第十四話 再会
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでもこの物語を読んでくださる方がいることが、とても励みになっています。
第14話から、しばらくの間は毎日3話、朝・昼・夜に1話ずつ投稿していく予定です!
まだまだ物語は始まったばかりですが、如月礼がこれからどんな道を歩んでいくのか、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。
これからも『童貞にして最強』をよろしくお願いします!
遺跡を出てから、どれほど歩いたのか分からない。
太陽はまだ沈んでいなかったが、森へ差し込む光はずいぶんと傾いていた。木々の影が長く伸び、乾いた土の上を縞模様に染めている。
礼はその影を踏みながら、ゆっくりと歩いていた。
身体はひどい有様だった。
守護者の攻撃を受けた右肩は、腕を上げようとするだけで激痛が走る。左手は黒い外殻を殴ったせいで腫れ上がり、握ろうとすると骨の奥まで疼いた。脇腹も呼吸のたびに痛む。
何より、疲れていた。
足を一歩前へ出す。それだけの動作が、もう億劫だった。
それでも歩いた。
行き先が決まっているわけではない。
ただ、ガルドたちを探さなければならないと思った。
「……どこ行ったんだよ」
呟いてみても、森から返事はない。
遺跡には複数の出口があったらしい。礼が這い出した場所も、五人で最初に入った入口とはまったく違う場所だった。
ならば、四人も別の場所から出ているかもしれない。
無事なら。
そこまで考えて、礼の足が止まった。
自分の中に浮かんだ言葉が、妙に腹立たしかった。
「……無事なら、って」
乾いた笑いが漏れる。
「馬鹿じゃねえの、俺」
彼らは自分を置いていった。
あの黒い部屋に、一人で。
守護者が迫っていることを知りながら。
死ぬかもしれないどころではない。普通なら死んでいた。自分の中にあの奇妙な何かを見つけなければ、今頃は遺跡の床に転がっていたはずだ。
恨んでいる。
少なくともガルドのことは、今すぐ笑って許せるような気持ちではなかった。
だったら、四人がどうなったかなど放っておけばいい。
そう思うのに。
『森では、目だけを使っちゃ駄目』
ミレナの声を思い出す。
『まず、自分の中を探せ』
セイルの声も。
守護者から逃げる礼を救ったのは、四人と過ごした一か月の記憶だった。
置いていかれたあとでさえ、彼らから教わったことに助けられた。
その事実が、礼にはどうしようもなく腹立たしかった。
「……ほんと、最悪だ」
小さく吐き捨て、再び歩き出した。
嫌いになれれば楽なのに。
どうしても、そうはなれなかった。
◇
しばらく進んだところで、見覚えのある道に出た。
一本だけ不自然に曲がった大木が、街道へ向かって枝を伸ばしている。
「あ……」
覚えている。
遺跡へ向かう途中、ここでボルグが休憩しようと言い出したのだ。
『少し休まんか!』
『出発して十分だぞ』
『十分も歩いたではないか!』
『子供でももう少し歩けるわよ』
そんなやり取りを聞きながら、礼は笑っていた。
ほんの数日前のことだ。
なのに、ずっと昔の出来事のように思えた。
この道を辿れば街道に出る。
そこから先は街へ続いている。
宿にも戻れる。
帰れる。
「…………」
礼は大木の前で立ち止まった。
帰る。
その言葉を頭の中で繰り返してみる。
以前なら何の疑問もなかった。
仕事が終われば宿へ帰る。
五人で食卓を囲む。
朝になればボルグが扉を叩き、下へ降りれば自分の分の朝食がある。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
今はもう、「帰る」という言葉がどこを指しているのか分からない。
日本の家なのか。
街の宿なのか。
それとも、あの四人がいる場所なのか。
「……今はいいか」
礼は首を振った。
考えたところで答えなど出そうになかった。
まずは四人を探す。
