石炭酸噴霧器
源泉のそばまで退いた。
カタリナが一人、前に残っている。風であの黒いのを押さえたまま、じりじりと後退している。リリアたちとあの黒いのの間に、カタリナの背中がある。
「カタリナさん——」
「黙って待ってて」
振り返らなかった。背中だけ見えている。コートの裾が風に煽られている。自分の風で。
ニコが弓を構えたまま斜面の上を見張っている。ヨーゼフは源泉の脇の岩陰で矢を番えている。ヴェルナーの手がまだ震えている。
湯気が立ち上っている。硫黄の匂い。源泉の熱が足元から伝わってくる。
◇
カタリナの膝が揺れた。
ここからでも見える。さっきより深い。あの黒いのが、じり、と前に這う。カタリナの風が押し返す。押し返しきれない。少しずつ、距離が詰まっている。
救急鞄を抱えた。中にあるのは包帯と止血布と消毒液。人間の傷を治す道具だけ。
あの鱗には、何も届かない。
カタリナの背中が小さく見える。あの人が倒れたら、蓋も消える。窪地の灰色の群れが溢れ出す。全員死ぬ。
——あの人が、死ぬ。
嫌だ。
出会って五日。一緒にお風呂に入って、ミラの髪を乾かしてくれて、「少ない方がいい」と言って五人だけでここに来てくれた人。笑みの形だけ作って、目が笑っていなくて、それでも「何か——ない?」と聞いてくれた人。
あの人を、死なせたくない。
——死なせたくない!!
◇
最終救護——
光がリリアの手の中に集まる。形を成していく。
見覚えのない器具が、いくつも現れた。
金属の筒。回し柄がついている。空の壺。噴き出し口。
もう一つ、背負う形をした金属の筒。そこから管が伸びている。
厚い布の塊。硝子の窓がついた面。帯が何本も。
◇
それは——酸の霧であった。
石炭酸噴霧器——
1865年、外科医ジョゼフ・リスターは石炭酸を傷口に塗り、
消毒という概念を外科手術に持ち込んだ。
近代消毒法の原点にして、外科革命の幕開け。
リスター以前、手術後の死亡率は四割を超えていた。
傷口から侵入する目に見えない敵——細菌。
それを、酸で焼き払った。
やがてリスターは、手術室そのものを酸で満たすことを考えた。
石炭酸を霧状に撒き、空気中の細菌を殺す噴霧器。
手術台の上で、患者を切り開く傍らで、
助手が噴霧器のハンドルを回し続ける。
外科医とは、酸の雨の中で人を救う者である。
そして酸は、消毒だけではない。
ケミカルピーリング——古い皮膚を酸で剥がし、新しい肌の再生を促す。
そして温泉にも酸がある。
火山が生んだ硫酸の湯。硫黄の匂いを纏う強い酸。
指を浸せばひりつき、刃物を沈めれば一晩で溶ける。
その湯が、皮膚病を治す。古い角質を溶かし、新しい肌を育てる。
湯治——温泉の酸による、最も古いピーリングである。
壊して、治す。
古いものを溶かし、新しいものを育てる。
破壊と再生——その境界線の上に、医学は立っている。
石炭酸噴霧器。
消毒、殺菌、ピーリング——
病なき肌を取り戻すための医療器具。
すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
手が動いていた。
布を広げる。足を通す。腕を通す。前を閉じる。厚い布が全身を覆っていく。革ではない。もっと滑らかで、弾力がある。
背中に金属の筒を背負う。重い。筒から管が伸びて、面に繋がっている。
面を顔に押しつける。縁が頬と額に食い込む。きつい。硝子の窓越しに世界が歪む。
手が背中に伸びた。筒の上にある栓に触れる。栓のそばに、小さな丸い窓がある。窓の中に細い針が一本。針の周りに、読めない文字が弧を描いて並んでいる。数と、見たことのない記号。針は右の端を指している。
手が栓を回した。
——しゅ、と音がした。
管の中を何かが走った。面の中に、風が来る。冷たい。乾いている。硫黄の匂いが消えた。湯気の匂いも。何の匂いもしない。
何が起きているか分からない。でも息ができる。外の空気ではない何かで、息ができる。
吸う音。吐く音。外の世界が遠くなる。
