修学旅行
教室の空気が、少しだけ浮ついていた。
黒板に「修学旅行 班決め」と書かれた瞬間、クラス全体の温度が上がる。
席を立つ音、椅子を引く音、あちこちで名前を呼ぶ声。
こういう時間が、一番苦手だった。
僕は席に座ったまま、シャーペンを回していた。参加しないわけじゃない。ただ、タイミングがわからないだけだ。
「蒼、どうする?」
健吾が声をかけてきた。
「……どうするって」
「班だよ班。もう組み始まってるぞ」
周りを見ると、すでにいくつかのグループができていた。
男子同士で固まるやつ、男女混合で騒いでるやつ。
木村は女子の方にいた。すでに誰かに腕を引っ張られて、笑いながら輪に入っていくのが見えた。
当たり前だ。女子は女子で組む。
少しだけ、胸のあたりが軽くなって、同時に少しだけ重くなった。
「まあ、俺と組むしかなくね?」
健吾がパンの袋を開けながら言った。
「……そうだね」
それでいいと思った。むしろ、それが一番楽だ。
2人班でも成立はするけど、先生は「できれば3人以上」と言っていた。
「あと1人どうする?」
健吾が言った。
僕は、すぐに名前を出せなかった。
出したくなかった名前が、頭に浮かんでいたから。
その名前はいろんな人が叫んでいる。
「宮田、うち来いよ!」
「いやいや、こっちだろ!」
「お前いないと夜つまんねえって!」
教室の中央で、宮田が囲まれていた。
笑っていた。困っているようで、でも楽しそうで、いつもの顔だった。
誰とでも自然に話して、誰にでも求められる。
僕はそれを、少し離れたところから見ていた。
目が合いそうになって、すぐ逸らした。
「どうするよ、マジで」
健吾が言った。
「……誰でもいいんじゃない」
本当はよくなかった。
誰でもよくなかった。
でも、そう言うしかなかった。
そのときだった。
「おーい」
声がした。
顔を上げると、宮田がこっちを見ていた。
心臓が一回、強く鳴った。
「蒼、松本」
名前を呼ばれた。
2人まとめて。
「お前ら、班決まってる?」
健吾が先に答えた。
「いや、まだ。今から決めるとこ」
宮田が少しだけ間を置いた。
周りからまだ声が飛んでいた。
「宮田こっち来いって!」
「お前絶対こっちのが楽しいって!」
宮田は一瞬だけそっちを見て、それからまたこっちを見た。
「じゃあ、俺ここ入っていい?」
時間が止まったみたいだった。
健吾が「え、マジ?」と笑った。
「いいに決まってんじゃん」
そう言って、宮田の肩を軽く叩いた。
僕は何も言えなかった。
言葉が出なかった。
ただ、頷いた。
たぶん、見えないくらい小さく。
「え、宮田そっち行くの?」
「マジで?なんで?」
「絶対こっちの方が楽しいって!」
と周囲は叫んだ。
宮田は笑った。
「いや、なんか落ち着きそうじゃん」
それだけ言った。
軽い言い方だった。
深い意味なんてないように聞こえた。
でも僕には、その言葉がやけに残った。
席に戻って、プリントに名前を書く。
「中島蒼」
「松本健吾」
「宮田颯介」
3人の名前が並んでいた。
現実感がなかった。
「よろしくな」
宮田が言った。
「……うん」
また、少し遅れて答えた。
健吾が笑った。
「蒼、また3秒だぞ」
「……うるさい」
でも、少しだけ笑えた。
帰り道、健吾が言った。
「いやー、なんで宮田あっち蹴ってこっち来たんだろうな」
「……さあ」
本当にわからなかった。
わかりたくなかった。
でも、少しだけ思った。
もし理由があるとしたら。
それは、考えない方がいいやつだ。
「まあでもラッキーじゃね?」
健吾が言った。
「楽しくなりそうじゃん」
「……そうだね」
本当にそうだった。
楽しみだった。
怖いくらいに。
そして修学旅行の日はやってきた。
朝の駅はやけに騒がしかった。
スーツケースの音と、集合時間ギリギリの声と、先生の怒鳴り声。
その中で、僕は少しだけ遅れて改札をくぐった。
