第十二話 まだ死ねない
扉が砕けた。
黒い破片が弾け飛び、床を跳ねる。礼は咄嗟に両腕で顔を覆った。頬を掠めた破片が細い傷を作り、遅れて熱い痛みが走る。
それでも、目を閉じてはいられなかった。
崩れた扉の向こうから、二つの赤い光が現れる。
守護者。
あれだけ分厚かった隔壁を、力ずくで破壊した。
「…………」
礼は短剣を両手で握った。
震えは止まらない。止めようと意識するほど、指先まで震えていることが分かった。
それでも構えた。
「……来いよ」
声まで震えていた。
「俺だって、まだ――」
守護者が一歩踏み出す。
床が揺れた。
「死ねない」
礼は歯を食いしばった。
守護者の赤い目が、まっすぐに礼を捉える。
一人。
もう、前に立ってくれる人はいない。
盾もない。
矢も飛んでこない。
魔術もない。
自分だけだった。
「…………」
守護者が身体を沈めた。
礼は短剣を握る手に力を込める。
戦う。
そう思った。
次の瞬間。
守護者が床を蹴った。
「――っ!」
速い。
黒い巨体が、一瞬で目の前まで迫る。
振り上げられた腕。
あれを受ければ。
死ぬ。
「無理だろ!!」
礼は横へ飛んだ。
直後、背後で轟音が響いた。
床が砕け、石片が背中を打つ。
「いっ……!」
転がりながら立ち上がる。
戦えるわけがない。
ガルドたち四人でも倒せなかった相手だ。
剣を少し習っただけの自分が、短剣一本で勝てるはずがない。
なら。
逃げる。
恥ずかしいとか、格好悪いとか、そんなことを考えている場合じゃなかった。
『危なくなったら荷物を捨てて逃げろ』
頭の中に声が響いた。
「…………」
礼の足が、一瞬だけ止まりかけた。
聞きたくなかった。
今は。
ガルドの声なんて、思い出したくなかった。
それでも、その言葉を礼の頭は覚えている。
『荷物と命なら命だ』
「……分かってるよ」
礼は走った。
「そんなの……分かってるって!」
◇
どこへ逃げればいいのかは分からない。
後ろには、ガルドたちが消えた隔壁。
前には守護者。
部屋の中に出口らしいものはない。
それでも礼は走った。
止まったら死ぬ。
守護者の腕が横薙ぎに振るわれる。礼は身を屈め、頭上を通過する黒い腕から逃れた。
風圧だけで髪が乱れる。
「うわっ……!」
避けられた。
そう思った直後、守護者の脚が動いた。
「――っ!」
蹴り。
礼は咄嗟に後ろへ跳ぶ。
完全には避けられなかった。
「がっ……!」
身体が宙に浮いた。
何が起きたのか理解するより先に、背中から床へ叩きつけられる。
「っ……ぁ……」
息が。
できない。
肺の中から空気を全部押し出されたようだった。
痛い。
背中。
脇腹。
胸。
どこが痛いのかすら、よく分からない。
礼は口を開き、必死に空気を求めた。
「かっ……は……」
赤い光が近づいてくる。
立て。
逃げろ。
頭では分かっている。
身体が動かない。
「……動けよ」
床を掴む。
「動け……!」
指先。
腕。
膝。
ようやく身体が言うことを聞く。
礼は四つん這いになり、無理やり立ち上がった。
守護者が腕を振り上げる。
「っ!」
走る。
背後で床が砕けた。
「はぁっ……はぁっ……!」
息が痛い。
右の脇腹が、走るたびに悲鳴を上げる。
それでも。
走った。
怖いから逃げる。
『むしろ怖くなくなった奴から死ぬ』
「……うるせえ」
『怖いから警戒する』
「黙れよ……」
『怖いから準備する。怖いから仲間を見る』
「黙れって……!」
涙が出そうになる。
またガルドだ。
自分を置いていったくせに。
それでも。
教わった言葉が。
礼を生かしている。
「……くそっ!」
前。
壁。
行き止まり。
「っ!」
振り返る。
守護者。
迫っている。
右。
左。
何か。
何でもいい。
『人間はな、思い込みに支配されやすい』
