第百五話 南から来た男
共同の建物が完成してから、五日が経った。
朝になると扉が開き、昼間は誰かしらが出入りしている。
村の者が話し合いに使う日もあれば、童術の練習に使う日もあった。子供たちが入り込んで叱られ、雨が降れば畑仕事を切り上げた者たちが軒下へ逃げ込む。
最初から用途を決めなかった村長の言葉通り、使い道は勝手に増えていた。
その日の午前も、三人の村人が中で童術の練習をしていた。
「違います。もっとゆっくりです」
「ゆっくりやってる」
「それで昨日、壁にぶつかったでしょう」
「あれは床が滑ったんだ」
「童師と同じこと言い始めましたね」
「何が?」
「何でもありません」
元童術師の男がため息をつく。
建物の外を通りかかった礼は、その声を聞いて足を止めた。
「童師」
男が気づく。
「どうされました?」
「壁にぶつけるな」
「俺じゃありません」
「分かってる」
「聞こえてたんですか」
「ああ」
練習していた村人が頭を掻いた。
「今日はぶつからないから大丈夫ですよ、童師様」
「昨日もそう言っただろ」
「……聞いてたんですか?」
「壁の音は聞こえた」
「…………」
「壊したら直せ」
「はい」
礼はそれだけ言って歩き出した。
今日は畑の水路を見ることになっている。
昨日、流れが悪くなっている場所が見つかった。土が崩れた程度ならすぐ終わるだろうと聞いている。
村の中央を抜ける。
「童師様!」
「なんだ」
「帰りに薪を少しお願いできますか!」
「ああ」
「童師様、村長が午後に来てくれって!」
「分かった」
「礼!」
今度はガルドだった。
「なんだ」
「お前、俺の家の斧持ってったか?」
「持ってない」
「じゃあ誰だ」
「知らん」
「昨日お前使ってただろ」
「返した」
「どこに」
「薪の横」
「ねえぞ」
「なら誰かが使ってる」
「探すの手伝え」
「水路が先だ」
「逃げんな」
「逃げてない」
礼はそのまま歩いた。
「後で探せよ!」
「ああ」
「絶対だぞ!」
背中から声が飛んでくる。
いつもの朝だった。
◇
水路の修理は、昼前に終わった。
原因は予想通り、春になって緩んだ土だった。
村人と一緒に泥を掻き出し、崩れた部分へ石を積む。
童術を使う必要すらなかった。
「これで大丈夫でしょう」
村の男が水の流れを見る。
「ああ」
「助かりました、童師様」
「俺がいなくてもできただろ」
「人手は多い方がいいですよ」
「そうか」
「はい」
男は道具を担いだ。
「昼、どうします?」
「戻って食う」
「今日は共同の建物で食べるそうですよ」
「またか」
「広いですからね」
「卓はできたのか」
「昨日できました」
「椅子は」
「まだ足りません」
「そうか」
「童師様が作ります?」
「作らない」
即答すると、男が笑った。
「釘が曲がるからですか?」
「…………」
「ガルドさんが言ってました」
「あいつ」
礼は立ち上がった。
「帰るぞ」
「はい」
二人で村へ戻り始める。
春の日差しは暖かかった。
道の脇では草が伸び始め、遠くの森にも緑が増えている。
村が見えてきた頃だった。
「……童師様」
「ああ」
礼も気づいていた。
村の入口に、人がいる。
一人だった。
村人ではない。
男が柵にもたれかかるように立っている。
いや。
立っているというより、どうにか倒れずにいるだけだった。
「おい!」
一緒にいた村人が走る。
礼も後を追った。
「大丈夫か!」
男が顔を上げる。
二十代半ばほどだろうか。
旅装は泥だらけで、外套の裾が破れている。頬は痩せ、唇も乾いていた。
「……村……?」
「ああ」
「水……」
「待ってろ!」
村人が振り返る。
「水持ってくる!」
「少しずつ飲ませろ」
「はい!」
男の身体が傾いた。
礼が支える。
「怪我は」
「……ない」
「本当か」
