硫黄の谷
湯気の向こうに、町があった。
石造りの建物が斜面に沿って並んでいる。屋根は平たい。壁は白っぽい石灰の色をしている。道は石段になっていて、あちこちから湯気が立ち上っている。
硫黄の匂い。ミラはまだ鼻を押さえている。
「慣れるよ」
ニコが言った。
「三日もいれば匂わなくなる」
「……三日もいるの」
「坊主の湯治だからな。もっとかもしれん」
ミラの顔が歪んだ。
◇
宿は谷の中腹にあった。石壁と木の梁。古い建物だが手入れが行き届いている。入口のアーチが丸い。壁に温泉の成分が白く結晶している。
親父が出てきた。五十過ぎ。日に焼けた顔。前掛けをしている。
「おう、ニコ。久しぶりだな」
「世話になる。客を連れてきた」
親父の目がルッツに止まった。ディーターの腕に抱えられている。顔色が白い。
「……湯治かい」
「ああ」
親父は何も聞かなかった。部屋の鍵を渡した。
「一番奥の部屋が静かだ。浴場は朝から晩まで入れる。ぬるい方の池が下にある。蒸し風呂もあるが、あの子には無理させないでやんな」
リリアは荷物を抱えたまま、宿の入口に立っていた。救急鞄と、ミラの荷物と、自分の荷物。両手が塞がっている。
ゲルトが荷車から革の束を降ろしている。天狼の毛皮だ。
ヴェグシャイトを出る時、急いでいた。脂を落として軽く干しただけで、まだ納品前の処理が終わっていない。毛皮は生き物だ。放っておけば傷む。
ゲルトが親父に聞いた。
「ギルドの工房はあるか。毛皮の処理をしたい」
「斜面の下だ。猟師ギルドの詰め所がある。工房も使える」
「助かる。二、三日じゃ終わらんが」
親父が束を見て目を丸くした。
「天狼の皮か?」
ニコが腕を組んだ。
「四頭分ある。なめしまでやるなら、月単位だ。坊主の湯治にもちょうどいい。冬越しするつもりで構えた方がいいだろう」
ゲルトが頷いた。
「そうだな。冬の峠は荷車じゃ越えられん」
天狼の毛皮はよく売れる。通常の狼の毛皮とは桁が違う。四頭分の報酬は、全員が冬の間ゆっくり暮らせるだけの額になる。
ゲルトがリリアとミラを見た。
「宿代と飯代は俺とニコで持つ。お前たちはルッツくんの面倒を見てくれ」
「……いいんですか」
「天狼の毛皮の金が入ればお釣りが来る。気にするな」
ニコが頷いた。
「お前がいなきゃあの坊主は峠を越えられなかった。これくらいは当然だ」
ディーターはさっきから黙って聞いていた。フリーダの隣で、ルッツの毛布を直しながら。
「俺は——」
全員の目が向いた。ディーターが背筋を伸ばした。
「なめしの仕事なら手伝えます。元の仕事で、革も扱ってましたから」
ゲルトとニコが顔を見合わせた。
「……頼む。助かる」
ディーターの肩から力が抜けた。付き添いだけじゃない。自分にもやれることがある。
◇
親父が浴場を案内してくれた。
リリア、ミラ、ルッツ一家、ゲルト、ニコ。全員ぞろぞろついていく。
アーチ型の天井。壁の高い位置に明かり取りの小窓がある。湯気が窓から漏れている。
中央に大きな池がある。石を積んだ円形の浴槽。深さは胸のあたり。底から湯が湧いている。泡が立つ。ぽこ、ぽこ、と不規則に。
池の縁は幅広い石の段になっていて、腰かけられるようになっている。湯治客の老人が二人、縁に座って足を浸けていた。
その奥に、小さい池がもう一つ。こちらはぬるい。白く濁っている。
「あっちがぬるい方だ。あの子はそっちに入るといい」
