風を纏いし者
風が変わった瞬間、窪地の中が騒いだ。
灰色の影が水面を叩いて動き回っている。十五、二十——数えている余裕はない。カタリナの風が窪地の上に蓋をする。渦を巻く風の壁が、窪地の縁をぐるりと囲んでいく。中のものは出られない。
腕の肌がぴりっとした。空気が動いている。蓋が回す風の端が、ここまで届いている。
「閉じたよ」
カタリナの声。息を一つ吐いて、すぐに前を向く。
「——来る」
カタリナの視線を追った。窪地の向こう側の斜面。
何も見えない。岩と土と枯れ草。朝日が当たって、黒い岩の表面が鈍く光っている。
——岩が、動いた。
目を凝らす。カタリナが見ている方向。あそこだ。黒くて大きい。斜面に張りつくように降りてくる。言われなければ分からなかった。岩と土の色に紛れて、動いていなければ地面の一部にしか見えない。偵察の風がなかったら、気づかないまま——近づかれていた。
二本の脚で立っている。太い尾が地面に垂れている。鱗が朝日を跳ね返して、鈍く光っている。金属のように。
両手を下げている。手の中に何かがある。拳の小指側から、わずかに湾曲した刃が覗いている。黒い。鱗と同じ色。握りしめていなければ、手の一部にしか見えない。
大きい。グレイやモリーと同じくらいの胴がある。カタリナが風で探った時「デカいのが一匹」と言っていた。その通りだ。でも、見るのと聞くのでは違う。あの偵察の時、カタリナの指先から出た風はリリアの前髪を揺らしただけだった。こんなものが、あの穏やかな風の先にいたのか。
鱗が黒い。灰色じゃない。窪地の中にいる個体とは明らかに違う。濡れた鉄のような光り方をしている。
「弓は灰色に効くって言ったけど——」
ニコが弓を構えたまま、低い声で聞いた。
「あれには効かないと思う。たぶんね」
カタリナの返事も低い。
あの黒いのが止まった。こちらを見ている。首が動く。ゆっくりと。鳥のように首を傾けて、片目でこちらを見ている。
音がない。威嚇もしない。ただ見ている。
——獲物を見ている目だ。
戦場で何度も見た。飢えた野犬が、動けない負傷兵を見る時の目。脅かす必要がない。逃げないと分かっている相手を見る、あの静かな目。
カタリナが前に出た。
「口開けて、両耳ふさいで」
振り返らずに言った。全員に。
「——斬るから」
言い終わるより早く、リリアは口を開いて両手で耳を押さえた。ニコもヨーゼフも、聞く前に動いていた。分かっている人間の反応だ。リリアだけが、言われてからだった。
カタリナが片手を横に薙いだ。
空気が、壊れた。
そうとしか言えない。音がした——音ではない。鼓膜の内側を押す圧力。耳を塞いでいなかったら破れていたかもしれない。口を開けていなかったら頭の中で何かが弾ける。肺の中の空気が揺れる。内臓まで届く振動。腕の産毛が逆立っている。肌がぴりぴりする。
風の魔法は知っている。魔法学校の模擬戦で何度も見ている。追放される前に組んでいたパーティにも風の術士がいた。突風で相手を吹き飛ばす。物を飛ばしてぶつける。弓矢を横風で反らす。それが風魔法だった。
原理は同じだと思う。空気を圧縮して、一点に集めて、飛ばす。教本に書いてあることの延長にあるはずだ。
でも、鼓膜が割れる。岩を砕く。空気が刃になる。あの出力は、教本のどこにも書いていない。
見えない。何が飛んだのかは見えない。でも、飛んだ跡は見えた。カタリナの手からあの黒いのまでの間——地面の砂利が線になって弾け飛んでいる。草が根元から千切れている。空気の通り道だけが、えぐれている。
鱗に当たった。
火花が散る。
甲高い音。金属を叩いたような音が斜面に跳ね返る。見えない刃が鱗の表面を滑って——その先の岩に当たった。岩が、割れた。
鱗には、傷一つない。
滑ったのだ。刃が。あの鱗の上を、滑って逸れた。
見えた。風の刃が当たった場所が、朝日を受けてぎらりと光っている。鱗が重なっている。屋根瓦のように、下から上へ。一枚一枚が分厚く、隣の鱗と半分ずつ重なり合って、隙間がない。上から何かが当たれば、鱗の表面を滑り落ちる。下の鱗がまたその力を受けて、さらに滑らせる。刃を噛ませない造り。
鎧だ。
あの黒い鱗は、一枚一枚が鎧の板だった。
「……嘘でしょ」
カタリナの声が掠れた。
「前はこれで斬れたんだけど」
