表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放ヒーラーですが【発明者が医師】なのでガトリング砲を使います!  作者: とらいぽっど
シュワシュワ♨️お肌つるつるピーリング体験!

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

84/108

石炭酸噴霧器


源泉のそばまで退いた。


カタリナが一人、前に残っている。風であの黒いのを押さえたまま、じりじりと後退している。リリアたちとあの黒いのの間に、カタリナの背中がある。


「カタリナさん——」


「黙って待ってて」


振り返らなかった。背中だけ見えている。コートの裾が風に煽られている。自分の風で。


ニコが弓を構えたまま斜面の上を見張っている。ヨーゼフは源泉の脇の岩陰で矢を番えている。ヴェルナーの手がまだ震えている。


湯気が立ち上っている。硫黄の匂い。源泉の熱が足元から伝わってくる。





カタリナの膝が揺れた。


ここからでも見える。さっきより深い。あの黒いのが、じり、と前に這う。カタリナの風が押し返す。押し返しきれない。少しずつ、距離が詰まっている。


救急鞄を抱えた。中にあるのは包帯と止血布と消毒液。人間の傷を治す道具だけ。


あの鱗には、何も届かない。


カタリナの背中が小さく見える。あの人が倒れたら、蓋も消える。窪地の灰色の群れが溢れ出す。全員死ぬ。


——あの人が、死ぬ。


嫌だ。


出会って五日。一緒にお風呂に入って、ミラの髪を乾かしてくれて、「少ない方がいい」と言って五人だけでここに来てくれた人。笑みの形だけ作って、目が笑っていなくて、それでも「何か——ない?」と聞いてくれた人。


あの人を、死なせたくない。


——死なせたくない!!





最終救護ラストレスキュー——


光がリリアの手の中に集まる。形を成していく。


見覚えのない器具が、いくつも現れた。


金属の筒。回し柄がついている。空の壺。噴き出し口。

もう一つ、背負う形をした金属の筒。そこから管が伸びている。

厚い布の塊。硝子の窓がついた面。帯が何本も。





それは——酸の霧であった。


石炭酸噴霧器——


1865年、外科医ジョゼフ・リスターは石炭酸フェノールを傷口に塗り、

消毒という概念を外科手術に持ち込んだ。

近代消毒法の原点にして、外科革命の幕開け。


リスター以前、手術後の死亡率は四割を超えていた。

傷口から侵入する目に見えない敵——細菌。

それを、酸で焼き払った。


やがてリスターは、手術室そのものを酸で満たすことを考えた。

石炭酸を霧状に撒き、空気中の細菌を殺す噴霧器。

手術台の上で、患者を切り開く傍らで、

助手が噴霧器のハンドルを回し続ける。


外科医とは、酸の雨の中で人を救う者である。


そして酸は、消毒だけではない。


ケミカルピーリング——古い皮膚を酸で剥がし、新しい肌の再生を促す。


そして温泉にも酸がある。

火山が生んだ硫酸の湯。硫黄の匂いを纏う強い酸。

指を浸せばひりつき、刃物を沈めれば一晩で溶ける。

その湯が、皮膚病を治す。古い角質を溶かし、新しい肌を育てる。

湯治——温泉の酸による、最も古いピーリングである。


壊して、治す。

古いものを溶かし、新しいものを育てる。

破壊と再生——その境界線の上に、医学は立っている。


石炭酸噴霧器。

消毒、殺菌、ピーリング——

病なき肌を取り戻すための医療器具。

すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!





手が動いていた。


布を広げる。足を通す。腕を通す。前を閉じる。厚い布が全身を覆っていく。革ではない。もっと滑らかで、弾力がある。

背中に金属の筒を背負う。重い。筒から管が伸びて、面に繋がっている。

面を顔に押しつける。縁が頬と額に食い込む。きつい。硝子の窓越しに世界が歪む。


手が背中に伸びた。筒の上にある栓に触れる。栓のそばに、小さな丸い窓がある。窓の中に細い針が一本。針の周りに、読めない文字が弧を描いて並んでいる。数と、見たことのない記号。針は右の端を指している。


