冬の牧草地
それは——白い鎧であった。
石膏ギプス——
1852年、オランダ軍医アントニウス・マティセンが発明した
戦場の応急固定具。
それ以前、戦場で脚を複雑骨折した兵士には二つの未来しかなかった。
切断か、死か。
折れた骨は動く。動けば肉を裂き、傷口から腐る。
腐れば死ぬ。だから、腐る前に切り落とす。
切断手術の死亡率は四割を超えていた。
マティセンは、石膏を包帯に染み込ませた。
水に浸し、骨折した脚に巻く。数分で硬化する。
折れた部分が動かなくなる。
外からの衝撃にも耐える。
切らなくていい。
骨と肉を守る白い殻——
すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
少女が、布を振った。
使い古しの包帯。先端に、商人の分銅。
白い帯が弧を描いて、脚に巻きついた。
——ぱきん。
乾いた音がした。殻が割れるような。
獲物を捕える者が、自分の脚を、自分の力で折っていた。
◇
——これは、その数日前の話。
朝。野営地を発つ前。
ミラはもう動いていた。巻き布団を丸めて紐で縛る。焚き火に土をかける。グレイとモリーの蹄を一本ずつ持ち上げて、裏を覗く。
ニコがフリッツを連れて、茂みの方へ歩いていった。
ミラの目がそっちを追っている。
「……ミラ」
「わかってる。見てるだけ」
昨日も一昨日も同じだった。ニコが「俺の仕事だ」と言って、ミラが膨れた。
◇
昨日の道中のこと。
フリッツが急に立ち止まった。岩の根元に鼻を押しつけて、しばらく動かない。
ミラがしゃがんで、フリッツの隣で同じ岩を覗き込んでいた。何の匂いかは分からない。でも犬には分かるらしい。
フリッツが嗅ぎ終わると、少しだけ上にかけた。
「上書きした」
ミラが真剣な顔で言った。ニコが吹き出した。
——この子は動物のことになると声が大きくなる。
◇
ヴェルナーが岩の上にいた。東の方を見ている。
「煙が一本。半日くらい先」
ニコが戻ってきた。
「こっちに来るか」
「動いてない。焚き火だと思う」
ヴェルナーの目はニコより遠くを見る。ニコは道の近くを見て、フリッツの耳と鼻で補う。三日一緒に歩いて、自然にそうなっていた。
◇
つづら折りの坂道を、荷車が登っている。
グレイとモリーの蹄が石を踏む。かぽ、かぽ。ゲルトが手綱を引くたびに、荷車が軋んで少しずつ進む。
ブレンハイムを出て三日目。谷底の温泉地から、また山に入っている。
道が狭い。片側が斜面で、反対側が崖になりかけている。荷台の荷が傾くたびに、ヴェルナーが外側から手を添えていた。
「前に来た時よりひどいな」
「封鎖の後だからな」
ミラが荷台の端に座って、足をぶらぶらさせている。鞄の中のヨーゼフの瓶に、時々手を突っ込んでいる。もうとっくに冷たいはずだ。それでも手を入れる。硫黄の匂いだけは、まだ布に残っている。
「ミラ、寒い?」
「……べつに」
鼻の頭が赤い。
◇
分岐を過ぎた。
つづら折りの急坂から、なだらかな尾根筋へ。道が変わる。
視界が開けた。
右も左も斜面が落ちていて、尾根の上だけが道になっている。空が近い。風が通る。雲が低くて、手を伸ばせば届きそうだった。
ミラが立ち上がった。荷台の縁に手をかけて、前を見ている。
「……広い」
温泉の谷にいた時は、いつも壁が近かった。ここには何もない。風と、枯れた草と、空だけ。
——久しぶりに、遠くが見える。
フリッツが先頭を歩いている。鼻を風に向けている。
◇
昼を過ぎた頃。
道の脇に、ロバの糞が落ちていた。乾いて白い。
「十日かそこら」
ゲルトが荷車の上から言った。
もう少し先に、別の糞があった。ロバのより小さい。丸い粒。こっちはまだ新しい。
ニコがしゃがんだ。枝で崩した。小さな種が何粒か混じっている。潰れていない。