もう一度。今度はもっと強い。耳を押さえていても頭蓋の奥が揺れた。カタリナの髪が暴れる。二発目があの黒いのの首に当たった。
火花。
同じ音。同じ結果。
岩を割った刃を、あの鱗は傷一つなく弾いている。
あの黒いのは首を振った。痛がってはいない。虫を払うみたいに、鬱陶しそうに。
「……硬い。何あの鱗」
三発目は放たなかった。
◇
ニコが矢を番えた。
肩から二の腕にかけて弦が引かれていく。服の下で筋が浮く。狙いは首元。灰色の個体なら喉の鱗が薄い。リザードマンの急所だとカタリナが言った。
「ニコ、やめとき。弾かれるだけだよ」
カタリナが言った。
ニコの指が弦から離れない。息を止めている。胸が動かない。
引いた。
矢が飛んだ。あの黒い喉に吸い込まれて——
甲高い音。鏃が弾け、矢柄が半分から折れて地面に落ちる。
喉も、黒かった。鱗が首の周りにも隙間なく重なっている。鏃が入り込む余地がない。
ニコが弓を下ろした。
「……喉もか」
短い。怒りではない。確認している。次の手を考えている顔だ。
◇
ヨーゼフが片膝をついた。
低い。地面すれすれまで体を落としている。あの黒いのの胴体の下——腹と地面の隙間を覗き込む角度。鱗があろうが毛皮があろうが、腹の下は薄い。獣を狩る者なら誰でも知っている。
短弓を引いた。ニコとは違う。息を止めない。口をわずかに開けて、細く長く、口笛を吹くように吐いている。吐く息に合わせて指が弦から離れた。
矢が地面すれすれを走った。草を掠めて、途中からわずかに浮き上がる。黒い胴の下に潜り込んで——
カン、と弾かれた。矢が横に跳ねて転がる。刺さりも、折れもしない。鱗の表面を滑っただけ。
腹の下も、黒い鱗で覆われている。
「……腹も硬えのか。普通の獣なら、あそこが一番薄いんだが」
ヨーゼフの声。矢を番える手が止まっている。あの細い息も止まった。腰の革袋に手をやって、すぐに離した。
「鏃に塗る毒もあるんだが——刺さらねえんじゃ意味がねえ」
「どこ狙っても同じだよ。あの鱗、全身ああなってる」
カタリナが答えた。声に苦いものが混じっている。
◇
救急鞄を抱えた。中にあるのは包帯と止血布と消毒液。人間の傷を治す道具だけ。
あの鱗に届く道具は、一つもない。
◇
あの黒いのが動いた。
速い。
あの体で、この速さ。二本足のまま、重心を低くして走っている。尾が地面を引きずって、砂利を巻き上げる。握りしめた拳の影に、鎌状の刃がちらりと見えた。
ニコの方に向かっている。
「——ニコ!」
カタリナが風を叩きつけた。横から。突風が斜面を横切る。あの黒いのの体が少し横にずれた。少しだけ。止まらない。
ニコが飛び退いた。矢を番えながら横に転がる。あの黒いのの顎がニコのいた場所を噛んだ。
岩が砕けた。
ニコがいた場所の岩。顎で噛み潰されている。噛みちぎったのではない。万力のように、上下から挟んで砕いた。
「……あぶねえ」
ニコが立ち上がる。弓を持つ手が震えていない。でも顔が白い。
あの黒いのが首を持ち上げた。口の中が見える。歯が並んでいる。内向きに。一度噛んだら外れない形。獲物を逃がさないための歯。
戦っているのではない。
鶏小屋の鶏がそうなった。野犬もそうなった。血の跡もなく、丸ごと消える。あの食べ方。
——次は人間だと、カタリナが言っていた。
「ニコさん、手」
駆け寄った。ニコの手の甲に血が一筋。岩の破片で切ったのだろう。掌に光を当てた。傷が塞がる。息を一つ吐く間に。
それだけ。それが、今できる全部。
ニコが頷いた。視線はあの黒いのから外さないまま。
◇
ヨーゼフが動いた。
あの黒いのの注意がニコに向いている隙に、横から回り込んでいる。猟師の足は音がしない。短弓を引く。腹ではなく、今度は目。鱗で覆われていない、唯一の場所。
矢が飛んだ。
あの黒いのが首を振った。押さえつけられてもいないのに、まるで来ると分かっていたかのように。矢は頬の鱗に当たって弾かれた。
目は小さい。動く。風に晒されて涙が出ているのか、黄色い瞳が濡れて光っている。
◇
カタリナが風を集めた。
つむじ風。あの黒いのの周囲で空気が渦を巻く。上に引っ張るように。立っていられなくなるほどの風。
