勝者の食卓
これはリリアたちが町を発った後のお話……
ブレンハイム。
谷の底に、湯気が立っていた。
荷車がゆっくりと坂を下りていく。マーカスは荷台の上で報告書の束を膝に乗せていた。揺れるたびにずり落ちそうになる。手で押さえる。
腹が鳴った。ヴェグシャイトからの道中は、堅パンを水でふやかしたパンがゆばかりだった。籠城明けの村から持ち出せた食料はそれくらいしかない。三日も続くと、歯ごたえのあるものが恋しくなる。
硫黄の匂いがした。
最初は薄かった。谷に入ると一気に濃くなる。温かい空気が下から上がってきて、冬の冷気と混ざっている。服の繊維に匂いが染み込んでいくのが分かる。
谷を下りきった。
石畳の通り。湯気を上げる屋根。段々になった天然のプール。かけ流しの湯が石灰華の棚を伝って流れ落ちている。
——思ったより、静かだ。
温泉地だと聞いていた。もう少し賑やかな場所を想像していた。すれ違う人が少ない。宿の軒先に「本日空室あり」の札が下がっている。客足が遠のいているのか。
ギルドの出張所を探した。小さな看板が一つ。宿場の一角を間借りしている。
◇
「マーカスさん?」
受付に若い男が一人。名札にはフランツとある。
「カタリナさんから聞いてます。報告書の方ですよね」
「……もう聞いてるのか」
「はい。観測用の魔石もお預かりしてます」
フランツが木箱を一つ、棚から取り出した。布に包まれた石が入っている。拳ほどの大きさ。灰色で、表面に細かい紋様が刻んである。
王立魔導研究所の刻印。バルドリック先生の筆跡で使用説明が添えてある。几帳面な文字。
「……設置場所は」
「窪地の縁がいいと。ヨーゼフさんが案内してくれるそうです」
「……猟師の?」
「はい。この辺りの地形に一番詳しい人で」
「……現場は」
フランツの顔が少し曇った。
「……もう、何も残ってないです。亡骸は猟師たちが尾根の向こう側に埋めてくれて。源泉に影響のない場所を選んで、深く掘って」
「石畳も?」
「洗い流してあります」
マーカスは溜息をついた。
丁寧な仕事だ。水源を守りながら、掘り返されない深さに埋める。この町の人間は温泉と生きてきた分、そういう勘が働く。
だが——物証はない。
俺が着く頃には、いつも片付いている。
フランツが茶を出してくれた。薬草茶だった。
一口飲んだ。苦い。薬草の匂いが強い。
「……普通の茶葉は」
「あるにはあるんですが、ここの水が硬くて。茶葉で淹れると渋みが出るんです。薬草の方がまだ飲めるので」
なるほど、温泉地の硬水か。
「旅の方の革袋に軟水が残っていると、分けていただくことがあって。あれで淹れると別物なんですよ。輸送隊が来る日は、ちょっとした楽しみで」
マーカスは荷台に置いてきた革袋を思い出した。半分ほど残っている。ヴェグシャイトの井戸水だ。
「……後で持ってくる」
フランツの顔が明るくなった。
◇
「遅いよー」
声が聞こえた。
宿の裏手。湯気の中から、銀髪が見えた。
カタリナが湯に浸かっていた。麻の湯浴み着。肩まで浸かって、目を閉じている。手に卵を一つ持っている。
「グランドマスター」
「だからやめてってその呼び方。入りなよ。いい湯だよ」
「……任務中です」
「報告する相手が湯の中にいるんだから、あんたも入らないと報告できないでしょ」
反論できなかった。
着替えの小屋で湯浴み着に替えた。ギルド支給の旧制服を畳んで棚に置く。
湯に足を入れた。
熱い。思ったより熱い。肌にぴりっと来る。湯に酸の気がある。足先から、じわじわと温かさが上がってくる。
肩まで浸かった。
「…………」
声が出なかった。
荷車の上で固まっていた背中が、一気にほどける。肩。首。指先。ふやけたパンを啜りながら凍えていた三日間が、湯の底に沈んでいく。足の先から、じわじわと血が戻ってくる。
カタリナが笑った。
「ね」
◇
「で、報告」
カタリナが殻を割りながら言った。
「……湯の中で報告書は書けません」