ホームに上がると、すでにクラスのほとんどが集まっていた。
「蒼!こっち!」
健吾が手を振っていた。その隣に、宮田がいた。
心臓が、朝からうるさかった。
「おはよ」
「おう、おはよ」
宮田が軽く言った。
それだけで、少しだけ今日が現実になった。
新幹線の座席は3人並びだった。
窓側が僕、真ん中が健吾、通路側が宮田。
「席替えする?」と健吾が言ったけど、僕は首を振った。
この距離が限界だった。
これ以上近いと、たぶん無理だった。
新幹線が動き出してしばらくして、健吾はすぐ寝た。
本当にすぐ寝る。
頭がカクンと落ちて、そのまま動かなくなった。
「早すぎだろ」
宮田が小さく笑った。
僕も少しだけ笑った。
沈黙が来た。
でも、不思議と苦しくなかった。
窓の外の景色を見ながら、時々、横に気配を感じる。
宮田がスマホをいじる音。ページをめくる音。
それだけで、距離があるのに近かった。
旅館の部屋は和室だった。
畳の匂いがして、窓の外に知らない景色が広がっていた。
「テンション上がるなこれ」
健吾が布団にダイブした。
「お前早いって」
宮田が笑う。
僕は入口のあたりで立っていた。
どこに座ればいいのか、一瞬わからなかった。
「蒼、こっち来いよ」
健吾が手を叩いた。
その横に、宮田が座っていた。
逃げ場はなかった。
夜。
風呂に入って、部屋に戻って、自由時間。
廊下は騒がしかった。
他の部屋から笑い声が漏れてくる。
「トランプ持ってきたやついる?」
健吾が聞いた。
「俺持ってる」
宮田が鞄から出した。
「強そうだな」
「普通だろ」
3人でトランプを始めた。
神経衰弱、ババ抜き、どうでもいいルール。
勝ち負けもどうでもよかった。
ただ時間が流れていった。
途中で健吾が言った。
「なあ、恋バナする?」
最悪だった。
「やめとけって」
宮田が笑いながら言った。
「なんでだよ、修学旅行だぞ?」
「いや、なんかそういう空気じゃなくね?」
助かったと思った。
でも同時に、少しだけ残念だった。
「宮田は?好きなやつとかいんの?」
健吾が結局聞いた。
「いや、今はいない」
即答だった。
嘘じゃない気がした。
でも、本当かどうかはわからなかった。
「蒼は?」
急に振られた。
「……いない」
嘘だった。
すぐ横にいた。
布団を敷いて、電気を消した。
真っ暗ではなかった。カーテンの隙間から外の光が少し入っていた。
3人、横に並んで寝た。
順番は覚えている。
端が健吾、真ん中が僕、その隣が宮田。
近かった。
近すぎた。
健吾はまたすぐ寝た。
本当にすぐ寝る。
規則的な寝息が聞こえた。
しばらくして。
「蒼、起きてる?」
小さな声。
宮田だった。
「……起きてる」
「今日さ、ありがとな」
「何が」
「班、一緒になってくれて」
意味がわからなかった。
「こっちこそ」
それしか言えなかった。
少し間があった。
「なんかさ」
宮田が続けた。
「他のとこ、うるさそうだったし」
「……うん」
「ここ、落ち着くわ」
その言葉が、胸に残った。
「おやすみ」
「……おやすみ」
それで終わった。
でも、その一言で、眠れなくなった。
横を見ると、宮田はきれいな顔で寝ている。
健吾は暴れたような姿勢で寝ている。
宮田の顔はきれいすぎた。
まるで、呪いを解く口づけを待っているみたいに。
音をたてないように、僕はそっと起き上がった。
宮田にそっと近づく。
こんなことしちゃいけないってわかってる。
でも、でも。
自分でも抑えれれない。
そっと宮田の唇に人差し指をあてた。
そのまま、時間が止まったみたいだった。
柔らかかった。
当たり前だけど、思っていたよりずっと静かで、温度があった。
指先ひとつなのに、全身がそこに引っ張られていく感じがした。
心臓がうるさかった。
こんなに大きな音、絶対聞こえてると思った。
でも宮田は、動かなかった。
寝息はさっきと同じリズムで、規則的に続いている。
ほんの少しだけ、ほっとした。