今度は。
セイル。
『見えているものだけが正しいとは限らない』
「…………」
壁。
床。
天井。
見る。
考える。
何か。
「……あれ」
壁の下。
僅かな隙間。
その向こうから。
風。
「道……?」
礼は走った。
壁。
押す。
「開け……!」
動かない。
「開けよ!」
後ろ。
足音。
「くそっ!」
見る。
隙間。
壁。
紋様。
さっき。
セイルが扉を開けた時。
『これ押せ』
「どれだよ……!」
紋様を探す。
同じ。
似た形。
「これか!?」
押す。
何も起きない。
「違う!」
足音。
近い。
「じゃあこっち!」
押す。
ゴゴゴゴゴ。
「……!」
壁が動いた。
「開いた!」
礼は身体を滑り込ませる。
狭い。
人一人。
通れる程度。
守護者が腕を伸ばす。
「うわっ!」
礼は前へ飛び込んだ。
背中。
何かが掠める。
布が裂けた。
壁が閉じる。
守護者の腕。
挟まる。
止まった。
「閉まれ……!」
礼は紋様を何度も叩く。
「閉まれって!」
ゴゴゴ。
守護者が腕を引く。
壁。
閉じた。
「…………」
静寂。
「はぁ……」
礼はその場へ座り込んだ。
「はぁ……はぁ……」
助かった。
今は。
それだけ。
「…………」
礼は自分の手を見る。
震えている。
「……セイルさん」
無意識に。
名前が出た。
「…………」
返事はない。
「教え方、分かりづらいんだよ……」
笑おうとした。
声が。
掠れた。
◇
休んでいる暇はなかった。
壁の向こうから、低い音が響き始めたからだ。
守護者は諦めていない。
「……マジかよ」
礼は立ち上がった。
痛い。
身体中が痛い。
それでも進む。
狭い通路。
暗い。
松明は。
ない。
荷物と一緒に捨てた。
「何も見えねえ……」
手を壁につける。
一歩。
一歩。
暗闇。
怖い。
足元に穴があっても分からない。
魔物がいても。
分からない。
だから。
急がない。
『森では、目だけを使っちゃ駄目』
「…………」
ミレナ。
『音とか、匂いとか、風とか。使えるものは全部使うの』
礼は立ち止まった。
目を閉じる。
どうせ。
何も見えない。
なら。
音。
遠く。
守護者。
壁を壊している。
それ以外。
水。
どこかで。
滴る音。
風。
右頬。
僅かに。
「……こっち」
礼は右へ。
手探りで進んだ。
何度か転びそうになる。
それでも。
進んだ。
「…………」
まただ。
いないのに。
みんな。
いないのに。
ガルド。
セイル。
ミレナ。
教わったことが。
全部。
自分の中に残っている。
「……何なんだよ」
礼は呟いた。
「置いていったくせに」
胸が。
痛かった。
「……置いていったくせにさ」
忘れさせても。
くれない。
◇
しばらく進むと。
光が見えた。
青白い。
魔術灯。
「…………」
小さな部屋。
古い。
これまでの黒い構造とは違う。
石。
崩れた柱。
壊れた机のようなもの。
「戻ってきた……?」
上層。
かもしれない。
礼は壁へ手をついた。
「出口……」
出口を探す。
帰る。
どこへ。
「…………」
その考えが浮かんだ瞬間。
足が止まった。
帰る。
宿。
五人分の朝食。
ボルグが扉を叩く。
ミレナがパンを取る。
セイルが本を読む。
ガルドが。
「…………」
礼は首を振った。
「今は……いい」
考えるな。
生きる。
まず。
生きる。
部屋を見る。
何か使えるもの。
壊れた机。
石。
金属片。
「…………」
礼は金属片を拾った。
棒。
短い。
武器には。
「……ないよりマシか」
その時。
後ろ。
ゴン。
「…………」
礼は。
ゆっくり振り返った。
通路。
暗闇。
ゴン。
「……嘘だろ」
ゴン。
壁。
揺れる。
「ここまで来んのかよ……!」
逃げる。
出口。
探す。
ない。
「くそっ!」
ゴン!!