帯に手を伸ばし、つかむ。
手首に巻く。袖と手袋の境目を。きつく。一周。もう一周。隙間が消える。
足首にも巻く。裾と靴の境目を。同じようにきつく。
面の縁にも巻く。頭巾との境目を。押さえて、巻いて、押さえて、巻く。何度も。
——何をしているか分からない。でも手は知っている。ここに隙間があってはいけないと。外の空気が一筋でも入ってはいけないと。
器の壺を源泉に沈める。
熱い。手袋越しでも分かる。指がひりつくほどの湯が入っていく。刃物を溶かす湯。さっき、自分の指で確かめた湯だ。
これだけでは足りない。あの鉄の鱗を剥がすには。
——でも、強くできる。
神授の糧の時と同じだ。治療の力を過剰にかけたら、薬の成分が何倍にもなった。この湯の力も——
壺に手をかざす。光が出る。過剰回復——制御できない力が温泉水に流れ込む。
液体が変わった。透明だった水が白濁する。匂いは——面の中には届かない。
器を持ち上げた。重い。両手で抱えて、斜面を駆け上がる。
◇
カタリナがまだ立っている。
どれだけ離れていた。走って、汲んで、走って戻った。それだけの間、一人であの黒いのを押さえていた。
——いや、一人ではない。
さっきまでと何かが違う。膝は震えていない。折れる寸前の姿ではない。
カタリナの髪が風もないのに揺れている。コートの裾が、風向きとは違う方に靡いている。カタリナの左手が、何もない空間に伸びている。何かに触れるように。
——何かの気配がした。
一瞬。振り返りたくなるような、すぐそばに誰かがいるような。感じた瞬間に、消えた。
風が変わっていた。
さっきまでの風とは違う。カタリナの風には力があった。空気を掴んで、押して、ぶつけるような力。今の風にはそれがない。山の稜線を越えてくる風や、谷間を吹き抜ける風と同じ——自然の中にある風と同じ質をしている。なのに、さっきより強い。しなやかに、一段と。
何かがいる。見えない。でも、カタリナの横に——何かが、力を貸している。
「……遅いんだけど」
カタリナが呟いた。こちらを見ていない。横を向いている。見えない何かに、笑いかけている。
風が一瞬、渦を巻いた。いたずらっ子のように。
カタリナの髪が大きく跳ねた。
「——分かってるよ。ありがと」
「カタリナさん!」
面の中から声を出した。くぐもっている。
カタリナが振り返る。全身を覆う布、硝子の面、背中の金属の筒、両手に抱えた見慣れない器具。
笑った。中身がちゃんと入っている笑み。
「何する気か知らないけど——」
カタリナが両手を突き出す。風が唸る。あの黒いのの体が地面に押しつけられる。
「——今だよ!」
近づいた。五歩。四歩。三歩。
あの黒いのが目の前にいる。風に押しつけられて、それでも首だけこちらを向けている。
回し柄に手をかけた。手が知っている。これを回せば——
◇
少女が、霧を吹いた。
火竜の吐息とは違う。あれは吐き出す。吹きつける。焼き払う。
これは、包む。
きめ細かい霧が、鱗の一枚一枚に触れていく。表面に張りつく。隙間に入る。鱗と鱗の継ぎ目に染み込んでいく。逃げ場を与えない、静かな霧。
鉄の鱗を持つものが、咆哮した。
鱗の表面が泡立つ。白い煙が立ち上る。黒い鎧のような鱗に、亀裂が走っていく。
古い皮膚を剥がす。新しい肌を育てる。
——ただし、新しい肌など、この鱗の下にはない。
剥がしたら、そこには何も残らなかった。
◇
もう一度、回し柄を回した。もっと近くで。もっと長く。
鱗が泡立っている。白い煙がもっと濃くなる。泡が弾けて、黒い飛沫が跳ねた。防護服の胸と腕に散る。鱗の表面から立ち上る煙が、風に乗って斜面を流れ始めている。
「——離れろ!」
ヨーゼフの声が斜面の下から飛んできた。
「あの煙は毒の気だ! 谷底で鹿を殺すのと同じ匂いがする!」
カタリナの目が動いた。ヨーゼフの声を聞いて、煙を見て、一瞬で判断した。
「リリア、下がって!」
下がった。三歩。五歩。霧の器《石炭酸噴霧器》を抱えたまま。