「たぶん……」
礼は男の様子を見る。
血の匂いはしない。
歩き続けた疲労が大きい。
「何日歩いた」
「……三日」
「どこからだ」
男は答えなかった。
呼吸を整える。
「……南」
礼の目が僅かに動いた。
「南のどこだ」
「…………」
「今はいい」
礼は男の腕を肩へ回した。
「中へ運ぶ」
「童師様、俺も」
「ああ」
二人で男を支え、村の中へ入った。
◇
「食え」
「……すみません」
「謝らなくていい」
共同の建物。
完成して間もない長い卓の端に、男は座っていた。
目の前には薄いスープとパンが置かれている。
いきなり大量に食べさせるなと礼が言ったため、量は少ない。
男はゆっくりパンを口へ運んでいた。
周囲には村長とガルド、それから礼がいる。
他の者たちは外へ出していた。
「名前は」
村長が聞く。
「レオンです」
「どこから来た」
「……南です」
「それは聞いた」
「…………」
「言いたくないなら無理には聞かん」
村長はそう言った。
「だが、何かに追われているなら話は別だ。この村には子供もおる」
「追われて……」
レオンの手が止まる。
「分かりません」
「分からん?」
「ここまで……追ってきているかどうかは」
空気が変わった。
ガルドが壁から背を離す。
「誰に追われてる」
「…………」
レオンは三人を見る。
その視線が、礼のところで止まった。
「さっき」
「なんだ」
「この人を……童師様って」
村長は答えない。
礼が答えた。
「ああ」
「じゃあ」
レオンの顔が変わる。
「あなたが……童師?」
「そう呼ばれている」
「…………」
男が立ち上がろうとした。
「座ってろ」
「でも」
「倒れるぞ」
「あなたを……」
卓へ手をつく。
「探してました」
礼は黙った。
「俺を?」
「はい」
「なぜ」
レオンが唇を噛む。
「助けてほしいんです」
「誰を」
「…………」
男の声が震えた。
「仲間を」
◇
話を聞く前に、レオンを休ませた。
本人は話せると言ったが、村長が許さなかった。
「飯もろくに食っとらん奴の話を聞いてどうする」
それだけだった。
空いている寝台へ寝かせる。
元童術師の男が水を運び、村の女が毛布を持ってきた。
しばらくすれば眠りについた。
「礼」
建物の外へ出たところで、ガルドが呼んだ。
「なんだ」
「どう思う」
「まだ何も聞いてない」
「そういう意味じゃねえ」
ガルドは閉じた戸を見る。
「あいつ、お前を探してた」
「ああ」
「南から」
「ああ」
「この前の行商人の話、覚えてるか」
「覚えてる」
南で童術師が捕まった。
何人かまとめて連れていかれた。
それ以上は分からない。
「関係あると思うか」
「分からない」
「だよな」
ガルドは頭を掻いた。
「で?」
「何が」
「助けてくれって言われたらどうする」
「話を聞いてから決める」
「…………」
「何だ」
「いや」
ガルドが少し笑った。
「昔のお前なら、もう南へ走ってたかもしれねえと思ってな」
「そうか?」
「ああ」
「覚えてない」
「俺は覚えてるって言っただろ」
礼は何も言わなかった。
共同の建物を見る。
中では、南から来た男が眠っている。
「とりあえず飯だ」
ガルドが言う。
「もう昼過ぎだぞ」
「ああ」
「今日は何だと思う」
「肉」
「だよな」
二人は歩き出した。
◇
レオンが目を覚ましたのは、日が傾き始めた頃だった。
礼が呼ばれ、再び共同の建物へ向かう。
今度は村長とガルドの他に、童術師が二人同席した。
「話せるか」
礼が聞く。
「はい」
「無理なら明日でいい」
「いえ」
レオンは首を振った。
「話します」
昼より顔色は戻っている。
「まず」
礼は向かいへ座る。
「お前は童術師か」
「…………」
「違うなら違うでいい」
「……違います」
「童力は」
「感じません」
