新しい肌
翌朝、ヨーゼフが窪地の縁に行った。
匂いを嗅いで、戻ってきた。
「まだだ」
翌々日も行った。
朝日が斜面を照らす頃に一人で出かけて、昼前に戻ってきた。
「鳥が降りてきてない。まだ気が残ってる」
カタリナの精霊がまだ風を送っている。二日目の朝、宿の裏手から谷の方を見た。風が見えるわけではない。でも窪地の上の空気が少しだけ揺れている気がした。
三日目の朝。
ヨーゼフが窪地の縁から戻ってきた時、顔が違っていた。
「散った。降りていい」
判断の根拠を聞く前に、ヨーゼフが付け加えた。
「鳶が降りた。縁の岩に」
◇
窪地に降りたのは五人だった。
カタリナ、ニコ、ヨーゼフ、ヨーゼフの猟師仲間のゲルントという男、それとヴェルナー。
リリアは行かなかった。
「あんたはもう降りなくていいよ」
カタリナが言った。
ニコはカタリナについていった。
ヴェルナーは荷運びだ。
◇
待っている間、ルッツの部屋にいた。
ここ数日、回復魔法を中断していた。
ルッツの手を取って、光を当てる。ルッツが目を閉じる。
「……あったかい」
小さな声。この子はいつもそう言う。
心臓に光を送りながら、脈を診る。弱い。でも安定している。テオブロマの薬効がまだ残っている。
フリーダが隣に座って、ルッツの額の汗を拭いている。
治療が終わって廊下に出ると、ミラが座っていた。
鞄を膝に乗せている。蓋が開いている。中を覗くと——薬瓶が並び直されていた。包帯が巻き直されている。使った分の薬草が、新しいものに入れ替わっている。
「……補充した」
ミラが鞄の蓋を閉じた。
「いつの間に」
「昨日」
「……ありがとう」
ミラは頷いて、立ち上がった。鞄をリリアに渡して、そのまま廊下を歩いていった。
鞄を受け取った。重さが少し変わっている。
◇
昼過ぎに、窪地の組が戻ってきた。
ヴェルナーの背に大きな籠。中に白い卵が並んでいる。殻がしっかりしている。毒は染み込んでいなかった。温泉の湿気で温かい。
ニコが黙って手を洗っていた。沢水で。指の間を丁寧に。
カタリナがブルーノに報告している。
「全部埋めた。尾根を越えた向こう側。源泉には影響ない」
ブルーノが頷いた。
「死骸は沢水で洗ってから運んだ。深く掘った。掘り返されない深さに」
ヨーゼフが横から補足する。
「こいつの肉は食えねえ。毒が染みてる。骨も鱗も同じだ。触るなら手袋をしろ」
「——あいつらだって、ここが良い場所だと思って来ただけだよ」
カタリナが言った。
ブルーノが卵の籠を見た。
「温泉卵にでもするか」
◇
夕方。
カタリナが温泉に行くと言った。
「付き合ってよ、リリア」
断る理由はなかった。体は痛い。関節が軋む。温泉に浸かれば楽になる。
着替えの小屋で湯浴み着に替えた。麻の薄い布。
カタリナの体を見た。
肩から背中にかけて、白っぽい線がある。古い傷跡。何本も。服を着ていれば見えない場所に。
前にも見た。ヒーラーが縫ったものではない。手当をする人がそばにいなかった跡。
湯に入った。
段々のプール。石灰華の棚田を流れ落ちる湯。酸性の湯が肌を刺す。関節の痛みが、じわりと和らいでいく。
しばらく黙って浸かっていた。
「——ねえ」
カタリナが肩を湯面から出した。湯浴み着の布越しに、肩の傷跡が透けている。
「気になる?」
「……少し」
カタリナが肩を回した。
「山で二か月やってると、こうなる。木の枝で切った跡。岩の角でぶつけた跡。リザードマンの爪で——」
指で一本の傷を辿った。肩から鎖骨の下にかけて、斜めに走る白い線。
「これは前のリザードマン。あいつの爪は毒はないけど、汚いんだ。化膿して、自分で膿を出して、布で巻いた。治るまで二週間」
二週間。
ヒーラーなら、一日で塞げる傷だ。
「そばにヒーラーがいたら——」
「いなかったからね」
カタリナの声は軽い。
傷跡を見ていた。湯に浸かった肩。古い傷の盛り上がり。
——縁が、少し浮いている。
「……カタリナさん」
「ん?」
「少し、触っていいですか」
カタリナが首を傾げた。
手を伸ばした。カタリナの肩に触れる。指先で傷跡の縁をなぞる。
