 そうできれば、どれほど楽だろう。


「でも、あの中で俺を助けたのも、みんなだった」


 四人が不思議そうな顔をする。


「ガルドさんが逃げろって教えてくれたから、逃げた。セイルさんが自分の中を見る方法を教えてくれたから……」


 そこまで言って、礼は口を閉じた。


 あの力のことは、まだ言えなかった。


 理由は自分でも分からない。


 隠したいわけではない。


 ただ、まだ誰にも話したくなかった。


「……とにかく、役に立った」


 言い直す。


「真っ暗なところでは、ミレナに教えてもらった通り風とか音を探した。ボルグさんが盾で守ってくれてるのを見てたから、あいつの攻撃も真正面から受けちゃ駄目だって分かった」


「…………」


「一人だったけど」


 礼は少しだけ笑った。


「頭の中で、ずっとみんな喋ってた」


 ミレナの頬を涙が伝った。


「……ごめん」


「だから、そういう意味じゃないって」


「でも……」


「むしろ、うるさかった」


 ミレナが泣きながら笑った。


「何よ、それ」


「ほんとだよ」


 礼も少し笑った。


 笑えてしまった。


 四人と。


 それが嬉しいのか、悲しいのか、やはり分からない。


 笑いが消えたあと、礼はガルドを見た。


「だから今は……何て言えばいいのか分かんないです」


「それでいい」


 ガルドはすぐに答えた。


「今決めなくていい。怒ってていい。俺を恨んでてもいい」


「…………」


「許さなくていい」


 礼の眉が僅かに動いた。


「俺が決めたことだ」


 ガルドは視線を逸らさなかった。


「あの時、お前を残すと決めたのは俺だ」


 胸の奥に、また怒りが湧いた。


「……何で」


「…………」


「何で俺だったんですか」


 ガルドはすぐには答えなかった。


「ガルドさん、自分が残るって言ったよね」


「ああ」


「ボルグさんも言った。ミレナも言った」


「ああ」


「なのに最後は俺だった」


 声が震え始める。


「俺が弱かったから?」


「違う」


「戦えなかったから?」


「違う」


「役に立たなかったから?」


「違う!」


 ガルドの声が、初めて強く礼の言葉を遮った。


「それは違う」


「じゃあ何で!」


「お前は役に立ってた」


「だったら!」


 また。


 あの部屋と同じ言葉が出た。


「だったら、何で俺なんだよ!」


 ガルドは黙った。


 礼の呼吸だけが荒くなる。


「俺、ずっと考えたんですよ。あの中で。俺が荷物持ちだからかなって。戦えないからかなって。俺一人くらいいなくなっても困らないからかなって」


「違う」


「何が違うんだよ!」


「お前が役に立たなかったからじゃない!」


 ガルドは一歩、礼へ近づいた。


 礼は下がらなかった。


「お前は何度も俺たちを助けた。ミレナを助けた。迷いの森から出した。罠を見つけた。今回だってそうだ。お前がいなければ、俺たちはもっと早く全滅していたかもしれない」


「じゃあ……」


 涙が滲む。


「何で……」


 今度の声は、小さかった。


 ガルドの表情が苦しげに歪んだ。


「あの時、俺には全員を生かす方法が見つけられなかった」


「…………」


「誰か一人が残らなければ、全員死ぬと思った。最初は俺が残るつもりだった」


「知ってる」


「でも、俺がいなければ残った連中が帰れない可能性が高かった。ボルグは怪我をしていた。ミレナはボルグを支えなきゃならなかった。セイルがいなければ、あの先の魔術式を突破できない」