手が栓を回した。


——しゅ、と音がした。


管の中を何かが走った。面の中に、風が来る。冷たい。乾いている。硫黄の匂いが消えた。湯気の匂いも。何の匂いもしない。


何が起きているか分からない。でも息ができる。外の空気ではない何かで、息ができる。


吸う音。吐く音。外の世界が遠くなる。


帯に手を伸ばし、つかむ。


手首に巻く。袖と手袋の境目を。きつく。一周。もう一周。隙間が消える。

足首にも巻く。裾と靴の境目を。同じようにきつく。

面の縁にも巻く。頭巾との境目を。押さえて、巻いて、押さえて、巻く。何度も。


——何をしているか分からない。でも手は知っている。ここに隙間があってはいけないと。外の空気が一筋でも入ってはいけないと。


器の壺を源泉に沈める。


熱い。手袋越しでも分かる。指がひりつくほどの湯が入っていく。刃物を溶かす湯。さっき、自分の指で確かめた湯だ。


これだけでは足りない。あの鉄の鱗を剥がすには。


——でも、強くできる。


神授の糧(テオブロマ)の時と同じだ。治療の力を過剰にかけたら、薬の成分が何倍にもなった。この湯の力も——


壺に手をかざす。光が出る。過剰回復オーバーキュア——制御できない力が温泉水に流れ込む。


液体が変わった。透明だった水が白濁する。匂いは——面の中には届かない。


器を持ち上げた。重い。両手で抱えて、斜面を駆け上がる。





カタリナがまだ立っている。


どれだけ離れていた。走って、汲んで、走って戻った。それだけの間、一人であの黒いのを押さえていた。


——いや、一人ではない。


さっきまでと何かが違う。膝は震えていない。折れる寸前の姿ではない。


カタリナの髪が風もないのに揺れている。コートの裾が、風向きとは違う方に靡いている。カタリナの左手が、何もない空間に伸びている。何かに触れるように。


——何かの気配がした。


一瞬。振り返りたくなるような、すぐそばに誰かがいるような。感じた瞬間に、消えた。


風が変わっていた。


さっきまでの風とは違う。カタリナの風には力があった。空気を掴んで、押して、ぶつけるような力。今の風にはそれがない。山の稜線を越えてくる風や、谷間を吹き抜ける風と同じ——自然の中にある風と同じ質をしている。なのに、さっきより強い。しなやかに、一段と。