親父がルッツの方を見て言った。フリーダが頷いている。
さらに奥に木の扉がある。
「蒸し風呂だ。石を焼いて、水をかける。汗をかきたいときに使ってくれ。隣に水風呂もある。交互にやるのが、ここの流儀だ」
「水風呂?」
ミラが親父に聞いている。
「冷たいよ。山の水だからな」
ミラが顔をしかめた。
「……入らなくていいでしょ」
「まあ、好きにしな」
浴場の入口の横に、石の水盤があった。細い管から温泉水が流れ落ちている。その横に木の柄杓が置いてある。
ゲルトが柄杓を手に取った。
「飲めるのか、これ」
「飲泉だ。胃にいい。味は……まあ、飲んでみな」
ゲルトが一口含んで、顔がくしゃっとなった。
「……にがい」
親父が笑った。
「硫黄と鉄の味だ。体にはいいんだよ」
ニコが横で笑っている。
「飲泉は慣れだ。最初はみんなその顔をする」
◇
湯浴み着に着替えた。麻の薄い衣。膝までの丈。男も女も同じ形。
ミラの分は大きすぎた。裾が足首まである。袖が手首を越えている。
「……ぶかぶか」
「子供用がなくてな。すまんね」
紐で腰を縛って、たくし上げた。それでも袖が余っている。ミラが袖を振ってみた。ぱたぱた。
「……袖が邪魔」
「折ればいいでしょ」
リリアが袖を二回折ってやった。まだ余っている。
「……腕が太い人用」
「そういう問題じゃないと思うけど」
奥でフリーダがルッツに湯浴み着を着せている。丁寧に袖を通す。ルッツは嬉しそうに布を触っている。初めて触る素材なのだろう。自分の腕を撫でている。
◇
円形の池に足を踏み入れた。石の底が滑る。
底から泡が上がってくる。足の裏をくすぐる。
熱くない。温かい。体の芯に沁みていく温度。
石の縁に腰かけて、肩まで浸かった。
思わず声が漏れた。
ヴェグシャイトの夜。雪。風。毛布の中で震えていた日々。ルッツの容態を見守り続けた夜。全部、お湯の中に溶けていく。
泡が背中に当たる。底から上がってくる温泉の泡。
手をかざした。癖だ。
……すごい。硫黄が強い。酸性。溶けている成分が——
「黙ってつかって」
ミラが隣に来ていた。石の縁に座っている。肩まで浸かると顎が水面に沈む。背が足りない。
「……ごめん」
「……いつもそれやる」
「ヒーラーの癖みたいなもので……」
「ここではヒーラーじゃなくていいでしょ」
口を閉じた。ミラが正しい。
ミラが目を閉じた。泡が上がってくるたびに、水面がミラの顎を揺らす。
しばらく黙っていた。
「…………あったかい」
小さな声だった。
奥のぬるい池に、ルッツが入っている。フリーダが支えて、石の縁に腰かけさせていた。胸より上は湯から出している。心臓に負担をかけないように。
湯治客の老人が場所を空けていた。
ルッツが湯を手で掬っている。白く濁った湯。指の間からこぼれていく。
「……あったかい」
遠くから聞こえた。白湯の時とは違う声だ。
フリーダが口元を押さえたのが見えた。ルッツの頬に、わずかに赤みが差している。何日ぶりだろう。
老人が何か言った。声は届かない。でもルッツが頷いて、フリーダが笑っている。
——よかった。
ミラが目を開けて、同じ方を見ていた。
「……ルッツ、笑ってる」
「うん」
◇
ニコがグレイとモリーを連れて歩いていた。
「足湯があるんだ。家畜用の」
リリアとミラがついていく。
斜面の下に、石造りの水路があった。仕切りで区切られている。温泉水がゆっくり流れている。
足湯番の老人が座っていた。
