石膏繃帯(石膏ギプス)
ミラが動かない。
ハイディのそばにいる。手を背中に置いたまま。離れない。掌の下で、ハイディの肋骨が上下している。浅い。さっきより浅い。
蜘蛛はまだ岩の隙間にいる。ニコの矢で傷ついた。でも死んでいない。次に何かが糸に触れたら、また出てくる。
ミラが動けないハイディのそばにいる。この蜘蛛は、動けないものを狙う。
——ミラも、狙われる。
群れが南に離れている。ナタンとネリが群れの端を歩いている。ゲルトの荷車が揺れている。遠い。
ニコが弓を構えたまま、リリアの横に来た。
「あの子、動かねえぞ」
「分かってる」
「蜘蛛が出てきたら——」
「分かってる」
◇
虫だ。
蜘蛛は虫だ。
虫なら——あの緑の霧。蝶の群れの命を奪った、緑に光る霧。
でもあれは。
冬に生きられない定めだった。凍えて死ぬ前に、楽にしただけだった。なぜ倒せたのか。何が起きてあの霧が出たのか。分からない。あの時の自分と、今の自分が、繋がらない。
——駄目だ。それじゃない。
ベルちゃんの脚。
脱臼した前脚。体を支えられなくなった。暴れた。立てなかった。
ハイディの脚。踏ん張れなくて倒れる。群れの押し合いで場所を取れない。脚を折りたたむのに時間がかかる。
体を支えられないだけで、死に直結する生き物がいる。
八本の脚。あの蜘蛛は動きが遅い。体重を支える脚が見える。岩を降りる時、一番大きい前脚に体の大半を預けていた。
——動きさえ止めれば。
◇
「——最終救護」
光が収束する。
手の中に、白い塊が現れた。粉末。それと、小さな桶。水が入っている。
それは——白い鎧であった。
石膏ギプス——
1852年、オランダ軍医アントニウス・マティセンが発明した
戦場の応急固定具。
それ以前、戦場で脚を複雑骨折した兵士には二つの未来しかなかった。
切断か、死か。
折れた骨は動く。動けば肉を裂き、傷口から腐る。
腐れば死ぬ。だから、腐る前に切り落とす。
切断手術の死亡率は四割を超えていた。
マティセンは、石膏を包帯に染み込ませた。
水に浸し、骨折した脚に巻く。数分で硬化する。
折れた部分が動かなくなる。
外からの衝撃にも耐える。
切らなくていい。
骨と肉を守る白い殻——
すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
だが——石膏は、マティセンが見つけた素材ではない。
古くから知られていた。
壁を塗り、像を作り、東の国では高熱を冷ます薬として飲まれてきた。
10世紀。ペルシャの医師が、この粉で骨折を固定しようと試みている。
だが重すぎた。水に弱かった。一度固めたら外せなかった。
千年間、誰もこの壁を越えられなかった。
マティセンの発明は、たった一つの転換だった。
石膏を塊で使うのではなく、包帯にまぶす。
薄い。軽い。巻ける。そして——外せる。
◇
手が動いていた。考えるより先に。
旅行鞄から使い古しの包帯を引っ張り出した。ミラがハイディの脚に巻いていた、あの包帯の余り。白い粉に押しつけた。粉が繊維に入り込む。水に浸す。引き上げた。
手が熱い。濡れた包帯が、水の温度じゃない熱を持っている。何が起きている。分からない。でも手が止まらない。
◇
群れの端で若い羊が糸を踏んだ。あいつが岩の隙間から飛び出してきた。さっきより速い。傷ついた脚を庇っていない。群れに向かっている。
「射つな。群れに当たる」とニコが叫んだ。あいつと群れが近すぎる。
走った。間に入った。包帯を握っている。さっきより硬くなっている。熱い。どんどん硬くなっていく。
——これは、固まる。