それから考えればいい。
そう自分に言い聞かせ、礼は街道へ向かった。
◇
街道へ出た時、最初に聞こえたのは人の声だった。
遠くから複数人の話し声がする。
冒険者だろうか。
この道は街と遺跡のある森を結んでいる。人が歩いていても不思議ではない。
礼は特に気にすることなく歩き続けた。
「――い!」
誰かが叫んでいる。
礼は顔を上げた。
「――礼!!」
身体が止まった。
聞き間違えるはずがなかった。
街道の向こうに十人ほどの人影が見える。その中から、一人の女がこちらへ走り出していた。
弓を背負っている。
走り方にも見覚えがある。
「……ミレナ?」
「礼!!」
彼女は何度も名前を呼びながら駆けてくる。
生きていた。
その事実を理解した瞬間、礼の胸の奥から何かが込み上げた。
安堵だった。
間違いなく。
よかった。
ミレナが生きている。
「礼……!」
近づくにつれて彼女の顔が見えた。
泣いていた。
髪は乱れ、頬には汚れが残っている。目元は赤く腫れていた。
「よかった……!」
ミレナが両腕を広げた。
「本当に……よかった……!」
そのまま礼を抱きしめようとする。
あと数歩。
礼は一歩、後ろへ下がった。
「…………」
ミレナの足が止まった。
広げられていた腕も、行き場を失う。
礼自身、どうして後ろへ下がったのか分からなかった。
考えてやったわけではない。
嫌いだからでもない。
身体が勝手に動いた。
「あ……」
違う。
そう言おうとした。
だが、何が違うのか自分でも説明できない。
ミレナはしばらく礼を見つめたあと、ゆっくりと腕を下ろした。
「……ごめん」
その一言に、礼の胸が締めつけられた。
謝ってほしかったはずなのに。
いざ謝られると、それも違うような気がした。
「礼!」
大きな声が響いた。
ミレナの後ろから、ボルグが歩いてくる。
右脚を引きずり、別の冒険者に肩を借りていた。包帯は礼が遺跡で巻いたものから新しいものに替わっている。
「礼……!」
大男の顔が、みるみる歪んだ。
「生きてたのか……!」
「……うん」
「そうか……そうか!」
ボルグは礼のところまで来ようとしたが、負傷した右脚に体重をかけた瞬間、顔をしかめた。
「馬鹿、動くな」
その身体を支えたのはセイルだった。
彼も無傷ではない。ローブはところどころ破れ、眼鏡の片方にはひびが入っている。
礼と目が合った。
「……礼」
「セイルさん」
「ああ」
それきり、セイルは黙った。
いつもなら、何かしら言葉が出てくる男だった。
分からないことは分からないと言い、必要なことは必要だと言う。
そんなセイルが、今は何を言えばいいのか分からないようだった。
そして。
礼は三人の向こうにいる男を見つけた。
ガルド。
少し離れたところに立っていた。
服は破れ、剣を握っていた右手には包帯が巻かれている。頬にも乾いた血の跡が残っていた。
無事だった。
その姿を見た瞬間、礼は確かにそう思った。
よかった。
だが、その感情を追いかけるように、別の光景が蘇る。
閉じていく黒い扉。
狭くなる隙間。
向こう側にいたガルド。
『お前と会えて、よかった』
『生きろ!!』
最後に見えた口の動き。
――すまない。
「…………」
胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
嬉しい。
腹が立つ。
安心した。
顔も見たくない。
全部が同時に存在していた。
ガルドが一歩近づいた。
礼の右足が、反射的に後ろへ動きかける。
今度は自分で止めた。
「……礼」
「…………」
「怪我は」
「大丈夫です」
ほとんど反射的な嘘だった。
ガルドの視線が礼の右肩、腫れた左手、血で汚れた服を順番に追う。
大丈夫ではないことなど、一目で分かっただろう。
それでもガルドは指摘しなかった。
「……そうか」
短く答え、それ以上は近づかなかった。
◇
周囲にいた冒険者たちは、礼を捜索するために集められた者たちだった。
ギルドで何度か見たことのある顔も混じっている。