 礼は黙って聞いていた。


 その説明は、あの時も聞いた。


 理解もできる。


 理屈だけなら。


「だから」


 礼が先に言った。


「俺だった」


 ガルドの口が止まる。


「……ああ」


「消去法ですか」


「…………」


「俺だけがいなくても、残りの四人は帰れるから?」


 ガルドは答えなかった。


 その沈黙だけで十分だった。


「……そっか」


「礼」


「分かりました」


「違う。それだけじゃ――」


「もういいです」


 礼は首を振った。


「今聞いたら、たぶん何言われても嫌になるから」


 ガルドの言葉が止まった。


「だから今日は、もういい」


 長い沈黙のあと、ガルドは小さく頷いた。


「……分かった」



     ◇



 街へ戻る五人の足取りは遅かった。


 ボルグはミレナに支えられながら歩き、セイルはその少し前で周囲を警戒している。ガルドはいつものように先頭に立っていた。


 礼は、その後ろを歩いていた。


 ただし、以前より少しだけ遠く。


 意識して距離を取ったつもりはなかった。気づけば、そうなっていた。


 これまで礼は何度、この背中を見てきただろう。


 森でも、街道でも、遺跡でも。


 危険があればガルドが前へ出た。


 礼はその後ろを歩けばよかった。


 そこは安全だった。


 少なくとも、そう信じていた。


「礼」


 不意に呼ばれた。


 ボルグが振り返っている。


「何?」


「……いや」


「何だよ」


 ボルグは少し迷ってから、気まずそうに笑った。


「ちゃんといるかと思ってな」


 礼は何も言えなくなった。


 少しだけ胸が痛んだ。


「……いるよ」


「そうか」


 ボルグは前を向いた。


「よかった」


 その一言が、妙に重かった。



     ◇



 街へ着く頃には、空が赤く染まっていた。


 門番は傷だらけの五人を見るなり、詰所から飛び出してきた。


「おい! 遺跡へ行ってた連中だろ!?」


「ああ」


 ガルドが答える。


「見つかった」


 門番の視線が礼へ向く。


「坊主!」


「どうも……」


「生きてたのか!」


「一応」


「そうか……!」


 門番は心底安心したように息を吐いた。


「よかったな。全員、生きて帰ってこられて」


 礼は何も答えなかった。


 全員で行って、全員で帰る。


 ガルドが何度も言っていた言葉を思い出す。


 結果だけを見れば、その通りになった。


 五人とも生きている。


 五人とも街へ帰ってきた。


 なのに。


 礼には、それを「全員で帰ってきた」とは思えなかった。



     ◇



 治療所で診てもらうと、礼の怪我は想像以上だった。


 右肩の強い打撲。肋骨にはひびが入り、左手首も軽く捻挫している。細かな傷まで数えればきりがない。


「よくこんな身体で歩いてきたね」


 治療師の女性が呆れたように言った。


「歩くしかなかったんで」


「だからって限度があるよ。今日は絶対安静」


「……はい」


 治療を終えて外へ出る。


 四人が待っていた。


 ガルドが立ち上がる。


「宿へ戻ろう」


 礼は少し迷った。


 宿。


 今朝まで、自分の帰る場所だったところ。


 その迷いに気づいたのだろう。


「嫌なら、俺たちが別の宿へ移る」


「…………」


「お前の部屋はそのまま使え」


「いや」


 礼は首を振った。


「戻ります」


「いいのか?」


「俺の荷物、置いてあるし」


 それから少し考えた。


「あと、腹減った」


 ボルグが吹き出した。


「俺もだ!」


「ボルグさんはいつもだろ」


「怪我をしても腹は減る!」


「声でかいって」


「すまん!」


 ミレナが小さく笑った。


 セイルも口元を緩める。


 礼も笑った。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、昨日までの五人に戻ったような気がした。


 けれど礼は、すぐに気づいた。


 戻ったわけではない。


 ただ、思い出しただけだ。



     ◇



 宿の扉を開けると、女将がカウンターの向こうから顔を上げた。


「あら……」


 礼を見た瞬間、その目が大きく開く。


「あんた!」


「……どうも」


「無事だったのかい!」


 女将はカウンターを回り込んで礼のところまで来ると、全身を確かめるように眺めた。


「無事……ではないね」


「まあ」


「まったく。心配させて」


「ごめんなさい」


「謝るくらいなら、ちゃんと帰ってきな」


「……はい」


 女将は大きく息を吐き、それからいつもの調子で言った。


「おかえり」


 たった四文字。


 それだけで、礼の胸が締めつけられた。


 以前は自然に返せた。


 何も考えず。


 自分にも帰る場所ができたのだと思った。


 今は、その言葉が痛かった。


 それでも。


「……ただいま」


 礼は答えた。


 声が少し震えた。



     ◇



 その夜も、五人は同じ食卓についた。


 パンがあり、肉があり、湯気の立つスープがある。


 何も変わっていない。


 席も同じだった。


 ガルド。


 ミレナ。


 セイル。


 ボルグ。


 礼。


 五人分。


 けれど誰も、なかなか料理に手を伸ばさなかった。


