風の来訪者
朝の湯気が白い。
老人たちと並んで浸かっていた。もう顔なじみだ。
何日か一緒にいると、この人たちが何を抱えているか分かってくる。膝。腰。関節の痛み。慢性の、治らない痛みだ。温泉で完治はしない。でも楽になる。楽になった分だけ、一日を過ごせる。
お湯が、この人たちの日常を支えている。ヒーラーの手は届かない場所で。
「お嬢さん、顔が難しいよ。考えごとは湯上がりにしなさい」
「……はい」
力を抜いた。肩まで沈む。湯気が頬を包んでいく。温かい。何も考えなくていい温かさだ。
顔に冷たいものが当たった。
目を開ける前に体が先に反応した。腕で顔を庇っていた。湯面が割れている。さっきまで顔を包んでいた湯気が、まるごと無くなっていた。
風だった。冷たい。湯の温度との差で肌が粟立つ。
髪が顔に張り付いている。指で剥がして、上を見た。
石灰華の棚の一番上に、誰かが立っている。
朝日を背にしている。眩しくて、目を細めた。輪郭しか見えない。背が高い。髪が短い。それだけしか分からなかった。
棚を降りてきた。石段を二つ飛ばしで。革のブーツが石灰華を叩く音が、かつ、かつ、と湯気の中に落ちてきた。
一段降りるたびに、少しずつ見えてきた。銀色の短い髪。革のコート。袖をまくった腕が日に焼けている。よく動く人の腕だった。筋が綺麗に出ている。
近づくと、思ったより若かった。リリアと同じか、少し上くらい。切れ長の目が笑っている。何がおかしいのか分からないけれど、楽しそうだった。
リリアの前を通り過ぎた。乾いた草の匂いがした。日なたの匂い。外をずっと歩いてきた人の匂いだった。
女は、湯浴み着の老人たちの前で足を止めた。
「ねえ、ここの蜂蜜酒ってどこで飲めるの?」
老人たちが口を開けたまま動かない。
「……宿の、食堂で出してくれるが……」
「ありがとう」
もう歩き出していた。振り返りもしない。
水面がまだ揺れている。湯気がゆっくり戻ってくる。
……今、空から降りてきたのに。
蜂蜜酒のことしか聞かなかった。
◇
食堂に入ると、さっきの人がもう座っていた。湯浴み着に着替えて蜂蜜酒を飲んでいる。二杯目に手を伸ばしている。着替えるのも早い。
「ああ、これうまいね。いい宿じゃない」
ニコが向かいに座った。
「……あんた、さっきの風は何だ」
「あー、ごめんごめん。風の魔法使いなんだ。山の向こうで仕事があってさ、片がついたんだけど、迎えの馬車が来るまで暇で」
「……それで温泉に」
「二か月ぶりのまともな休みだよ? 温泉があるって聞いて来ない方がおかしいでしょ」
足を伸ばしている。湯浴み着の合わせが雑で、鎖骨のあたりまで見えていた。本人は気にしていない。
「名前は?」
ゲルトが聞いた。
「カタリナ」
それだけ言って、また蜂蜜酒を飲んだ。
カタリナの目が食堂を回った。ニコ、ゲルト。奥のテーブルにディーターとフリーダ。リリアの後ろにミラ。
フリーダの膝の上で眠っている子供のところで、目が止まった。
「……この子、具合が悪いの?」
「心臓です」
フリーダが答えた。ルッツの頭に手を置いた。庇うように。
カタリナが立ち上がった。蜂蜜酒を卓に置いて、フリーダのそばに行く。しゃがんで、ルッツの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。怪しいもんじゃないよ。——まあ、怪しいか。いきなり風で飛んできたし」
自分で言って自分で笑っている。フリーダの指が、少しだけルッツの髪から離れた。
カタリナがフリーダに聞いた。
「ここまで歩いてきたの?」
「峠を越えて……荷車で」
フリーダが答えた。ニコが足した。
「天狼に村を追われた一家でな。雪の峠を越えてきた」
カタリナの口元が止まった。笑みの形のまま、中身が消えた。ルッツの顔をもう一度見ている。さっきとは違う目で。
「……天狼に。それで、この子も一緒に?」
「ああ」
「ちゃんと食べてる? 峠越えの間、まともなもの食べられなかったでしょう」
フリーダが頷いた。口を開いたが、声が出るまでに間があった。
「最初は……白湯くらいしか。でも昨日から、パンを一個食べられるようになって」
「一個食べられるなら大丈夫。少しずつ増えるよ」
声が落ち着いていた。酒が抜けたみたいだった。
「ここの湯は効くよ。前に来たことがあるんだけど、足の悪い猟師が歩けるようになってた。時間はかかるけどね」
「……そうですか」
「お母さんも浸かった?」
「はい。昨日から……」
「いい顔してるよ、この子。寝てるだけだけど、安心して寝てる顔だ」
フリーダが口を押さえた。