「……俺を探してたの?」
礼が尋ねると、ミレナが頷いた。
「遺跡を出て、ボルグを治療所まで運んで……そのあとすぐよ」
礼は思わずガルドを見た。
「街に戻ったんですか」
「ああ」
「それで、またここに?」
「ああ」
「……何で?」
自分でも、意地の悪い質問だと思った。
答えなど分かっている。
それでも聞かずにはいられなかった。
「何で探すんですか」
誰も口を開かなかった。
ガルドだけが礼を見ていた。
「お前を置いてきたからだ」
「…………」
「俺が置いてきた。だから戻った」
その答えに、礼は笑いそうになった。
面白かったからではない。
あまりにも理解できなかったからだ。
「変じゃないですか、それ」
「ああ」
「置いていったんですよ」
「ああ」
「俺一人を、あそこに」
「ああ」
「守護者が来るのも分かってた」
「ああ」
ガルドは否定しない。
そのことが余計に腹立たしかった。
「それで、あとから探しに戻ってくるんですか」
「ああ」
「……意味分かんないですよ」
「分かってる」
「分かってないだろ!」
声が大きくなった。
周囲の冒険者たちが振り返る。
礼は続けようとして、言葉を飲み込んだ。
何で俺だった。
仲間じゃなかったのか。
五人で帰るって言っただろ。
離さないって言っただろ。
喉元まで出かかった言葉を、無理やり押し戻す。
ここで全部吐き出したら、自分でも止められなくなりそうだった。
「……ごめん」
礼は顔を背けた。
「謝るな」
ガルドが静かに言った。
「お前が謝ることじゃない」
「…………」
「俺が悪い」
「そういうの……」
礼は小さく息を吐いた。
「今は聞きたくないです」
「……分かった」
ガルドは、それ以上何も言わなかった。
◇
礼本人が見つかったことで、捜索は打ち切られた。
手伝ってくれた冒険者たちは次々に街へ戻っていく。何人かは礼の肩を叩こうとして、怪我のひどさを見て途中で手を止めた。
「よく生きてたな」
「治療所へ直行しろよ」
礼は一人ひとりに頭を下げた。
やがて街道に残ったのは、いつもの五人だけになった。
いつもの。
その言葉が、今は妙にしっくりこない。
「街へ戻ろう」
ガルドが言った。
「お前も治療が必要だ」
礼は返事をしなかった。
「礼?」
ミレナに名前を呼ばれ、ようやく顔を上げる。
「……俺」
何を言いたいのか、自分でも分からなかった。
ただ、このまま何事もなかったように歩き出すことだけはできなかった。
「分かんない」
「何が?」
「全部」
ミレナは黙った。
礼は自分の胸の中にあるものを、ひとつずつ確かめるように話した。
「怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる」
「……うん」
「ガルドさんのこと、たぶん今までで一番恨んでる」
「ああ」
ガルドが頷く。
「でも……」
そこで言葉に詰まった。
言いたくなかった。
認めたくもなかった。
それでも嘘をつくのは、もっと嫌だった。
「みんなが生きてて、よかったとも思ってる」
ミレナの目が揺れた。
「それが……自分でも気持ち悪い」
「礼……」
「俺を置いていった人たちなんだから、嫌いになればいいのに」
そうできれば、どれほど楽だろう。
「でも、あの中で俺を助けたのも、みんなだった」
四人が不思議そうな顔をする。
「ガルドさんが逃げろって教えてくれたから、逃げた。セイルさんが自分の中を見る方法を教えてくれたから……」
そこまで言って、礼は口を閉じた。
あの力のことは、まだ言えなかった。
理由は自分でも分からない。
隠したいわけではない。
ただ、まだ誰にも話したくなかった。
「……とにかく、役に立った」
言い直す。
「真っ暗なところでは、ミレナに教えてもらった通り風とか音を探した。ボルグさんが盾で守ってくれてるのを見てたから、あいつの攻撃も真正面から受けちゃ駄目だって分かった」
「…………」
「一人だったけど」
礼は少しだけ笑った。
「頭の中で、ずっとみんな喋ってた」
