糸
明け方。
霜が降りていた。草の先が白い。焚き火はほとんど消えかけている。
ミラが目を覚ました。ハイディの体が温かい。モリーの腹が背中に触れている。指先が冷たい。息が白い。
起き上がろうとした。
足元に、何かが光っていた。
草の上に、糸が這っている。
透明な糸。朝露がついて光っている。一本じゃない。何本も。草の根元から、岩の方へ、焚き火の方へ、放射状に。
「——動くな」
ニコの声。低い。小さい。
ミラが固まった。
ニコが荷車の影にいた。弓をつがえている。矢先が、岩の上を向いている。
ヴェルナーが反対側にいた。弓を構えている。同じ方向を見ている。
フリッツが唸っている。低く。喉の奥で。昨夜からずっとこうだったのだ。
◇
岩の上に、影があった。
白い。灰色がかった白。体が毛に覆われている。霜に紛れて見えなかった。脚が八本。体は犬くらいの大きさ。でも脚を広げると、もっと大きい。
糸を引いて、岩の上から降りてきている。急いでいない。
「フロストスパイダーだ。動けない相手を狙う。外殻が硬い」
蜘蛛が地面に降りた。八つの目が、こちらを見ている。
◇
ネリが吠えた。短く、鋭く。群れの方で羊が動いた。もぞもぞと固まりが崩れて、何頭かが立ち上がった。
ナタンが杖を振っている。群れを一方向にまとめようとしている。
群れが走る。ネリが追い立てる。走れる羊は逃げる。
蜘蛛は追わない。走る群れには追いつけない。
——追いつけるものだけを、狙う。
ハイディの方に向かっていた。
群れから離れている。一頭だけ。走れない。
ミラがハイディの前に立った。
両手を広げた。何も持っていない。体一つで庇っている。
膝の裏が冷たい。歯の根が噛み合わない。でも足は動かない。ここから動いたら、ハイディが一人になる。
「ミラ!」
リリアが叫んだ。
蜘蛛が止まった。ミラを見ている。八つの目が、朝の光を反射している。
ニコが射った。蜘蛛の前脚の付け根。狙い通り。矢が外骨格に当たって、火花みたいに弾けた。
「弾いた。殻が厚い」
「関節は」
「毛が邪魔だ。——ヴェルナー、横に回れ。俺が正面で引きつける」
ヴェルナーが低く走った。蜘蛛の右側に出る。ニコがもう一本つがえて、蜘蛛の顔の前に射った。地面に刺さる。蜘蛛の脚が一本止まった。
その隙にヴェルナーが射った。脚の関節。矢が毛に絡んで、滑って落ちた。
「駄目だ、毛ごと弾く」
「フリッツ!」
ニコが叫んだ。フリッツが吠えた。短く。蜘蛛の背後から。蜘蛛が一瞬、振り向いた。
ニコが三本目を射った。振り向いた隙の、首の付け根。矢が毛の間に刺さった——浅い。半分も入っていない。
蜘蛛が矢を脚で払った。折れた矢が飛んだ。
振り向きもしなかった。ミラの方を見たまま。走れないものしか見ていない。
「ミラ、ハイディを連れて下がれ」
ニコの声。
ミラがハイディの首に手をかけた。引こうとした。ハイディの脚が震えている。動かない。
蜘蛛が跳んだ。
弓の方じゃない。ハイディの方に。
糸が飛んだ。白い帯。ハイディの後ろ脚に巻きついた。白い包帯の上から。
ハイディが倒れた。
蜘蛛が近づいた。顎が開いた。
ハイディの首の付け根に、噛みついた。
ミラが叫んだ。声にならなかった。喉が詰まっている。手が伸びた。蜘蛛の体に触れた。硬い。毛がざらざらしている。引き剥がそうとした。動かない。
◇
ニコの矢が蜘蛛の胴に刺さった。関節の隙間。蜘蛛がハイディの首から顎を離した。跳ねて、岩の上に戻った。糸を一本引きずっている。
ミラの手に、蜘蛛の毛が残っていた。
蜘蛛が岩の隙間に消えた。
◇
ハイディが横たわっていた。
首の付け根から、体液が滲んでいる。赤い。黄色がかった液が混じっている。蜘蛛の消化液。傷口の周りの毛が溶けている。
リリアが駆け寄った。救急鞄を開ける。
ミラが先に布を引っ張り出していた。清潔なやつ。手が震えている。でも選んでいる。
「押さえて。傷口の上から。強く」
ミラが布を傷口に押し当てた。布が赤く染まる。黄色い液が滲む。
リリアが傷口を見た。噛み跡。二つ。深くはない。
