谷を上る
朝。
ブルーノが宿の裏で卵を茹でていた。
源泉から湯を引いた石の窪み。常に湯が溜まっていて、湯気が立っている。ブルーノはここで普段から鶏卵を茹でているらしい。
昨日持ち帰った卵。白い殻。拳よりひとまわり大きい。鶏卵よりずっと大きくて、殻が分厚い。
湯に沈めて、しばらく待つ。鶏卵なら半刻もかからない。この卵は殻が分厚いから、もう少しかかる。
ブルーノが湯から引き上げた。布で包んで、卓に並べた。
「食ってみろ」
カタリナが殻を割った。中が半熟。白身が透明がかっていて、黄身が濃い橙色をしている。
一口。
「……おいしい」
味が濃い。黄身にコクがある。殻を通して硫黄の風味が染みている。
「でしょ。前に鶏卵でやった時より、こっちのがいい。蜥蜴の卵は黄身が濃いんだ」
ブルーノが腕を組んでいる。
「ギルドに出せば結構な値がつく。山の方じゃ鶏しか飼えないからな。蜥蜴の卵は貴重な蛋白源だ」
カタリナが二個目に手を伸ばした。
「ワイバーンの卵なんかだと、もっと高いんでしょ」
「採りに行くやつがいればな。命がけだ」
「マーカスにも食わせてやりたいね。来たら残しといてよ」
「来るのか。あの堅物」
「報告書書きに来るよ。あの人はそういう人だから」
卵を手に取った。温かい。殻が分厚くて、割るのに少し力がいる。
カタリナもブルーノも平気で食べている。食材ハンターがいるくらいだから、この世界では普通のことなのだろう。でもあの蜥蜴たちは道具を使って、群れで動いて、仲間を守ろうとしていた。鶏とは違う。
割った。中身が半熟。匂いが立った。硫黄の匂いと、卵の匂い。口に運ぶ手が少しだけ止まった。
一口。
黄身が舌の上でとろけた瞬間、頭の中が白くなった。鶏卵の何倍も濃い。体の芯まで落ちていくような味の厚みがあって、後から硫黄の風味が追いかけてくる。二口目、三口目。気づいたら殻だけが手の中に残っていた。
——食べてしまった。
前に鶏卵で作った温泉卵を思い出した。ミラが「おいしい」と言って、ルッツが「塩がなくても味がする」と笑った朝。あの時は何も考えなかった。
今のは、違う。おいしいと思った。おいしかった。それが少しだけ、喉に引っかかっている。
カタリナは三個目を食べている。
ミラが卵を見ていた。手は伸ばさない。
「……食べる?」
「……いい」
◇
カタリナが荷物をまとめている。
「次の輸送隊が今日の午後に着く。フリッツを連れてった人たちだよ。マーカスも一緒に来るはず」
リリアたちは、それより前に出る。荷車は朝のうちに出発する。
「すれ違いだね」
カタリナが言った。
「卵のこと、その人に伝えてくれますか」
「伝えるよ。黙って三個は食うと思うけど」
「あとさ、王立魔導研究所からもう分析が来ててね。温泉地特有の毒の気で、あの鱗と酸性の湯と風の条件が重なって出たもの。毒を撒いたわけじゃないって」
「……風評被害」
「そう。『温泉に毒が撒かれた』なんて噂が立ったらこの町は終わる。マーカスが来たら観測用の魔石を置いてくよ。毒の気の濃さを測る石。危なくなったら知らせてくれる。王立魔導研究所に報告が上がれば、風精霊の召喚士を派遣してくれる。火山地帯と同じ仕組みだよ」
ブルーノが横で聞いていた。
「王立の……研究所?」
「うん。国の機関」
ブルーノの肩から、少し力が抜けた。
「……国のお墨付きか」
「そういうこと。温泉は安全。ここの湯が毒になったわけじゃない。あの蜥蜴の鱗が特殊だっただけ。それを証明する書類と魔石が来る。——お客さんも戻るよ」
ブルーノが頷いた。
カタリナが卵の殻を割りながら、付け加えた。
「あと、私もこの辺りの風の精霊に声かけといた。うちの子を通じてね。地元の子たちが谷底を気にかけてくれるから、しばらくは大丈夫」
◇
ルッツ一家がブレンハイムに残る。
ゲルトが紹介状を書いていた。ブレンハイムのギルド宛て。ディーターの前職——仕分け仕事の経験を書き添えてある。
フリーダがリリアの前に立った。
「リリアさん」
深く頭を下げた。
「ありがとうございました。ルッツが——ここまで来られたのは」
「……いえ」
ルッツが母親の隣にいた。荷台から降りて、自分の足で立っている。
顔を見た。頬に赤みがある。手の甲にも。前は指先が白かったのに、今は爪の下まで桃色をしている。
回復魔法では、こうはならなかった。