ニコがゲルトを見た。ゲルトがうなずいた。
何も言わなかった。
その少し先に、石を積んだ跡。炭が散らばっている。
ゲルトが降りた。炭を拾って匂いを嗅いだ。
「最近だな」
石積みの裏に薪が数本、押し込んであった。雨がかからないように板石が載せてある。
「引き返した隊が置いてった分だ。使わせてもらおう」
その先に木箱が一つ。蓋が開いている。中に干し草が敷いてあって、隅にしなびたかぶが三つ。
ニコが拾い上げた。
「グレイなら食うか。……モリーは嫌がりそうだな」
「……持っていこう」
ゲルトが道の先を見ていた。
◇
尾根が広くなった。
ヴェルナーが朝に見た煙は、ここだった。
道の両側に枯れた草地が広がっていて、その中に灰色と白の点々が動いている。
羊だった。
三十頭ほど。群れが緩やかにまとまって、冬枯れの草を食んでいる。
その端に、人影が一つ。
杖をついた老人。毛皮の帽子。足元に犬が一匹。小さい。足が短い。
フリッツが立ち止まった。尻尾を下げて、鼻を低くする。牧羊犬がこちらを見て、一声だけ吠えた。
羊飼いが振り向いた。
荷車と、ロバと、人間を順番に見て、
「……ゲルトか」
「久しぶりだな、じいさん。封鎖の前に峠で会ったきりか」
「秋口だった。群れがもう少し下にいた頃だ」
羊飼いがうなずいて、杖を突いて、荷車のそばまで来た。
ゲルトがかぶの箱を降ろした。
「道に落ちてた。食うか」
羊飼いがかぶを手に取った。指で表面を擦って、匂いを嗅いで、
「……助かる」
「他にも拾ったか。封鎖の後」
「りんごが少し。引き返す隊から銅貨一枚で籠ごと」
少し間があった。
「ハイディに食わせてたんだが、昨日で最後だった」
羊飼いの目が、群れの端に向いた。
他の羊から離れたところに、一頭だけ動きの違う羊がいた。
毛がくすんでいる。艶がない。歩くのが遅い。前脚を一歩出すたびに、後ろ脚がついてくるまでに間がある。群れは待たない。少しずつ離されていく。
「……あの子」
ミラの声がした。荷台から降りている。いつの間に。
「あの子、寒そう」
◇
「岩塩はあるか」
羊飼いがゲルトに言った。
「ある」
ゲルトが荷台の奥から天秤を引っ張り出した。木の棹。真ん中の支点から吊り下げる。片方に紐のついた分銅、片方に岩塩。
岩塩の塊を載せた。拳ほどの大きさ。灰色がかった白。
分銅が揺れる。棹がゆっくり傾いて、水平に近づいて、止まった。
「銅貨二枚」
羊飼いが懐から銅貨を出した。
岩塩を受け取って、群れの方へ歩いていった。老羊のそばに、岩塩を置いた。草の上に、ごとりと。
老羊が鼻を近づけた。舌が出た。ざらりと舐めた。
ミラがそれを見ていた。
ゲルトが分銅を布で拭いていた。丁寧に。角を一つずつ。拭き終わって、革の袋に入れて、天秤と一緒に荷の奥に仕舞った。
◇
「泊まっていくか」
羊飼いの声。
「焚き火はある。風除けもある」
ニコがリリアを見た。リリアがうなずいた。
岩陰に焚き火の跡があった。石を積んだ風除け。りんごの芯が焚き火の端に転がっていた。焦げている。
ゲルトが拾ってきた薪を足した。よく燃える。
ミラが老羊のそばに行った。
「……触ってもいい?」
羊飼いに聞いている。
羊飼いは何も言わなかった。止めなかった。
ミラがしゃがんで、手を低い位置に出した。指を丸めて、甲を見せる。
老羊がミラを見た。鼻が動いた。
ミラの手に、鼻を寄せた。
「……つめたい」
耳に触った。耳も冷たい。首筋に手を入れた。毛がごわごわして、指に粘りが残る。その下に肋骨が浮いている。
——聞いてないのに、もう触っている。
ミラが立ち上がって、荷台に走った。旅行鞄をごそごそやって、藁の束を持って戻ってきた。
老羊の後ろ脚に巻き始めた。蹄の上の、毛が薄い部分。