でもその安心が、逆に危なかった。
「……」
指を離すタイミングがわからなかった。
このまま触れていたら、どこまでいくんだろう。
そんなことを考えた瞬間、怖くなった。
急に現実が戻ってきた。
これは、ただのクラスメイトで、ただの修学旅行で、ただの夜だ。
僕が勝手に壊していいものじゃない。
そっと指を離した。
でも離した瞬間、空気が冷たくなった気がした。
さっきまでそこにあった温度が、嘘みたいに消えた。
後悔、というより、名残惜しさだった。
僕はそのまま、少しだけ宮田の顔を見た。
まつ毛が長かった。
呼吸に合わせて、ほんの少しだけ胸が上下している。
こんなに近くで見るのは初めてだった。
見すぎると危ない気がして、視線を逸らした。
そのとき。
「……蒼?」
心臓が止まった。
一瞬、思考が空白になった。
ゆっくり振り向くと、宮田の目が半分開いていた。
完全に起きているわけじゃない。
でも、完全に寝ているわけでもない。
一番まずい状態だった。
「な、何?」
声が、少しだけ裏返った。
宮田はぼんやりした目で、こっちを見ていた。
「……トイレ?」
「……うん」
反射的に嘘をついた。
宮田は少しだけ目を細めた。
何かを考えているような、考えていないような顔だった。
それから、小さく「そっか」と言った。
そのまま、また目を閉じた。
寝息が戻るまでの数秒が、やけに長かった。
完全に寝たのを確認してから、僕はゆっくり息を吐いた。
全身の力が抜けた。
膝が少し震えていた。
バレてない。
たぶん。
でも、さっきの一瞬。
何かを見られた気がした。
全部じゃない。
でも、何かの気配みたいなもの。
僕はその場にいられなくなって、静かに部屋を出た。
廊下は暗くて、少しだけひんやりしていた。
遠くの部屋から、笑い声が聞こえた。
別の世界みたいだった。
僕は壁に背中をつけて、ゆっくりしゃがみこんだ。
手を見た。
さっき、宮田に触れた指。
何も変わっていないのに、変わってしまった気がした。
「……何やってんだろ」
小さく呟いた。
答えは出なかった。
わかってることはひとつだけだった。
戻れない、とは思わなかった。
でも、戻りたくないとも思ってしまった。
それが一番、まずかった。
しばらくして、僕は立ち上がった。
部屋に戻ると、二人とも同じ姿勢で寝ていた。
何も変わっていなかった。
僕だけが変わっていた。
布団に入って、天井を見た。
さっきの感触が、まだ指先に残っていた。
消えてほしくて、でも消えないでほしくて。
目を閉じた。
眠れるはずがなかった。
でも、気づいたら朝になっていた。
観光地を回る日。
3人で地図を見ながら歩いた。
「絶対こっちだって」
「いや違うだろ」
「蒼どっちだと思う?」
「……たぶんこっち」
僕の指した方向に進んだ。
合っていた。
「さすが英語だけじゃないな」
宮田が笑った。
意味はよくわからなかったけど、少し嬉しかった。
昼ごはん。
3人で同じものを頼んだ。
写真を撮る健吾、ふざける宮田。
僕はそれを見ていた。
その中にいることが、不思議だった。
帰り道。
人混みで少し離れた。
前を歩く二人の背中が見えた。
急に不安になった。
このまま見失うんじゃないかと思った。
そのとき。
「蒼」
振り返ったのは宮田だった。
「こっち」
手を軽く上げた。
それだけで、戻れた。
あっという間だった。
新幹線の中。
健吾はまた寝ていた。
宮田は外を見ていた。
僕も外を見ていた。
同じ方向を。
「早かったな」
宮田が言った。
「……うん」
「またどっか行きたいな」
軽く言った。
本気かどうかはわからなかった。
でも、その言葉だけで十分だった。
家に帰って、部屋に入って、ベッドに座った。
静かだった。
3日間が嘘みたいだった。
でも、違った。
何かが変わっていた。
大きくじゃない。
ほんの少し。
でも確実に。
「落ち着く」
あの言葉が、ずっと残っていた。