髪が浮いた。自分の髪が、一本一本、空に向かって逆立っている。肌がびりびりする。この感覚を知っている。金属の大樹——あれが稲光を散らした時と同じ。空気の中に、雷の前触れのようなものが満ちている。
あの黒いのの足が地面から離れかける。体が浮きそうになる。
——拘束。
窪地の蓋。風の刃。そして今度は、一体を丸ごと持ち上げようとしている。同時に三つ。あの指先から、全部出ている。学校で見た風の術士は、一つの風を維持するだけで汗をかいていた。
あの黒いのが咆哮した。低い。腹の底から地面を伝ってくるような振動。
両手の短剣を——捨てた。
黒い刃が地面に転がる。武器を握っていた手を開いて、地面についた。
四つん這いになる。
腹を地面につけて、体を平たくして、鱗を地面に押しつけた。風を受ける面積が減る。トカゲが嵐をやり過ごす時の姿勢だ。
武器より先に、体が答えを知っている。風が来たら伏せる。何世代も繰り返された体の記憶。道具を捨てれば、四本の脚で地面を掴める。
カタリナの口元が歪む。
「……伏せちゃったか」
風の拘束が利かない。立っていれば巻き上げられる。伏せられたら——風の力が上を通り抜けるだけ。
カタリナが風の向きを変えた。上に巻き上げるのではなく、上から押しつける。地面に縫い止める。
あの黒いのが這った。
押しつけられているのに。両手両脚と腹で地面を掴んで、じりじりと前に進んでいる。遅い。でも止まらない。
こちらに向かって。
「——風のお嬢さん、もっと強い風は出せねえのか」
ヨーゼフがカタリナに聞いた。さっきの風の刃を見ている。あれが効かないなら、もっと大きな力で——という意味だろう。
「無理。ここで嵐なんか起こしたら、あんたたちの温泉街ごと持っていくよ」
カタリナの答え。声に余裕がない。
カタリナは今、二つを同時に回している。窪地の蓋を維持しながら、あの黒いのを地面に押さえつけている。蓋を緩めれば窪地から灰色の群れが溢れ出す。押さえを緩めればあの黒いのが起き上がる。
どちらも手を抜けない。
カタリナの額に汗が浮いている。朝の冷たい空気の中で。指先が小刻みに震えている。
あの黒いのが、じり、と這う。
五歩分の距離が、四歩になっている。
◇
ヴェルナーが矢を射った。目を狙っている。いい判断だ。
矢がそれた。あの黒いのが顔を傾けたのだ。押しつけられながら、首だけ横にずらした。矢は頬の鱗に当たって弾かれる。
ヴェルナーが次の矢を番える。手が震えている。ニコの方が落ち着いていた。矢を番えたまま、待っている。目を狙える一瞬を。
だが目は小さい。動く。風に押しつけられている相手の、動く目を射抜くには——
あの黒いのが、じり、と這った。
三歩。
カタリナの息が荒い。
「……もたないかも」
小さな声。リリアにだけ聞こえた。他の三人には届かない声。
風の蓋が揺れた。窪地の中が騒ぐ。灰色の影が蓋の下で暴れている。出ようとしている。
カタリナが歯を食いしばった。蓋が戻る。その一瞬——あの黒いのを押さえる力が、緩んだ。
首が持ち上がる。
あの口が開いた。内向きの歯が並んでいる。
二歩。
風の刃も、矢も。あの鱗を通らない。
——通らない。
カタリナの膝が揺れた。
前を向いたまま、カタリナが言った。
「……リリア」
小さな声。リリアにだけ聞こえた。
「退いて。源泉のとこまで下がりな。三人を連れて」
カタリナだけここに残るつもりだ。自分が押さえている間に、四人を逃がす。
「——嫌です」
リリアの口が勝手に動いた。
カタリナが振り返った。目が合った。限界の顔。汗が顎から落ちている。
「何か——ない?」
笑みの形だけ。目が笑っていない。
頭の奥で、何かが光りかけた。温泉の匂い。酸の刺激。さっき源泉の脇を通った時、指先を浸した湯の熱さ。
——古い皮膚を剥がして、新しい肌に。
まだ繋がらない。あと少し。何かが足りない。
でも、源泉のそばに行けば——何かが変わる気がした。
声の調子を選んだ。暗くしたら、カタリナは残る。
「……源泉のところまで。全員で退きましょう」
カタリナが振り返った。リリアは笑ってみせた。根拠はない。でも、暗い顔はしない。
「全員で、です」
風のグランドマスター、カタリナさんの戦い。
いかがだったでしょうか?
作風の関係上「あとはずっとこれだけで勝てる」ができなくて
弱点もセットで出てくるので
雑魚と思われて無ければ良いのですが