カタリナが片手を振った。風が変わる。白い煙が——斜面を下り始めた。窪地に向かって。
あの黒いのを押さえつけながら。窪地の蓋を維持しながら。毒の煙を窪地に送る風を、同時に。
三つの風を、一人で。
蓋が少し開いた。群れが出られない程度に。煙だけが入る隙間を。
白い煙が窪地に流れ込んでいく。
◇
窪地の中が騒いだ。灰色の影が暴れている。水面を叩いている。
◇
なぜ、鱗から毒が出たか。
あの黒い鱗は、なぜ黒いか。
脱皮するたびに強くなる蜥蜴が、風の術士との戦いを経て、鉄の鱗を得た。
この温泉地に棲みつき、硫黄を含む湯に浸かり続けた。
鉄と硫黄が結びついた。黒い鱗。岩と土に紛れる完璧な迷彩にして、刃も矢も弾く鎧。
——その鎧に、酸の霧が触れた。
刃物を一晩で溶かす湯を、さらに何倍にも強めた酸。
鉄は酸に溶ける。
溶けた鉄が、鱗に染みた硫黄を解き放つ。
硫黄は水素と結びつき、気体になる。
硫化水素。
青酸と同じ毒。
体の中の、もっと小さな仕組みを壊す。
風の術士が風を送っている。新鮮な空気が窪地に流れ込んでいる。
だが関係ない。
この毒は、酸素を奪うのではない。酸素を使う力を奪う。
体の隅々にある命の炉——そこに酸素を受け渡す仕組みがある。
硫化水素は、酸素よりも強くそこに結びつく。
先に席を奪う。酸素が来ても、もう座る場所がない。
新鮮な空気を送り込んでも、戻らない。
席を奪った毒は、酸素では剥がせない。
助けに来た空気が、何もできずに素通りしていく。
息はできる。肺は動いている。血も巡っている。
だが命の炉は、もう燃えない。
空気のただ中で、溺れる。
血の中の鉄にも結びつく。酸素を運ぶ力が消える。血の色が変わる。肌が、くすんだ緑に染まっていく。
そして——脳に届く。
この毒は脂に溶ける。脳を守る壁を、すり抜ける。
呼吸を命じる神経を、直に灼く。
体が窒息に気づく前に、呼吸を命じる声そのものが消える。
苦しいと感じる間もない。ただ、止まる。
薄ければ、卵の腐った匂いがする。
濃くなると、匂いを感じる力そのものが焼かれる。
匂わない。何も匂わない。
だから気づかない。逃げない。吸い続ける。
一呼吸。二呼吸。三呼吸目はない。
空気より重い。低い場所に這うように溜まる。
◇
窪地の底に、白い煙が沈んでいく。
灰色の影が暴れている。水面を叩いている。
一匹の動きが止まった。立ったまま、膝から崩れるように。
もう一匹が倒れる。口が開いている。閉じない。
水の中にいた個体が浮き上がってくる。腹を上にして。痙攣して、止まる。
這い上がろうとしている個体がいる。蓋の下で。壁を掻いている。
掻く力が弱くなっていく。
指先の動きが鈍くなって、止まる。
低いところにいるものから、順番に。
灰色だった肌が、緑に変わっていく。
——高い濃度の硫化水素は、まず目を灼く。粘膜を焼かれた眼は白く濁る。次に嗅覚が死ぬ。匂いが消える。匂わないから、逃げない。吸い続ける。
やがて——静かになった。
一つずつ。水面を叩く音が減っていく。叫び声が減っていく。
窪地が、静まった。
◇
もう一度、回し柄を回した。あの黒いのに向けて。
鱗が変色し始める。黒から、灰色へ。鉄の色が抜けていく。泡がぼろぼろと崩れて、鱗の表面が剥がれ落ちていく。
黒い鱗の下にあるのは、柔らかい灰色の肌。普通の蜥蜴と同じ色。
風の刃を弾き、矢を弾き、何も通さなかったあの鎧が——溶けている。
この地で最強になるために得た鱗が——この地にある湯で、毒に変わった。
今までの『ヒーラーが装備可能な治療器具』は
身近ではなかったから、魔法や未来SFガジェットと同じ架空のもののように扱えたところ
硫化水素は日用品からでも発生してしまう恐ろしいものなので
リリアさんにもかなり慎重に扱ってもらいました
硫化水素で倒れた人がいても
『助けに行くのも危険だから絶対救急や消防に連絡が必要』という
心得含めて、生活の知恵として伝わっていたら幸いです。




