湯気の見える屋根
地面に手をついていた。
砂利の感触。指の間にざらざらした石が食い込んでいる。
喉が焼ける。息を吸うたびに、喉の奥に何かがこびりついているような痛みがある。さっきまで面の中にいた空気の残りか、それとも面を外した後に一瞬だけ吸った、あの重い空気のせいか。
泣いていた。
いつからか分からない。面の中で曇ったのだと思っていた丸い窓が、涙のせいだったのかもしれない。あの黒いのが倒れた時には、もう泣いていたのだと思う。
止められない。止め方が分からない。
◇
「降りるな」
声がした。低い。短い。
ヨーゼフが窪地の方を見下ろしている。背中だけが見える。
「底にまだ気が残ってる。今日は降りるな」
カタリナが隣にいる。
膝を立てて座り、肩で息をしている。手が膝の上に落ちている。いつも風を読んでいた指先が、動いていない。
その顔を見て——自分が何をすべきか、思い出した。
鞄を開けた。
◇
「カタリナさん」
「ん」
「手を出してください」
カタリナが片手を持ち上げた。ゆっくりと。指先に触れる。冷たい。血の巡りが落ちている。魔力を使い切ると、体の末端から冷えていく。学校で習った。
掌に光を当てた。淡い。いつもより弱い。自分の魔力も残り少ない。でも温めるくらいはできる。血の流れを少しだけ助ける。
「……あったかい」
カタリナが小さく笑った。笑えるなら大丈夫だ。
「魔力が空っぽです。体の中が……空っぽなんです」
「分かってる。お腹空いてるのと同じでしょ」
「はい。食べて、寝てください。それしかありません」
「うん。——帰ろう」
◇
帰路。
ヨーゼフが先頭を歩いた。来た時と同じ道を逆に辿る。猟師が先に立ち、安全を確かめながら一歩ずつ。
来る時は朝だった。帰る時はまだ昼を過ぎていない。あの黒いのと向き合っていた時間は——そんなに長くはなかったのか。長かった気がする。一日分くらい長かった気がする。
カタリナはニコに肩を貸されている。
「歩ける」
「歩けてない」
「歩けてるってば」
「足、見ろ」
カタリナが自分の足を見た。膝が笑っている。一歩ごとにふらついて、ニコの肩に体重がかかっている。
「……まあ、ちょっとだけ借りるね」
ニコは何も言わなかった。そのまま歩いた。
リリアは自分の足で歩いた。ふらつく。膝が笑っている。カタリナと同じだ。でも鞄を背負い直した。ヒーラーの鞄だけが残ったのだ。面も手袋も布も筒も壺も、あの道の途中で光になって消えた。鞄だけが残った。
ヴェルナーが最後尾を歩いている。ときどき振り返る。空の矢筒が背中で揺れている。
五人で下った道を、五人で上っている。
源泉の横を通った。朝、指を浸した場所。
湯気が白く立ち上っている。
足が止まった。
あの窪地と、同じ匂いがした。
◇
宿が見えてきた。
石造りの屋根。湯気を上げている煙突。洗い場に干された湯浴み着。
宿の前に、ミラがいた。
走ってこなかった。
立っている。両手を体の横に下ろして、こちらを見ている。走り寄ることも、手を振ることもしない。ただ立っている。
近づいていく。十歩。五歩。ミラの顔が見える距離。目が赤くない。泣いた跡はない。でも唇の色が薄い。
「ただいま」
ミラが一歩だけ前に出た。
何も言わない。リリアの鞄の紐を掴んだ。片手で。ぎゅっと。
手が冷たかった。
◇
ブルーノが厨房にいた。
「風呂を沸かしてある。飯もある」
鍋の蓋を開けた。肉と根菜の匂いがした。
ゲルトが食堂の隅で立ち上がった。ルッツの父親と何か話していたらしい。紙を畳んで懐にしまった。
「終わったのか」
「終わりました」
ゲルトが頷いた。
◇
治療をした。
食堂の長卓の端に座って、一人ずつ。
カタリナが最初だった。
「魔力は戻りません。食べて寝るしかないです。でも手足の冷えと——」
カタリナの手首を取った。脈を診る。遅い。力が弱い。
「血の巡りが悪いです。回復魔法で少しだけ助けますけど、無理はしないでください」
「はいはい。——あんたも顔色悪いよ」
「私は大丈夫です」
「嘘つき」
カタリナが笑った。でもそのまま目を閉じた。回復魔法の光が手首から染みていく。指先が温かくなるのが分かったのだろう、閉じた目が少しだけ緩んだ。
次はヴェルナーだった。
「手を見せてください」
