岩に刻む
ミラが歩き回っていた。
キャンプ地の周りを。岩を見て、木を見て、地面を踏んで。何かを探している。
大きな岩の前で止まった。割れ目に冬枯れの蔦が這っている。見上げた。しばらく見ていた。
「……ここがいい」
小さな声。でもはっきりと。
鉈が土を叩く音がした。ゲルトが凍った地面を砕いている。ニコとヴェルナーが掘り始めた。誰も場所を聞き直さなかった。
ニコがヴェルナーの方を見た。ヴェルナーが矢筒から一本抜いて渡した。四角い鏃。
ニコが岩の前に立った。ミラを手招きした。
「こっち来い」
ミラが岩の前に立った。ニコがミラの頭のてっぺんに手を置いて、岩の表面に鏃の角を当てた。がりがりと削った。白い線が残った。
「この高さで見える景色を覚えておけ」
ミラが岩の線の高さから、南の斜面を見た。冬枯れの草。盛り土。その向こうに空。
「次に来る時は、背が伸びてる。景色が変わる」
ミラがニコの袖を引いた。
中腰になった。ハイディの横にしゃがんでいた時の高さ。草をちぎって、差し出して、指ごと口に含まれた時の高さ。
「……ここも」
ニコが黙って鏃を当てた。がりがりと削った。もう一本、白い線が岩に残った。
ニコが鏃をヴェルナーに返した。ヴェルナーが布で拭いて、矢筒に戻した。
◇
ミラが穴の縁にしゃがんでいる。ハイディの毛を梳いている。まだ梳いている。
誰も急かさない。
指が肩を通り、背中を通り、腰を通る。全身を。もう一周。もう一周。
ナタンがミラの肩に手を置いた。ミラの手が止まった。
穴の中で、ナタンが後ろ脚を折り畳んでいる。眠る時の形に。
後ろ脚に白い包帯が巻かれたまま。
土が落ちる音がする。
◇
ナタンが毛の束を差し出した。
埋める前に刈った毛。白い。くすんでいる。艶がない。年を取った羊の毛。繊維が太くて、絡まりやすくて、売り物にはならない。
「売れん毛だ。でも——金とは違う値打ちがあるだろう」
ミラが受け取った。胸に抱えた。
ナタンは何も言わずに、杖を突いて群れの方に歩いていった。
◇
夕方。焚き火を囲んだ。
六人。リリア、ミラ、ゲルト、ニコ、ヴェルナー、ナタン。
ナタンは明日ここで群れと別れる。これがナタンと過ごす最後の夜。
火が爆ぜた。羊たちが遠くで声を上げている。
ナタンが湯を沸かしている。鍋に干し草を入れた。
「りんごが尽きた時には、もう無理だと思っていた」
干し草の茶を木の椀に注いで、ミラに渡した。
「あの子がいたから、あと何日か持った」
ミラが椀を受け取った。両手で包んでいる。湯気が顔にかかっている。
ナタンはそれ以上何も言わなかった。
回復魔法は傷を治せた。毒も洗えた。肉も再生した。
でも老いは治せなかった。
ミラがやったこと——水を飲ませること、塩を舐めさせること、毛を梳くこと、毎朝鼻先に手を差し出すこと——は、回復魔法にできないことだった。
それを言葉にはしなかった。ナタンの茶を飲んだ。苦い。干し草の匂いがする。
ミラはもう目を閉じていた。毛の束を抱えたまま。
ナタンが懐から布に包んだものを出した。リリアの前に置いた。
硬い。拳より小さい。黄色がかった白。表面がざらざらしている。
「チーズだ。この冬の分で余った」
羊の乳で作ったもの。長く寝かせてある。水気がほとんどない。削ると粉になるくらい硬い。
「麦がゆでも、堅パンでも、ひと削りで別物になる。砂漠でも溶けん。荷にもならん。困ったら売ってもいい」
リリアが受け取った。片手で持てる大きさなのに、ミラの木靴の片方より軽い。水を絞りきるとここまで軽くなるのか。これに栄養が詰まっているとは思えない。でも削ったらすごいのだろう。干し肉がそうだった。