ミレナの頬を涙が伝った。
「……ごめん」
「だから、そういう意味じゃないって」
「でも……」
「むしろ、うるさかった」
ミレナが泣きながら笑った。
「何よ、それ」
「ほんとだよ」
礼も少し笑った。
笑えてしまった。
四人と。
それが嬉しいのか、悲しいのか、やはり分からない。
笑いが消えたあと、礼はガルドを見た。
「だから今は……何て言えばいいのか分かんないです」
「それでいい」
ガルドはすぐに答えた。
「今決めなくていい。怒ってていい。俺を恨んでてもいい」
「…………」
「許さなくていい」
礼の眉が僅かに動いた。
「俺が決めたことだ」
ガルドは視線を逸らさなかった。
「あの時、お前を残すと決めたのは俺だ」
胸の奥に、また怒りが湧いた。
「……何で」
「…………」
「何で俺だったんですか」
ガルドはすぐには答えなかった。
「ガルドさん、自分が残るって言ったよね」
「ああ」
「ボルグさんも言った。ミレナも言った」
「ああ」
「なのに最後は俺だった」
声が震え始める。
「俺が弱かったから?」
「違う」
「戦えなかったから?」
「違う」
「役に立たなかったから?」
「違う!」
ガルドの声が、初めて強く礼の言葉を遮った。
「それは違う」
「じゃあ何で!」
「お前は役に立ってた」
「だったら!」
また。
あの部屋と同じ言葉が出た。
「だったら、何で俺なんだよ!」
ガルドは黙った。
礼の呼吸だけが荒くなる。
「俺、ずっと考えたんですよ。あの中で。俺が荷物持ちだからかなって。戦えないからかなって。俺一人くらいいなくなっても困らないからかなって」
「違う」
「何が違うんだよ!」
「お前が役に立たなかったからじゃない!」
ガルドは一歩、礼へ近づいた。
礼は下がらなかった。
「お前は何度も俺たちを助けた。ミレナを助けた。迷いの森から出した。罠を見つけた。今回だってそうだ。お前がいなければ、俺たちはもっと早く全滅していたかもしれない」
「じゃあ……」
涙が滲む。
「何で……」
今度の声は、小さかった。
ガルドの表情が苦しげに歪んだ。
「あの時、俺には全員を生かす方法が見つけられなかった」
「…………」
「誰か一人が残らなければ、全員死ぬと思った。最初は俺が残るつもりだった」
「知ってる」
「でも、俺がいなければ残った連中が帰れない可能性が高かった。ボルグは怪我をしていた。ミレナはボルグを支えなきゃならなかった。セイルがいなければ、あの先の魔術式を突破できない」
礼は黙って聞いていた。
その説明は、あの時も聞いた。
理解もできる。
理屈だけなら。
「だから」
礼が先に言った。
「俺だった」
ガルドの口が止まる。
「……ああ」
「消去法ですか」
「…………」
「俺だけがいなくても、残りの四人は帰れるから?」
ガルドは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……そっか」
「礼」
「分かりました」
「違う。それだけじゃ――」
「もういいです」
礼は首を振った。
「今聞いたら、たぶん何言われても嫌になるから」
ガルドの言葉が止まった。
「だから今日は、もういい」
長い沈黙のあと、ガルドは小さく頷いた。
「……分かった」
◇
街へ戻る五人の足取りは遅かった。
ボルグはミレナに支えられながら歩き、セイルはその少し前で周囲を警戒している。ガルドはいつものように先頭に立っていた。
礼は、その後ろを歩いていた。
ただし、以前より少しだけ遠く。
意識して距離を取ったつもりはなかった。気づけば、そうなっていた。
これまで礼は何度、この背中を見てきただろう。
森でも、街道でも、遺跡でも。
危険があればガルドが前へ出た。
礼はその後ろを歩けばよかった。
そこは安全だった。
少なくとも、そう信じていた。
「礼」
不意に呼ばれた。
ボルグが振り返っている。
「何?」
「……いや」
「何だよ」
ボルグは少し迷ってから、気まずそうに笑った。
「ちゃんといるかと思ってな」