右手を差し出した。震えている。指が白い。弦の跡が人差し指と中指にくっきり残っている。
両手で包んだ。光を当てた。震えが小さくなる。止まる。
ヴェルナーの左手が、腰のナイフから離れた。
ずっとかかっていた。斜面の上でも。帰り道でも。今、離れた。
リリアは「治療で力が抜けたんだな」と思った。右手の震えが止まったから、体全体の力が抜けた。そういうことだと思った。
「……ありがとうございます」
ヴェルナーの声が小さかった。右手を見て、開いて、閉じた。もう震えていなかった。
次はニコだった。
「俺は平気だ」
「手首を見せてください」
ニコが手を出した。手首の内側に弦の跡が赤く残っていた。
一本しか射っていない。でもずっと構えていた手だ。
「……一本しか使ってないのに、これだけ跡がつくんですね」
「構えてるだけで弦は食い込むもんだ」
最後にヨーゼフだった。
「……いい」
「膝を見せてください」
「いい。大したことない」
「ヨーゼフさん」
猟師が黙った。
「膝が壊れたら山に入れなくなりますよ」
ヨーゼフの目が動いた。山に入れなくなる。猟師にとって、それは——。
黙って膝を差し出した。
触れる。少し腫れている。回復魔法で炎症を抑える。完全には治らない。でも明日歩ける程度には。
ヨーゼフは何も言わなかった。治療が終わると立ち上がって、そのまま外に出ていった。
◇
夕食の後、焚き火のそばに三人がいた。
食堂の裏口を出たところに、薪を割る場所がある。そこにニコとヨーゼフとヴェルナーが腰を下ろしていた。
リリアは食堂から出たところで足を止めた。声が聞こえたからではない。聞こえなかったから。三人とも黙っている。
ヴェルナーが空の矢筒の手入れをしている。革の部分を布で拭いて、紐のほつれを確認している。中身のない矢筒。明日、ブレンハイムの弓師から矢を借りなければならない。
ヨーゼフが焚き火を見ていた。膝に手を置いている。さっき治療した膝。
しばらくして、ヨーゼフが口を開いた。
「手負いの獣が一番怖い。倒れた、と思った時に来る」
焚き火に向かって言った。ヴェルナーに向けたのではない。猟師が焚き火を見ながら呟く、山の話。独り言のように。
でもヴェルナーの手が止まった。矢筒の紐を握ったまま。
ヨーゼフが続けた。珍しく二言。
「お前は知ってたのか」
「……いえ。知りませんでした」
「そうか」
ヨーゼフは焚き火に薪を一本足して、黙った。
少し間があった。
ニコがヴェルナーの空の矢筒を見た。
「最後の一本は残しておけ」
短い。ニコの声。
「……次からな」
ヴェルナーが頷いた。
それから——矢筒の手入れに戻った。
さっきと同じ手つき。革を拭いて、紐を確かめる。でも手が震えていない。来た時と、手つきが違う。丁寧になっている。空の矢筒を、明日また矢を入れるものとして扱っている。
ニコが焚き火に手をかざした。ヨーゼフが膝を伸ばした。
三人とも黙っている。でもさっきまでの沈黙とは違う。焚き火の音だけがある、穏やかな夜だった。
リリアはそこで食堂に戻った。三人の会話の意味を全部は分かっていない。猟師の山の話と、弓使いの技術の話。
でもヴェルナーの右手がもう震えていないことには気づいた。
さっき治した手。回復魔法で筋の緊張を解いた手。
——あれ。もう大丈夫になってる。
ヒーラーの目でそう思った。治療が効いたんだな、と。
◇
部屋に戻ると、ミラが先に布団に入っていた。
背を向けている。寝ているのか起きているのか、分からない。毛布を顎まで引き上げて、小さく丸まっている。
布団に入った。ミラの背中が近い。腕一本分の距離。
窓の外で、微かな風の音がする。
出発する前に——カタリナが精霊に頼んでいた。斜面の上で座り込んだまま、小さな声で。
「ゆっくりでいい。下から上に、谷の底から風を送って。何日かかってもいいから」
精霊が応じたのだろう。窪地の底を、微かな風が這い始めた。カタリナの指は動いていなかった。もう魔力は使っていない。精霊が、引き受けてくれたのだ。
その風が、今も吹いている。窓の外で。谷底の毒を薄めている。少しずつ。何日もかけて。人が吸っても平気なくらい薄くなるまで。
遠吠えは聞こえない。
犬はもういない。野犬はもういない。
でも風の音がする。
目を閉じた。