ナタンの目がリリアを見ていた。長い旅になることを分かっている目。辛い夜が来ることを知っている目。
「辛い時は、飯を美味くしろ。酒でごまかすな」
◇
ゲルトがローブを持ってきた。
乾いていた。消化液の匂いは消えている。灰汁がよく効いた。
広げた。蜘蛛の顎で千切れた跡。爪で引き裂かれた跡。穴が三つ。裏地も破れている。
ゲルトが革の端切れを出した。荷車の補修用。紐に使える厚さのものと、当て布になる薄いもの。
ナタンがフェルトの切れ端と、四角く編んだ毛糸のあて布を出した。
「肩回りはこっちの方がいい。動くところだ」
毛糸は伸縮する。革は丈夫だけど伸びない。動きが多い場所には毛糸、力がかかる場所には革。ナタンは何も聞かずにそう仕分けた。
ミラが自分のローブの紐を解き始めた。元はリリアのお下がり。
「これ使って」
「いい」
「でも——」
「このローブは、魔法学校を出てからずっと着てる」
ミラが手を止めた。
「直せるうちは直す。直せなくなったら、その時に考える」
ミラの手が紐から離れた。何か言いたそうな顔をして、黙った。
ニコが針と糸を出した。帆布用の太い針。革に通せる。
ゲルトとニコとナタンが、黙々とローブを繕い始めた。表地の穴をフェルトで塞ぎ、裏地の破れに毛糸のあて布を当て、革の紐で端を補強する。応急処置ではない。ちゃんと直している。
ヴェルナーは火の番をしている。時々、枝を足す。
ミラは毛の束を膝に乗せたまま、炎を見ていた。
◇
蜘蛛の死骸を調べたのは、翌朝だった。
ナタンが群れと出発する前に、ニコと一緒に見に行った。
折れた脚の関節を割った。中から透明な液が出てきた。
指に取った。ぬるぬるしている。冷たくない。冬の朝なのに、凍っていない。
この液のおかげで、冬でも関節が凍らない。だから動ける。真冬の牧草地で狩りができる。
脚に巻きついていた包帯は、硬くなっていた部分だけが消えていた。布だけが残っている。あの白い粉が光になって消えた。ラストレスキューの産物はいつもそうなる。
使い古しの包帯。ミラがハイディの脚に巻いていた包帯の余り。あの白い粉を染み込ませて蜘蛛の脚に投げた。粉が消えて、布だけが残った。
二つの命に触れた布。
◇
ナタンが発つ。
杖を突いて立っている。群れが後ろにいる。ネリが端を歩いている。
ナタンが杖を少し上げた。
それだけ。
荷車が動き出した。グレイとモリーが歩き出す。
ツェッペが荷車の後ろについてきた。小さい。群れの中で一番若い。ミラが水を飲ませていた羊。
十歩。二十歩。まだついてくる。
ネリが戻ってきた。ツェッペの前に立った。低い声で鳴いた。ツェッペが止まった。振り返って、群れの方に歩いていった。
ネリがもう一度鳴いた。ツェッペが小走りになった。群れの端に消えていった。
荷台の上に、毛の束がある。ミラが膝に乗せている。指で触っている。ハイディの毛。絞ったばかりの毛の手触りが、指の腹に残っている。
フリッツが荷車の横を歩いている。いつもと同じ。黙って、鼻を風に向けて。
ミラが手を伸ばした。耳の後ろに指を当てた。フリッツは避けなかった。いつもなら距離を取る犬が、触らせている。
しばらくそうして歩いた。
ミラが振り返った。
荷台の上で、膝を立てて、来た道の方を見ている。目を細めている。
山道に霧が出ていた。白い。低い。牧草地を覆っている。
岩が見えない。焚き火の跡も。盛り土も。
ミラの目が動いている。霧の中に何かを探している。見つからない。それでも目を逸らさない。荷車が揺れるたびに体が傾いて、それでも首だけは後ろを向いたまま。
やがて、霧が道の曲がり角まで来た。
ミラが前を向いた。膝の上の毛の束に、手を戻した。