礼は何も言えなくなった。
少しだけ胸が痛んだ。
「……いるよ」
「そうか」
ボルグは前を向いた。
「よかった」
その一言が、妙に重かった。
◇
街へ着く頃には、空が赤く染まっていた。
門番は傷だらけの五人を見るなり、詰所から飛び出してきた。
「おい! 遺跡へ行ってた連中だろ!?」
「ああ」
ガルドが答える。
「見つかった」
門番の視線が礼へ向く。
「坊主!」
「どうも……」
「生きてたのか!」
「一応」
「そうか……!」
門番は心底安心したように息を吐いた。
「よかったな。全員、生きて帰ってこられて」
礼は何も答えなかった。
全員で行って、全員で帰る。
ガルドが何度も言っていた言葉を思い出す。
結果だけを見れば、その通りになった。
五人とも生きている。
五人とも街へ帰ってきた。
なのに。
礼には、それを「全員で帰ってきた」とは思えなかった。
◇
治療所で診てもらうと、礼の怪我は想像以上だった。
右肩の強い打撲。肋骨にはひびが入り、左手首も軽く捻挫している。細かな傷まで数えればきりがない。
「よくこんな身体で歩いてきたね」
治療師の女性が呆れたように言った。
「歩くしかなかったんで」
「だからって限度があるよ。今日は絶対安静」
「……はい」
治療を終えて外へ出る。
四人が待っていた。
ガルドが立ち上がる。
「宿へ戻ろう」
礼は少し迷った。
宿。
今朝まで、自分の帰る場所だったところ。
その迷いに気づいたのだろう。
「嫌なら、俺たちが別の宿へ移る」
「…………」
「お前の部屋はそのまま使え」
「いや」
礼は首を振った。
「戻ります」
「いいのか?」
「俺の荷物、置いてあるし」
それから少し考えた。
「あと、腹減った」
ボルグが吹き出した。
「俺もだ!」
「ボルグさんはいつもだろ」
「怪我をしても腹は減る!」
「声でかいって」
「すまん!」
ミレナが小さく笑った。
セイルも口元を緩める。
礼も笑った。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、昨日までの五人に戻ったような気がした。
けれど礼は、すぐに気づいた。
戻ったわけではない。
ただ、思い出しただけだ。
◇
宿の扉を開けると、女将がカウンターの向こうから顔を上げた。
「あら……」
礼を見た瞬間、その目が大きく開く。
「あんた!」
「……どうも」
「無事だったのかい!」
女将はカウンターを回り込んで礼のところまで来ると、全身を確かめるように眺めた。
「無事……ではないね」
「まあ」
「まったく。心配させて」
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら、ちゃんと帰ってきな」
「……はい」
女将は大きく息を吐き、それからいつもの調子で言った。
「おかえり」
たった四文字。
それだけで、礼の胸が締めつけられた。
以前は自然に返せた。
何も考えず。
自分にも帰る場所ができたのだと思った。
今は、その言葉が痛かった。
それでも。
「……ただいま」
礼は答えた。
声が少し震えた。
◇
その夜も、五人は同じ食卓についた。
パンがあり、肉があり、湯気の立つスープがある。
何も変わっていない。
席も同じだった。
ガルド。
ミレナ。
セイル。
ボルグ。
礼。
五人分。
けれど誰も、なかなか料理に手を伸ばさなかった。
「……食べようよ」
沈黙に耐えられなくなり、礼が言った。
「冷めるから」
「そうだな」
ガルドがパンを取る。
それを合図に、他の三人も食べ始めた。
礼もスープを口へ運ぶ。
温かかった。
美味しかった。
その味まで、以前と変わらない。
なのに、何かが決定的に違っている。
向かいではボルグが大きなパンへ手を伸ばしていた。
それをミレナがじっと見る。
「何だ」
「別に」
「これは俺のだぞ」
「取らないわよ」
「そうか」
「今日はね」
「明日は取るのか!?」
「うるさい」
礼は思わず笑った。
「…………」
笑ってから、自分で驚いた。