「そうか」
礼はそれ以上追及しなかった。
「仲間というのは」
「童術師です」
予想していた答えだった。
「何人だ」
「六人」
「全員捕まったのか」
「……四人です」
「残り二人は」
「俺が逃げる途中で別れました」
「生きてるか」
「分かりません」
「どこで捕まった」
レオンは村の卓へ目を落とす。
「南に、小さな町があります」
「名前は」
「ベルグです」
「知ってるか?」
礼がガルドを見る。
「ああ。ここからなら歩いて五、六日ってところだ。街道使えばもう少し早い」
「そこで何があった」
「…………」
レオンは両手を握った。
「最初は、何も」
「何も?」
「皆、普通に暮らしてました」
「童術師がか」
「はい」
レオンが頷く。
「冒険者もいました。職人も。俺みたいに何も使えない奴も」
「何人くらいいた」
「町にいた童術師は……俺が知ってるだけで六人です」
「その六人が仲間か」
「はい」
「誰から習った」
「それぞれ違います」
礼が僅かに目を細くする。
「違う?」
「はい。二人は旅の童術師から。一人は冒険者仲間から。残りは……そこから教わりました」
「礼から直接習った奴は?」
ガルドが聞く。
レオンは首を振った。
「いません」
部屋が静かになった。
礼は何も言わない。
知らない町。
知らない六人。
自分と会ったことすらない。
それでも童術を使っている。
「続けろ」
「はい」
レオンは話を戻した。
「少し前から、役人が来るようになりました」
「何の役人だ」
「分かりません。王国の人間だとは言ってました」
「軍か?」
「兵士も一緒でした」
「何を聞かれた」
「童術師が何人いるのか。誰から習ったのか。何が使えるのか。町の外に仲間がいるのか」
礼の表情は変わらない。
「答えたのか」
「最初は」
「最初は?」
「隠す理由もないと思ってましたから」
「…………」
「でも、何度も来るようになった」
レオンの声が低くなる。
「最初は話を聞くだけだったんです。その次は名前を書かされた。その次は、町を出る時に届けろと言われた」
「それで?」
「三日前」
男の指が僅かに震えた。
「兵士が来ました」
「何人」
「二十人くらい」
「目的は」
「童術師を連れていくことです」
「理由は」
「調査だと」
礼の目が止まる。
「……調査」
「はい」
「どこへ」
「分かりません」
「抵抗したのか」
「してません!」
レオンが顔を上げた。
「誰も!」
声が大きくなった。
「……すみません」
「いい。続けろ」
「皆、話せば分かると思ってました。だから武器も抜かなかった。なのに……」
「…………」
「四人、連れていかれました」
「残り二人は」
「一人が怖くなって逃げようとして、それで町が騒ぎになって……俺も一緒に逃げました」
「なぜお前が」
「俺は」
レオンは一度口を閉じた。
「友達だからです」
礼は黙って聞く。
「童術が使えるとか、使えないとかじゃなくて。ずっと一緒にいました」
「…………」
「逃げた二人のうち一人が言ったんです」
レオンが礼を見る。
「北へ行けって」
「なぜ」
「童師がいるかもしれないから」
「…………」
「噂を聞いてました。北へ向かった童術師たちがいる。その中に、最初に童術を作った人がいるって」
「誰から聞いた」
「分かりません。町の童術師が知ってました」
礼は椅子へ深く座り直した。
「それで三日歩いたのか」
「はい」
「五、六日かかる距離だぞ」
ガルドが言う。
「途中で荷車に乗せてもらいました。そこから歩いて……」
「よく着いたな」
「…………」
レオンは礼を見る。
「お願いします」
「何を」
「四人を助けてください」
「…………」
「童師なら」
「やめろ」
礼の声は低かった。
レオンが止まる。
「俺なら何でもできると思うな」