「口頭でいいよ。書くのは後で。——ほら」
湯の脇の石に、布にくるまれた卵が並んでいた。殻が白い。鶏卵より大きい。源泉の脇の茹で場で作ったものらしい。
受け取った。温かい。殻が分厚くて、割るのに少し力がいる。
中身が半熟だった。白身が透明がかっている。黄身が濃い橙色。
一口。
黄身が舌の上でとろけた。鶏卵の何倍も濃い。脂が口の中に広がって、喉の奥にまで落ちていく。硫黄の匂いがかすかに混じっている。温泉の匂いだ。パンがゆしか食べていなかった腹に、重さがずしりと来る。
「……これは……」
「でしょ。もう一個いく?」
二個目を受け取った。
「これ、何の卵です」
カタリナがこっちを見た。何でもない顔。
「蜥蜴」
マーカスの手が止まった。
「産卵地にあったやつ。宿のブルーノがゆでてくれた」
二個目の殻を、まだ割っていない。手の中で温かい。
「……孵化したら」
「二十匹くらい増えてたね。あの鱗のやつに育つかは分からないけど」
手の中の卵を見た。殻の表面に細かい模様がある。鶏卵にはない模様。
「壊すよりはいいでしょ。ブルーノはそう言ってた。山の方じゃ貴重な食い物だって」
「……そう、ですか」
「……卵に罪はないよ」
カタリナの声が、少しだけ静かになった。
「あいつらも生きるために来た。ここが温かくて、卵を産むのにちょうどよかったから。人間だってこの湯が気に入って住み着いた。同じことだよ」
マーカスは殻を割った。中身が半熟。さっきと同じ濃い橙色。
食べた。同じ味がした。喉を通る時の重さも、同じだった。
◇
蜂蜜酒が出てきた。宿のブルーノが差し入れてくれたらしい。
湯上がりに、宿の縁台で飲んだ。カタリナが隣にいる。
「あの鱗の話ですが」
「ん」
「報告書に書きたいので、詳しく聞かせてください」
カタリナが杯に口をつけた。
「前に退治した時は、風の刃で斬れたんだよね。普通のリザードマンだった。それが脱皮で鱗を厚くしてきた。ここの硫黄の湯に浸かり続けて、鉄の鱗に硫黄が染みて、あの黒い鎧になった」
「……グランドマスターの攻撃を受けて、その対策として変異した」
「そういうこと。私が斬ったから、もう斬れない体になった」
ひと呼吸あけて、続けた。
「あの時さ、私は全部やるつもりだった。群れごと。でもバルドリック先生が止めたの」
「……止めた?」
「宰相に直訴してまで止めた。山の獣の均衡が崩れるから、って。リザードマンがいなくなると上位の捕食者の餌が消えて、別の問題が起きるって」
マーカスは黙った。
「正しかったよ、先生の判断は。あの時全滅させてたら、もっと面倒なことになってた」
カタリナが杯を空にした。
「でも生き残りがここに来て、こうなった。先生のせいじゃないけどね。誰のせいでもない」
マーカスが杯に蜂蜜酒を注ぎ足した。カタリナの杯にも。
カタリナが杯を持ち上げた。その拍子に、湯浴み着の襟元がずれた。
肩から鎖骨にかけて。
——なかった。
前に一度だけ見たことがある。グランドマスターの就任式。礼装の衣から覗いた右の肩。蜥蜴の爪で引き裂かれた三本の傷痕。あれがカタリナの唯一の勲章だと、ギルドの古参が教えてくれた。
それが、なかった。肌がきれいだった。
「……カタリナさん」
「ん?」
「……いえ」
聞けなかった。
蜂蜜酒を口に含んだ。花の香りが鼻に抜ける。甘い。とろりとしている。パンがゆで荒れた喉に沁みた。湯上がりの体に酒が回るのが早い。耳の後ろが熱い。
——蜂蜜酒のせいだ。暗かったし、湯気も出ていた。見間違いだろう。
報告書には書かない。
◇
窪地に行った。
ヨーゼフという猟師が案内してくれた。寡黙な男だった。弓を背負って、谷底の道を迷いなく歩く。
窪地の縁に立って、下を覗き込んだ。
何もない。
白く濁った水が溜まっているだけだ。石灰の層と温泉水。
「もう匂いは散った」
ヨーゼフが言った。
「鳶が戻ってきてる。獣も降りてきた。小さいのからだが」