「ほう。ロバかい。珍しいな」
ニコがグレイを仕切りに入れた。グレイが水に脚を浸けて、鼻を鳴らす。動かない。気に入ったらしい。
モリーが嫌がった。水に脚を入れようとしない。首を振っている。
ミラが口笛を吹いた。短く、二回。
モリーが耳を立てた。ミラの方を見る。
「……大丈夫だよ」
ミラがモリーの首を撫でながら、水路に誘導した。一歩。二歩。脚が水に浸かった。
モリーが動きを止めた。耳が横に倒れる。目が細くなっていく。
ニコが腕を組んで見ている。
「ロバも分かるんだな」
グレイはもう目を閉じている。立ったまま眠りそうだ。
足湯番の老人が言った。
「この温泉はな、昔、皮膚病で毛が抜けた羊が見つけたんだ」
ミラが振り向いた。リリアも耳を傾ける。
「羊がぬかるみに浸かっとったんだよ。何日も何日も。そしたら、毛が生え戻った」
壁に絵が描いてある。下手な羊の絵。子供が描いたような線。丸い体に、棒の足が四本。
「孫が描いたんだ。開湯伝説の羊」
ミラが絵をじっと見ている。
「……かわいい」
「古い皮膚が剥がれて、新しい肌になったんだとさ。それがこの温泉の始まり」
老人が湯気の向こうを見た。
「剥がして、治す。ここはそういう湯だ」
——剥がして、治す。
ルッツにも効くといい。
◇
夕食。宿の食堂。
長い木の卓に全員が座っている。ゲルトとニコが向かい合って、端にディーターとフリーダ。ルッツはフリーダの隣で毛布にくるまっている。リリアとミラはその向かいだ。
干し肉の煮込み。根菜。硬いパン。
そして蜂蜜酒。
温泉水で温めたメートだ。陶器の杯から湯気が立っている。蜂蜜の甘い匂いに、何かの薬草が混じっている。
ゲルトが親父に聞いた。
「これは何の薬草だ?」
「ヤロウだ。湯治客に出してる。体が温まる」
ゲルトが一口飲んで、目が光った。
「うまいな。甘すぎない。薬草の苦味がいい。……これ、街で売れるぞ」
ニコが向かいで呆れている。
「出たよ」
ゲルトは気にしない。
「商機を見逃す男は荷を運ぶ資格がないんだよ」
「意味が分からん」
ゲルトが二杯目を頼んだ。もう顔が赤い。
ミラは蜂蜜酒を匂いだけ嗅いで、顔をしかめた。代わりに白湯を飲んでいる。
ルッツが隣でパンをちぎっている。フリーダがルッツの背中をさすっている。食欲が出てきたのだろう。昨日まで半分も食べなかったパンを、今日は一個食べた。
「……堆肥場が荒らされてるんだよなあ」
親父がぼやいた。
ニコが顔を上げた。
「野犬か?」
「さあな。柵が壊されてた」
ゲルトが身を乗り出した。
「木材で補強したらいい。俺が仕入れ値を——」
「黙れ」
ニコがゲルトの杯を取り上げた。
◇
夜。部屋に戻った。
ミラとリリアが同じ部屋。ルッツ一家は隣の部屋。
布団が敷いてある。薄い藁の敷物の上に、毛布。宿の匂いがする。硫黄と、古い石の匂い。
ミラがもう布団に潜り込んでいる。
「……明日もお湯入っていい?」
「いいよ。毎日入れるって」
「……泡のやつがいい。ぬるい方じゃなくて」
「気に入ったんだ」
「……別に。泡がおもしろいだけ」
毛布の中から手だけ出して、湯浴み着の袖を触っている。まだぶかぶかの袖を。
「……明日は袖、縫ってもらおうかな」
「自分で縫えるでしょ」
「……めんどくさい」
さっきまで鼻を押さえていた子が、もう明日の泡の話をしている。
窓の外。夜の谷。虫の声がする。
遠吠えは、聞こえなかった。