心臓を支えることはできる。血を送る力を少しだけ助けることはできる。でも体中の血の巡りを変えることは、回復魔法にはできない。戦闘職に使う強化魔法なら一時的には可能だが、ルッツの心臓では持たない。
温泉が、それをやった。硫黄の湯が皮膚から染みて、体の隅の血管を広げている。心臓に負担をかけずに。毎日、少しずつ。
あの窪地で動物を殺す匂いと同じものが、この子を生かしている。
温かい季節になれば、泊まりがけの旅もできるだろう。
「……あったかかった」
ルッツが言った。
今、ルッツが言ったのは——「あったかかった」。
もう別れるから。ここに残るから。
「あったかかったよ。リリアさんの手、いつもあったかかった」
フリーダの目から涙が落ちた。ルッツは泣いていない。
「ルッツ。——元気でね」
「うん」
◇
ヨーゼフがいた。
宿の前。腕を組んで立っている。弓を背負って。
「もう出るのか」
「はい」
ヨーゼフが懐から瓶を二つ出した。
小さい方は手のひらに収まるくらい。大きい方はその倍ほど。どちらも栓がしてある。
「源泉だ。朝、汲んできた」
受け取った。温かい。湯気はもう出ていないが、硫黄の匂いが栓の隙間から漂っている。
「……ありがとうございます」
「疲れた時に一口飲め。傷を洗うのにも使える」
猟師が、山で水を汲むように。自分が知っている山の恵みを、手渡す仕草。
小さい方を救急鞄に入れた。大きい方はミラに渡した。ミラが荷物に仕舞う。
「……膝、ありがとう」
頭を下げた。ヨーゼフは頷いて、踵を返した。
三歩ほど歩いて、立ち止まった。振り返らずに。
「——あの窪地の匂い、あと二、三日で消える」
それから歩いていった。
◇
カタリナが最後だった。
宿の前に立っている。コートの袖をまくった姿。風が前髪を揺らしている。自分の風ではない。谷を吹き抜ける、ただの風。
「あんた、次はもう少し楽な場所に行きなよ」
「選んでません……」
「知ってる。だから言ってるの」
カタリナが笑った。
「傷、ありがとね。あれはちょっと嬉しかった」
肩に手を当てた。
一瞬だけ、カタリナの目がミラに行った。
何も言わなかった。すぐに戻った。
「ニコ、よろしくね」
「あいよ」
カタリナが手を振った。
風が吹いた——カタリナの風ではない。谷を抜ける朝の風が、コートの裾を揺らしただけ。
◇
ゲルトが荷車の支度を終えた。
グレイとモリーが繋がれている。ロバの耳がぴくぴく動いている。朝の冷たい空気。
ミラがモリーのそばに行った。鼻先に手を差し出す。モリーがふんと息を吹きかけた。
短く二回、口笛を吹いた。ニコに教わった口笛。モリーの耳が立つ。
ニコが荷車の前に座った。手綱を取る。ヴェルナーが荷車の後ろに腰を下ろした。矢筒に新しい矢が入っている。
「乗りな」
ゲルトがリリアとミラに声をかけた。
乗った。ミラが隣に座る。
荷車が動き出した。ゆっくりと。ロバの蹄が石畳を叩く。
温泉の町が後ろに流れていく。湯気を上げる屋根。洗い場の湯浴み着。段々のプール。
ブルーノが宿の前に立っていた。手は振らなかった。腕を組んで、見送っている。
谷を上る。
来た時は谷を下った。ルッツが「温泉って、あったかい?」と聞いた道。
今度は谷を上る。
振り返ると、谷の底に白い湯気が見える。
ミラが何か言いかけた。口を開いて——閉じた。
荷車が揺れている。グレイとモリーの蹄の音。ニコが手綱を引く音。ヴェルナーが矢筒の位置を直す音。ゲルトが荷の紐を締め直す音。
しばらく上ったところで、ニコが手綱を緩めた。
「来たな」
道の脇から犬が一頭、走ってきた。茶色い。中型。垂れ耳。
フリッツだ。
次の輸送隊と一緒にブレンハイムに来て、今度はこっちの荷車についてきた。尻尾を振りもしない。当たり前のように荷車の横を歩き始める。
ミラが荷台から身を乗り出した。
「フリッツ」
犬は振り向かなかった。前を見て歩いている。でも耳だけが、ミラの方にぴくりと動いた。
谷を上るにつれて、荷車にまとわりついていた湯気が薄くなっていく。服や髪に染みた硫黄の匂いだけが、まだ残っている。
ミラが鼻を動かした。顔はしかめない。来た時は顔をしかめていた匂い。
風向きが変わった。山の冷たい風が正面から吹いて、硫黄の匂いを谷の方に押し戻していく。
谷を上る道は、次の町に続いている。
温泉サービス回からの
とんでもグルメ回になってしまって
リリアさんたちの行動に作者も驚きです。
章のごとにジャンルが変わるとうたってはいたのですが…
次回、マーカスさん回でこの章も完結です!