巻きつければいい。あの脚に。この包帯を巻きつけて、固まれば——でも近づけない。あの顎がある。
石を入れた靴下。魔法学校の護身術。あれと同じだ。包帯の先に、何か重いものがあればいい。
「ゲルトさん、分銅を!」
ゲルトが走ってきた。差し出された。包帯の端に結びつけた。振った。一番大きい前脚を狙った。
分銅が弧を描いた。白い帯が伸びる。巻きついた。前脚に。一周、二周。
白い包帯が、蜘蛛の脚に巻きついている。
ミラがハイディの脚に巻いたのと、同じ白。でもあれは守るためだった。これは——何のため。
何も起きない。
あいつは平気で脚を振っている。取ろうとしている。取れない。毛に食い込んでいる。でもそれだけ。脚は動いている。蜘蛛は止まらない。
指先に白い粒が残っている。まだ熱い。さっきより熱い。手が勝手に動いて、ここまで来た。でも何も起きていない。何の意味があった。
——いつもそうだった。
鉄の嵐を降らせた時も。赤い矢を撃った時も。意味なんか分からなかった。どこかの世界の、顔も知らないヒーラーが遺した想いに、体を預けただけだった。
考えるな。信じろ。ヒーラーの想いを。
ミラがまだあそこにいる。ハイディのそばに。動かない。
あの顎がミラに届いたら——ハイディの首に起きたことが、ミラの体に起きる。溶けた肉。骨が見えた。あれが、あの子の体に。ハイディより小さい体に。
千切れたら、繋げない。指先だったら再生できた。手首から先の時は、完全には元に戻せなかった。過剰回復は、離れたものを戻せない。
もう一本。
手が空。包帯は全部使った。鞄まで走った。包帯を引っ張り出した。粉はまだ残っている。桶の底にも水が少し。押しつけた。浸した。さっきより薄い。足りているか分からない。分銅を結び直した。指が白い粉で滑って、二回やり直した。
分銅を手元で回す。息を整える。これを外したら、次はない。ミラとハイディが食われる。
ヒーラーの5年後の生存率は、全ジョブの中で一番低い。そう教わった。自分が見てきたヒーラーは、たしかにそうだった。
だからこそ教わったのだ。攻撃をしないと身を守れない時のために。この一手が生死を分ける。
集中しろ。息を潜めて一撃を狙うアーチャーのように。
分銅の回転に意識を絞る。重さが手に伝わっている。一定の弧。一定の速さ。周りの音が遠くなる。蜘蛛の脚の音も。風の音も。分銅の重さだけ。
ゆっくりと腕を振り上げた。
——ここだ。
回転に合わせて腕を振り下ろす。分銅が手を離れた。白い軌跡が弧を描いて伸びていく。あいつの前脚に向かって。
いける。
あいつが体を回した。
包帯が前脚の下を抜けた。分銅が空を切って、後ろ寄りの脚に絡んだ。狙った脚じゃない。
前脚は止められなかった。
こっちを向いた。八つの目が、こちらを見ている。群れの若い羊はもう走っている。動けないものはもういない。
——足が動かない。
引いた。粘る。足の裏に糸が食い込んでいる。もう片方も。踏んでいる。両足とも。
引けば引くほど粘る。しゃがんで手で剥がそうとした。指にも貼りつく。
顔を上げた。
あいつがこっちを見ている。八つの目。動けないものを狙う目。ハイディを見ていたのと同じ目。
来る。
靴を脱いだ。裸足のまま走った。岩の方に。隙間を見つけて体をねじ込んだ。背中と肩が岩に挟まれる。奥がない。ここまでしか入れない。
脚の音が近づいてくる。岩の表面を爪が引っ掻く音。
上から、影が落ちてきた。
八つの目が、覗き込んでいる。
ハイディの首を噛んだ顎。尖った先が赤黒い。羊の毛と、皮と、その下の肉がまだ付いている。
さっきまで、ミラの体に起きることだと思っていた。
顎が開いた。




