黒い鱗
食堂の戸が開いた。
冷たい空気が足元を流れてくる。
猟師が入ってきた。親父のところへ歩いていく。声が低い。
「また鶏がやられた。今度は二羽だ。柵を壊してる」
カタリナの手が止まった。四杯目の蜂蜜酒を持ったまま、口につけずに聞いている。
猟師が出ていった。戸が閉まる。冷たい空気が薄れていく。
ニコが腕を組んだ。
「鶏がやられてるって話、前にも聞いたな。野犬の仕業だと思ってたんだが」
親父が鍋の蓋を閉めながら言った。
「このところ、野犬も見かけなくなったよ。遠吠えも聞こえなくなった」
カタリナが蜂蜜酒を卓に置いた。
こつ、と。
「……鶏小屋に、血は残ってた?」
声が変わっていた。さっきまでの、食卓の声じゃない。
ニコが首をかしげた。
「いや……そういえば。柵が壊れて、鶏がいなくなってるだけだと言ってたな。羽根も散らばってなかった」
「野犬なら食い散らかす。羽根が残るし、血の跡もつく」
カタリナが指で卓を叩いた。
「丸呑みしたんだろう。蛇やトカゲは噛まずに飲み込む」
ニコが眉を寄せた。
「蛇もトカゲも、この季節は冬眠してるぞ」
「そうなんだよね……」
カタリナが蜂蜜酒の器を指先で回した。考え込んでいる。
「冬眠しない爬虫類。この山の温度で活動できるやつ。柵を壊せるくらいデカいやつ……」
ニコが荷物に手を伸ばした。革の袋から、あの皮を出す。
「道中で拾ったやつだ。猟師にも見せたが分からなかった」
カタリナが受け取った。裏返す。光にかざす。爪で弾く。指先が慣れていた。何度もやったことのある手つきだ。
顔が変わった。
「……リザードマンの抜け殻だよ」
食堂が静かになった。
「しかも最近のだ。乾き方が浅い」
「リザードマン……?」とニコが聞き返した。
「温泉の熱で冬眠しないで済んでるんだ。だから活動してる」
カタリナが抜け殻を卓に置いた。
「前に退治したことがあるんだけどさ。産卵地にすると、周りの生き物を皆殺しにするんだよ。卵が弱いから。何にでも食われる」
「……全部?」
リリアが聞いた。
「全部。産卵地の周りを空白地帯にする。本能。だから交渉もできない」
「野犬がいなくなったのも……」
ニコの声が低くなった。
「食われたんだろうね。虫、木の実、小鳥。それから鶏、犬、猫。冬場は代わりが少ないから、小さいものから順に消えていく」
カタリナが指を折った。
「鶏が二羽でしょ。次に狙われるのは、もう少し大きいもの。ロバとか」
ゲルトが椅子から腰を浮かせた。グレイとモリーの顔が浮かんだのだろう。
「でもその前に——ロバよりも小さくて、柵の中にいなくて、簡単に捕まるものがいるよね」
食堂が凍りついた。
ニコが立ち上がった。ブルーノが鍋を握る手を止めた。
リリアはミラを見た。肩に寄りかかって眠っている。ルッツは隣の部屋で、フリーダの腕の中にいる。
ルッツやミラのような小さな子供。捕食者にとっては、どちらもただの若くて柔らかい肉だ。
「……早い方がいい」
カタリナの声が低い。
ニコが腰を浮かせた。カタリナが手で制する。
「落ち着いて。脱皮するたびに、その土地に適応して強くなる。こいつはここで脱皮した」
「……ここで?」
「温泉の近くに産卵地がある。たぶん源泉の奥」
背筋が冷えた。
道中で触った、あの硬い鱗の感触。あれは蛇でも飛竜でもなかった。
——さっきの、あの空気だ。
ルッツの部屋の窓から入ってきた、冷たくて湿った空気。カタリナはあの時、もう気づいていた。
◇
カタリナが食堂の外に出た。
片手を上げた。指先から何かが出る。見えない。でもリリアの前髪が揺れた。風が谷の奥へ流れていく。源泉の方へ。
目を閉じて、しばらく動かなかった。
風が戻ってきた。前髪がまた揺れる。さっきと逆向きに。
カタリナが目を開けた。
「リザードマンだ。デカいのが一匹。鱗が黒い」
「……黒い?」
ニコが聞き返した。
「前に退治した時は灰色だったんだけどね。脱皮で色が変わったのかな」
首をかしげた。すぐに戻す。
「産卵地にしてる。卵がある。もう一枚抜け殻もあった。ここで二度脱皮してる」
食堂にいた全員が黙った。
ニコが聞いた。
「……今からやるか」
「夜は駄目。源泉の奥は地形も分からない」
間があった。
カタリナが卓の上の蜂蜜酒を見た。四杯目。まだ半分残っている。
「……明日の朝やる。日が出てからの方がいい」
ニコが頷いた。
カタリナが立ち上がった。蜂蜜酒には手を伸ばさない。カウンターの方に歩いていく。
「ねえ親父さん、ここ蒸し風呂もあるって本当?」
「ブルーノさん」
ミラが小さく言った。
カタリナが振り返った。
「え?」
「……名前。ブルーノさん」
いつの間に聞き出したのだろう。カタリナが少し笑った。
「ブルーノさん。蒸し風呂、どこ?」
「離れにあるよ。水風呂も源泉の手前に」
「最高じゃない。温泉で蒸し風呂で水風呂って、全部あるの? なんでもっと宣伝しないのよ」
「宣伝って言われてもなあ……」
カタリナが笑った。それからブルーノの後ろの棚を見て、
「あ、それ薬草茶? ちょうだい」
「ヤロウの茶だよ。体が温まるし、明日に残らない」
カタリナが大きな器になみなみと注いで、ぐっと飲んだ。苦い顔をした。
「……にっが」
でもそのまま半分飲んだ。
あの匂い。ミラが夜に飲んでいるのと同じ、苦い薬草の匂い。
「よし。蒸し風呂行って、水風呂行って、もう一回お湯入って寝る。完璧な夜だね」
笑っている。声が、さっきまでの低い声から食卓の声に戻っていた。休みを満喫しているように見えた。
食堂を出ていった。
蜂蜜酒は、半分残ったまま卓にあった。
ブルーノが黙ってそれを取り上げて、小瓶に移した。栓をして、瓶にかかった木札に「カタリナ」と書いて、棚にしまった。
ふだんの章だと、ここでリザードマンが温泉襲撃してくるところ…ですが
今回は、強キャラのカタリナさんがいるのでこちらから攻め込みます。
リリアさんが自由に最終救護を使えない関係上、防戦ばかりで
こちらから攻めたのは蝶の繭を焼き払いに行った時くらいでした。
この作品で殴り込み展開はどう映るのか、おたのしみに!