「でも」
「まず四人がどこにいるのかも分からない」
「…………」
「連れていった相手も分からない。目的も分からない」
「はい」
「今からベルグへ行っても、三日前だ。もういない可能性が高い」
「…………」
「それでも探すなら、情報がいる」
レオンが顔を上げる。
「……助けて、くれるんですか」
「まだ決めてない」
「…………」
「決めるために聞いてる」
「はい」
礼は少し考える。
「明日、もう一度最初から聞く」
「明日?」
「ああ」
「でも早く――」
「焦って何も分からないまま行けば、助けられるものも助けられない」
「…………」
「今日は休め」
レオンは何か言おうとした。
だが、やがて俯く。
「……はい」
礼は立ち上がった。
◇
夜。
十三人が暮らす家には、いつも通り夕食の匂いが満ちていた。
「童師」
「なんだ」
「南へ行かれるんですか」
誰かが聞いた。
礼は器を置く。
「まだ決めてない」
「俺たちも行きます」
「決めてないと言った」
「決まったらです」
「…………」
「行くなら、俺も」
「俺もです」
別の声が続く。
「全員で行く必要はない」
「では何人かで」
「まだ決めてない」
「はい」
それ以上、誰も言わなかった。
食事が続く。
少しして、元童術師の男が戸を開けた。
「遅くなりました」
「どうした」
「レオンさんの様子を見ていました」
「寝たか」
「はい。先ほど」
「そうか」
「それと」
「なんだ」
「明日の練習ですが、午前でいいでしょうか」
「ああ」
「午後は彼女の家の屋根を少し直すので」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
男は空いている場所へ座る。
「食うか?」
「いただきます」
器が一つ増える。
十三人の家に、今夜は十四人いた。
誰かがパンを渡す。
誰かが鍋からスープをよそう。
南から来た男の話をした後でも、夕食はいつも通り続いていた。
◇
食事の後。
礼は外へ出た。
村の中央には、完成した共同の建物がある。
窓から小さな灯りが漏れていた。
レオンが眠っている。
その向こう。
村の入口から、南へ続く道がある。
「礼」
ガルドが来た。
「なんだ」
「やっぱりここか」
「何が」
「考え事する時、最近ここにいるだろ」
「そうか?」
「ああ」
ガルドは礼の隣に立つ。
「行くのか」
「分からない」
「珍しいな」
「何が」
「お前が分からないって言うのが」
「分からないものは分からない」
「そうか」
「ああ」
しばらく、二人とも黙っていた。
「四人」
礼が言った。
「ん?」
「捕まった童術師」
「ああ」
「俺は知らない」
「そうだな」
「会ったこともない」
「ああ」
「俺から習ったわけでもない」
「らしいな」
礼は共同の建物を見る。
「それでも、童術を使ってる」
「…………」
「知らないところで」
「ああ」
ガルドは何も足さなかった。
春の夜風が吹く。
共同の建物の横に立つ大木の葉が、小さく揺れた。
「明日、話を聞く」
礼が言う。
「そうか」
「それから決める」
「ああ」
ガルドが頷く。
「飯、まだ残ってるぞ」
「食った」
「肉が」
「いらない」
「珍しいな」
「毎日食ってる」
「贅沢になったな、お前」
「お前もだろ」
「俺は村人だからいいんだよ」
「関係あるか?」
「ある」
「そうか」
「ああ」
二人は家へ戻り始めた。
礼は途中で一度だけ、南へ続く道を見た。
その道の先にいる四人を、礼は知らない。
顔も。
名前も。
声も。
何一つ知らなかった。
ただ一つ。
彼らが、自分の知らない場所で童術を使っている。
今は、それだけを知っていた。
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