壁が砕けた。
黒い腕。
現れる。
「っ!」
礼は走る。
守護者。
穴を広げる。
入ってくる。
「しつこすぎんだろ!!」
礼は叫んだ。
返事はない。
当然だ。
守護者が走る。
「っ……!」
避ける。
痛い。
さっきより。
身体が動かない。
疲れている。
当然。
礼は戦士ではない。
体力も。
普通の十七歳。
「はぁ……っ!」
追いつかれる。
逃げ続けるのは。
無理。
「…………」
礼は腰へ手を伸ばした。
短剣。
ある。
「……やるしかないのかよ」
抜く。
小さな刃。
初めて。
自分で稼いだ金で買った。
武器。
『護身用だ』
ガルドの言葉。
『戦うためじゃない』
「…………」
礼は。
短剣を構えた。
「悪い」
守護者を見る。
「今から戦うわ」
◇
勝つ必要はない。
逃げるための隙を作る。
それだけ。
礼は自分に言い聞かせた。
守護者の攻撃。
大きい。
速い。
でも。
何度か見た。
右腕を振るう前。
肩が。
僅かに。
沈む。
「…………」
来る。
礼は。
待った。
怖い。
逃げたい。
でも。
待つ。
肩。
沈む。
「今!」
礼は横へ飛んだ。
黒い腕。
通過。
「っ!」
前へ。
ガルドに教わった。
剣。
いや。
短剣。
振る。
ガキン!
「硬っ!」
弾かれる。
手首。
痺れる。
「やっぱ無理じゃん!」
逃げる。
守護者。
追う。
「どっか……!」
弱点。
四人の攻撃。
思い出す。
目。
弾いた。
胸。
魔術。
効きづらい。
関節。
ミレナ。
矢。
「…………」
待て。
一本。
矢。
膝。
弾かれた。
でも。
その時。
「……動いた」
僅か。
守護者の動き。
止まった。
「関節……?」
外殻。
隙間。
「…………」
礼は。
守護者を見る。
「怖くなくなった奴から死ぬ……」
怖い。
死ぬほど。
怖い。
「なら」
まだ。
自分は。
「死なねえ……!」
走る。
守護者。
腕。
避ける。
足。
跳ぶ。
「うおおおっ!」
膝。
隙間。
短剣。
突き刺す。
ズッ。
「…………!」
入った。
「入った!!」
初めて。
確かな手応え。
「いけ――」
守護者の腕が。
礼の腹へ。
「――っ」
世界が。
飛んだ。
◇
音が。
遠い。
「…………」
礼は。
床にいた。
どうして。
いつ。
「……ぁ」
息。
できる。
でも。
痛い。
「ぐっ……」
身体を丸める。
腹。
吐きそう。
「……っ」
口。
鉄の味。
血。
「…………」
礼は。
床へ吐いた。
赤い。
「……マジかよ」
守護者。
膝。
短剣。
刺さっている。
「…………」
やった。
少し。
効いた。
なら。
「……まだ」
礼は立とうとする。
「まだ……」
膝。
つく。
「立て……!」
守護者が。
短剣を抜いた。
「…………」
礼の目。
見開く。
自分の短剣。
守護者が。
握る。
「それ……」
守護者の手。
力。
パキン。
「…………」
刃が。
折れた。
「…………あ」
床。
落ちる。
金属音。
小さな。
音。
礼は。
それを見た。
「…………」
初めて。
自分で稼いだ金。
初めて。
自分で買った武器。
『冒険者っぽい』
自分が。
そう言った。
ミレナが笑った。
ガルドが。
護身用だと。
教えた。
「…………」
折れた。
「……そっか」
礼は。
床に手をついた。
「終わったんだ」
冒険。
楽しかった。
遺跡。
五人。
笑った。
「…………」
守護者が。
近づく。
「……ふざけんな」
礼は。
呟いた。
一歩。
「勝手に拾って」
ガルド。
『じゃあ行くぞ、礼』
「飯食わせて」
五人分。
朝食。
「服まで買って」
借金。
いつか返すつもりだった。
「剣教えて」
『明日もやれ』
「仲間とか言って」
『荷物持ちだって――パーティーの一員だ』
「いてよかったとか言って」
『礼がいてくれて、よかった』
「おかえりって……」
『おかえり。今日は五人とも無事だね』
「帰る場所まで……」
礼の指が。
床を掴む。
「作って……」
守護者。
近づく。
「それで」
礼は。
顔を上げた。
涙。
血。
ぐちゃぐちゃだった。
「勝手に捨てやがって……!」
守護者が腕を上げる。