縁の岩に小屋が建っていた。鶏小屋ほどの大きさ。板張りの急造だが、雨除けの屋根はしっかりしている。到着前に鳥便で頼んでおいたものだ。
木箱から魔石を出した。ヨーゼフが金属のペグを岩の割れ目に打ち込んでいく。石をペグの台座に据えて、革紐で固定した。紋様が一瞬光って、消えた。
「塗装がまだだ。柵もいる」
ヨーゼフが小屋の壁を叩いた。板が薄い音を立てる。
「俺たちで持ち回りでやる。詳しいことは戻ってから決める」
「……ここで、繁殖してたんですか」
「ああ。温泉水が流れ込んでいて、底が温かい。冬でも凍らない。卵を産むにはちょうどいい」
ヨーゼフが窪地の向こう側を顎で示した。
「鹿も冬はあの辺りで水を飲む。温かいから。蜥蜴も同じだ」
「……ここに住み着かれると」
「温泉が汚れる。源泉に近すぎる。人が近づけなくなれば、湯を引く管も止まる」
ヨーゼフが振り返った。
「この町は湯で生きてる。湯が止まったら終わりだ」
マーカスは窪地をもう一度見た。
温かい水。凍らない底。卵を産むのにちょうどいい場所。
鹿も来る。蜥蜴も来る。人間も来た。
全員、同じ理由で。
◇
宿に戻った。
報告書に向かった。
『ブレンハイム温泉地 蜥蜴型魔物襲撃事件 調査報告書』
書き始める。発生日時。被害状況。討伐方法。事後処理。
『首魁は通常の個体とは異なる。過去にグランドマスター・カタリナが討伐した群れの生き残りと推定される。脱皮により風の刃への耐性を獲得。さらに温泉地の硫黄の湯に長期間浸かったことで鱗の鉄に硫黄が結びつき、通常の武器・魔法を弾く鎧と化していた』
『討伐方法:ヒーラーが温泉水を強めた酸を霧状に散布。鱗に結びついた硫黄が酸と反応し、有毒の気が発生。群れが壊滅した』
カタリナとの戦いが、あの蜥蜴を強くした。強くなった蜥蜴が温泉に棲みついて、さらに硬くなった。その鎧を剥がしたのが、温泉の酸だった。
全部が繋がっている。
報告書の最後の項目。『特記事項』。
繁殖地を守るために来た生き物を、生活圏を守るために殺した。その卵を食べた。「壊すよりはいい」と猟師は言った。
間違ってはいない。
『産卵地は温泉水流入域に形成されていた。地域住民の生活用水源と重複する。共存の余地はなかったものと判断する』
事実だけを書いた。
報告書に「うまかった」とは書けない。
肩の傷のことも、書かない。
◇
その頃——
荷車が山道を上っていた。
冬の風が正面から吹いている。谷を出てから、ずっと。温泉の湯気はもう見えない。
ミラはリリアの旅の鞄を膝に抱えていた。
鞄の底にヨーゼフの瓶がある。大きい方。朝、出がけにミラが仕舞った。
瓶の温かさが鞄越しに伝わっていた。源泉の残り熱。硫黄の匂いがかすかに鞄の布に染みている。
しばらくはそれで温かかった。
荷車が揺れるたびに、鞄の中で瓶がことりと鳴る。フリッツが荷車の横を黙って歩いている。ニコが手綱を握っている。ゲルトが空を見上げている。ヴェルナーが荷の紐を確かめている。
冬の山道。風が冷たい。
瓶は、もうぬるかった。
手を入れて触った。陶器の表面が冷えている。中の水はまだほんのり温かいかもしれないが、鞄越しでは分からない。
鞄から手を抜いて、隣を見た。
リリアが座っている。救急鞄を膝に乗せて、前を見ている。
手を伸ばして、リリアの手に触れた。
——温かい。
朝、出がけに湯に浸かった。身体の芯まで温まるまで浸かった。もうとっくに冷めたはずの温もりが、まだ残っている。指先に。掌に。
「あったかい」
ミラが言った。
リリアが振り向いた。
ミラの手を見て、それから顔を見た。
何も言わなかった。手を握り返した。
荷車が揺れている。ロバの蹄の音。冬の風。犬の足音。
次の町は、まだ遠い。
「シュワシュワ♨️お肌つるつるピーリング体験!」完結です!
温泉サービス回、いかがでしたか?
異世界とんでもグルメになったのは作者にも予想外でした。
次回から10章「ポッキン! ぐるぐる白タイツでおそろいコーデ!」がはじまります。お楽しみに!