でも噛み跡の周りが、おかしい。肉が赤黒く変色している。溶けかけている。噛んでから、まだほんの少ししか経っていないのに。
蜘蛛は獲物を呑み込まない。胃で溶かすこともしない。噛みついて消化液を流し込み、獲物の体の中を胃の中身と同じ状態にする。溶けた中身を、吸う。
ニコが射たから顎が離れた。あと少し遅かったら——首の付け根の肉が、生きたまま消化されていた。
傷を塞いだら、中に閉じ込める。消化液が残ったまま皮膚が戻る。中から溶かし続ける。
洗わないと。
救急鞄から消毒用の酒瓶を出した。栓を抜いて、傷口に流した。黄色い液が泡立つ。布で拭き取る。拭いた布が臭い。甘い腐敗臭。肉が溶けている匂い。
もう一度流した。瓶が軽くなる。足りない。噛み跡が二つある。奥まで届いていない。
「ミラ、旅の鞄から酒を全部持ってきて。予備が入ってる」
ミラが走った。荷台まで。戻ってきた。両手に瓶を二本抱えている。
「ハイディの耳が冷たい」
走りながら触っていた。
栓を抜いた。一本目を噛み跡の奥に流す。泡が出る。消化液が浮いてくる。
溶けかけた肉が、酒と一緒にごっそり流れ落ちた。
布で吸い取る。ミラが布を替えた。二枚目。
二本目。傷口の周囲を洗う。布で拭く。三枚目。泡が薄くなってきた。
消化液は流せた。
でも噛み跡の奥を見て、手が止まった。
肉がない。洗い流した時に、溶けかけていた分が全部落ちた。首の付け根から肩にかけて、えぐれている。血管も溶け落ちている。だから血すら出ない。奥に白いものが見えている。骨だ。
消化液が触れていた時間は、ほんの少しだった。それでもこれだけ溶ける。
ミラが覗き込んだ。
「——っ」
声が出なかった。顔が白くなった。でも手は離さない。布を押さえたまま。
普通なら、死ぬ。ここまで溶けたら、もう——
手をかざした。
緑の光。回復魔法。全力の。
紅蓮の牙にいた頃、リーダーのバグドの腹を塞いだ時と同じ光。魔獣の爪に背中まで貫かれた穴を、内臓ごと一瞬で再生した、あの力。
骨の上に、血管が伸びていく。赤い管が枝分かれして、繋がる。血が通った。さっきまで白かった骨の表面が、赤く染まっていく。血が巡り始めている。
筋繊維が編み直されていく。肉が盛り上がる。骨が隠れる。皮下組織が厚くなる。
——止めろ。
皮膚が閉じかけている。毛根まで再生が始まっている。このまま最後までかけたら、全部戻る。古い傷も、焼き印も。
肉が戻ったところで、手を引いた。皮膚は最小限の光で寄せる。丁寧に。震える指で。
「……止まった」
ミラが布を離した。布が三枚、赤と黄色に染まっている。酒の匂いと、あの甘い匂いが混じっている。
ハイディの目が開いている。呼吸が浅い。
ハイディが前脚を動かした。立とうとしている。
前脚が地面を押した。体が持ち上がった。後ろ脚がよろめいた。立てない。もう一度。
ミラが手を添えた。ハイディの横腹に体を寄せた。ナタンがやっていたように。
ハイディが立った。ミラの方を向いた。鼻を寄せた。ミラの手の匂いを嗅いでいる。
ミラが鼻先を撫でた。ハイディの目が少しだけ細くなった。
でも脚が震え始めた。前脚が。後ろ脚が。全部。
座り込んだ。ゆっくりと。脚を折りたたむのに時間がかかる。地面に横たわった。
死んではいない。呼吸はある。でもさっきより浅い。
◇
「ミラ、離れて。蜘蛛はまだいる」
リリアが言った。
ミラが首を振った。
「ハイディが動けない」
「だから。ここにいたら——」
「ハイディが動けないのに離れられない」
ミラの声は震えていなかった。静かだった。
ナタンが群れを南に動かしている。ネリが走っている。ゲルトが荷車を引いている。ヴェルナーが東の方を見張っている。
みんな離れていく。
ミラとハイディだけが、焚き火の跡のそばにいる。
ミラがハイディの背中に手を置いた。さっきまで三つだった体温が、モリーが荷車と一緒に離れて、二つになっている。
蜘蛛は岩の隙間にいる。ニコの矢で傷ついた。でも死んでいない。
巣に戻っただけだ。