羊飼いが遠くからそれを見ていた。
「……春になったら毛を刈る」
誰に言ったのか分からなかった。
「そのつもりで冬を越させてる」
◇
夜。
焚き火が小さく燃えている。
ミラが老羊のそばにいた。体を両手で擦っている。背中から腰。肋骨に沿って、手のひらを押しつけるように。
老羊が最初、身を引いた。
ミラが手を止めた。
待った。
しばらくして、もう一度。首の横から。ゆっくり。
老羊の耳が動いた。嫌がってはいない。
リリアは焚き火の反対側で、旅行鞄を開けていた。
いつもは救急鞄ばかり見ている。でも今日は薬も包帯もミラが補充してくれていた。たまには旅行鞄を見てやらないと。
火起こし用の栗の鬼皮。袋に入れてある。鼻を近づけた。焦げた甘い匂い。あの村の焼き栗屋のおじさんの声が聞こえる気がした。出発の朝、宿のヨハンナさんが焼き栗を袋に詰めてくれた。「皮は火起こしに最高だよ」。ベルちゃんに焼き栗をあげた日。
カミラのメイスに手が触れた。鉄の感触。——油が塗ってある。錆止めの。リリアはやっていない。ミラだ。温泉のギルドで誰かに教わったのだろう。
インゴットを包む布も洗濯してあった。最後の銅インゴット。ディエゴたちの。
鞄の底に、使い古しの包帯が丸めて入っていた。
何度も洗って薄くなっている。もう救急鞄には入れられない。
紅蓮の牙にいた頃、仲間に巻いた余りや、使った後に洗って乾かしたもの。Aランクパーティーだから新品はいくらでも支給された。余りや洗い直しは、普通は捨てる。
捨てなかった。いつか、誰かに必要になるかもしれないから。
ニコが弓の弦を張り直している。ヴェルナーがそれを見て、自分の弓も確認している。ゲルトは荷車の幌を直している。
フリッツが焚き火のそばで伏せている。目を閉じている。でも耳がぴくぴく動いている。
初日の夜、ミラがフリッツのそばに寝ようとした。グレイやモリーにするみたいに。フリッツは身を起こして、少し離れた。
「あいつは夜も仕事だ。くっつかれると動けねえ」とニコが言った。
ミラはそれから、フリッツの隣には行かない。でも時々、あの耳を見ている。ぴく。ぴく。寝ながら音を拾っている。
——ロバとは違うんだ、と思ったんだろう。
牧羊犬は群れの端で伏せている。
温かい夜だった。
尾根の上は風が強いはずなのに、石の風除けと焚き火で、不思議と温かい。
ミラの手が、老羊の背中の上で止まっていた。老羊の呼吸が穏やかになっている。ミラもうつらうつらしている。
リリアは旅行鞄を閉じた。膝に抱えた。
鞄の中で、インゴットがことりと鳴った。
10章「ポッキン! ぐるぐる白タイツでおそろいコーデ!」はじまりました!
章を追うごとに、どんどん動物たちに興味津々になっていくミラさん。
執筆中にひょっこり生まれたキャラなのですが
今では作者自身も「親戚の子」や「近所の子供」の成長を見守るような
どこか親バカ(?)な視点になってしまっています。
気づけば10章、そしてついに90話!
ここまで来られたのは、間違いなく皆様のおかげです。
最近、私生活のリズムが大きく変わったこともあり
更新時間が前後してしまう日が増えています。
「いつもの時間に更新がない……」と
読むペースを乱してしまっている方には本当に申し訳ありません。
そんな中でも、皆さんが送ってくださる応援は本当に励みになっています。
「この周期で読んでくれているんだな」
「ラストレスキューまで貯めてから読んでくれているのかな?」と
皆さんの体温が伝わってくるようで、とても心強いです。
どんなスタイルであれ
最新話まで辿り着いてくださる方は
私と一緒に物語を駆け抜けてくれる
「伴走者」だと思っています。
引き続き、リリアやミラたちの旅に
お付き合いいただければ幸いです!