やっぱり。浮いている。古い傷の組織が、柔らかくなっている。
温泉の湯が、古い傷の表面を柔らかくしている。固くなった皮膚が、酸で少しずつ緩んでいる。
——古い皮膚を剥がして、新しい肌にしてくれる。
開湯伝説。あの老人が語った言葉。羊の話。
温泉の水を手に含ませた。そこに、回復魔法を込めた。
カタリナの肩を、そっとこすった。
薄い皮が剥がれた。古い傷の表面が、うすく、はがれ落ちた。
下から出てきたのは——きれいな肌だった。
「……え」
カタリナが自分の肩を見た。指で触った。
傷跡があった場所に、新しい肌がある。まだ薄い。赤みがある。でも——傷ではない。
「……何したの」
「温泉の酸で古い傷が柔らかくなってて、そこに回復魔法をかけると、新しい皮膚の再生が——」
言いながら、止まった。
あの黒いのの鱗を酸で溶かした。その下から灰色の肌が出てきた。死んだ。
カタリナの傷跡を酸で柔らかくした。その下からきれいな肌が出てきた。治った。
「……同じだ」
「何が」
「……いえ」
カタリナが自分の肩を触っている。何度も。
「……きれい」
小さな声だった。
◇
しばらく湯に浸かっていた。
カタリナが目を閉じている。湯気の中で顔だけ出している。
「あんたさ」
目を閉じたまま、カタリナが言った。
「あの子がいるから、戦えてるでしょ」
「……」
「あの格好して窪地に降りた時。あの黒いのの前に立った時。面の中で息が止まりそうになった時。——帰ろうって思ったでしょ。あの子のところに」
答えなかった。
「それ自体は悪いことじゃないよ。誰だって理由がなきゃ死地には行けない」
カタリナが目を開けた。湯気の中で、リリアを見ている。
「でもさ——あの子は、あんたが戦うための理由じゃないよ」
「……」
「あの子にはあの子の人生がある。あんたが死んだら、あの子には何も残らない」
水の音がした。湯が段々の石灰華を流れ落ちていく音。
「……この町で、引き取り先を探しました」
声が震えた。
「見つかりませんでした。前にも探しました。前の町でも、その前でも」
カタリナが黙って聞いている。
「どこに行っても見つからなくて——でも——」
「見つからなくて、ホッとしたんじゃないの」
リリアの口が閉じた。
「……はい」
声がかすれていた。
「毎回、見つからなくて、ホッとしてます。この子と一緒にいられる。まだ一緒にいられる。——それが、駄目なのは分かってます」
「駄目とは言ってない」
カタリナの声が少し柔らかくなった。
「ただ——先延ばしにしてもいいけどさ。でもいつか、決めないといけないよ」
リリアは湯の中で自分の手を見ていた。
「あんたはヒーラーだから。あんたの近くにいれば、あの子は守られる。でもそれは——あの子の人生じゃない。あんたの人生に、あの子がぶら下がってるだけだ」
「……」
「私はさ」
カタリナが自分の肩を見た。傷跡が薄くなった肩。
「ヒーラーのいない場所でずっと生きてきたから。傷は自分で塞いで、自分で巻いて、自分で歩く。そうやって生きてきた」
「でも今、あんたに傷を治してもらった。——二か月分の傷が、一回で」
「あの子にも、いつか自分で歩く力がいるんだよ。あんたがそばにいる間は、あの子はずっとあんたの鞄の紐を掴んでる。掴んでるうちは——自分の足で立てない」
湯が流れている。段々の石灰華を、かけ流しの湯が流れ落ちていく。
リリアは何も言えなかった。
カタリナが湯から上がった。湯浴み着の裾を絞りながら。
「——まあ、今すぐじゃなくていいよ。今日は傷を治してくれてありがとう」
振り返って、少しだけ笑った。
「温泉ヒーラーでも始める? 儲かるよ、きっと」
笑えなかった。
◇
部屋に戻った。
ミラが寝ている。枕元にグレタの薬草袋がある。旅の間ずっと持っている小さな布袋。
紐を緩めて、口を開けた。乾燥した草の匂い。甘くて、苦い。
ミラの寝顔を見た。
ミラの手が、シーツをぎゅっと掴んでいる。寝ていても離さない。
薬草袋を枕元に戻した。
窓の外で、風の音がする。
布団に入った。目を閉じた。
眠れなかった。