何かがいる。見えない。でも、カタリナの横に——何かが、力を貸している。


「……遅いんだけど」


カタリナが呟いた。こちらを見ていない。横を向いている。見えない何かに、笑いかけている。


風が一瞬、渦を巻いた。いたずらっ子のように。

カタリナの髪が大きく跳ねた。


「——分かってるよ。ありがと」


「カタリナさん!」


面の中から声を出した。くぐもっている。


カタリナが振り返る。全身を覆う布、硝子の面、背中の金属の筒、両手に抱えた見慣れない器具。


笑った。中身がちゃんと入っている笑み。


「何する気か知らないけど——」


カタリナが両手を突き出す。風が唸る。あの黒いのの体が地面に押しつけられる。


「——今だよ!」


近づいた。五歩。四歩。三歩。


あの黒いのが目の前にいる。風に押しつけられて、それでも首だけこちらを向けている。


回し柄に手をかけた。手が知っている。これを回せば——





少女が、霧を吹いた。


火竜の吐息(火炎放射器)とは違う。あれは吐き出す。吹きつける。焼き払う。


これは、包む。


きめ細かい霧が、鱗の一枚一枚に触れていく。表面に張りつく。隙間に入る。鱗と鱗の継ぎ目に染み込んでいく。逃げ場を与えない、静かな霧。


鉄の鱗を持つもの(アイアンスケイル)が、咆哮した。


鱗の表面が泡立つ。白い煙が立ち上る。黒い鎧のような鱗に、亀裂が走っていく。


古い皮膚を剥がす。新しい肌を育てる。


——ただし、新しい肌など、この鱗の下にはない。


剥がしたら、そこには何も残らなかった。





もう一度、回し柄を回した。もっと近くで。もっと長く。


鱗が泡立っている。白い煙がもっと濃くなる。泡が弾けて、黒い飛沫が跳ねた。防護服の胸と腕に散る。鱗の表面から立ち上る煙が、風に乗って斜面を流れ始めている。


「——離れろ!」


ヨーゼフの声が斜面の下から飛んできた。


「あの煙は毒の気だ! 谷底で鹿を殺すのと同じ匂いがする!」


カタリナの目が動いた。ヨーゼフの声を聞いて、煙を見て、一瞬で判断した。


「リリア、下がって!」


下がった。三歩。五歩。霧の器《石炭酸噴霧器》を抱えたまま。


カタリナが片手を振った。風が変わる。白い煙が——斜面を下り始めた。窪地に向かって。


あの黒いのを押さえつけながら。窪地の蓋を維持しながら。毒の煙を窪地に送る風を、同時に。


三つの風を、一人で。


蓋が少し開いた。群れが出られない程度に。煙だけが入る隙間を。


白い煙が窪地に流れ込んでいく。





窪地の中が騒いだ。灰色の影が暴れている。水面を叩いている。





なぜ、鱗から毒が出たか。


あの黒い鱗は、なぜ黒いか。


脱皮するたびに強くなる蜥蜴が、風の術士との戦いを経て、鉄の鱗を得た。

この温泉地に棲みつき、硫黄を含む湯に浸かり続けた。

鉄と硫黄が結びついた。黒い鱗。岩と土に紛れる完璧な迷彩にして、刃も矢も弾く鎧。


——その鎧に、酸の霧が触れた。


刃物を一晩で溶かす湯を、さらに何倍にも強めた酸。


鉄は酸に溶ける。

溶けた鉄が、鱗に染みた硫黄を解き放つ。

硫黄は水素と結びつき、気体になる。


硫化水素。


青酸と同じ毒。

体の中の、もっと小さな仕組みを壊す。


風の術士が風を送っている。新鮮な空気が窪地に流れ込んでいる。

だが関係ない。

この毒は、酸素を奪うのではない。酸素を使う力を奪う。


体の隅々にある命の炉——そこに酸素を受け渡す仕組みがある。

硫化水素は、酸素よりも強くそこに結びつく。

先に席を奪う。酸素が来ても、もう座る場所がない。


新鮮な空気を送り込んでも、戻らない。

席を奪った毒は、酸素では剥がせない。

助けに来た空気が、何もできずに素通りしていく。


息はできる。肺は動いている。血も巡っている。

だが命の炉は、もう燃えない。

空気のただ中で、溺れる。


血の中の鉄にも結びつく。酸素を運ぶ力が消える。血の色が変わる。肌が、くすんだ緑に染まっていく。


そして——脳に届く。

この毒は脂に溶ける。脳を守る壁を、すり抜ける。

呼吸を命じる神経を、直に灼く。


体が窒息に気づく前に、呼吸を命じる声そのものが消える。

苦しいと感じる間もない。ただ、止まる。


薄ければ、卵の腐った匂いがする。

濃くなると、匂いを感じる力そのものが焼かれる。

匂わない。何も匂わない。

だから気づかない。逃げない。吸い続ける。


一呼吸。二呼吸。三呼吸目はない。


空気より重い。低い場所に這うように溜まる。





窪地の底に、白い煙が沈んでいく。


灰色の影が暴れている。水面を叩いている。


一匹の動きが止まった。立ったまま、膝から崩れるように。

もう一匹が倒れる。口が開いている。閉じない。

水の中にいた個体が浮き上がってくる。腹を上にして。痙攣して、止まる。


這い上がろうとしている個体がいる。蓋の下で。壁を掻いている。

掻く力が弱くなっていく。

指先の動きが鈍くなって、止まる。

低いところにいるものから、順番に。


灰色だった肌が、緑に変わっていく。


——高い濃度の硫化水素は、まず目を灼く。粘膜を焼かれた眼は白く濁る。次に嗅覚が死ぬ。匂いが消える。匂わないから、逃げない。吸い続ける。


やがて——静かになった。


一つずつ。水面を叩く音が減っていく。叫び声が減っていく。


窪地が、静まった。





もう一度、回し柄を回した。あの黒いのに向けて。


鱗が変色し始める。黒から、灰色へ。鉄の色が抜けていく。泡がぼろぼろと崩れて、鱗の表面が剥がれ落ちていく。


黒い鱗の下にあるのは、柔らかい灰色の肌。普通の蜥蜴と同じ色。


風の刃を弾き、矢を弾き、何も通さなかったあの鎧が——溶けている。


この地で最強になるために得た鱗が——この地にある湯で、毒に変わった。


今までの『ヒーラーが装備可能な治療器具』は

身近ではなかったから、魔法や未来SFガジェットと同じ架空のもののように扱えたところ

硫化水素は日用品からでも発生してしまう恐ろしいものなので

リリアさんにもかなり慎重に扱ってもらいました



硫化水素で倒れた人がいても

『助けに行くのも危険だから絶対救急や消防に連絡が必要』という

心得含めて、生活の知恵として伝わっていたら幸いです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