「……食べようよ」


 沈黙に耐えられなくなり、礼が言った。


「冷めるから」


「そうだな」


 ガルドがパンを取る。


 それを合図に、他の三人も食べ始めた。


 礼もスープを口へ運ぶ。


 温かかった。


 美味しかった。


 その味まで、以前と変わらない。


 なのに、何かが決定的に違っている。


 向かいではボルグが大きなパンへ手を伸ばしていた。


 それをミレナがじっと見る。


「何だ」


「別に」


「これは俺のだぞ」


「取らないわよ」


「そうか」


「今日はね」


「明日は取るのか!?」


「うるさい」


 礼は思わず笑った。


「…………」


 笑ってから、自分で驚いた。


 まだ笑える。


 この四人と同じ食卓で。


 あんなことがあったのに。


 そのことが嬉しかった。


 同時に、ひどく悲しかった。



     ◇



 部屋へ戻ると、礼は椅子に腰を下ろした。


 机の上には、出発前と何も変わらないものが並んでいる。


 学校の制服。


 この世界へ来た時から持っている鞄。


 そして、ノート。


 礼はノートを手に取り、最初の方のページを開いた。


『白線三本=薬草』


『二本=吐く。絶対食うな』


『ホーンウルフ=弱いらしい。絶対嘘』


『荷物は命より軽い』


「…………」


 自分で書いた文字。


 ページをめくる。


 ガルド。


 ミレナ。


 セイル。


 ボルグ。


 四人の名前。


 その下に、一言だけ書いてある。


『仲間』


 礼は長い間、その文字を見つめていた。


 消そうと思えば消せる。


 上から線を引くだけだ。


 あの四人はもう仲間じゃない。


 そう決めてしまえばいい。


 礼はペンを取った。


 先端を『仲間』の文字へ近づける。


「…………」


 止まった。


 消せなかった。


 あの一か月が嘘だったとは、どうしても思えなかった。


 朝食も。


 剣の稽古も。


 ミレナの「いてくれてよかった」も。


 セイルが教えてくれた魔術のことも。


 ボルグの馬鹿みたいに大きな笑い声も。


 ガルドの「仲間だ」も。


 全部、本当だった。


 だからこそ。


 あの扉が閉じたことも、本当なのだ。


「……難しすぎるだろ」


 礼はペンを置いた。


「こういうの……」


 十七歳の自分に、どうしろというのだ。


 誰かを好きなまま恨む方法なんて、学校では教えてくれなかった。


 礼はベッドへ倒れ込み、目元を腕で覆った。


 身体の痛みは、治療のおかげで少しだけ楽になっている。


 眠ろうと思った。


 だが、ふと。


 別のことを思い出した。


「…………」


 遺跡の中で見つけた、あれ。


 礼は目を閉じた。


 自分の内側へ意識を向ける。


 以前よりも、ずっと簡単に見つけられた。


 ――ドクン。


「……ある」


 昼間、遺跡を脱出した直後にはほとんど感じられなくなっていた。


 それが今は、僅かではあるが戻っている。


「増えてる……?」


 礼は起き上がった。


 ノートをもう一度開く。


 今度は新しいページ。


 しばらく考えてから、ペンを走らせた。


『自分の中に、魔力とは違う何かがある。』


 続ける。


『使うと減る。休むと戻る?』


『脚に流すと速くなる。』


 そこで礼は少し考え、付け足した。


『流しすぎると壁にぶつかる。かなり痛い。』


「…………」


 まだ痛む鼻を触る。


「マジで痛かったな……」


 次。


『腕に流すと力が強くなる。ただし身体が強くなるわけではない?』


 その下には、


『硬いものを殴ると普通に自分も痛い。』


 礼は腫れた左手を眺めた。


「そりゃそうか……」


 そこでペンが止まった。


 これは何なのだろう。


 魔力ではない。


 少なくとも、セイルに教わったものとは明らかに違う。


 名前はない。


 礼はページの一番上へ戻ると、少し大きな文字で書いた。


『???』


「……まあ、今はこれでいいか」


 分からないなら、分からないと書いておけばいい。


 今までだってそうだった。


 知らない薬草は教わった。


 知らない文字は覚えた。


 剣は何度も振った。


 できないことは、少しずつできるようにしてきた。


 なら、これも同じだ。


 誰かに聞くことはできない。


 少なくとも、今のところは。


 だったら自分で調べるしかない。


 礼はノートを閉じた。


 明日からどうするのか。


 まだ決めていない。


 ガルドを許せるのか。


 四人とこれからも一緒にいられるのか。


 この名前のない何かが何なのか。


 何一つ分からない。


 窓の外から、夜の街の音が微かに聞こえてくる。


 礼はベッドへ身体を横たえ、目を閉じた。


 明日の朝になれば、きっとまた食堂には五人分の朝食が並ぶ。


 自分はそこへ行くのだろうか。


 いつもの席に座り、いつものようにパンを食べるのだろうか。


 答えはまだ出なかった。


 ただ一つだけ分かることがある。


 あの遺跡へ入る前と同じ明日は、もう二度と来ない。


 礼はそのことだけを胸の奥で理解しながら、長い夜へと目を閉じた。

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