まだ笑える。
この四人と同じ食卓で。
あんなことがあったのに。
そのことが嬉しかった。
同時に、ひどく悲しかった。
◇
部屋へ戻ると、礼は椅子に腰を下ろした。
机の上には、出発前と何も変わらないものが並んでいる。
学校の制服。
この世界へ来た時から持っている鞄。
そして、ノート。
礼はノートを手に取り、最初の方のページを開いた。
『白線三本=薬草』
『二本=吐く。絶対食うな』
『ホーンウルフ=弱いらしい。絶対嘘』
『荷物は命より軽い』
「…………」
自分で書いた文字。
ページをめくる。
ガルド。
ミレナ。
セイル。
ボルグ。
四人の名前。
その下に、一言だけ書いてある。
『仲間』
礼は長い間、その文字を見つめていた。
消そうと思えば消せる。
上から線を引くだけだ。
あの四人はもう仲間じゃない。
そう決めてしまえばいい。
礼はペンを取った。
先端を『仲間』の文字へ近づける。
「…………」
止まった。
消せなかった。
あの一か月が嘘だったとは、どうしても思えなかった。
朝食も。
剣の稽古も。
ミレナの「いてくれてよかった」も。
セイルが教えてくれた魔術のことも。
ボルグの馬鹿みたいに大きな笑い声も。
ガルドの「仲間だ」も。
全部、本当だった。
だからこそ。
あの扉が閉じたことも、本当なのだ。
「……難しすぎるだろ」
礼はペンを置いた。
「こういうの……」
十七歳の自分に、どうしろというのだ。
誰かを好きなまま恨む方法なんて、学校では教えてくれなかった。
礼はベッドへ倒れ込み、目元を腕で覆った。
身体の痛みは、治療のおかげで少しだけ楽になっている。
眠ろうと思った。
だが、ふと。
別のことを思い出した。
「…………」
遺跡の中で見つけた、あれ。
礼は目を閉じた。
自分の内側へ意識を向ける。
以前よりも、ずっと簡単に見つけられた。
――ドクン。
「……ある」
昼間、遺跡を脱出した直後にはほとんど感じられなくなっていた。
それが今は、僅かではあるが戻っている。
「増えてる……?」
礼は起き上がった。
ノートをもう一度開く。
今度は新しいページ。
しばらく考えてから、ペンを走らせた。
『自分の中に、魔力とは違う何かがある。』
続ける。
『使うと減る。休むと戻る?』
『脚に流すと速くなる。』
そこで礼は少し考え、付け足した。
『流しすぎると壁にぶつかる。かなり痛い。』
「…………」
まだ痛む鼻を触る。
「マジで痛かったな……」
次。
『腕に流すと力が強くなる。ただし身体が強くなるわけではない?』
その下には、
『硬いものを殴ると普通に自分も痛い。』
礼は腫れた左手を眺めた。
「そりゃそうか……」
そこでペンが止まった。
これは何なのだろう。
魔力ではない。
少なくとも、セイルに教わったものとは明らかに違う。
名前はない。
礼はページの一番上へ戻ると、少し大きな文字で書いた。
『???』
「……まあ、今はこれでいいか」
分からないなら、分からないと書いておけばいい。
今までだってそうだった。
知らない薬草は教わった。
知らない文字は覚えた。
剣は何度も振った。
できないことは、少しずつできるようにしてきた。
なら、これも同じだ。
誰かに聞くことはできない。
少なくとも、今のところは。
だったら自分で調べるしかない。
礼はノートを閉じた。
明日からどうするのか。
まだ決めていない。
ガルドを許せるのか。
四人とこれからも一緒にいられるのか。
この名前のない何かが何なのか。
何一つ分からない。
窓の外から、夜の街の音が微かに聞こえてくる。
礼はベッドへ身体を横たえ、目を閉じた。
明日の朝になれば、きっとまた食堂には五人分の朝食が並ぶ。
自分はそこへ行くのだろうか。
いつもの席に座り、いつものようにパンを食べるのだろうか。
答えはまだ出なかった。
ただ一つだけ分かることがある。
あの遺跡へ入る前と同じ明日は、もう二度と来ない。
礼はそのことだけを胸の奥で理解しながら、長い夜へと目を閉じた。