「俺は……!」
立て。
「俺は……物じゃねえぞ!!」
礼は立ち上がった。
拳。
握る。
武器。
ない。
魔法。
使えない。
強くもない。
それでも。
守護者を睨む。
「俺は!」
叫ぶ。
「生きてんだよ!!」
腕。
振り下ろされる。
「っ!」
礼は。
飛ぶ。
遅い。
肩。
直撃。
「がっ!」
床。
転がる。
壁。
ぶつかる。
「…………っ」
右腕。
動かない。
「……は」
笑い。
出た。
「何だよ……」
左手。
床。
「全然……」
立てない。
「強く……ねえじゃん……」
序章も。
伝説も。
ない。
今の礼は。
ただの。
十七歳。
守護者。
来る。
「…………」
逃げる。
身体。
動かない。
立とうとする。
崩れる。
「……嫌だ」
礼は。
床を這った。
「嫌だ……」
死ぬ。
分かった。
「……死にたくない」
口にした。
初めて。
「俺……」
涙。
落ちる。
「死にたくない……!」
日本。
帰りたいのか。
分からない。
この世界。
帰る場所。
なくなった。
それでも。
「死にたくない!!」
理由なんて。
なかった。
夢も。
ない。
やりたいこと。
分からない。
でも。
死にたくない。
「誰か……!」
声。
出る。
「助けて……!」
誰も。
いない。
「…………」
そうだった。
誰も。
いない。
礼は。
歯を食いしばった。
「……違う」
誰もいないなら。
「自分で……」
どうにか。
「自分で……!」
何を。
武器。
ない。
魔法。
ほとんどない。
身体。
動かない。
何も。
ない。
「…………」
何も。
ない?
『目を閉じろ』
「…………」
セイル。
あの日。
魔力の適性を調べた後。
教えてくれた。
『魔力は外から探すものじゃない』
「…………」
『まず、自分の中を探せ』
やった。
何度も。
何も。
感じなかった。
正確には。
ほとんど。
なかった。
「……魔力」
礼は。
目を閉じた。
守護者の足音。
近づく。
「魔力……」
探す。
身体。
内側。
セイルに。
教わった通り。
「…………」
微か。
ある。
でも。
少ない。
こんなもの。
何の役にも。
「……足りない」
守護者。
近い。
「こんなんじゃ……」
死ぬ。
「もっと……」
何か。
「何でもいい……」
魔力じゃなくていい。
「何でもいいから……」
才能。
なくていい。
「剣じゃなくても……」
主人公じゃなくていい。
「魔法じゃなくても……!」
何でも。
何でもいい。
「俺を……」
生かせ。
「俺を……!」
もっと。
深く。
礼は。
自分の中へ。
意識を沈める。
魔力。
その感覚を。
通り過ぎる。
もっと。
奥。
何も。
ない。
もっと。
「……生かせよ……!」
暗い。
深い。
何も。
ない。
はずだった。
――ドクン。
「…………?」
礼の意識が。
止まった。
心臓。
違う。
――ドクン。
「……何だ」
血。
違う。
魔力。
違う。
――ドクン。
あった。
「…………」
礼は。
目を閉じたまま。
それを。
感じる。
熱くない。
冷たくもない。
光でもない。
言葉に。
できない。
ただ。
そこに。
ある。
「……これ」
どこ。
分からない。
胸。
腹。
頭。
どこでもない。
なのに。
自分の中。
確かに。
ある。
――ドクン。
「…………」
礼は。
思い出した。
黒い通路。
『今、何かした?』
『していない』
あの時。
一瞬。
感じたもの。
「……これだったのか?」
分からない。
守護者。
足音。
すぐ。
目の前。
礼は目を開けた。
赤い光。
腕。
振り上げる。
「…………」
怖い。
身体。
動かない。
逃げられない。
それでも。
礼の意識は。
自分の中の。
未知の何かを。
確かに捉えていた。
名前はない。
使い方も知らない。
それが力なのかさえ。
分からない。
ただ。
十七年間。
一度として。
その存在に気づかなかった何かが。
今。
確かに。
如月礼の中にある。
守護者の腕が。
振り下ろされる。
礼は。
それへ。
必死に。
意識を伸ばした。
「…………」
そして。
呟いた。
「……なんだ、これ」