カタリナが指を一本立てた。指先に小さな渦ができた。ルッツの前髪がふわりと動いた。
ルッツがうっすら目を開けた。
「……風?」
「おはよう。寝てていいよ」
カタリナが笑っていた。さっき自分の冗談で笑った時とは違う顔だった。
ルッツがまた目を閉じた。口の端が少しだけ上がっている。
ミラがリリアの後ろから覗いている。カタリナと目が合った。
「あんたも温泉に来たの?」
ミラが首を振った。
「この子はリリアの連れだ」
ニコが横から言った。
カタリナがミラを見た。それからリリアを見た。
「……妹?」
「違います。旅の途中で一緒になって……」
「ふうん」
カタリナがミラに手を振った。ミラがリリアの袖を掴んだまま、小さく頭を下げた。
◇
脱衣所で、カタリナが革のコートを脱いだ。
コートの裏地が見えた。縫製がいい。革も厚くて、なめしが丁寧だった。安い既製品じゃない。どこかの工房で、この人の体に合わせて仕立てたものだ。なのに袖口がほつれている。ボタンが一つ取れたまま放ってある。裾に泥の跡が乾いてこびりついている。
服を脱ぐと、思ったより体つきがしっかりしていた。肩が広い。腕だけじゃなく、背中にも脚にも筋がある。余計なものが削ぎ落とされて、よく動く体だけが残っている。
背中に傷跡があった。肩甲骨の下に一つ。縫った跡がある。でも針目が粗い。ヒーラーが縫ったものじゃなかった。野外で、自分で、あるいは素人の手で塞いだ跡だ。
腰の横にもう一つ。こっちは爪だ。三本線。引き裂かれて、そのまま肉が盛り上がって塞がっている。治療を受けていない。放っておいて自然に塞がったのだろう。
左の脇腹に火傷。皮膚がつれて引きつっている。
どれも新しかった。一番古い肩の傷でも、一年は経っていない。まだ赤みが残っている。
服の下の肌は白かった。日に焼けているのは腕と首から上だけで、境目がくっきりしている。同じ服を、ずっと着ていたのだ。あれだけいい仕立てのコートを、着潰すように着ている。鎖骨から胸の上が湯気に触れて、じわりと赤くなっていった。
カタリナは湯に入ると、鼻の下まで沈んだ。
目を閉じた。動かない。石の縁に蜂蜜酒の器を置いている。三杯目。カタリナの周りだけ、湯気がゆっくりと渦を巻いて上がっていた。
しばらくそのままだった。
「……ああ」
声が湯の中でくぐもった。
「二か月。二か月よ。ずっと山の中で野営して、川の水で顔洗って、乾し肉囓って……」
誰に言うでもなく呟いている。
老人たちが笑った。
「お嬢さん、よっぽど辛かったんだな」
「辛かったよ。温泉があるって聞いた時、泣きそうになった」
湯から肩を出した。首を回す。ごきり、と鳴った。
「お湯って偉大だね。人が作ったもんじゃないのに、こんなに体が楽になる」
老人が頷いた。
「ここの湯はな、何も考えんでいいんだ。浸かっとけば、体が勝手に楽になる」
「それ。それがいい。何も考えたくない」
蜂蜜酒に手を伸ばした。湯から出た腕を水滴が伝っていく。脇腹の火傷の跡が水面に沈んだり浮いたりしている。
あの傷を縫ったのは、ヒーラーじゃない。
リリアは湯の中で自分の手を見た。この手なら、あの傷はもっと綺麗に塞げた。跡も残さなかった。
◇
カタリナがルッツの部屋を覗きに来た。
「起きてる?」
ルッツが頷いた。フリーダの隣で、体を起こしている。
カタリナが指先から小さな風を出した。ルッツの掌の上に乗せた。くるくる回っている。
「……つむじ風?」
「小さいやつ。触ってみ」
ルッツがそっと指を入れた。風が指の間を抜けていく。
「……くすぐったい」
「だろ」
カタリナが風の形を変えた。掌の上でゆっくり螺旋を描く。ルッツの目が追っている。走れない子供の目が、風を追っている。
フリーダの手が止まっていた。ルッツの頭を撫でていた手が、膝の上に降りている。風を見ている。
リリアは扉の外にいた。隣にミラがいた。
ミラが風を見ていた。ルッツの掌の上でくるくる回る小さな風を、じっと見ていた。
リリアの袖を、きゅっと引いた。
カタリナが指を下ろした。ルッツの掌の上の風がほどけて、窓から出ていく。
入れ替わりに、窓の外から重い空気が入ってきた。温泉の湯気とは違う。冷たくて、湿っている。
カタリナが窓の外を見た。
ほんの一瞬だった。すぐに振り返って、ルッツに手を振った。
「さて、もう一回お湯入ろうかな。蜂蜜酒も追加で」
部屋を出ていった。リリアの横を通る時、さっきまでの声と何かが違った。何が違うのかは分からなかった。
リリアは窓の外を見た。谷の奥は湯気で白く煙っている。何も見えなかった。




